我侭の温度 (2) そうして二三日が経った、ある晩。 風が強く吹き、庭の木々が薄気味悪く鳴る夜だった。 そんな中で菊は、耳障りな物音でふと目を覚ました。 「……なんか……きこえる……」 風に乗って時折届くのだろう。寝ぼけた頭に聞こえてくるのは、何かを引きずる音と途切れ途切れでかすかな唸り声だ。ぼんやりと布団の上に身を起こし、どこから聞こえてくるものかと耳を澄ます。 「あー……」 しかし菊はまだ幼い。夜はとにかく眠かった。 耳を澄ましている途中でどうでも良くなり、まあいいやと菊はもう一回寝床に入りなおす。 母親や乳母と眠らなくなって久しい。庭の木々がザワザワと煩いこんな夜は、夢うつつにも子守唄と女手の優しい温もりが恋しかったが、小さい子じゃないんだから一人で眠れるんだぞと皆の前で威張ってみせた事がある手前、そんな事はもう言えない。 さっさと寝ようと、菊が布団を被り直して再び眠りに落ちかけたその瞬間だった。 「ふあっ!」 菊の部屋からすぐ近く、斜め向かいの廊下から、素っ頓狂な声と板間に何かが転倒する音が聞こえてきたのは。 小さな身体で跳ね起きて廊下に飛び出した菊の目に映ったのは、布団を引きずった少年が今正に泣き出そうとしたその瞬間。 「ひっ」 菊の顔を見て涙が引っ込んだか、少年はびくりと大きく慄いて、廊下に座り込んだまま動きを止めた。 「……なんだおまえか、びっくりした。“ぞく”かと思ったぞ」 忍衆である一ヶ谷の頭目屋敷の最深部に賊が入り込む訳も無いが、大人びた口調で呟いて菊は笑う。 「こんな所でどーした? 厠か? 厠の場所はあっち……」 ぺたぺたと裸足の足音をさせつつ少年に向かう菊の目に、少年が引きずっていた布団が映りこんだ。菊の視線に気づいたのか少年はその小さな背に布団を素早く隠したが、到底隠しきれるものでも無い。 「ん?」 夜目に浮かぶ白を汚す、大きな滲み。 布団に大きく描かれた地図を見て黙りこんだ菊の目線を追い、少年は青ざめて顔を歪めた。 「ごめんなさい……!」 寝巻きの袷(あわせ)をぎゅっと握り締め、勢い良く頭を下げる。 「ごめんなさい! ごめんなさ……っ」 「ふぅん、寝小便か」 図星を言われて少年の身体が硬直し、ガタガタと震え出した。 「お、おれっ、あのっ」 今夜は風がうるさく、庭の木々もどことなく薄気味悪く見える夜だ。少年を一人で寝起きさせている部屋は屋敷の離れにあり、物置部屋に布団を運び込んだだけと同様で、厠などの備えからは遠くて不便な位置にある。小さな子供がこんな夜に一人で廊下を渡って延々行くには、暗くて遠くて恐ろしかったのだろう。大方部屋から出るのが怖くて限界まで我慢をし、そしてとうとう粗相したに違いない。 子供の失敗とは言え、布団を汚されて良い顔をする者はいないだろう。その失態を咎められるのを恐れ、皆が寝静まっている内に何とかしようと部屋から出てきたに違いないのだが―― 「ごめんなさい、ゆるしてください、ごめんなさい、もう絶対しないから、お願い」 見下ろす菊の足元。 少年は、身体をひどく震わせたまま、異常と言えるまでに怯えていた。その目には今にも零れ落ちそうなくらいの涙が溢れている。 恐慌を来たしたも同然の少年の狼狽に、菊は目を瞬いた。 「別にそんなつもりじゃ……」 自分の物言いはそんなに怖かったのだろうか。怒ったつもりは全然無かったのに。 自分より幼い子供をあやした事など菊には無い。こういう時はどうしたらいいのだろうと、俄かに菊は狼狽する。 だがその眼前、少年は血を吐くように切実な響きで小さく叫んだ。 「……殺さないで……!」 