『未熟者二人』 (1) 小太郎は菊が拾った子供である。 名付けたのも日々面倒をみているのも、それら総ては菊である。 菊自身両親や周囲から養われている幼い身であったが、その子育ては実の母親が感心するほど献身的で、且つ厳しい。菊自身が日々に厳しい修行を課され、それをこなしている身である。故に自ずと他者にも同等を求めてしまうのだろう。 とは言えそんなに厳しいと、今まで百姓の倅だったであろう小太郎はやっていけないのではと周囲の大人たちはこっそり心配していた。 ――しかし意外にも菊は、甘い時はとことん甘いらしく。 何だかんだで小太郎は菊にべったりで、二人の仲は実の姉弟以上に良好だった。 「……これ、は」 「川原に下りていく道の、林の脇に転がされておりました。薬師殿の見立てでは命に別状は無いらしいですが、右肩と肘の骨が酷い外れ方をしていたので、暫く道場には」 「そんな事はどうでもいい! 原因を言え高次!」 菊が吐き捨てる。 その眼にきつく見据えられ、揺るがない視線の先には……身体のあちこちを腫れ上がらせ、酷く傷付いて意識の無い小太郎。 「どうして小太郎がこんな目に遭うんだ……!」 それは夏の、暑い盛りの事だった。 一ヶ谷衆次代の御頭として、娘ながらも嫡男が受けるものと変わらない扱いを受ける菊は、里の中だけで無く外に学びに行く事も多い。 一ヶ谷衆と付き合いのある諸国諸藩を廻り、それら家中の内情を菊の眼で確かめさせつつ、世を支配する侍という存在がどのようなモノであるかを菊自身が知るのが目的だ。 御頭である父親か一ヶ谷衆の重鎮連中に連れられ、月に一度程度で各地の城下まで出かけて行く。 しかしただの拾い子である小太郎は、当然の事ながら屋敷で留守番だ。 「いーなあ菊、俺もついてきたい。楽しそう」 「あのな小太郎、遊びに行くんじゃないんだ。それに大人になったらお前もお役目をもらってあっちこっちに出るんだから、それまで待ってればいい。いくらでも行ける」 そのために私がいなくてもきちんと鍛錬するんだぞ、土産楽しみにしてろよ、と数々言い置いて菊が今回のお目付け役である老爺と里を出たのがつい数日前。『商いで都に出てきた祖父とそれに同行してきた孫』を装って難なく町に入り、色々と見聞した後、その地方に常駐している一ヶ谷の者と合流して当地の詳細報告を受ける。 ――はずだったが、火急の用がその者にあてられたとの報が入り、その予定はあえなく流れた。 だから少々早目に切り上げて一ヶ谷へ戻ってきたのだ。 小太郎に約束した通り、土産を持って。 「原因は見当ついております」 「言え!」 激昂する菊とは裏腹に、高次は落ち着いている。 旅路から戻った菊が小太郎の大事を屋敷の者から聞かされて旅装も解かずに駆け付けた時、高次は布団に寝かされた小太郎の枕元で、顔色一つ変えず静かに佇んでいた。 「聞いてどうなさるおつもりです?」 「……どういう意味だ……!」 ちらりと投げられた視線に噛み付く勢いで返し、菊は高次を睨みつける。 寝かされた小太郎は目覚める様子も無い。 額には濡れ布がかけられているためよく見えるわけでは無いが、頬や目は殴られたのか大きく腫れ上がり、口の端は大きく切れて血が滲んでいる。 掛け布団から力無く出された両腕も不自然な打撲と擦り傷だらけで、落馬や事故などではない私刑の如き痕を匂わせており――……規則正しい寝息で胸が上下しているのだけが救いだと、菊は自分の唇を噛み締めた。 「まず申し上げておきましょう。菊様、貴方は次代の一ヶ谷当主。皆の上に立つ者になる」 「それと小太郎の怪我と何の関係がある!」 高次は普段から感情を見せない男だ。菊は高次のその性質を忍として好ましいものと捉えていたが、今日だけはその冷静さが癪に障る。 小太郎は高次にとって弟子のようなもの。それが明らかに故意に――それも恐ろしく悪意を込めて痛めつけられて、何故ここまで無表情にいられるのか。……父親の右腕である側役でなければ、胸倉を掴み上げてやる所だ。 そんな菊の内心が伝わったのか、それでも無表情に視線を動かして高次は続ける。 「自分の気に入らない事が起こったからと言って、一時の激情に流されるのは次期当主として相応しくないと申し上げているのです」 立ったままの菊を見上げ、視線をしっかり合わせ、小太郎の枕元に腰を下ろす高次は淡々と述べる。 「今はまだ遠い先の事でも、貴方は後々里を動かす事になる方だ。小太郎の怪我の原因を聞いてどうなさる。短慮を働くおつもりか? ……次期頭目なら、十年先を見据えなさい」 含みを持たせたその言葉に、菊が笑う。 「――そうか高次、分かったぞ」 唇の端のみを吊り上げ、少女らしからぬ艶をも含んだ、一種壮絶な笑み。 「やったのは私の従兄弟たちか。あの馬鹿共か。……だから身内への報復は避けろと、そう言いたい訳か高次……!」 「御意」 目を伏せて頭を下げた高次の応えは短い。 「賢明な事で何よりです、菊様」 一ヶ谷衆現頭目である菊の父親、葛木九郎景勝には弟が三人と妹が一人いる。 