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荒川放水路と旧岩淵水門

 東京下町を洪水から救った岩淵水門

岩 淵 水 門 の 位 置

 都知事選挙のあった4月8日(日),投票を済ませて 暖かい陽射しに誘われて,家から自転車で40分ほどの荒川と隅田川の分かれる地点「 岩淵水門」に出かけた。                                  


 通称本郷通りから北本通りを王子から赤羽方向へ進み志茂町2丁目交差点で右折して(後で地図を見たら北本通りから右折したのが早過ぎたようだが)新河岸川護岸にぶつかり左折してしばらく北上。ここらとおぼしき辺りに新河岸川を渡る橋が現われ,これを渡ると右手に「国土交通省荒川下流工事事務所」と「荒川知水資料館」の脇に出る。正面の土手を上がると,その先に荒川と隅田川の二つの流れを分岐する岩淵水門が眼に入る。
上流側の赤い水門が「旧岩淵水門」,下流側にもう一つ青い水門が,現役の「新岩淵水門」だ。                                 
 この水門で荒川の流れが二つに分けられ,向こう側が「荒川放水路」,手前右手に流れ下るのが「本家の荒川」である。 1965年,河川法の改正により”荒川放水路”が「荒川」,岩淵水門から下流の”本家の荒川”が「隅田川」と呼ばれるようになった。
 旧「荒川」は その名の通り”荒ぶる川”であった。 
毎年の如く氾濫を繰り返し,昔の荒川の本流である,岩淵水門から下流の現在の隅田川は,大雨が降るたびに洪水を引き起こし東京下町の住民を苦しめていた。(私の母の生家のある北区王子豊島一帯も何度も洪水に見舞われた筈である,そういえば母の実家の家屋敷は,今にして思えば河岸から2,3メートル土盛りした周囲一帯よりやや高めの土地に建てられていた。なるほど生活の知恵である)。       
 明治43年の大洪水を契機に,東京の下町を水害から守る抜本対策として明治44年に着手されたのが,「荒川放水路」の開削である。北区の岩淵に水門を造って本流を仕切り,岩淵の下流から中川の河口方面に向けて,延長22km・幅500mもの放水路が造られた。これが荒川放水路,現「荒川」である。                                           
 洪水時には岩淵水門を閉めて本流(現隅田川)の増水を抑え,洪水の大部分を幅広い放水路でいっきに海に流下させ,これによって東京下町の洪水被害を減らすことに成功したと言う。

 「旧岩淵水門」は,愛らしいといっていいくらいの小ぶりな土木施設だが,東京下町を洪水被害から救うという途方も無い重要な役割を全うし,現在はその役目を「新岩淵水門」に任せ,いまは,落ち着いた風情の流れの中,遺産として残されている。                                                       
 隅田川と名を変えた本家の荒川は,いまや高いコンクリート護岸に囲まれた人工の川のようになり,新参の荒川放水路の方が,広々としていてこちらの方がむしろ自然の川のように見えるから不思議である。

 対岸は,映画『キューポラのある街』で知られる川口だが,今はその面影は無く高層マンションがずら〜と並んでいる。 水門の傍らの土手や河川敷では,いままさに散りなんとする桜花の下で今シーズン最後の花見の宴をひろげるグループ,キャッチボールやサッカーボール遊びにこうじる親子,サイクリングを楽しむ若者達,ジョッギングやそぞろ散歩をする人たち,模型自動車に夢中なおじさんたち ・・・・・・。 
それぞれ春の日曜午後をゆったりと過ごしていた。        
 
 水門の上は歩行者専用橋として開放されており,川に囲まれた中之島(水門公園)に渡ることができる。   
帰りに 荒川知水資料館に寄る。
 荒川放水路の工事のありさま,荒川放水路開削という大難工事を指揮した土木技術者青山士(あおやまあきら)の紹介,荒川に棲む魚,鳥などの展示。
特別展示として全国の小・中・高校生の川の写真コンクール入選写真の展示と東京新聞で連載された「荒川新発見」にちなむ写真展など興味深く見させて貰った。
 荒川を空撮でずっと下ってくる映像や,地点を選ぶと,そこの映像が出て洪水になるとどんな状態になるかをビジアルに示すCGなど子供たちに面白く見せる工夫がされている。
 「荒川新発見」を,さっそくAmazonnで取り寄せた。
洪水との壮絶な闘い,哀歓刻む流域人の暮らし・独特の川辺文化,そして未来に向けて着々進む自然保全と安全な流域作り…都市大河の多彩なドラマを,深い筆致と写真で描いた壮大な荒川新紀行である。なかなか面白い記事が満載!


 「荒川放水路」

 荒川放水路は,現在荒川と呼ばれている河川のうち東京都北区の岩淵水門で隅田川と分かれ,足立区および墨田区・葛飾区の区境を抜けて江東区・江戸川区の区境にて東京湾にそそぎこむ全長約22km,幅約500mの人工河川の部分を指す。
1910年(明治43)8月,関東地方は非常な長雨が続き,荒川・隅田川および他の主要河川が軒並み氾濫し,東京府・埼玉県などで甚大な被害を引き起こした。これを機に政府は根本的な首都の水害対策として荒川放水路の建設を決定する。

 内務省によって調査、設計の準備を進められ,用地買収の済んだ箇所から1913年(大正2),土木技官の青山士らを責任者に逐次工事に着手した。
当時は工事の大半が手作業で,現代のような重機はほとんどなかった。
工事中に幾度も台風に襲われ,中でも1917年(大正6)9月30日の台風では記録的な高潮に見舞われ,工事用機械や船舶を流出したほか,関東大震災では工事中の堤防の亀裂,完成したばかりの橋梁の崩落などが発生,更に第一次世界大戦に伴う不況・物価高騰の影響も受け難工事に拍車をかけたといわれている。

