二人で出来るもん(2)


  ――― なんか理不尽な気がする

 翌日、涼介お手製愛兄弁当を持たされた啓介は、お昼のチャイムが鳴るとすぐさま教室を飛び出した。
 夕べあれからかまわれ倒された啓介は、道々涼介の楽しそうな顔を思い出しては悪態をつく。
 しかし、ブチブチ文句を言う反面、啓介はそれほど不機嫌ではなかった。むしろ込み上げてくる笑顔から、まわりがいぶかしむくらい上機嫌だとわかる。
 もともと昔から、啓介は涼介に口で勝ったためしはない。今更多少やり込められたところで落ち込む啓介ではないが、そんなことより、久々のコミニュケーションは、このところ感じていた涼介との距離を縮めてくれた気がして、啓介に少し安心感をもたらしてくれた。
 自然と足取りも軽くなる。
 弁当派の啓介は、日頃から数人の友人達と教室で食べていた。
 しかし、こうして一人こっそり中庭まで来たのは、涼介のくれた幸せな時間をじっくり味わいたかったからだ。
「だって、アニキってば母さんより料理うまいんだもん」
 高橋婦人が特別に料理下手というわけではない。ただ如何せんフライものの多い弁当ばかりで、啓介に言わせればバラエティーに欠ける。 
 反対に、今朝こっそり覗いた涼介の弁当は和風中心で、彩りも上品にまとめられた惣菜は、かなり啓介の食欲をそそった。
「さーて、さっそくいただきますか」
 箸を片手にいただきますと手を合わせ、いざ食わんとフタを開けたとたん。
「すげー、啓介の弁当豪華おふくろの味だぜ」
 気がつけば、久保をはじめとする悪友たちが、まわりに集まって来ていた。
 慌ててのフタを閉めようとするが間に合わない。
「み、見るなよ」
「な〜にもったいぶってんだよ。今さら誰が高橋んとこの弁当に驚くか。それより何こそこそしてるんだ?」
「そうだぞ啓介、おまえ俺達に何か隠してるだろ」
 みんな啓介の行動を不振に思って、弁当持参で追い駆けてきたらしい。
「べ、べつに何も隠してなんかいねーよ」
 内心ギクッとしながらも、啓介は顔を赤らめて弁当を隠そうとする。
 そんな啓介が可愛くて、友人たちは調子に乗ってさらに弁当を覗き込んだ。
「おやおや? これはいつもと少し違うな」
 向かい側に座った友人が、すばやくチェックをいれる。珍しいおかずのご相伴に預かることも多くいつもその弁当の中身を見ている彼は、自称、啓介の弁当のコメンテイターというところか。
「本当だ。いつもは揚げ物系が多いのに、今日はしっとり和風系だ。しかも手の込んだモンばっか。」
「さては制作者が違うな? 」
 口々に言い合っていた友人たちの一人が、そう言いかけた時、啓介は厭な予感に顔をしかめた。案の定、勘のいい友人の一人が、
「もしかして、涼介さんとか」
 と、口にしたとたん、友人たちはまさかと顔を合わせ、一斉に啓介を見た。
「な、なんだよ」
 校舎の白壁を背に座っていた啓介に、ぐっと友人達の顔が寄る。
「なぁ啓介。そう言えばお前ん家、今、おふくろさん達いなかったよな?」
 ギクッ
「お手伝いさんがいたのも去年までだったし」
 ギクギクッ。
「だ、だったらどうなんだよ」
「ということはやっぱり…っ」
 じりじりとにじり寄って来る友人たちが箸を持っているのに気づいた時、啓介の手に弁当はなかった。
「頼む啓介っ、一口だけでいいから。なっ」
「あ〜っ、てめーら! おれの弁当‥‥」
 叫ぶ啓介を無視して弁当をかきこんだ悪友どもは、結局のところ単なる涼介のシンパでしかなく。
「あーっ、涼介さま。うまいっス。うますぎるっス」
 と、絶叫したとかしなかったとか。
「あきらめろ啓介」
「久保っ、てめーまで」
 見るとその手にはしっかりだし巻きが握られいる。
「いやぁ、さすが涼介様。料理まで上手いとは恐れ入るね」
 あとにはご飯粒ひとつない空の弁当箱だけ残り、啓介は改めて涼介の人気の凄まじさに驚かされたのだった。




