雪中二花取(せっちゅうにかどり) (1) 今年の正月も、ここ一ヶ谷の里の葛木屋敷では、例年の如く新年の寿(ことほ)ぎの儀が行われた。 ただし、万事つつがなく円満に、という訳には到底いかなかった。ただでさえ雪の多い一ヶ谷の里なのに、その年の暮れは例年になく猛吹雪が連日続いて里への山道は雪に埋もれてしまって、訪れる者どころか、年の瀬に郷里へ帰って来る者さえも少なかったからだ。 大雪。 視界総てが白銀に染まった山間の里。 ――その人は、美しい顔を雪と憂いに曇らせて、絞り出すように呟いた。 「……お願いよ小太郎、菊と藤千代を、連れ戻して……」 ******************** 「今年の正月は寂しくなりそうだね……。太兵衛じいさんとこの息子も、茅野の関まではなんとか来たけど結局無理で引き返したって」 「そりゃあな、三軒先の家に行こうとして、大雪に惑った死人が出てるくれぇだから」 「秋津様も新年の御挨拶にはいらっしゃらないって御文が届いたしね。お体壊したばっかりで、こんな吹雪じゃねえ」 「ヘタしたら元旦も、軒下伝いに来れるモンしか集まれねえんじゃなかろうかの」 師走三十一、大晦日。 葛木家の敷地内に住まう者たちの話し声が、だだっ広い板間でこじんまりと響く。 玄関にほど近いこの板間で、葛木家子飼いの下忍たちが皆で集まって武具忍具の類を手入れするのが毎年恒例だったのだが、今年は隣家に出かけるのすら難儀する大雪のせいで人が全く集まらない。 葛木家の門番を長らく務めている伊之介と、屋敷の下女頭である須磨の夫婦。すったもんだの挙句にようやく元鞘に納まった彦左とこやの初々しさが無い若夫婦(※主にこやのせい)と、こやが以前の嫁ぎ先から連れ帰ってきた幼い娘。鉄砲の手入れだけは自分でやらねば気が済まないと全身雪まみれになりながら歯を食いしばってやって来た火縄隊の重蔵爺、――そして小太郎。 葛木家の敷地内に住み、もっとも間近く仕えている者たちだけが、此処に集まっている。 大きな火鉢を置いてはいるが、広々とした板間はしんしん冷える。その寒さをやり過ごしながら、集まった少数精鋭は武具の手入れを手分けして行っていた。 「人が来なくても、元旦の色々はやるもんなんですか?」 手を動かしつつも、疑問を述べたのは小太郎だ。 幼い頃は何をやるにしてもぎこちなかったが、今やすっかり慣れた手付きで鉄砲を解体し、手際よく掃除を進める良く育ったその背中は、忍軍一ヶ谷衆 濃紺揃(そろえ)の装束が良く似合っていた。 「どうだろなあ、今年はひょっとしたら御身内だけで簡単に済ますかもしらんぞ」 小太郎の言に重蔵爺が返す。 「うちの彦左が生まれたくらいの年もよ、やっぱりこんな大雪が降り続いたな。そん時は確か元旦の総軍行列が取り止めになったわ。人が集まんねえし、何より危ねえし」 何度雪かきしても大雪で門が埋まる上、下手に外に出るとそのままあの世に旅立ってしまいそうな天候では門番に立つどころではなく、何とも手持ち無沙汰な伊之介がため息交じりにぼやいた。そのため息に、こやのため息も大きく重なる。 「お方さまの晴れ着をさ、今年は新しくお仕立したんだよ……つわりしんどかったけど頑張ってさあ。お方さまはホント幾つになられても別嬪さまでお姫さまで、辛いなら無理なんてしなくていいのよなんてお優しくて、でも仮縫いで御着せしてみたら九郎様は何て仰るかしら、な――――んてめっちゃくちゃ可愛い独り言とか呟いちゃったりなさってたりで、あたしは元旦一発目からそういうのを世に広く知らしめるために頑張ったのにそれを見せられないとかさあ、もうホント……何この理不尽な天気」 こやの腹の中には今、彦左の子がいる。控えめな丸みを帯び始めた腹を優しく撫でつつも、こやの口から出るのは文句ばかりだったが、その反面表情は穏やかだ。――天気が相手では如何にこやとて分が悪い。穏やかさの半分は諦めで出来ている。 