純情、とまどい、乱れ髪 (1)



 赤々と薪の燃えるかまどの上に、トンと乗せた大きな蒸篭
(せいろ)
 その蓋の隙間からは、絶えず真っ白な湯気が吹き出している。

「さあさあ菊さま、出来ましたよ」
「おお……」
 義祖母の声と共に蒸篭の蓋が開けられ、湯気が一層もくもくと立ち上った。
 葛木家の広い厨房の土間を半ば覆うように勢いよく立ち上る白い湯気に、返事とも歓声とも付かない神妙な声を上げたのは、この家の一人娘で、女子でありながら次期頭目とされている菊だ。今日はいつもの少年のような道着姿ではなく、明るい色の小袖にたすきを掛けて袖をまくり、未だ肩口までの長さしかない幼い髪を、豆絞りの手ぬぐいで覆って前掛けを付けた、滅多に見ない格好をしている。そして大変に真面目な顔付きである。
「動かしますからね、熱いから、離れてて」
 大きな蒸篭を両手に持ち上げ、湯気の向こう側から響いてきた義理の祖母――シエの声は明るい。シエも菊と同じように、前掛けとたすきがけの出で立ちだ。
「おばあさま、手伝う事は」
「大丈夫ですよ、ちょっと待っててね」
 シエは今は亡き先代頭目の後妻であり、菊は次代の頭目と目されている身である。そんな二人が袖をまくって厨房に立つなど普段では在り得ないし、そんな必要も無い。葛木家は厨房のみならず多くの下男下女を使う家であるし、実際今も厨房の大部分では夕餉の仕込みか忍仕事に赴く者達の兵糧に使うものかを作るため、幾人かの下男下女達が忙しく働いている。人手が足りない訳では決して無い。
 ――では、下人たちに入り混じって、菊とシエは一体何をしているのか。

「ああ、でも本当に嬉しいわ」
 シエの笑んだ優しい目が、皺に埋もれながら柔らかく細められる。
「菊さまから、台所の事を教わりたいだなんて言われる日が来るなんて……!」

「大袈裟です、おばあさま。私はただ、武芸や読み書きだけでなく、色々何でも出来た方が将来的にも都合がいいだろうと思って」
 蒸篭から溢れ出ている湯気を避けつつ、大真面目な顔で手ぬぐいを直しながら菊が言う。そんな菊に更なる笑みを向けながらシエが紡ぐ言葉は、湯気と同じように温かい。
「だってねえ菊さま、道着をまとって竹刀を持って道場に立ってるあなたもそりゃ格好いいけど、私はやっぱり、女の子の格好をしている菊さまの方が好きなんですもの」
 シエと菊に血縁は無いが、自分の息子――高次の事である――に嫁は来ないものと半ば諦めかけていたシエにとって、菊は自分の孫も同然である。九郎や高次の教えを受けて凛々しい姿を見せるこの子供を、シエは頼もしくも可愛くも思っている。
 ……が、やはりそれと同時、普通の武家の普通の女だったシエからみれば、せっかくの女の子なのだから女の子らしい格好をして、女の子のする事をして欲しいとも思っていたのだ。
 そこに、この思ってもみなかった申し出である。シエは、孫同然の菊と共に台所に立ち、そして台所のあれこれをこうやって間近で指南できる事が嬉しくて仕方がない。
「……この一ヶ谷に来るまで、真島の家は本当に貧しかった。私は毎日一生懸命いろいろ工夫して、どうにかこうにかお料理をこしらえて、何とかあの子に――高次に食べさせていたの。だから婆は、お台所の事と包丁が得意なんですよ」
 頑張ってもご飯が食べられない日もたくさんありましたけどね、と付け加えた声は、当時の苦労を思い出したのかほんの少しだけ掠れていた。だが顔を覗き込んできた菊を見てふと我に返ったのか、すぐに笑顔を浮かべて口を開く。
「さて、味見をしましょうか?」
 明るく響いた声に、菊も笑って頷いた。