 同じ頃。昼休みの生徒会室。
「はー腹へった。数学の篠田の野郎、チャイム鳴っても説明やめないんだぜ? もう俺餓死寸前だよ」
 弁当片手によろよろと入って来たのは、生徒会書記を務める史浩だった。後に涼介のチームの要となる彼は、この頃から良き片腕として涼介を助けている。
「遅かったな。もう一通り意見書は読み終わったぞ」
 会長席に座っている涼介は手元の文書から目を離さず答えた。右手でページをめくる傍ら、器用にも左手で弁当を突ついている。
「相変わらず忙しそうだな」
「忙しそうじゃなくて、本当に忙しいんだ。グチッてる暇があったら早く弁当食って手伝えよ」
「ヘェヘェ」
 言ってる間も読み終えた意見書とやらの思案に余念がない。食べる端からメシがこぼれるのもおかまいなしだ。史浩の他に誰もいないせいか、涼介は他人には間違ってもとらないそっけない態度でもって彼を急かせた。
「まったく、表でおまえを崇めるやつらに、今のおまえを見せてやりたいぜ」
 呆れ半分に呟くと、史浩はやれやれと側の応接セットで弁当をひろげ食べ始めた。
「そう言えば、さっき中庭で啓介を見たぞ」
「ボール遊びでもしてたか?」
「いや、弁当食ってた。オレの見間違いじゃなければ、中身はおまえのものと同じだったようだが」
史浩はチラリと涼介の手元を見る。
「ご両親は今アメリカだったよな」
 一応確認して、
「聞くのは恐いが、ひょっとしておまえが作ったのか?」
「他に誰がいる」
 あっさり答えられ、やっぱりなと史浩は思った。朝早く弟のために一生懸命弁当を作る兄の姿は、普通だったら微笑ましいのだろうが、涼介の場合は少し恐いものがある。
 なにせ涼介の弟に対する愛情は、史浩が知っている中でも類を見ないほど異常だ。
 小さい頃から利発な面差しと大人顔負けの持論で神童とまで言われた涼介だが、その彼の最大の関心が何であったのか知ってる者は少ないだろう。
 疑うことを知らないかわいい啓介は、すぐ側で涼介の凄さを目の当たりにしてきたため、彼を盲目的に尊敬し、憧れの眼差しで見ている。その兄が、自分を狙っているオオカミとは知らずに。
 昔からいろんな意味で二人の身近にいる史浩としては、涼介の地雷源が何であるかわかるだけに、無防備な啓介の態度にいつ爆発するか気が気ではなかった。
 涼介の華やかさに隠れて目立たないが、啓介の容姿だって並み以上だ。加えてクルクル変わる愛らしい表情は、見る者に思わずかまわずにはいられない衝動を引き起こす。
 実際今までも、啓介の魅力に引き込まれた人間は何人かいた。それが涼介によってどんな末路を辿ったか考えたくはないが。
「今更餌付け作戦じゃあるまいし。涼介、おまえ何か企んでるだろ」
「人聞きの悪いことを言うな。日頃から揚げ物ばかりの弁当では身体に良くないと思う兄心さ。他意はない」
 ニヤリと笑う。
「バレバレだって。最近の啓介かわいいもんな。制服に細っこい身体が泳いでて、裏じゃそうとう人気があるそうじゃないか」
「知ってる。もう何人か排除した」
 おいおい。史浩は背中にヒヤリとしたモノを感じた。すでに地雷は踏まれたらしい。
「啓介がこっちへ通うようになってまだ一ヶ月だぞ。油断も隙もない。アレのかわいさに目が眩むのもわかるが、生憎横から手を出されて黙っているほどオレは寛容じゃない」
「寛容ねぇ…」
啓介の周囲に関して、涼介のそれは辞書から削除されている。
「で? 本当は何を企んでるんだ? 俺に隠しても無駄だぞ」
 史浩は、もう一度念を押して尋ねた。
「本当になにも企んじゃいないさ」
まだ食べかけの弁当を片付け、涼介はゆっくり窓の方へ視線をやった。
「ただ、昔みたいに啓介の素直な笑顔が見たいだけだ」
 生徒会室のある旧校舎は中庭に面している。その窓から少し下を見れば友人たちに囲まれた啓介の姿があった。
 表情豊かに笑う啓介。そのくったくのなさは、この数ヶ月涼介の前でだけ失われている。
「啓介が、最近何にこだわっているかオレだってわかっている。でも今更オレのこのスタイルを崩すことはできない」
「対面的なものか?」
「いや、軽蔑されたくないからかな」
 啓介に。
 啓介のために演じてきた優等生の自分。その中に獣の目で啓介を見ているもう一人の自分を、長い間隠してきた。
 できることなら知られたくはない。
「だが、それもそろそろ限界だ。オレにとっては、啓介がすべてだ。正直、どんな理由でもいいからどこかで繋がっていたいんだと思う」
 友人たちと騒ぐ啓介を見下ろしながら、涼介は切なそうな目をして呟いた。
「おまえの気持ちはわからんではないがな」
 一見完璧に見える涼介の唯一人間らしい部分。
「でも、繋がるのはせいぜい心だけにしておけ。いくら好きでも兄弟だということを忘れたら、俺は責任持てないぞ」
 一応、史浩は友人として忠告する。
「…努力はしよう」
 あとは理性の問題だった。