「それにいつもだったらもっと人も多くて賑やかなのにさ」 暖かな火鉢の真横をどんと陣取り、自らの手足代わりに夫である彦左を顎で使って掃除させながら、茶など飲みつつこやはさらに続ける。 「今年の正月はつまんないねえ」 「つまんなくねえよ、仕事残ってるだろ、働けよ」 すかさず入った彦左の言に、彦左のすぐ横へ行儀よく座っていたこやの娘が声を立てて笑う。 何故か未だに父とは呼んでもらえていないそうだが、子猫のように懐いてじゃれついている様子を皆で微笑ましく眺め――そしてやはり、誰とは無しにため息が漏れた。 外は大雪だ。窓の外に目をやると、一部の雲に薄く切れ目が入りかけているのが見えたが、鈍色の分厚い雲がその出来かけた切れ目をすぐに塗りつぶしてしまう。 「……本当、雪ばっかだな」 小太郎の独り言に対する応えは無い。 一ヶ谷の里の新年早朝の恒例行事、皆で初日の出を拝みに繰り出す御来光詣出は、雪の酷さを鑑みて早々に中止が言い渡された。山道の雪かき要員として叩き起こされず、ゆっくり朝寝が出来るのはありがたいが、初めての御来光を楽しみにしていたこの葛木家の一人息子――藤千代の事を思うと、小太郎としては複雑だ。 雪うさぎ、雪だるま、かまくら。 藤千代をはじめとした、屋敷の軒下くらいでしか遊べずに暇を持て余した子供たちのために色々と作ってきたが、雪遊びなどとうの昔に飽きられている。 常時なら仕事で方々に出ていて不在がちな父親たち―― 一ヶ谷衆頭目である九郎と、その側役である高次だ――が大雪で里へ入れなくなる事を懸念して、雪が本格的に積もる前に帰郷したおかげで、室内引きこもり暮らしであっても最初の内は問題無かった。 皆、普段なかなか遊んでもらえない父親たちに甘えてまとわりつき、退屈など知らぬような顔で大変に楽しそうだった。小太郎も、今年は良い冬だなあなどと、子供たちの明るい歓声を聞きながらのんびり思ったものだった。 ……だが、子供たちの底無し体力を前にまず九郎が白旗を上げた。高次は律儀に全員と遊んでやっていたが、そもそもがそんなに懐かれていなかった事と、ままごとの才能があまり無かった為に実の娘二人からも早々に見限られてしまい、結果、誰も得をしないような悲しい結末を迎えてしまって久しい。 ごっこ遊びやままごとの才能が少なからずあった九郎の部屋の襖(ふすま)には、 「よわい十よりしたのもの はいるべからず」 と、読みやすくも並々ならぬ意思を込めてしたためられた紙が、絶対剥がれないように貼り付けてある始末だ。 そんな葛木家の皆や高次を含んだ真島家の面々は、明日の言祝に備えた用意も終わり、もうすっかりくつろいでいる頃合いだろう。 (……菊、今何してっかなあ) あの大喧嘩と大立ち回り以来、菊と小太郎の仲は微妙に絶妙な感じになった。 最近の菊はやけに優しいしやけに小太郎にくっついてくる。 子供の頃のようによく笑ってよく喋って、そしてどうしてだか昔よりやけに可愛く小太郎の目には映る。 菊は髪も身体も良い匂いがする。だから必要以上に近付かない方がいいと小太郎は考えている。じゃないとなんか良くない気がするし正直に言うとものすごく簡単に一線超えそうになるから出来ればあんまり近付かないで欲しい。 一度、寝ようと思って何気なく自分の部屋の戸を開けたらどうしてだか菊が小太郎の布団で寝ていて、部屋を間違えるにも程があるだろと笑いながら起こしてやった事があった。 菊を部屋に見送った後でよくよく考えて、この件に関しては帰したらダメなやつだったのではと布団の上でもんどりうって後悔したが、明朝一番、この上なく良い笑顔の高次に、首を落とす時は痛みの無い様にしてやるからな……と低く呟かれて以降、菊とはしばらく清い関係でいようと小太郎は心に決めた。 尚、その後菊が高次と大喧嘩をしたようだが、詳しくは分からない。