純情、とまどい、乱れ髪 (2)




 菊は大層面白くなかった。
「何なんだあれは…………!!」
 離れに続く渡り廊下の物陰、山盛りの饅頭を盆に乗せ手に持ったまま、角に隠れるような形になりながら菊が歯軋り混じりに呟く。

「何で! 小春どのの部屋に! よく分からんような格好で小太郎が居るんだ……!」
 上半身裸の小太郎が何やらニコニコとしながら縁側に座っている所を母屋側の遠くから見つけ、声を掛けようと、こちらも笑顔を浮かべて近寄って行こうとしたまでは良かった。
 小太郎が笑みを向けている相手が小春なのも別に良かった。良かったのだ。
 小春は菊とも気安い仲だし、そんな事は全く気にならない。菊のその満面の笑みが凍ったのは次の瞬間だった。

 何事か会話していたらしい小太郎が急に立ち上がり、真剣な面持ちで針仕事中らしき小春に駆け寄って行ったのだ。
 そのまま熱っぽく小春の肩を掴み、押し倒すまでは行かずとも、そのままの態勢で二言三言何事かを真剣な面持ちで言い交わし――……菊の所からは会話までは聞こえなかったが、最後にはわざわざ小春に着物を着せてもらって、大人びた笑顔を浮かべつつ、小太郎は部屋から出て来たのだ。
 ――菊としては、何やってんだの極みである。

 小太郎が喜ぶ顔を見たくて頑張ったようなものなのに、当の本人は年上の可愛いおねえさんとよろしくやっている。高次に何故かベタ惚れである小春との仲を疑う訳では決して無いが、菊にしてみれば面白い訳が無い。
「せっかく作ったのに」
 ふと見れば、前掛けをしていたにも関わらず、菊の着物は饅頭の材料であちこち薄汚れて粉っぽい。慣れない事をした所為か、たすきがけをして袖をまくり上げた腕どころか肩にも粉が飛んで付いているし、この分では顔にも飛んでいる事だろう。嫁いで来たばかりで未だ充分愛らしい小春と見比べて、菊は急に粉まみれの自分が恥ずかしくなった。
 鼻の奥が何故かツンと痛み出す。
 山盛りの饅頭が、急に重みを増した気がした。
「何やってんだ、私は……」
 母屋と離れを繋ぐ渡り廊下の薄暗がり、人気の無い寂しい場所で、菊は俯いてそのまま一人立ち尽くす。


「――美味そうなもん持ってる人がいる」
 だから、小太郎が近寄ってきても声を掛けられるまで気が付かなかった。
「……っ!」
「はは、ビックリした? て言うか菊、こんなとこで何してんの?」
 渡り廊下で立ち尽くしていた菊を、いつの間にこっちに来ていたのか、小春と別れて庭に下りていた小太郎が見上げていた。
 菊の立つ渡り廊下は、地面から大体大人の腰程度の高さだ。菊の足元近くに肘を乗せるような格好で寄りかかりながら、小太郎が菊を見上げて再度口を開く。
「……今日二回目だなあ」
「に、二回目って何の話だこのバカっ」
 憎まれ口が反射的に菊の口を衝いた。
 不意打ちの所為で頬に血が上ったのが自分でもよく分かったが、饅頭で両手が塞がっていて隠す事もままならない。ツンと顔を背けて視線を逸らしながらの菊の言に、小太郎は苦笑交じりに呟いた。
「菊に気付いてもらえなかったの」
 その言葉に驚いた菊が小太郎に顔を向けると同時、目を合わせ、小太郎は小さく笑う。
「俺、最近菊とゆっくり話してない気がする」 
 庭から手を伸ばし、立ち尽くしていた菊の着物の裾を小太郎がつまんで引っ張った。
 笑んだその目元はいつもよりもどこか大人びて見えて、それはひどく優しい光を湛えている。
 それは、先程小春に見せていたのとは違う色の笑みだと――……この少年が、自分にだけ見せる笑みだと、ふと菊は気付く。
「それ誰かへのおつかい? ……用事が終わるまで、俺ここで待っててもいい?」