末弟と妹は他所へ婿と嫁に出た為に里にはいないが、弟二人は健在であり、一ヶ谷上忍内の重役として実質的な運営面から頭目と里とを支えていた。 九郎と弟たちとの仲は表面上悪くは無い。しかし多かれ少なかれの内心では、自身の子は娘であるにもかかわらず、それを後継に指名した兄に対しての不満を抱いているのは明らかだ。 菊がそこらの男子連中よりも――それには自分達の息子も含まれている――才能に恵まれ、且つそれ以上に努力を厭わぬ才を持つと分かって以降、親達は表立っては何も言わないが、鬱屈したものはその息子達の中にも燻っている。 黒々とした悪意は分かりやすく形になる。 表立ってぶつける事の出来ない悪意は、近くにいた弱者に向かったのだ。 「菊様が短慮を行い、結果ご自身の気が晴れたとして、その後の始末はどうなさいます。小太郎を菊様が拾って来た時、頭目の本屋敷に男子を入れるとはどういう意味だと言って周りがやかましく騒いだのを、よもやお忘れでは無いでしょう」 布団のみが敷かれた狭く殺風景な小太郎の部屋に、高次の声が低く響く。 「要らぬ波風はお避け下さい。ご自身の立場こそを、お考え下さい。ましてや菊様は生まれついたが男ではなかったという、ただそれだけの事で要らぬご苦労を背負われている」 高次の視線が小太郎に向かう。 一瞬だけ間が空いて、しかしすぐに言葉は紡がれた。 「今回のこれはすべて些末事。――小太郎は単なる拾い子だ。菊様の弟ではありません」 高次の立ち去った部屋の小太郎の枕元で、今度は菊は佇んでいる。 小太郎は未だ起きる気配もなく、怪我が痛むのか時折辛そうに顔をしかめる以外は昏々と眠り続けていた。 「小太郎……」 竹刀か棒かで複数回殴られた痕の残る腕。布団の上に力なく投げ出されたそれをそっと取り、小さな手を握ってやるが、その手はぴくりとも握り返してこなかった。 旅から戻って束の間、大怪我をした小太郎が林の脇に倒れていたと屋敷の者から聞いた時、菊はまず事故にでも遭ったかと考えた。 小太郎は馬の扱いを習い始めたばかりだったが、小心者である割に馬だけは何故か怖がらず、暇さえあれば馬小屋に通っていた。菊の手が空いている時は二人で誘い合って遠乗りをしたりもしている。 話を聞いた時は大方、一人で勝手に出かけて落馬したのだろうと思っていたのだが…… 「……酷い」 旅装も解かずに息せき切って駆けつけた菊の目に入ったのは、あからさまな私刑の痕。 高次の言葉から察するに、従兄弟連中かその取り巻きが数人がかりで痛めつけたのだろう。少しつつけばすぐ泣く小太郎は、その出自も関係してか今までもいじめられる事が多かった。 ――だが、流石にここまで酷かった事は無い。 我が事のように悔しくて、じわりと滲みかけた涙を腕で拭い、菊は眠っている小太郎の頬を空いた手で撫でる。 高次の言わんとする事は菊にも容易く理解できる。 一ヶ谷衆の上層は葛木の一族で成り立っている。その繋がりは強固であったが、菊に関する後継問題で親族一同が揉めたのは事実であり、そんなに昔の話では無い。蒸し返される事になればすぐにでも話は大事になるだろう。 そして菊が将来頭目の地位へ就いた時、その周りを固めるのは年代的にも従兄弟たちである可能性が高い。 ……血族内に禍根と言う名の火種がくすぶり、一ヶ谷の屋台骨が揺らぐ事を、誰よりも菊を高く買っている高次は懸念しているのだろう。 「クソ……!」 やられたなら、そっくりそのままやりかえしてやりたいのに。 ――身動きのままならない悔しさを込めて、菊は短く吐き捨てる。 途端、ピクリと小太郎の指が動き、額の手拭いの下から腫れ上がった瞼がゆっくりと持ち上がった。 「……き……」 「小太郎!」 「菊……なんで泣いてんの……」 小太郎が薄く目を開けていた。 まだ半分寝たままなのかどこかぼやけた声ではあったが、しっかりと自分を見つめてかけられた言葉に菊は安堵する。 「……バカ、泣いてない」 「そーかな……そんな気がしたけどな……」 「泣いてないぞ」 言いながら、きっと赤くなってるだろう顔をごまかす為に小太郎の額の手拭いを濡らし直し、そして再度額に掛けてやる。 「うん……、菊は強いから……泣かないか……」 「ああそうだ」 切れて腫れ上がった唇からぼそぼそと紡がれるそれを痛ましく思いながら、菊は小太郎の頭を撫でてやる。 しばらく小太郎は何も言わず、大人しく菊にされるがままに撫でられていたが、しばらくしてポツリとつぶやいた。 「――菊は強いのにな」 声は弱い。 語尾もかすれている。 「俺はなんで弱いんだろ……」 そして、とうとうそのまま泣き出した。 その後、菊がどれだけ問うても、小太郎は怪我の理由を言おうとはせず。 優しく諭しても、強い口調で問いただしても、小太郎は頑として首を振るのみで。 傷だらけの顔を隠すように布団を被り、それ以上菊と顔を合わせようとはしなかった。 しかしただ一言、 「ごめん」 と泣きながら言われた一言が、菊をどうしようもなく困惑させたのだった―― |