 祖母の節くればった指が、ほかほかに柔らかく蒸されて湯気を立てる饅頭を、時折熱そうにしながらも割っていく。饅頭の中身は、葛木家の厨房に長く仕える包丁頭が、菊様がこしらえるんならと戸棚の奥から特別に出して来てくれた甘葛
(あまずら/甘味料)入りの黒ごま餡だ。中のつややかな餡が見えた途端、黒ごまの香ばしさの混じった甘やかな香りが湯気に乗り、菊達の鼻腔にふわっと届く。
「ほらほら菊さま、これが菊さまが作った奴ですよ。中までしっかり出来てるわ」
 真ん中からほかりと割られた饅頭の断面、とろけ落ちそうな熱々の黒ごま餡は、これの作り方が知りたいと菊がシエに特に頼み込んだものだ。茹で小豆にたっぷりの黒ゴマと甘葛を入れてよく擦りあげたそれは、出来立てでふわふわとした饅頭の、純白の皮の中で見るからに甘やかな艶を見せている。簡単で素朴な蒸し饅頭だが、見た目と香りは悪くない。
 お嬢様育ちの――否、若様育ちの菊の初挑戦にしては、上出来だ。
「やった!」
 大人びて取り澄ました普段からは想像のつかない、年相応の可愛らしい声を珍しく上げた菊に、厨房に居た全員が振り向いて笑う。

「はいどうぞ」
 一息二息吹きかけて冷ましたのち、シエの指が一口の大きさにちぎった饅頭を菊の口に放り込む。そして、菊が小さな口を熱そうに大きく動かすのを見ながら、自分も同様に一口ちぎって頬張った。
「あらまあ美味しい。菊さまは何でも上手ねえ」
「ほんろーれすか」
「お世辞じゃないですよ。ねえ?」
 熱いものを頬張っている所為で呂律が回っていない菊に対し、シエに声をかけられた翁が厨房の隅からゆっくりやってきて、そして饅頭を一口分押し戴いて口に入れた後で大きく頷いた。
「お嬢さま、こりゃあ上手に出来てますな」
「本当か?」
「儂ァここの包丁頭です。左足壊す前は、先代に付いてまわって戦場を駆けてました。不味いもんに美味いなんて言う不実も、大恩ある葛木家の方へ吐く嘘も、このじじいは持っておりませんぞ」
 戦道具から包丁へと武器を持ち替えた、異色の経歴を持つ翁が笑顔で言う。
「奮発して甘葛を出した甲斐が、ありましたの」
 その皺だらけの笑顔につられるように、菊も大きく微笑んだ。



 黒ごま餡の饅頭は、今はもう嫁に行ってしまってこの屋敷にはいない、菊のねえやがよく作ってくれていたものだ。ねえやが作るものは甘味の素として屋敷の裏山で採って来た蜂蜜が入っていたが、今日のこれは蜂蜜よりもクセが無く、もっと上品な甘さを持つ甘葛入りである。
 あのねえやの作った饅頭にも、味はきっと負けていないに違いない。
「――……よし!」
 後片付けは皆が請け負ってくれたので、出来立てを皿に載せて菊は早速母屋へと小走りに駆け出した。
 皿の上には、暖かな湯気を立てる饅頭が山盛りだ。
 その内の一つを、第二子を孕み、腹がゆったりと幸せな丸味を帯びてきた母――菜津へと差し出す。

「菊が作ったの? これを? まあ……!」
 若い頃に怖い目に遭ったらしく、それ以来滅多に里の外には――むしろ屋敷の敷地からもあまり出ない菜津の居場所は、毎日ほぼ決まっている。菊は迷う事無く母の部屋に饅頭を持って駆け込んで、皿を差し出した。
「まあまあ上手に出来てるじゃない。おばあさまに教わったの? あらそう、そうなの、素敵ねえ」
 大きな腹をさすりながら、菊から早口の説明を受ける菜津は心底嬉しそうだ。
 娘が娘らしい事をしたのが本当に嬉しいのだろう。もらった饅頭を早速神棚に上げると言って腰を上げた菜津を、菊は待って待ってと必死で押し留める。
「今すぐ、食べてみて欲しいんだ」
 柔らかな湯気を立てる饅頭を、笑顔の菜津が上品に食すのを見つめる菊の眼差しは、常になく真剣だ。そんな菊が見守る中、一口含んで飲み込んで、菜津が笑む。
「ん、とても美味しい。見た目も綺麗に出来てるし、初めてとは思えないわ」
「……本当に?」
「本当よ。あら、これひょっとして甘葛が入れてある? こやがよく作ってた蜂蜜入りのも美味しかったけど、これも素敵」
「ホントーの本当に?」
「もう! 本当ですって! 全く、あなた何をそんなに――…………って、ああ」
 訝しげに首を傾げたのも束の間、合点がいったという様に、菜津の両の手の平がぽんと鳴った。
「……そうねえ、そういう事なら味見役が欲しいわよねえ、あーハイなるほどねえ」
「……母上?」
「ねえ、初めて作ったんなら心配よね。あなた基本的に見栄っ張りだから、失敗作なんて食べさせたくないのよね。そうね、これなら心配しなくて大丈夫よ、こやのにも負けてないわよ」
「いやいやいやいや何言って」
「父上も高次どのもお留守なのに、どうしてこんなに沢山お饅頭を持って来たのかしらとは思ってたのよねえー、ねー?」
 腹の子に楽しそうに語りかける菜津の目は、母親と女との両方を含んだ優しい色をしている。
「母上っ、何言っ、ちょっ」
「ほら冷めない内に持ってってあげなさい、さっき離れに居るところを見たから、今行ったらちょうどいいんじゃないの?」
 そして笑う。