 その所為だろうか。
 気が付けば、菊の口からは至極素直な言葉が漏れていた。

「……これは、お前が喜ぶかと思って、作ったんだ」

 その言葉に対する小太郎の反応は、見慣れたいつもの大はしゃぎだったが。



 自分が作ったものを美味しそうに食べてもらえるのは、とても幸せな事だと祖母は言っていた。
 今ならその気持ちが良く分かる。
「……美味いか?」
「ウマいです! これすっごい美味い! すごいな、菊はホント何でもできるなあ」
「いいから、ほら、落ち着いて食べろ」
 先程まで立っていた、渡り廊下の端。
 真ん中に山盛りの饅頭を乗せた皿を挟み、二人で肩を並べて座ったそこで、菊は取り澄ましてそう告げた。気を抜くと緩んでしまいそうな頬を理性でどうにか押さえ、大喜びで饅頭をがっつく小太郎の頭や顔を犬の子にするように撫で回したい欲求を必死に我慢し、殊更に澄ました声音で更に言う。
「まだたくさんあるし、これは全部お前が食べていいんだからな」
「やったああああ!!!」
 小太郎が諸手を挙げて叫ぶ。
 子供らしい快哉を無邪気に叫び、ほんの一瞬だけ黙って、そして楽しそうに肩を揺らして笑った。
「どうした?」
「嬉しいから」
「叫ぶくらい美味かったのか?」
 それは良かったなと真面目な顔で頷いた菊に目を合わせ、それもあるけどと小太郎が笑って呟く。
「菊と久しぶりに一緒だからだよ」
 その笑みは、媚も偽りも一切無い、純粋な好意に満ちていた。
「――俺、菊と一緒にいるのがやっぱり一番いいや。楽しいし、なんか気持ちがいい」
 廊下に差し込む日の光を受けて、鳶色に澄んだ小太郎の眼が菊をまっすぐに見つめている。至近距離で見つめあう形になったお互いの姿を、互いに相手の瞳の中へ見つけた時、小太郎の顔に浮かんでいた笑みが不意に消えた。
「俺はずっと菊といたい」
 小太郎の真摯な視線は菊を捕らえて揺るがない。その声は、静かだったが強かった。
 菊と小太郎、並んで座った二人の距離が、ずいと身を近付けた小太郎によって更に狭まる。廊下の床に置いた指が触れ合うような至近距離で、小太郎は問いかけた。
「菊は、どう思ってる?」

 いつになく真面目な目が、吐息のかかるような間近さで菊を見つめていた。
 小太郎の目線はもう菊と同じ高さにある。いや、それよりもいくらか高い。手も、きっともう自分よりも大きくなっていて、本気で掴まれたら振りほどけないだろう。
 ――そんな事を考えた刹那、菊の心の臓がどくんと大きく波打った。
「どう、って」
 顔がにわかに熱くなる。耳の先まで熱を帯び始めたのが、触れなくても分かる。
 小太郎が答えを待っているが、菊の舌は上手く回らない。私も同じ気持ちだと軽く一言言ってやりたいのに、何故か声がかすれて上手く出ない。
「どうって、どうもこうも。俺は菊と一緒にいたいんだけど、菊は?」
「あ、ああ、そうか、そうだな」
 再度問いかけてくる小太郎の声は純粋だ。その問いの意味を考えて、菊はますます口ごもる。

 この質問は、菊が期待している通りの意味を持った質問だと捉えていいのだろうか。
 それとも今までと同じような調子の、幼馴染に抱く連帯や結びつきの意識から出た、他愛なく子供じみた質問なのだろうか。
 共に長くを過ごした、姉弟と変わらない幼馴染に向ける言葉にしては違う熱を帯びているような気がして、しかしそれは単に自分の期待に過ぎないような気もして、菊の言葉はますます喉で絡まりを見せた。

「……わ」
 口を開きかけた菊の顔を、小太郎がじっと見つめている。
「私、は」
 何故自分はこんなにも緊張しているのだろう。
 渡り廊下の片隅で、二人で座って、ただ話をして――……些細な、今までにも日常的にあった事だ。こんな風に狼狽しなければいけない要素など、どこにも無いのに。
「菊?」
 顔を赤く染め、俯いて黙り込んでしまった幼馴染の名を、怪訝そうに眉根を寄せた小太郎が呼ぶ。しかし、返事は無い。
 小太郎の声は、菊の真っ赤な耳を素通りし、廊下の陽だまりに溶けていく。




