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中央線国立駅舎  

 東京で現存する2番目に古い木造建築駅舎

        赤い三角屋根が有名な駅舎

 堂々たる並木,広々とした駅前の大通り。
一瞬,外国の都市にいるような錯覚を覚える,そんな街
によく似合うおとぎ話に出てくるような可愛い駅舎である。

  竣工 1925年(大正14年)
  所在地 東京都国立市北1-14
  構造 木造平屋建て

  

 とんがり三角屋根の南口駅舎は,大正15年の竣工で、大正12年の原宿駅舎に次いで現存する2番目に古い木造駅舎である。
 大正時代の駅舎が持つ親しみやすいスケール感を今に伝え,デザインの美しいことでも知られ,関東の駅百選にも選出されている。

 だが,この駅舎は,中央線連続立体交差事業で取り壊されることとなった。
国立市などが保存事業を検討していたが,結局,解体された梁(はり)や屋根などの部材を保存することにしたそうだが,その後の再築等の見通しはたっていない。
 
 
 解体工事は,2006.10.10より始まる予定で,現在の駅舎の利用は10.08までという。
またひとつ,明治・大正期の鉄道建築を知るうえでの貴重な史料が消えていく。
 取り壊される前に,あの瀟洒な三角屋根を目に刻んでおきたいと,ずっと気になっていたのだが,解体工事開始を数日後にひかえた10.3 曇りがちの空を気にしながら出かけてきた。
 同じような想いを持った人達か,デジカメ片手の買い物帰り風の主婦・三脚を据えた本格派など,それぞれ,格好の撮影ポイントを探して駅前をあちこち歩き回っている姿が目についた。

 大正15年(1926年)4月1日,当時「甲武鉄道」といわれた現在のJR中央線に国立駅が開業した。
それまで,未開の土地であった東京郊外のこの地区の開発を計画していた西武創業の祖で当時の「箱根土地株式会社」(現:プリンスホテル)の経営者だった堤康次郎が,大学(東京商科大学・現一橋大学)や住民誘致の為に駅を作り,鉄道省へ譲渡した。
 中央本線国分寺駅と立川駅の中間にできる新しいこの駅と地区に,両駅から1字ずつ取って「国立」と名付けたという。

 関東大震災の被害をきっかけに, 一橋大学の前身・東京商科大学は,この地への移転を決めた。
その際大学と箱根土地との間の契約に,
  ・ 開発地域の北部を走る「甲武鉄道」に新たな駅を作ること。
  ・ またその外観に配慮すること。
が,大学の提示する条件として記されたという。

 かくして,アカデミックな雰囲気とともに,住宅地として理想的な環境を備えた「学園都市」にふさわしく,ヨーロッパに初めて大学が生まれたロマネスク時代の建築様式の「国立駅舎」が,ここに誕生したわけである。。

  さて,解体された駅舎のゆくえは?

 市は解体された駅舎の主要部分を保存し,工事終了後に元の場所での再建を目指すというが,資金・場所などの目どが立っておらず,現時点ではその実現は,不透明である。
 
       
      解体直前の駅舎近景

 
 大きな半円形の窓は小田原駅や琴平駅に似ている,飾り窓は小田急向丘遊園駅にも似ている。
 右の建設当時の姿から,飾りものが取り去られてはいるが,ロマネスク風の窓が付いたとんがり屋根のちっちゃな駅舎は,築後70年以上経った今でも,モダンで広く市民に愛され国立の象徴ともなっている。
       
          建設当時の姿
               (国立市HPより)


 大正15年に建てられた時は,屋根窓が付いていたり,付け柱があったり,腰まわりにタイルが貼られたりしていて今より装飾的だった。入り口には扉があり,住宅のような姿。
 
                                 駅舎内部
 
  駅内部には,明治期の鉄道に使われた古レール材(日本の八幡製鉄所をはじめイギリス・ドイツ・ベルギー・アメリカなどでつくられた)が,建物の構造の一部(柱や,トラス構造の梁部材)に再利用されている。

 * 甲武鉄道と中央線
    

 「甲武鉄道」は,東京(武蔵国)と甲府(甲斐国)を結ぶ鉄道を敷設すべく設立された私鉄で,1889年に新宿~立川間を開業したのを皮切りに1904年までに御茶ノ水~八王子間を全通させた。
 開業当時の駅は,新宿,中野,境(現・武蔵境),国分寺,立川,八王子であった。
明治28年(1895)には市街線として延長され,飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅となった。同37年(1904)我が国で初めて飯田町ー中野間で電車が運転され,その後,御茶ノ水方面に延長された。
 八王子以遠は,官設鉄道が建設を行っていた。
 明治39年(1906))公布の鉄道国有法により同年10月1日,甲武鉄道は国有化され中央本線の一部となった。

 甲武鉄道は,当初,甲州街道に沿うルートでの建設が計画されたが,各宿駅の反対に遭い止む無く武蔵野台地に通すことになった。沿線の農民は大変協力的でほぼ一直線に敷設することが出来たという。
現中央線が,甲州街道と離れていることや,直線区間が多いことには,こんな経緯があったんだ。