怯え、頭を抱えてうずくまったその小さな身体の首筋には、一目で手形と分かる毒々しい指の痕が未だ残っている。 ――間引き。口減らし。 大人の手で首を絞められたらしいその痕は、少年が負った怪我の原因を雄弁に語って尚余りある。 多数が生き残る為に不要とみなされ、親から捨てられた子供。 捨てられ、殺されかけた子供。 首筋に太い指が食い込んだ刹那、少年は何を見たのだろう。修羅と化した実の親の姿だっただろうか。それとも違う鬼の姿だっただろうか。 ……小さな身体で感じるその恐怖と絶望は、如何ほどの物だっただろう。 震えながら冷たい廊下にうずくまったその姿は、少年が同じ年頃の子供達より小柄である事を差し引いても、尚一層小さくも弱くも菊には感じられた。 「……じゃ、さっさと片付けるか」 切実な声音で訴える少年に、わざと軽い調子で菊は言う。 座り込んだままだった少年の頭に手のひらを置き、ぽんぽんと撫でてやって殊更ににっこりと大きく微笑んだ。 「寝巻きはぬれてないか? あ、やっぱりぬれてるな。よしじゃあ私の替えを貸してやる。尻がぬれたままだと風邪ひくぞ」 驚いて見上げた拍子にぼろりとこぼれた涙を軽くしゃがんで袖口で拭ってやって、菊は笑って言葉を紡ぐ。 「しょうがない奴だなあ、ちゃんと寝る前に厠へ行ったか? 行ってないんだろ。ちゃんと行っとかないからこーなっちゃうんだぞ」 腕を引いて立たせてやった少年は、先程までの恐れが飛んだかのような呆然とした表情で菊を見ている。 「……怒んないの?」 「なんで? ほら、さっさとしないと尻が冷えちゃうぞ」 な? と笑って見せた菊に、少年は小さく頷いた。 「あ、ありがと……」 「いいよ。おまえは私が拾った子なんだから私の子だって言っただろ、私が面倒みるのは当然だ」 きっぱりと一言言い置いて、もう一度優しく笑って菊は続ける。 「一緒に寝よう。……ほら、おいで」 少年に替えの寝巻きを着せてやり、二人で一緒に菊の布団に潜り込んだ時はもう深夜になっていた。 外では相変わらず庭の木が風に騒いで喧しかったが、もう全然怖くないと少年はぼんやり思う。 「寒くないか? 背中はみ出してないか? ほら、もっとこっち来い」 「うん」 部屋で一人、布団を被っていた時に感じていた恐怖感は今やすっかり無くなっていた。幼い響きで大人のような物言いをする菊の声に安堵して、少年は大きく息を吐く。 「……あったかい」 「そっか、よかった」 遠慮がちに寄り添ってきた顔を覗き込み、額がくっつくほどの距離で菊は笑う。 そうしてしばらくは何も言わず、菊は少年の頭や頬、身体を撫でてやった。 庭先や野山で駆け回って遊ぶ菊は生傷が耐えない。そんな菊が日々作る怪我を、母親は丁寧に薬を塗りこんだ後でいつも優しく撫でてくれる。それをしてもらった後は不思議と痛みが無くなる事を思い出し、母親と同じような手付きで菊は傷だらけの少年の身体を優しく撫でる。 「……おれ、泣き虫なんだ」 少年が唐突に口を開いた。 「いっつも腹減ったって泣いて……母ちゃんを困らせてて、兄ちゃんたちみたいな力も無いから、畑のこととか全然手伝えなくて……、父ちゃんに……よく怒られて……」 途切れがちに小さく囁かれる声に耳を澄ましながら、菊は尚一層優しく少年の頬を撫でた。 「そんなんだから、要らなくなったんだと思う。泣いてばっかりで……おれは何の役にも立たないから、嫌われて」 布団の中で小さな身体を更に縮まらせながら、少年は更に続ける。 「だから捨てられたんだ」 自ら口にした瞬間、大粒の涙が瞳に浮かび上がった。 「夜になると父ちゃんが庭に立ってるんだ。父ちゃんだけじゃなくて、村のおじちゃんたちもいっぱいいる。