「あれっ、二人ともどうしちゃったんですか?」
 ――と、そこに明るい声が響き渡った。事情を知らない無邪気な笑みと共に現れたのは、湯飲みを乗せた盆を携えた小春である。
「――ッ!」
 小春に驚かせるような他意はなかったが、菊の背筋はその声にビクリと跳ね伸びた。
「折角のおやつですからお茶淹れてきましたよー、はいっどうぞ!」
「あっすいません、ありがとーございます」
 別に気配を消して近付いてきた訳では決してなかったが、小春のその接近に全く反応できず、今もまだ固まったままの菊に代わり、小太郎が笑んで立ち上がって両手で盆を受け取る。
「俺、今日は小春さんに世話になってばっかりだなー」
「たまにはいいじゃない。ねー、菊様」
「へっ? ……あ、ああ、そう、そうだな!」
 同じ女である菊から見ても、小春の笑みは愛らしい。今までのやりとりを見られていたのかという気恥ずかしさと、肩口からさらりと揺れた小春の髪の、清楚な艶やかさとふわりと香ったそれに変な動悸を感じながら、菊は慌てながらも曖昧に頷いた。

「……良かったね、小太郎ちゃん。菊様と一緒に居られて」
 その言葉は、先程の着物の修繕の際、小太郎と二人で交わしていた会話の流れを受けたものだ。さっき自分と一緒にいた時よりも格段に明るく嬉しそうな小太郎に対し、小春が笑顔を投げかける。
「うん!」
 その笑みに小太郎も、とろけ落ちるような満面の笑みで返す。
 そして小春はお茶を置いて、栗色の長い髪を揺らしつつ、軽やかに去って行った。
 きちんと手入れされ、丁寧に結われて揺れる髪の軌跡を目で追いながら、菊は小春をじっと見送る。

「今日俺さ、小春さんにすっげー世話になったんだ。菊からも後でお礼言っといてね」
「そ、そうか……分かった」
 お茶を吹いて冷ます小太郎を、菊は揺れる視線で見つめている。
 去って行く小春と自らを何となく見比べ、そしてもう一度小太郎を見やる。
「着物のここんとこを今日破いて、小春さんがそれを縫ってくれて、そんで今度師匠のお下がりくれるんだって」
「……そうか、良かったな」
「うん!」
 小春が高次の元へ嫁いで来て以降、小春は菊にとって一番身近な『年頃の娘』だ。
 もう人妻なので娘と呼ばわるには少し語弊があるが、忍仕事とは何の関係の無いごくごく普通の娘の中で、一番菊の身近にいるのが小春である。剣を握る事も無ければ泥にまみれながら野山を駆け回る事も無い、普通の娘。
 長くきれいに伸ばされた髪や、身にまとう優しい空気。愛らしい笑顔と、荒さの無い言葉遣い。――小春は、菊に無い女らしさの要素をたくさん持っている。
「あ、お茶めっちゃうまい」
 饅頭で喉が渇いた絶好の時機でお茶が来て、さっきの真面目な問答の事はすっかり頭から消えたのだろう。小太郎は先程の真顔はどこへやら、のほほんとした様相で無邪気にお茶をすすっている。
 そんな小太郎を菊は、自身の肩口までしかない短い髪の毛先を弄りながら、どことなくもじもじとしながら見つめていたが、やがて意を決したように口を開いた。

「……小太郎も、やっぱりああいうのがいいのか?」
「あーいうのって?」
「ほら、小春どのみたいな感じの」
「みたいな感じの?」
 別に遠回しでは無いと思うが、小太郎には菊の意図が伝わらないらしい。小太郎が鈍感なのを忘れていたと、菊は更に口を開く。
「だから」
 きょとんとした面持ちで、小太郎は言葉を紡ぐ菊を見つめている。
「私も、髪を伸ばした方がいいか……?」

