明治20年に設立された日本煉瓦製造鰍ェ廃業?
深谷駅の煉瓦張り駅舎
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高崎線深谷駅から北へ4q,埼玉県深谷市上敷免に日本煉瓦製造叶[谷事業所がある。 ここから,東京駅丸の内駅舎を始め,明治の赤煉瓦建築群に大量の赤レンガが供給された。
工場敷地内に,重要文化財である旧煉瓦製造施設,「ホフマン輪窯6号窯」・「旧事務所」・「旧変電室」が保存公開されている。
工場は既に煉瓦の製造はストップし今は出荷だけをしていて,今月(2006.June)末で閉鎖されるという新聞記事を見て急遽見学に出かけた。
深谷駅に降り立つと,東京駅を模したという駅舎に度肝を抜かれる,深谷は”ネギの町”とばかり思われているが,赤レンガの街であることを世間に主張しているようだ。
駅から工場までは,約4キロ 歩いて行っても良いが,市営の循環バスが便利,100円で一日乗り放題だ。ただし便数が極めつきで少なく事前にダイヤを調べてそれに合せて行動しなければならない。(最寄バス停は循環バス北コース浄化センタ前 路線図・時刻表は 深谷市バス路線図 参照)
ホフマン輪窯6号窯 【国指定重要文化財】
ホフマン輪窯内部
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ホフマン輪窯は,ドイツ人技師F・ホフマンが考案した煉瓦を大量に焼くために煙突の周りに焼成室(煉瓦を焼く部屋)を輪を描くように並べ未焼成煉瓦の窯詰め→焼成→冷却→窯出しを順に繰り返し窯火を絶やさないようにして煉瓦を焼く装置である。
最盛期6基あったという一部で6号窯(明治40年築造)が保存管理されている。総煉瓦構造,全長56.5m,幅20m,高さ3.3mのドーナツを伸ばした様な楕円形で,18の焼成室があり現役時代は月産約65万個の煉瓦を製造していた。現存するホフマン輪窯では最大規模だという。
窯の入り口部分のみしか見学できないが,当時の作業の様子を彷彿とさせる写真や工具類も展示されていて窯の規模の大きさに圧倒されるとともに近代建築に貢献した素材産業の生き様を十二分に感じる場所であった。
旧事務所 【国指定重要文化財】
旧事務所(日本煉瓦史料館)
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明治21年に建てられた木造平屋建て下見板張りの簡素な当時としては珍しいドイツ様式の洋館。
当初は工場の創設から製造まで一切を指導したドイツ人煉瓦製造技師N・チーゼの住居兼事務所であった。後に,工場事務所,現在は史料館となっている。
近代日本の経済の基礎を築いたと言われる渋沢栄一の生誕地であるこの地に,渋沢らが中心となって明治20(1887)年に日本煉瓦製造株式会社が設立され,工場建設を始めた。現地(上敷免)一帯は良質な粘土が採れ,東京にほど近く利根川の水運があり,しかも明治17年には鉄道も開通しており利便性の面からも工場用地として適切という判断が下され,赤煉瓦の煙突がそびえる3基のホフマン輪窯と付属施設が完成し,明治22年から本格的な操業が開始された。
旧事務所内に展示室が設置され(平成8年),日本煉瓦製造鰍フ最盛時の工場施設写真・煉瓦製造工程・上敷免工場製の煉瓦を使って造られた東京駅舎(T3)・司法省(M28)・東京裁判所(M29)・赤坂離宮(現迎賓館M42)・丸の内レンガ街(三菱1〜5号館など)・慶応義塾図書館(M45)・横浜新港埠頭煉瓦第2号倉庫(M44)・横浜開港記念館(T6)・片倉工業富岡工場などの写真も展示されている。碓氷峠隧道・碓氷第三橋梁(めがね橋)や山手線高架アーチ橋などの建設にも使われているという。
*数々の写真の中に,わたしが勤務した会社の広報部カメラマンであった増田彰久氏の撮影した貴重な写真が何枚も掲示されていた。
以下の写真は,”日本煉瓦の歩み”コーナーに展示されていたものである。
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最盛期の工場全景(明治40年頃)
この頃の年間生産量は3,700万個
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工場と深谷駅を結んで煉瓦を運搬した蒸気機関車。民間企業では初の専用軌道だと云う |
利根川に通じる小山川を使った舟運による煉瓦運搬 |
旧変電室 【国指定重要文化財】
旧変電室
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日露戦争後の好景気による建築・土木事業の拡大が煉瓦の需要の増大をもたらした。そのため従来の蒸気式原動機から電動機への転換が図られ明治39年8月高崎水力電気鰍ゥら電力線を架設し電動機を導入した。
当時の深谷町に電灯が点く1年前のことだという,煉瓦業界の隆盛を物語る貴重な建物である。