「安心しなさい。小太郎は絶対美味しいって言って、喜ぶから」



*
*
*
*


 
「じゃあ、そこに座っててね」
 若奥様らしく前掛けを着けた小春が軽やかな声で示すのは、裏庭に面した縁側だ。
 葛木家の敷地内ではあるが、菊達の居室のある母屋から見れば離れに位置するその一角は、小春を妻に迎えた高次が今現在の生活拠点としている場所だ。
 そこの縁側にちょこんと腰掛けているのは、上半身裸で、最近すっかり窮屈になってきた筒袴だけを身に着けた小太郎である。
「これくらいの破れならすぐ直せるから。ちょっとだけ待っててね、小太郎ちゃん」
 部屋の中、針箱を開けながら笑う小春に、小太郎も笑んで返す。
「すみません、忙しいのにありがとーございます」
「いいのいいの、お夕飯の準備まではまだちょっとあるし、私、針仕事は得意だし。それよりなんてったって小太郎ちゃんは私の恩人なんだからね、遠慮なんかしないで!」
 小春の生家は呉服問屋だ。そのせいか、針と糸を手繰るその仕草は手馴れていて淀みが無い。ねー、と明るく笑う小春と目を合わせ、小太郎も思わず笑う。
「……いつもだったら菊に頼んで直してもらうんだけど、今日はなんか忙しいみたいだったから」
 菊が忙しいのはいつもの事だが、数刻前に見かけた今日の菊はどことなく鬼気迫っていて、声をかける事すらはばかれた。大抵は声を掛ける前に向こうも気付いてくれるものだが、今日は見向きもされなかった。そしてそのまま菊は小太郎に気付きすらせず、屋敷内のどこかを目指して足早に去って行ってしまったのだ。
 ――うっかり引っ掛けて肩口を大きく破った情けない姿で、どうしよう誰に縫ってもらおう……と小太郎が考え込んでいたそんな所へ、たまたま通りがかった小春が声をかけたのが、今回のこの発端だ。

「俺、外に着ていける物ってこれくらいしか持ってないんで、ホント、なんて言うか助かります」
「全然! あ、そうだ。高次様のお古でまだ十分綺麗なのがあるから、解いて仕立て直してあげましょうか。小太郎ちゃん育ち盛りだし、ちょっとくらい大きめでも大丈夫よね?」
 弟へ世話を焼くような小春の声に、小太郎は笑みを返す。……菊とはまた違った『姉』のかたちだと思いながら。
 助かります、いいよ気にしないで、という二回目のやりとりをして、小春は笑みながら手元へと視線を戻していった。細い指が持った針が滑らかに動き出す。

 親が居らず、菊以外に後ろ盾と呼べるものの無い小太郎には、着替えを準備してくれるような大人が居ない。もし菊から見放されたら、この里の中に居場所と呼べるものは無くなるのだろう。
 小太郎にとっては菊の側だけが自分の家であり、居場所なのだが……
「菊……何で俺に気付かなかったのかな……」
 独り言が口から漏れる。
「菊様が小太郎ちゃんに気が付かなかったの? 珍しいね、ちゃんと声かけた?」
「……」
 独り言への小春の問いかけを、小太郎は曖昧に笑ってやり過ごす。

 自分の手足が急激に伸び始めたのと同時に、菊との距離も微妙に離れ始めたような空気を小太郎は感じていた。
 ――いや、感じていたのは、離れなければいけないような空気だった。
 菊はあまり気付いていないようだが、周囲の大人達は以前よりもずっと二人の仲に厳しくなった。菊からの接触はまだ黙認されている節があるが、小太郎から菊への場合は違う。最近ではただ会話するだけの事も、何となく人目を気遣う必要があった。
 身分の差はこれまでも二人の間にあった物だが、最近の小太郎が強く感じているものは身分差ではない。
 強く感じている――否、周囲から感じさせられている、隔たりの正体は何なのか。小太郎の中で微かながらも確実に燻っている疑問の、確固たる答えはなかなか出てこない。