みんな、何でおまえがそこにいるんだって、夜の間ずっと言ってる」 声にならないのか少年の唇が力無くわななく。二度三度と震えた後で、舌はようやく音を作った。 「……他の子はみんな死んだのに、なんでおまえは死んでないんだって。お前がいちばん役立たずだったのに、なんでまだ生きてるんだって」 毎夜寝付くたびに見る悪夢が現実と混ざっているのだろう。少年は、暗がりに自分を殺そうとした大人たちの幻を見、風音に糾弾の声を聞いていた。 「だからおれ、何かの役に立たないといけないんだ。うちにいた時みたいに泣いたらいけなくて、甘えたりするのももう絶対ダメなんだ。じゃないとまた捨てられて、今度こそ」 そこで言葉が詰まる。 しかし一瞬の静寂の後、血を吐くように少年は呟いた。 「……今度こそ、他の子みたいに殺される……!」 生きる為には何らかの存在意義を示さないといけない。 それは幼い思考が辿りついた結論なのだろう。自分は、何の役にも立たなかったから捨てられたのだと。 だからこそ少年は未だ癒えない身体でも働いた。 痛くても大人達の前では泣く事を我慢した。 時折差し伸べられる大人達の暖かな手にすがり付きたかったが、それをしてまた疎ましがられたらと思うと怖くてなかなか出来なかった。屋敷の人間は概ね優しかったが、甘える事は許されないのだと、揺らぐ自らに何度も何度も言い聞かせた。 耳に残る友人達の断末魔が少年から安眠を奪っていたが、その恐怖は胸にしまって夜を過ごした。夜はいつも布団を被り息を潜め、父親がここで生きている自分を見つけに来ないよう祈りながら朝を待った。 少ない睡眠の中で見る夢はほとんどが悪夢だったが、時折見る母親の夢だけが少年の救いだった。その母親は夢の中で少年に繰り返し言う。泣いては駄目、甘えては駄目と。 ――もう二度と捨てられないように。二度も、殺されないように。 だから、今ここで菊に甘える事も許されない事なのだと、頭の片隅で少年は理解していた。今は優しく頭を撫でてくれている手も、いつ何時鬱陶しがられて振り払われるか分からない。額がくっつくほど寄せられた暖かい身体はこの里で一番貴い血の流れる身なのだ。少年が甘えてすがっていい温もりでは決して無い。 だが、久し振りの人肌は懐かしい気がするほど温かった。 幼い手が傷を撫でてくれる度、毎日鈍く疼いていた痛みが引いていくのが分かる。 心地良かった。だがそれと同時、切なくもあった。 もう大丈夫です、一人で眠れます、布団を汚してごめんなさい――そう言って立ち去るべきだと分かっているのに、頬を撫でる優しい手から少年は離れられない。 大きさこそ自分と大差無いが、この手は母親にそっくりなのだ。 泣き虫で弱虫で役立たずの自分でも、優しく包んでくれていた母親に―― 「助けて……、助けて、怖い」 言っても意味の無い言葉だと分かっていたが、それは不意に唇をついた。 「……母ちゃん……!」 添い寝する菊の胸元に顔を埋めて抱きすがり、堪えきれずに少年は叫ぶ。 「うん、分かった」 対する菊の応えは簡潔だった。 「……」 吐露に返事があった事自体に驚いて、少年は一瞬固まる。 「なんだその顔は。さっきも言っただろ、おまえは私が拾った子なんだから私の子だって」 細い腕で少年の頭を抱き込みながら、菊が続ける。 「甘えちゃいけないとか泣いたらいけないとか、エライ心がけだしその通りだけど、そんなの別に私の前でまでガマンすることないぞ。……私はおまえの母上になったんだからな」 ぎゅっと力を込めながら、しかし少年の怪我が痛まないように加減はしながら菊が囁く。 「……もう大丈夫。泣きたかったら私のところで泣けばいいし、甘えたかったら私に甘えろ。