15. 初めて

きみはぼくのたいせつなひと 大人編 ( 1 )

 夜も更けて、屋敷の中は宴特有の暖かい空気に満ちている。
 いつもは粛々とした風情の一ヶ谷忍屋敷であっても、年に数回もない宴の席とあってはあらゆる物が緩むのだろう。強面で鳴らした一ヶ谷の長老たち、老爺連中であってもそれは同じで、機嫌よく幾度も杯を傾け、若い者をつかまえては戦国の頃の昔話や己の武功話などをとくとくと語って聞かせていた。

 この一ヶ谷の里に於いて、こういう場合に運悪くつかまって爺連中の昔話に付き合わされる面子は大体決まっている。
 元服したての、つい先日初めて任務を承ったような初々しい若者たち。
 人が好く、何度繰り返される昔話でも根気よく聞いてやれる者。
 年寄りなどこんなものだと割りきって、話はほとんど馬耳東風でタダ酒飲みに徹する者。

 ――そして。
 ほんの一年前に役目を拝命した、すこぶる酒の弱い側役殿――


「……こんな所で何をしている」
 酒宴真っ只中、未だ騒ぎの衰えぬ広間から、遠く離れた廊下。
 屋敷の中枢部に繋がり、且つ、御頭と皆に呼ばれる一ヶ谷衆頭目の私室にもつながる箇所。
 そして、女に跡目は継がせられぬと渋りごねて揉めた親戚連中をも手腕一つで黙らせて、堂々と御頭を継いだ菊の眼前。
 滅多な者では足を踏み入れる事すら許されない場所に、事もあろう事か堂々と――
「お前、そんなに酒に弱くては、私の側役なぞ務まらんぞ。――こら寝るな、飛薙
(ひさなぎ)
 老爺連中につかまった挙句、なかなか逃げ出せずに散々に酔わされたらしい飛薙が、見るも無残に転がっていた。
「廊下の真ん中に転がるな。邪魔だ」
 滅多に着飾らない菊が宴用にと用意した、きらびやかな流行り柄の着物。
 御頭と呼ばれるようになってからと言うものの、普段は滅多に身につけない艶やかな着物の裾から伸びた足が、それでも容赦なく飛薙の頭を蹴りつける。
「起きろ、踏むぞ」
 どちらかと言うと既に踏んでいるのだが、それでも飛薙は酔いつぶれたまま起きない。蹴られた衝撃で小さく唸りつつ、それでも赤い顔で眠りこけるばかりだ。

 忍屋敷の定常とも言える質素の家訓に則った訳では無いが、菊は御頭を継いで後、女らしい飾りからは遠くなった。
 それを、たまにはと己を奮い立たせて珍しく着飾って出た今宵の宴。
 菊の普段をよく知る屋敷の面々や、虎視眈々と婿の座を狙う従兄弟たちなどはこぞって賛辞を述べたものだが、肝心の幼馴染兼側役は距離を置いて座したまま特に何も言ってはこなかった。
 
 それは今日に限った事では無い。
 御頭となった菊の側に今まで通りに居るためだと言って、色々な困難を乗り越えてようやく手に入れた側役の座。だというのに、飛薙と呼ばれるようになって以降、小太郎は変わった。
 ……常に一歩引き、態度はいつも硬質に。
 陰日向無く支えてくれている事は分かるが、菊を意識して『御頭』として扱おうとしている事がありありと取れる。
 高次辺りから静かに諭されたのだろう。――子供の時間は終わった、そろそろ分をわきまえよと。
 その事に対して飛薙――小太郎がどう思ったかは分からない。ただ結果として、姉弟のような友人のような、恋人と呼ぶには幼いが、それでもどこか心地よいあの関係は壊れてしまった。
 それが、菊にとっては面白くない。

「起きろ」
 もう一度強く言う。
 足袋先でつつき、反応を待つ。
 老爺連中に飲まされたのだから相当の量を飲んだに違いない。ただでさえ酒に弱い癖に、何故そこまで無理して飲んだのか。
 そもそも一言自分に助けを求めたなら、百戦錬磨のクソ爺ども相手であっても何とか助けてやれただろうに、どうしてそれをしなかったのかと一人呟く。
「――……風邪引くぞ、バカ」
 それは自分を取り巻く環境も状況も、一ヶ谷の里も、小太郎でさえも、子供の頃とは何もかも変わってしまったからだと思い至って、菊は小さく息を吐いた。


 かと言って、そのまま廊下に自分の側役を放置する事は出来ない。
 放置しても良かったが、放置されている所を屋敷内の他の若い女に発見されて介抱される飛薙の図を考えると無性に腹が立ったので、せめて部屋までは連れて行ってやる事にした。
 倒れ伏した飛薙の足首をつかみ、廊下を引きずりながら歩き、とりあえず飛薙が自室として使っている部屋へと移動する。日々子供の頃から鍛えている手前、成人男性を引きずって歩く事くらい菊には朝メシ前だ。優しく扱わなくていいのなら何の問題も支障も無い。
 ふすまを開け、引きずっていた足首ごと畳の上に放り投げて、そして何事も無く自分の部屋へと去る。
 つもりだったが……