「寂しいね」
「えっ」
 不意に小春が発した言葉に、物思いに沈んでいた小太郎の意識が浮上する。
「最近は道場にいる時くらいしか一緒に居られないもんね、菊様と。ちょっと前まではいつも一緒に居たのにね」
 同じ屋根の下で暮らしているのに、意識していないと中々顔を合わせる機会もない。
 ……頭目の一人娘と単なる下忍見習いでは、致し方も無い事だが。
「菊様がお嫁に行っちゃったら、もっと寂しくなるね」
 そう、気付いてもらえなかっただけでもこんなに寂しかったのだから、菊が嫁に行ってしまったら、きっと、もっと――……

「ヨメぇ?!」
「きゃあ!」
 叫んだ。
「ええええええ菊ヨメに行っちゃうの?! うそ!? えっ、やっ、ええええ?!」
 縫い物をする小春に向かって縁側を駆け上がり、詰め寄りながら小太郎が更に叫ぶ。
「おっ俺その話全ッ然知らないんだけど!」
「まっ待って待って小太郎ちゃん待って!! 今すぐじゃなくて、そのうちって言う意味で言っただけだから!」
「そのうちってでもヨメって! それいつ? それっていつ?!」
「待って! 落ち着いて! 大丈夫すぐじゃないよ! 菊様はまだ若いし髪も短いし、短い髪じゃ嫁がせないだろうし、だからそんなすぐじゃ! だから待って!!」
 針が危ないから! と小春に諭され、小太郎はようやく我に返る。
「ごめん……小春さん……」
「こっちこそ……! 不用意な、こと、言っちゃって、ごめんね……っと、ハイ出来たー」
 小太郎に肩を掴まれて焦ってはいても、手元だけは平然と針仕事をこなした小春が笑顔で呟き、どうぞーと小太郎に着物を手渡す。そして、何かに思い至った風に手の平を一つ打ち鳴らした。
「あっそうか。そうよ、菊様は後継ぎ様だから、嫁入りじゃなくて婿取りになるんじゃないかな? だったらどこかに行っちゃうって事は無いから! 大丈夫よ小太郎ちゃん!」
「小春さんてば案外冷静…………いや、うん、そっか。うん……ああ、でも……」
 着物を受け取りながら、小太郎は思い出す。
 菊の母親――菜津の懐妊が里に知れた時から、里中の物陰でずっと囁かれている言葉を。

 菊は、今はまだ跡取だ。多少の反発はあるが、忍軍一ヶ谷衆とこの里の次代を担う者として、親族にも周囲にも、里の隅々までそう認知されている。
 しかし、菜津の腹にいる子供が、男の子だったら?
 普通に考えるなら当代頭目直系の男子たるその子が、次の頭目候補筆頭になるはずだ。女である菊が跡継ぎとして扱われている、今のこの状況こそが普通ではないのだから。
 そうなれば……
「……菊が嫁に行くのも、ありえない話じゃない……」

 つい最近まで一緒に泥だらけになって駆け回っていた幼馴染が、自分の知らない所に行ってしまうかもしれない。そしてそれは遠い未来の話ではなく、近い内にやってくるかもしれない話なのだ。
 脳裏に、菊の笑顔が浮かぶ。菊の髪の長さなど今まで気にした事も無かったが、あともう少しだけ大人になったら、いくら男勝りの菊でも周囲の娘達同様に髪を伸ばし始めるのだろう。
 その黒髪が背を覆って腰にまで届くようになった頃、自分よりも年上の菊は、自分よりも一足早く大人になってしまう。
 ――そして、すっかり大人になったその後は?
 小太郎が一ヶ谷の里に来る前からずっと菊の側にいたねえやだって、大人になったと見なされた途端に嫁入り話が来て、そして早々に遠くの里へ嫁いで行った。
 行かないでくれ、行っちゃ嫌だと菊と二人で代わる代わる頼んだが、困ったような笑顔だけを残して行ってしまった。

 縫ってもらった着物を肩に引っ掛けたまま沈み込み、そのまま言葉も無い小太郎に、小春が気遣わしげに声を掛ける。
「ごめんね小太郎ちゃん、私、変なこと言っちゃったね」
 そのまま前に周り、引っ掛けたままだった小太郎の着物をきちんと着せ付けてやる。
「大丈夫です、ありがとうございます」
 着せてもらった着物の襟を整えながら、小太郎がゆるく笑う。

「大丈夫。……うん、平気」

 しかし、その声に精彩は無い。



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