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芦ノ湖箱根用水,深良(ふから)水門

 江戸時代に造られた農業用水トンネル

湖 尻 水 門

 箱根強羅に,元勤務先会社の保養所があり,OBとその配偶者が利用できる。
今回は,ドラゴン会の面々6人が会合した。翌日,訪れたのが,箱根用水の取り入れ口[深良水門]である。ケーブルカーとロープウェイを乗り継いで 湖尻に着いたのが11時半。ここで,一行と別れて深良水門を目指す。 今は閑散としているキャンプ場を抜けて,まず着いたのが湖尻水門。

 湖尻水門
 

芦ノ湖から流下する自然河川は,箱根用水が出来るまでは早川のみであった。1999年深良水門の改築に合せて,造られたのが鋼製ゲート3門からなる 湖尻水門である。この水門は洪水調節時以外は常時閉められているという。

 深良水門/箱根用水 
箱根用水深良水門
湖尻〜箱根町観光船から望遠レンズで撮影
 

さらに,新緑の中,山桜やツツジが満開,ウグイスがうるさいくらい囀り,スミレが咲きこぼれ春に匂いに満ちた芦ノ湖畔遊歩道を20分ほど進むと深良水門が見えてくる。
 水門と水路とトンネル入り口はフェンスで囲まれていて写真を撮るのに一苦労した。さらに水門の全体像を撮るには,舟で沖合いに出ないと不可能。

 水門際に,静岡県芦ノ湖水利組合が建立した石碑にその沿革が記されていたので,そのまま転記する。
 「 徳川四代将軍家綱の時代,小田原藩深良村(現在の静岡県裾野市深良)の名主大庭源之丞は,なんとしても芦ノ湖の水を引いて旱害に苦しむ村民を救いたいと考え土木事業に経験の深い江戸浅草の商人友野与右衛門に工事を懇願しました。
 与右衛門は源之丞のふるさとを思う心に感動し工事の元締めを引き受け,湖尻峠にトンネルを掘り抜き
深良村以南の30ヶ村に湖水を引く大計画を立て,箱根権現の絶大な支援と庇護に支えられつつ,大変な苦労を重ね寛文6年(1666)ようやく幕府の許可を得,その年8月トンネル工事に着手したのです。
 この難工事も優れた技術によって驚くべき正確さで成し遂げられ寛文10年春,3年半の歳月と7300余両の費用をかけ当時としては未曾有の長さ1280メートル余りのトンネルが貫通したのです。
 爾来300有余年灌漑,飲水,防火用水に,また明治末期からは発電にも使用されるなどその恩恵は知れず,深良用水は地域一帯の発展の基と言えましょう。 
 この水門は,明治43年(1910)木造水門を現在の石造り鉄扉のものに改造されましたが老朽著しく,このたび神奈川県の協力を得て現水門を補強して永く史蹟として保存するとともに堅牢なる補助水門を新設して利水の利便性と治水安全度の向上を図ったものです。 平成元年(1989)10月」
箱根用水トンネル芦ノ湖側坑口門
 

 当時,幕府や各藩は盛んに新田開発に取り組んでおり,箱根用水もその政策を受けての小田藩管轄の大事業であった。現在の神奈川県芦ノ湖の水を静岡県側に引水することは水利権問題が大変だったろうと思っていたのだが,上記の碑文を読んで納得した。芦ノ湖,深良両地域とも小田原藩に属していたのだった。
 隧道は,芦ノ湖側と深良側の両方からツチ・ノミ・ツルハシという素朴な工具で手作業で掘られ,固い岩盤にぶつかるとそれを避けながら進められたので隧道はジグザグ状だという。しかし貫通箇所はわずか1mの差しかなかったそうだ。ろくな測量機器のない時代にどんな方法で掘り進んだのだろうか。驚くべき技術である。


キャンプ場内にたくさん咲いていたヤマグワの花 湖畔遊歩道際のあちこちに咲くスミレ
 

 参考ウェブサイト:箱根用水と友野与右衛門