【序章:物語の発端】



 その年の夏は、涼しかった。
 梅雨はとっくに明けたはずの季節なのに、太陽はいつまでも姿を見せず、その代わりに風だけがよく吹いた。
 風は、ぬるい雨を孕んで田畑を舐め、時折激しい嵐を連れてくる。
 大人たちはため息をついて空を見上げ、分別のついた年頃の子供たちはそんな大人を心配そうに見上げる。

 ……そして、短かった夏はあっという間に終わり、実りの無い秋が来た。


「……もう駄目なんだ」
 父親らしき男がぼそぼそとしゃべる。子供は、それをきょとんとした面持ちで聞いていた。
 その周りには似たような年の小さな子供たちが数名、各々の親に連れられて立っている。
 皆まだ幼い。なぜ自分たちがこうやって集められたのか何も分かっていないのだろう。中には、出かけるという事にはしゃいで上機嫌にしている子供もいた。
「だから、行こう」
 先頭の男が自分の子の手を引いて歩き出す。残りの者もそれに倣って自分の子供の手を引き、足早に後に続いた。

 秋の山道は日が暮れかけて既に薄暗く、足元もおぼつかない。
 親たちは黙したまま、子供たちを半ば引きずるようにして山道を登る。子供たちは訳が分からないながらも親の手にすがって必死に歩く。
 どこに行くのだろうと考えはするのだが、子供たちは誰も聞けなかった。肩越しに見上げた父親たちの目は、いつもとは違う怖さだった。

 振り返ると、夕闇に沈みかけた中に村が見える。
 ぽつぽつと心細いような弱さで灯った明かりが、歩みに合わせて小さく揺れている。
 秋の冷えた空気が子供たちの顔をなでる。

 大人たちのいつもとは違う異常な雰囲気を察したのか、女の子が一人泣き出した。だが、誰も足を止めようとはしない。
 幼い我が子たちを無理やり追い立て、嫌がる子を引きずり、山の奥へ奥へと分け入っていく。

 日はとうとう暮れて道も暗く、もはや影しか見えない。
 深い木々に遮られて空も無い。
 どこからか響く渓流の音だけが、夕闇の中にざわめきを残す。


 たどり着いた森の奥。昏い目をした親たちの目の前に、切立った崖が現れた――





 母親の声が聞こえた気がした。
 大丈夫かと頬を撫でられ、額にかかった前髪が丁寧に払われる。そして優しい吐息が気遣うように耳に触れた。

 もう大丈夫だと、その声は言う。
 何度も何度も吐息に乗せてくりかえし囁き、その度に暖かい手で頬を撫でる。

 もう大丈夫だと。
 何も心配はいらないから、泣かないでと。

 言葉は優しく耳を打つ。



 自分を包んだその暖かい手が、母親よりずっと小さい事に気付くのは、もう少し先の事。



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