 工事は当初の10年という予定期間を大幅に超え, 1924年(大正13)の岩淵水門完成により放水路への注水が開始され,浚渫工事など関連作業が完了したのは1930年(昭和5)のことであり実に17年間という歳月を要している。
 以後東京は洪水に見舞われることは無くなった。


明治43年 洪水時の東北線荒川鉄橋付近
                                 

 昔,荒川の本流は隅田川であった。ところが隅田川は川幅がせまく,堤防も低かったので大雨や台風の洪水を防ぐことができず,しばしば大洪水に見舞われた。
 1910年(明治43)8月,関東地方は非常な長雨が続いたため,荒川・隅田川および他の主要河川が軒並み氾濫し,東京府・埼玉県などで甚大な被害を引き起こした。氾濫した水は岩淵町から志村に沿うところで二丈七尺(約8m)に達したと伝えられている。被害総数は,家屋流出1500戸・浸水家屋27万戸・死者223人・行方不明245人・堤防決壊300箇所・橋梁被害200箇所に及んだ。
 
 *以下4葉の写真は全て,「荒川知水資料館」展示より
 
放水路建設時の写真(1)                                 

 工事は,人の力や馬の力を使って,まず河岸部分を平らに均す整地作業から始まる。掘削した土を手押しトロッコで運搬している。
放水路建設時の写真(2)
                                 

 次に”エキスカ”と呼ばれた蒸気式の掘削機を使って低水路部分を掘削。
 掘った土は堤防を作るために使われる。
放水路建設時の写真(3)
                                 

 水を曳いた後は,浚渫船で更に水路部分を掘り下げる。

 工事の歩み
           1910(明治43年) 大水害を契機に荒川の改修計画が立てられる。
           1911(明治44年) 放水路事業始まる。測量・調査・用地収用に着手。
           1913(大正 2年) 人や馬を使って高水敷を掘り始める。
           1914(大正 3年) 浚渫船を使って河口部分より低水路を掘り始める。
           1916(大正 5年) 岩淵水門起工。
           1917(大正 6年) 9月30日,記録的な高潮で船舶・機械流失損傷。
           1918(大正 7年) 新川水門、綾瀬水門起工。
           1919(大正 8年) 小名木川閘門、隅田水門起工。
           1921(大正10年) 木下川・中川水門起工。綾瀬川通水。
           1923(大正12年) 9月1日,関東大震災。28ヶ所で堤防が崩れたり,裂け目が入る。
           1924(大正13年) 岩淵水門竣工。荒川放水路全線に水を通す。
           1930(昭和 5年) 荒川放水路工事が完成する。

 
 「旧岩淵水門」   産業考古学会推薦産業遺産 1995年(平成7)
                  東京都選定歴史的建造物   2006年(平成18)3月
 

 放水路が元の隅田川と分かれる地点に,1917年(大正5)から1924年(大正13)にかけて作られたのがこの旧岩淵水門で,9mの幅のゲートが5門ついている(うち一門は,1960年(昭和35)常時,船が通れるように改修された)。 工事の責任者は,日本で唯一人,パナマ運河工事に技師として参加した青山士(あきら) である。彼は,後に信濃川大河津分水路可動堰の陥没事故補修工事をも指揮している。

 旧『岩淵水門』」 は「隅田川」 への水流を調整することで洪水の被害を防ぐだけではなく,平常時には適度な水流を確保して川の浄化を促進させたり,水運に必要な流量を調節する役目も果たした。
  1982年(昭和57) に完成した『 新・岩淵水門』 に,その役割を引き継いで今も東京を水害の危険から守り続けている。現在は子どもたちの社会見学や市民の憩いの場として周辺が整備され地元の人々から「赤水門」の愛称で親しまれている。
   

  

旧岩淵水門(赤水門)
                                 
 1924年(大正13)完成。
平成11年改修工事で赤く塗られてから赤水門といわれている。
 新岩淵水門の完成により既にその役目を終えているが,土木遺産としての価値が高いこともあって,周辺の整備とともに保存されている。水門の上を渡ることも出来,間近に往年の水門を眺めることができる。
 水中に立つポールは「洪水表示柱」
左上の標示板は1947年(昭和22)9月16日のカスリーン台風(AP8.6m),その下が1958年(昭和33)狩野川台風(AP7.48m),右下が1999年(平成11)8月15日豪雨(AP6.30m)の水位を示している。
  
旧岩淵水門(下流側から) 
            
 完成以来,最大2m以上にもおよぶ地盤沈下や左右岸の不等沈下が発生するなどの問題に悩まされたが,新水門完成で,その役割を終えた。
後方は,川口市方面の高層マンション群
完成時の旧岩淵水門 
            
 1924年(大正13)10月に完成した当初の水門。
RC造(一部S造)で,長さ103.01m,9.09m×5門。
深さ20mまで掘削しコンクリート基礎の上に構築されている,工事中に遭遇した関東大震災にもびくともしなかったという。また, ピアに入る等間隔の横目地と縦縞のスリット高欄の組み合わせがモダンであったという。
新岩淵水門(青水門) 
            
 旧水門の老朽化や地盤沈下対策・洪水調整能力のアップのため,旧水門の下流300mに,1975年(昭和50年)から建設され1982年(昭和57年)完成した新岩淵水門。
 新水門は大型の3基のゲートで,ライトブルーに塗装されたそのゲート色から,『青水門』 と呼ばれ親しまれている。
土手で見つけた小さな花々