 ――その途端、小太郎の顔色が変わった。

「駄目だ!」
 叫ぶ。
「何言ってんだ菊! 絶対ダメ!!」

(菊様がお嫁に行っちゃったら、もっと寂しくなるね)
(菊様はまだ若いし髪も短いし、短い髪じゃ嫁がさないだろうし、――)

 先程小春が言っていた言葉が、小太郎の脳裏に木霊のように響き渡る。
 髪が伸びたら菊は大人になる。しかし今はまだ髪が短い。だからこその、“まだ子供”なのだ。
 故に今は大丈夫。もうしばらくだけは、菊は小太郎と同じく子供のままでいてくれる――
 そう漠然とながらも抱いていた安心を一気に潰えさせる破壊力の菊の一言に、小太郎の口調は必死になった。
「絶対ダメだよ! 髪伸ばすとかそんなの絶対やめた方がいい! まだ早い!」
「ちょっと待て、お前何でそんな」
「とにかくダメだ!」
 いきなりの豹変に菊が驚いて目を瞬くが、必死の形相で小太郎は更に言い募る。
髪が長くなれば、菊は嫁に行ってしまうかもしれない。そうしたらもう側には居られない。こうして二人で並んで座って茶を飲むような事は、望むべくもなくなるだろう。
「何で急にそんな事言い出すんだよ……やめてくれよ」
 さっきの質問に菊からの返事が無かった事を今更ながらに思い出す。今までだったら一言気軽に肯定をくれていただろうに、今回はそれが無かった。
 何故、と胸中に疑問が渦巻くと同時、小太郎の不安に拍車がかかった。頭の中がぐるぐると回る。湯飲みが倒れ、小春が淹れてくれた茶がこぼれていたが、動揺しきった小太郎はそれにも気がつけない。
「おかしいぞ、何でそんな、急に」
 考えるよりも早く、言葉は口から飛び出した。

「長い髪なんて、菊には絶対似合わない……!」


 声がやけに大きく響いた後の、暫しの沈黙。
 永遠に続くかと思われた重苦しい静寂を破ったのは、菊だった。
「そうか」
 笑顔だった。
「……うん!」
 満面に浮かんだ菊の笑みにつられ、小太郎も安堵しつつ笑って頷いた。
「私には似合わないか」
「うん! そう!」
 どうやら分かってくれたらしい。ホッと胸を撫で下ろし、嬉しくて小太郎は笑み崩れる。
 だがその瞬間、笑んでいた筈の菊の視線が、恐ろしく冷たい殺気を孕んだ。
「そうだな、どうせ私は男女だ。似合わないだろうよ」
「そう似合わない!! ……え? あれ?」
 空気がおかしい、と小太郎が気づいた時にはもう遅かった。

「しかしそこまで否定される云われは全く無いわこの大馬鹿者が!!!!」
 屋敷を揺るがすような大音声が轟き、それと同時、小太郎の視界が宙に浮く。
 ――……浮いたのではなくふっ飛ばされたのだと気付いたのは、胸倉を捕まれて投げられた自分の身体が、庭の生垣を破壊粉砕しながら頭から突っ込んだ後だった。

「もういい分かったもう決めた! 私は今日から髪を伸ばす! お前の言い分なぞクソ喰らえだこのバカ太郎!!」
 鮮やかに見事に小太郎を背負い投げた菊が、今までに見た事の無いような怒気を全身に漲らせ、猛々しく着物の裾を翻す。
「ちょ……菊、待っ……」
「うるさい黙れ! もう知らんぞ! も――知らないんだからな小太郎のバカ! アホ! 覚えてろ!!」

 そして何をと小太郎が問う間もなく、菊は短い髪を揺らして母屋の方へ、荒い足音と共に去って行った。
「まずい……怒らせた……」
 騒動を聞きつけ、何だ何だと家人が集まってくる。母屋の方からは、菊が髪結いを呼べと怒鳴り上げている声が聞こえてきた。
「――……けど、何でこんなに怒ったんだ……?」
 逆さの格好で頭から生垣に刺さったまま、小太郎がボソリと呟く。女心が分からない小太郎に、その理由が分かる筈もない。

「どうしよう、許してもらうの時間かかるぞ、これ……」

 呆然としながら逆さに見上げた空は、やたらと高く青かった。
 

―― 終






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