設備自体は失われているが,当時の建物だけがその外観をとどめて保存されている。一見,瀟洒なコテージ風である。
備前渠鉄橋 【国指定重要文化財】
備前渠鉄橋
明治28年に架設されたとは思えないほどしっかりした姿を見せてくれていた。橋台は当然のことながらも煉瓦で造られている。梅雨時の折,用水路は滔々とした強い流れで,足元に十分注意しながら撮影した。
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煉瓦工場で作られた煉瓦は最初,利根川を利用して船で運んでいたが,明治28年(1895年)に,工場から深谷駅まで日本初の民間専用軌道(通称 上敷免鉄道:1895年に運転開始し1975年に廃線)が敷設され,鉄道で煉瓦を運ぶようになった。
備前渠鉄橋は,専用線に架けられた4箇所の鉄橋で最長の15.7mのT形鋼を橋桁とするポーナル型プレートガーダー橋である。 ポーナル型とは,横川軽井沢間の煉瓦アーチ橋(重要文化財)を設計したイギリス人鉄道技師チャールズ・アセトン・W・ポーナルの考案にしたがって設計されたことに由来するそうだ。ポーナル型プレートガーダー橋は,明治28年から34年(1895〜1901)にかけて全国各地の鉄道橋として建造されている。中央線多摩川橋梁(東京1889),武豊線石ケ瀬川橋梁(愛知1891)など。
原田用水に架設された煉瓦アーチ橋
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近接して,備前渠から分かれる原田用水路に架設された煉瓦アーチ橋は橋長2mと小規模ながら完全な煉瓦構造である。
アーチリングは煉瓦小口で4重巻き,面壁と翼壁の煉瓦はイギリス積み(煉瓦を長手だけの段,小口だけの段と一段おきに積む方式。 土木構造物や鉄道の橋梁などでよく見られる),翼壁はもたれ式である。
当時の煉瓦構造物の技術を伝える貴重な構造物である。
* 専用軌道跡は現在,延長4kmの遊歩道・サイクリングロード(あかね通り)として市民に親しまれている。
* 備前渠用水は1604年に開削された農業用水路。400年の歴史をもつ埼玉県最古の農業用水路である。伊奈備前守忠次によって計画されたので,この名がついている。伊奈家は関東郡代や代官頭を歴任した。土木技術にも優れ,河川改修(
利根川の東遷・荒川の瀬替え)や農業用水路の開削(葛西用水・六堰用水・北河原用水)など水利施設建造に大きな業績を残している。(その土木技術は江戸時代後半に主流となった紀州流に対して,関東流あるいは伊奈流と呼ばれる)
。北足立郡伊奈町,備前堤,備前堀川,備前前堀川など伊奈家ゆかりの地名が多い。
福川鉄橋 【市指定文化財】
福川鉄橋は,専用線のほぼ中間地点,福川を跨ぐ地点に架けられたポーナル型プレートガーダー橋(全長10.1m)。
この橋の北側に続いて架けられた,福川の洪水時に溢れ出た水を逃す目的の避溢橋(ひいつきょう ボックスガーダー橋 5径間全長22.9m)とともに,現在,専用線の廃線と福川の改修にともない,ブリッジパーク(福川の左岸堤防に隣接した公園)に移築されている。移築の際に橋桁は再塗装されている,橋台&橋脚は,もちろん煉瓦製であるが,移築の際に新しい煉瓦に取り替えられているようだ。
ー現地の説明版ー
* 避溢橋(ひいつきょう)とは,河川に架けられる橋ではなく平地に設けられた橋。
洪水の氾濫地内に鉄道の軌道盛土を造った時,洪水時に盛土が堤防になってしまって川から溢れた水の流れを妨げてしまう。それを避けるために,文字通り「溢れを避ける」ため,水の逃げ道として設けられる鉄道橋である。
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福川鉄橋(プレートガーダー橋)
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避溢鉄橋(ボックスガーダー橋)
避溢橋は建設当初は木製の桁だったが,その後,鋼桁に改修されたという。 |
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福川鉄橋から深谷駅までの遊歩道は,民家や商店の立て込む市街地を一直線に深谷駅に向かっている。
今日は,梅雨の晴れ間をねらっての訪問であったが,”晴れ”が効き過ぎて真夏並みの暑さの中,汗みどろになって帰途に着く。
一世を風靡した日本煉瓦製造鰍ェ廃業することは時代の趨勢とはいえ,なんとも悲しくも残念なことである。訪れた日の工場内には煉瓦製品がパレット状に野積みされており,煉瓦製造の操業は一切行われていない,わずかにフォークリフト一台が荷さばき作業を行っていた。
工場閉鎖後も敷地内にある”ホフマン窯” ”旧事務所” ”変電室”が保存公開され続けられることを祈ってやまない。
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