我侭の温度 (1)



 小太郎が初めて言った我侭は、何だっただろう。






「――今日だけ! 今日だけだからあぁあぁ」
「お前の今日だけはアテにならん! たまには一人でちゃんと寝ろ!」

 夜が来て月が昇りかけ、じゃあそろそろ子供は眠ろうかというそんな時間。
 部屋に入れてくれ一緒に寝てくれと枕持参で駄々をこねる小太郎の半べその顔を眺めながら、菊は溜息をつく。
「……ったく、拾ったばっかの頃はワガママなんて言わなかったのに一体いつからこんなにも……」
「えーもー何で、ねー何で今日はダメなの、ちょっと寝るだけだから! ちょっとだけだから!」
「ちょっとって何だワケ分からんな! 一回寝たらどうせ朝まで起きないくせにっ」
「菊ー! そうかもしんないけどおーねーがーいー!」
 呆れ顔の菊を他所目に、半分閉められた襖の前でジタバタと小太郎が足踏みをする。しかし不寝番に気づかれないように、とりあえずは小声で。
 駄々っ子の侵入を拒むように入口に足をかけて小太郎を制しつつ、寝巻き姿で菊はまた溜息をついた。
「いいか小太郎、よく聞け。お前も私ももう小さい子じゃないんだから、一緒に寝てたらダメなんだ。一人で何でも出来なきゃダメ。もうそういう歳。分かるか?」
「分かりません!」
「考えてから言え!!」

 菊の溜息はますます深い。
 小太郎は親に捨てられ、死にかけていた所を菊が拾った子だ。ちゃんと自分で面倒をみるからと皆に宣言した手前、きっちり厳しく育てて来たつもりだったのに――どこで間違えたのだろうか。
 だが、菊が眉間にシワを寄せて本日数回目の溜息をつこうとした瞬間、その手のひらに暖かいものがするりと滑り込んだ。
「菊」
 小太郎の両手が、菊の手を握っている。
「あのさ、言いたくないんなら、言わなくてもいいけどさ」
 その声は先程よりも数段小さく、弱くて細い。

「……俺のこと、嫌いになっちゃった……?」

 ――だから、もう一緒に寝てくれないのか。
 うつむいて床板を見つめている目線が、消え入りそうな語尾が、怖くて訊けない言外を告げていた。


「……知るかバカ!」
 菊が怒鳴る。
 吐き捨てるように怒鳴り、握られていた手を振りほどき、入口に引っ掛けたままだった足先で襖を大きく蹴りやった。
 思いのほか大きな音を立てて開かれたそれに、小太郎は思わず身を竦める。

「本っっ当に今日だけだからな! ……今度来た時は絶対に追い返すからな!」


 そういう所が子育てとしては温くて甘いと気づくには、菊もまだ幼い。




 布団に大慌てで潜り込み、嬉しそうに身体を寄せてきた小太郎の目は、どこかとろりとしていて既に半分眠りかけだ。
 居心地の良い場所を探すようにしばらくモゾモゾしていたが、やがて定位置に落ち着いたのか、菊の肩口に額をくっつけてふわっと大きくあくびをこぼす。

「なんだ、もう寝ちゃうのか」
「……眠い……」
「ふーん。……まあ、別にいいけど」
 小太郎の髪が鼻先をくすぐるのをジャマくさいと思いつつも、しかしこうなってしまうと菊は小太郎をもう突き放せない。甘える様にくっついてきた小太郎の肩が布団からはみ出ていないかを素早く視認し、寒くないか、厠は行ったか等々を眠くて返事があやふやな小太郎にしっかり確かめた後で、菊もようやく目を閉じた。

 子育て的な何だかんだで寝る前に騒動したが、結局の所、二人で寝る事が菊は嫌いではない。だからこそ、結局毎回こうやって添い寝を許してしまうのだろう。
 親しんだ温もりとささやかな幸福感を肌に感じながら、小太郎の耳元で笑んで呟く。

「おやすみ、小太郎」
「んー……」

 その時、菊の手のひらに、再度小太郎の手が滑り込んだ。
「……菊」
 そうしてきゅっと握られる。

「手……つないで……」

 その言葉に、菊は素直に手を握り返す。
 そうしてつないでやって一呼吸の後、目を閉じたままの小太郎が、一仕事終えたとばかりに深々と溜息をついた。
「はー……」
「小太郎コラ待て、言う事聞いてやってんのに何でそこでため息を」
 しかしそのまま寝てしまったのだろう。
 規則正しい寝息がその後に続き、それっきり小太郎は沈黙した。


「……思い出した」

 その寝顔を見つめつつ、小太郎を起こさないように菊が小さく呟く。

「お前が初めて言ったワガママも、それだったな」









 拾ってきたばかりの頃。
 捨てられた時に負った怪我がまだ治りきっていなかった頃。
 小太郎は、泣かない子供だった。

 拾われた日、目を覚ました当初に混乱を来たして少しぐずったくらいのもので、後は不思議と泣こうとしない。
 負った怪我は子供ならば普通にしていても痛がって泣くのがおかしくない大怪我であったし、何よりもその目にはいつも多かれ少なかれ涙が溜まっていた。いつ声を上げて泣き出してもおかしくないような、そんな有様だった。
 ……しかし、誰かに泣くなと言われた訳では決して無いのにも関わらず、小太郎は――その時はまだ、小太郎とは名付けられていなかったが――頑なと思えるまでに、何故か泣かない子供だったのだ。