「うわ汚っ!」
 久々に訪れた飛薙の部屋は、片付けが出来ない子供だった過去を髣髴とさせる凄まじい荒れ具合で、菊はその汚さに思わず叫ぶ。
 飛薙を放り投げようにも、放り投げた瞬間に色んなものがなだれそうで到底出来ない。
 部屋内を引きずって歩こうにもその隙間すらない。
 ああそうだ、子供の頃はいつも私が片付けてやっていたんだったと、菊は渋い顔で飛薙を見やる。酔っ払い特有の赤い顔で幸せそうに眠りこける側役は、廊下を引きずられながらも未だに起きる気配はなかった。
 とりあえずテキトーに周辺を片付けて辺りを見渡すと、万年床らしき布団が畳の一角から発見された。そして、ゴミ雪崩を起こさない為にも引きずる訳には行かないので、肩に飛薙を担ぎなおして敷かれっぱなしの布団に横たわらせる。――今度こそ投げた、というのが相応しいような少々乱暴な手つきではあったが。

 汚い部屋に苦労して酔っ払いを寝かしつけて。
 寝っ転がっていたのを運んだだけではあったが、少し上がった息で菊は寝床に転がる飛薙を見下ろす。
「何で起きないんだ。お前、それでも忍か?」
 ここまでぐっすりと寝こけられると、いい加減毒気も失せる。布団の枕元に菊も座り込み、酒臭い息を吐きながらもどこか子供めいた顔で眠る飛薙の頬を指でつつく。
「ほら起きろ、悪戯するぞ。……頭から喰っちゃうぞ」
 くすぐったいのか眠ったまま顔をしかめた飛薙を眺め、ようやく菊が笑う。
「こら飛薙。――……なあ」
 幼い頃は昼寝をするのでも菊から離れたがらず、いつでも側に居たと言うのに、今ではひどく遠い存在になってしまった気がする青年。
 今でも飛薙本人はいつでも隣に居る。だが、何かが遠い。
 無理に態度を変える必要はないのだと日々言ってはいるが、その言葉に落ち着いた笑顔で頷いて見せる飛薙の表情は、それこそ犬の子の様に甘えるばかりだったあの頃とは格段に違う。
 それも総て菊が一ヶ谷を継いだ時から。里が焼け、御頭の座を菊が父から継いだあの時から、何かが音を立てて変わり始めたのだ。


 だが、くすぐられて崩す表情は昔のままだ。それがおかしくて、でもどこか嬉しくて、菊は更に指を滑らせた。頬を伝い顎をなぞり、ほんの少しだけ唇に触れて、ようやく指を離す。
「…………う、」
 それと同時。飛薙の瞼がかすかに動き、唇から呻きともとれる言葉が漏れた。そのまま菊が見ているとぼんやりと開いた眼が菊を捉えて瞬き、飛薙はゆっくりと布団から頭を起こした。
「あ゛ー……」
「お前、廊下に転がってたんだぞ。覚えてるか? 大方部屋に戻ろうとして行き倒れたんだろうが、飲めないくせに飲み過ぎるのも飲ませられるのもいい加減にしろ。第一、たまたま私が通りがかったから良かったものの、もし」
 とりあえず説教をしておこうと、言葉を並べた菊が全部言い終わるよりも早く。
 ずいっと寄った飛薙の頭が、菊の膝にぼすりと落ちた。
「……菊だー……」
「はっ?!」
 突然の事に菊の言葉と動きが止まる。
「菊ー菊ー、うーあー久しぶりー……」
「何を……ってこらバカ! そんな所に顔をこすりつけるな!」
 酔っ払い特有の緩慢な動きながらも、逃げられないように菊の太腿を腰ごと両腕で抱え込み、飛薙は嬉しそうに頬擦りする。
「久しぶり……あーコレすごい久しぶり……気持ちいー……」
「なっ」
 先程までの――否、昨今の毅然とした態度が嘘のような甘え方に菊が絶句する。
 酔っ払いのなせる業か、それとも今まで我慢していたものが酒の力を借りて噴出したのか。どっちにしろ似たようなものだが、それくらいの勢いで飛薙は菊の膝に取り付いて離れない。
 子供の頃、甘えたい時にはいつもそうしていたように、抱え込んだ菊の膝に頭を乗せて背を丸め、菊の着物の袂と手の指とをぎゅっと握って飛薙は再度目を閉じる。
「菊ー……」
「…………っ」

 菊はもう、言葉も無い。

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