いつでも来い。こんないい子、私はぜったい捨てたりしないから」 そろそろ眠くなって来たのだろう。堂々とした宣言も後半はあくび混じりでやや呂律が回っていなかったが、少年は響いた言葉に目を見開いた。 「……ほんと?」 「ウソなんか言わない」 優しい手の平が再度少年の頬を撫でる。 「おまえはホントにいい子だな、私はいい拾い物をした。なんだか友達と、子供と、弟が、いっぺんにできたみたいだ……」 絶対大事にするぞ、と小さく呟いて菊は大きなあくびをこぼす。 「早くケガを治して、そしたら一緒にいっぱい遊ぼうな」 寝入り端、大切な内緒話のように囁かれた菊の言葉に何度も頷きながら、少年は菊に抱きついた。 「菊」 少女の名を呼び、震える声で俯きがちにかすかに告げる。 ――許される事を祈りながら。 「手……つないで……」 「おやすみ」 返事の代わりに差し出され、そしてしっかりと繋がれた手。 「母上から子守唄を習っておけばよかったなあ……」 歌ってやりたいけど、いつもすぐ寝てしまうから覚えてない。 溜息混じりにそう続いた声に小さく笑んで、この温もりが夢で無ければいいのにと強く願いながら、菊の手を握り返して少年も瞳をゆっくりと閉じる。 少年が菊から名を授けられたのは、久々の安眠のその明朝。 『小太郎』という新しい名前は、少年にとって菊から与えられた最初の宝物になった―― 「あー……なんか色々思い出した」 すっかり寝入って暢気な寝息を立てる小太郎の隣、菊がボソリと呟いた。 「こいつに甘えていいって言ったのは、私だった」 普段どれだけ甘えたがりで泣き虫でも、小太郎は大人には甘えようとしない。 菜津やシエ――菊の母親や祖母辺りは子供好きだから、小太郎をよく可愛がる。だからその辺りには甘えついてもおかしく無さそうなものだが、それでも菊に対してするような無条件な甘え方は決してしない。 傷はすっかり癒えたとは言え、小太郎の身に降りかかった災禍からはまだ数年ほどしか経っていない。大人への恐怖感が未だ抜けきらないと言うのも要因としてはあるだろう。身分差を考慮している節も勿論ある。 しかし、それらがあの時告げた言葉から来ているとしたら。 この子が心から甘えて我侭を言える人間は、自分しかいないのだとしたら。 「………っ」 そう思い至った瞬間、菊の胸はなんだかミョーに締め付けられた。 寝息を立てる身体を思わず力いっぱい抱きしめる。 「くそ、ちょっと待てコラ可愛いなお前……!」 「んぁ?! なに? 息、でき、なぅぐふっ」 「うるさい黙って寝てろ!!」 理不尽な愛情表現に小太郎が目を覚ます。 ぎゅうぎゅうと抱きしめられて呼吸困難にしばらくもがいていたが、すぐさま半身を起こすと小太郎は小さく叫んだ。 「んもー! 寝てたのに! もー!!」 しかし起きたと思ったのも束の間。叫ばれて驚き、思わず腕を離した菊の上にすぐさま被さるようにして掛け布団ごと倒れ込む。 そしてそのまま菊の頭を黒髪ごと抱え、自分の胸と腕とに抱き込んだ。 「ハイ菊、おやすみっ」 思いがけず強い力で抱きしめられ、菊の動きが封じられる。 「なっ」 そして、何を偉そうにと柳眉を逆立てて続けかけた菊の言葉は、 「大好きだよ」 ――耳元で囁かれた小太郎の台詞に、封殺された。 「……小太郎のくせに……!」 再度聞こえてきた寝息の柔らかな熱を耳元に感じながら、菊は渋い複雑な顔で眉根を寄せる。 「もう絶対一緒に寝てなんかやらないからな……覚えとけ……!」 頬が、妙に熱かった。 ―― 終
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