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関宿水閘門

 江戸川の流頭にあって,利根川からの水量・水位を調節し下流域を水害から守る。明治期の主流であったレンガ造り構造物からコンクリート構造物への転換の契機となった構造物である。

 いつもの散策仲間高校クラスメイトのS君,U君と「利根川と江戸川が分岐する町・関宿」に出かけた。
 関宿は,江戸時代幕府直轄領で,関所も置かれた水運交通の重要拠点であった。しかし今や,野田市に吸収合併され,陸の孤島と化している。東武日光線「東武動物公園駅(以前は杉戸駅)」から境町車庫行きバスに30分ほど乗り,新町下車。左手前方に関宿城を模した建物・「千葉県立関宿城博物館」が見えてくる,ここは千葉県が北に細く突き出した最先端,利根川と江戸川に挟まれた地である。畑の畔道を抜けて利根川の右岸土手の上に出て,博物館の裏手から入館。まずは,博物館の展示をじっくりと見学して利根川の治水の歴史をしっかりと頭に入れる。

 お目当ての関宿水閘門は,旧江戸川高水敷を渡った中島公園の先にある。

 関宿水閘門(1927年(昭和2)竣工)

  江戸時代の江戸川は,銚子から利根川を遡り江戸川を経由して江戸に向かう水運の大動脈として貴重な存在であった。明治期に入り,鉄道路線の敷設に伴い,その役目を終えることとなったが,明治43年(1910)の大洪水を契機に翌1911年からの江戸川放水路開削・河道拡幅・江戸川流頭部の付け替えなどの改修工事の一環として 1918年の着工から1927年の竣工まで約10年の歳月を経て完成したもので,利根川から江戸川に入る水量と水位を調節することと船を安全に通すことを目的として造られた。実に10年近くにおよぶ大工事であった。

  ちょうどこの時期は,我が国の大型建造物がレンガ造りからコンクリート造りへと移り変わりつつある時代であったため,コンクリート造りの関宿水閘門は当時の建設技術を知る上でも貴重な建造物として,また利根川改修事業(利根川→江戸川の分流)のシンボル的存在として土木学会選奨土木遺産に認定されている。
 関宿水閘門が完成すると,それまで江戸川流頭部の水量調節の役割を担ってきた 関宿棒出し は昭和4年に撤去された。

 水閘門は,その字の通り流量調節を行う「水門」と船の通行のための「閘門」を併せ持つ施設で,両者が組み合わせられた珍しい水理施設でもある。

水門下流側全景  水門上流側全景 水門天端 
 水流を制御する水門には8つの鋼製ゲートがあり,開閉には当時はディーゼルエンジン,現在は油圧モーターによる。
建設時点は,大型建造物がレンガ造りからコンクリート造りへと移り変わりつつある時代だったので,コンクリート造りの関宿水閘門は当時の建設技術を知る上でも貴重な建造物だと云われている。
 
 基礎となる堰柱,翼壁ともにコンクリートが採用されているが,隅石などには花崗岩の石張りが施してあり,ちょっと洒落たレンガ造りの水門様式を残している。

関宿水閘門に関するデータ
      
 所 在 地 :左岸:千葉県野田市関宿,右岸:茨城県猿島郡五霞町山王
 構造形式  :水門 鉄筋コンクリート造の堰(ストニー式ゲート) 扉幅 8.54m(8門)
          閘門 合掌式鋼製ゲート 有効長 70m 閘室幅 9.1m
 着工年/竣工年: 1918年/1927年
閘門上流側 
          (U君撮影)
閘門下流側 
 水閘門上流側全景  
          (U君撮影)

 水門を境に利根川と江戸川の水位が異なるので,そのままでは船が通過できない,そのため水位を調節して船が通行できる「閘門」が建設された。閘門の幅は9mで,長さ100mほどの水路の上下流にゲートが設置されている。閘門は,合掌式鋼製ゲートで,当初は2門とも手動で開閉していたと云う。閘門は現在も動くが特別な場合以外は使用されていないそうだ。


 上流から見て左側に水門,右側には船が行き来するための閘門が造られている。

 関宿水閘門見学の後は,江戸川に沿って少し下流に進み「関宿城跡」「関宿番所跡」を見て,バスで”東武動物公園駅入口”で下車。古い商家や民家がわずかに残る日光御成街道杉戸宿の風情をカメラにおさめて帰途に着く。