「おいおまえ、動いていいのか?」

 幼い響きの声に呼び止められ、庭でよたよたとふらつきながら飼い葉を運んでいた少年の足が止まる。
 少年と呼ぶにはそれでもまだ少々早い、幼児をいくらか過ぎた程度と言ってもいい年頃の子供だ。……どこにでも居そうな容姿の普通の子供ではあったが、それが首や腕や脚、身体のあちこちに包帯を巻いた怪我だらけの姿で立ち働いている。
 その姿は、忍の住まう里と言えども、特異な光景だった。

「あ……っ、うん、……えっと、はい」
「そうか? まだ痛いんじゃないか?」
 そう声をかけた人物――こちらも負けず劣らず、まだ幼い少女だ――が少年に向かって身軽に縁側から飛び降りる。
 少女について歩いていた乳母らしき女が少女の行動を咎める声が庭に響いたが、その少女は一顧だにしない。庭を足袋のままで横切って、少年の側まで走り寄る。
 聞く耳持たないその姿に早々諦めたのか、全くお嬢さまはと独り言のように呟いて、乳母は溜息混じりに母屋に向かって縁側を歩き去って行った。

 駆け寄って来た少女は笑う。
「元気になったんだったら、なあ、私と遊ぼう? 動けるようになるのをずっと待ってたんだぞ」
 嬉しそうなその笑顔を見上げながら、少年は棒立ちのままで必死に記憶の糸を辿る。
 ――確かこの子は自分を助けてくれた子だ。全く動けなかった時に側で色々と話しかけてくれて、大人達に混じって看病の真似事をしてくれていた、少し年上の女の子。
「……あっ」
 数少ない見知った顔だと思い至って少年の顔が少し明るくなったが、その光はすぐに霧散した。
 この大きなお屋敷の大事な大事な一人娘なのだと、手当をしてくれた大人達が言っていたのを思い出したのだ。
 小さくてもこの子は偉い人で、失礼があってはいけない人。
 名前は……何と言ったか。

「……なんだ、どうした? 私がだれか分かんないか?」

 黒い瞳に真っ直ぐ見つめられ、少年は小さくうろたえる。

 思い出せ。早く。
 思い出さないといけない。早く。
 機嫌を損ねてはいけない。怒られてはいけない。早く早く思い出せ。
 じゃないと、また――

「あ、ああ、えっと……、えっと……キクさま」
「さまって言うな」
 ようやく思い出して呟いた言葉を不機嫌に遮られ、びくりと肩を震わせた少年は更にうろたえた。
「でも、だって、シツレイをしたらいけないって、おれ、」
「関係ない。おまえは私の『友達』なんだから、私を呼ぶのにさまって言ったりしちゃダメだ」

 トモダチなんだから。
 少女――菊が、どこか得意げに言い述べる。

「な、それよりなんでこんな所にいるんだ? それ馬のエサだな、馬小屋に行くのか? まだぜんぜんケガとか治ってないのになんで? ……まあいいや私も行くぞ、ゲタかなにか持ってくるからちょっと待ってろ!」

 幼い声で楽しそうに一気に言い置いて、菊は来た時同様に足袋で駆け去って行った。
 その場に残された少年は立ち尽くす。

(さまって言うな)

「……さまって言っちゃダメ、さまって言っちゃダメ……」
 履物を取りに行った後姿を見やりながら、口の中でたった今告げられた菊の言葉を小さく繰り返す。
 忘れないように。怒られないように。……もう、嫌われないように。

 大きく深呼吸をして、少年は菊の戻りをただじっと待つ。
 楽しげな足音が庭に軽く響く中、ただ立っているだけなのに胸の鼓動は早鐘を打っている。その脈拍に合わせる様に、何かが酷く痛んで辛い。

 ――痛むのは傷か心か、どちらだろう。



 少年の怪我は軽いものでは無い。
 大怪我をしているのに何故働かされているのか。部屋から出られる程度には回復したようだが、それを見た誰かが働けとでも言ったのか。――菊の問いに少年は首を振る。
「おれが、はたらきたいって言いました」
 死にかけた所を助けられた恩義に、幼い子供なりに気を使ったのだろう。そう周囲の大人達は思ったのか、まだ充分動く訳でも無い身体で手伝える事は無いか聞いてくる少年に、雑用に毛が生えた程度の小さな仕事を時折与えているらしい。

 命じられた訳では無いし、無理強いをさせられている訳でも無い。幼い上に怪我がまだ治りきっていない身だ。役に立てている事などほとんど無い。
 ――なのに何故、そんなにも立ち働こうとするのか。
 菊にはそれが不思議でならない。

「……ケガがちゃんと治ってからじゃないと遊べないのに……」

 何故この子は療養に専念しないのだろう。
 時折苦しそうな顔をするのは、きっと怪我が治りきっていないからだろうに。
 


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