そんな風に育てた覚えはありません云々、お前は私の父親か云々、慎みなんてクソ喰らえだ云々聞こえてきていたが、詳しくは分からない。 けれど陽がある内ならば、人がいる所で会って立ち話するくらいはお目こぼしの内だ。 武具忍具や鉄砲の手入れも含め、小太郎が年末の内に片付けておくべき事はすっかり終わった。周囲の皆もすっかり片付けを終わらせていて、こやなどは皆でつまむ茶菓子を用意しにか娘を連れて厨房へ立って行った。 屋敷のお嬢様へ今年最後の挨拶をするついでの態(てい)で、顔を見に行こうと小太郎も腰を浮かしかける。 ちょうどその時だった。 「小太郎ー! もう終わったー?!」 軽い足音が板間に響き、藤千代が小太郎目がけて駆け寄ってきた。その後ろには、苦笑を浮かべつつもやはり軽い足取りで菊が付いて来ている。 別に二人きりになれなくたって、小太郎は構わない。顔を見て話が出来るなら、タガが外れやすい年頃の男子的にはむしろその方が有難い。 腕の中へ勢いよく飛び込んできた藤千代を受け止めて抱き上げ、その後ろに立つ人に向かって小太郎は大きく笑う。 「俺も会いに行こうと思ってた」 その言葉へ返ってきた菊の笑顔も、小太郎と同じように明るい。 これが、大晦日の話。 ******************** 元旦は、風が強くはあったが、昨日までの大雪が嘘のように快晴だった。 集まった者たちは例年より少なかったが、元旦言祝の儀はつつがなく粛々と終わった。 葛木家当主正妻たる菜津の晴れ着姿は、歳を重ねて尚見目麗しく、こやは新年早々良いものを見たと大はしゃぎし、――そして母同様に着飾った菊の美しさもひとしおであった。 長く伸ばした黒髪を白の元結(もとゆい)でひとつに結って背に流し、母から譲り受けた瑠璃紺地の打掛の裾を鮮やかに捌きながら広間の上座に現れた菊は、麗しい姫君でありながら若武者の如き凛々しさの方が強く、性差の混在した不思議な佇まいで集まった人々の視線を惹き付けた。 下っ端の下忍である小太郎は、葛木家の面々と誰より身近に接しているとはいえ、実際の身分は単なる若輩者に過ぎない。大広間の一番後ろから眺めた菊は、疎い小太郎が遠目から見ても随分と美人だったが、それについて声をかけるような暇(いとま)はなかなか無かった。 儀礼中に時折何度か目が合って、その都度早く褒めに来いとでも言いたげな笑みを送られるのはなかなかの圧だったが、衆人環視の中ではそれも難しい。 命も惜しいし後でしっかり褒めに行こうと小太郎は心に決めて、上座で父の隣にきちんと座して一人前の顔をしている藤千代と、そのすぐ後ろ、まるで藤千代の側役かのように控える菊を誇らしいような気持ちで見守った。 快晴ではあったが、前日まで降り続いていた雪は深い。 本来ならば元旦は、葛木家先祖代々が眠る墓所まで忍軍一ヶ谷衆三番隊を先頭に、一番隊までが列を成して練り歩くのが常だった。 だが、綺麗に雪かきしてもどうせすぐ埋まるし今山の中へ行くと多分死ぬぞとの九郎の判断で、葛木本家の屋敷からうねりつつ続く大通りの五町(※約0.5q少々)程度のみを里人総出で雪かきし、道を整え、軒を連ねる上忍家屋敷前を練り歩いて簡潔に終了と今年は相成った。 小太郎も今年は三番隊の末席として、初めて行列に参加した。 晴れ舞台の距離が例年よりもうんと短いのは残念だったが、真新しい濃紺の忍装束に袖を通して皆の前に立った時の高揚感と喜びは何物にも代え難く、小太郎はその事にばかり気を取られていた。 組頭の号令と共に屋敷の正門を出発する間際、子供らしい大きな声で小太郎の名が呼ばれ、振り返ると、打掛姿の菊に抱き上げられた藤千代が玄関から一生懸命に手を振っているのが見えて。 「行ってきます!」 小太郎も、二人に向かって大きく手を振り返して。 そして武者行列を終えた小太郎が意気揚々と帰って来た頃には、二人の姿は屋敷から消えていたのだった。 ――……これが、元旦の話。 |