 それからしばらくは平穏な日々が続いた。
 けれどそれは啓介にとって心掻き乱される日々でもあった。
 表面的には何一つ変わらない。
 相変わらず朝はたたき起こされる啓介だったが、母親よりも上手い涼介の料理には満足してたし。
 なにより二人っきりの生活が、お互いを精神的に近づけていた。
 それだけに、家と学校でのギャップに、啓介はよけい困惑した。
 学校内では、涼介の存在は絶対だ。
 それは単に本人に権力があるということではなく、周りの雰囲気が、涼介の存在を軸に目に見えない絶対的な権力志向を求めているといえる。
 涼介をカリスマと崇める親衛隊がそうだ。
 彼らの中には、啓介が涼介の弟と知っていても、馴れ馴れしくするのを良しとしない連中さえいた。
 久保の心配する嫌がらせも、黙っているが何度もあった。傘の一件だっておそらくそうだろう。
 別にそんな馬鹿な奴等を恐れる啓介ではない。涼介が迷惑しているのも知っている。けれど、騒動になると涼介が困るから、なるべくかかわらないようにしてきた。
 それなのに、昨日。どこからか啓介が涼介のお手製弁当を食べていると聞きつけたのだろう。陰険にも靴箱に名無しのカッター仕込みの手紙が入っていた。
 開ける前に一緒だった久保が気づいて事無きを得たが、一歩間違えれば流血沙汰だ。
 当然、久保はその場で涼介に知らせようと提案した。
 しかし啓介は、騒ぎになるのは嫌だし、こんなこと涼介に知られるのはもっと嫌だと頑固に反対した。
 そして今朝。
 啓介の机の中に、新たな手紙が入っていた。


  昼休み
  理科準備室で待つ


「…」
 読んですぐ、とうとう来たかと思った。

 ――― こうなったら、直接会って話をつけてやる!

 そう心に決め、啓介は昼休みになるのをじっと待った。




「まだ誰も来てないじゃん」
 理科準備室は旧校舎の奥まったところにあって、普段は人の気配はない。
 チャイムが鳴って、飯にしようと言う久保を、適当な事を言ってまいた啓介は、一人人目を避けるようにここへやって来た。
 暗幕が掛かっているためか、昼間でも暗い。
「さすが陰険なことするやつらは呼び出すところも陰気くさいよな」
 そう呟いた時、
「誰が陰険だって?」
 上級生らしい数人が、部屋の入り口に立っていた。
「あんたたちのことだよ。わざわざこんなところへ呼び出して、いったい何の用なんだ」
 恐れもせず、反対につっけんどんな物言いの啓介に、上級生たちが失笑する。
「へぇ、威勢がいいな。さすが高橋涼介の弟だ」
「顔は似てなくても人を馬鹿にした態度がそっくりだ」
「…」
 おかしい。啓介は思った。

 ――― こいつらホントにアニキのシンパか?

 啓介だけでなく、涼介のことも気に入らない言い方が気になる。
「おまえらアニキの何なんだ? 本当は親衛隊でもなんでもないんだろ。どうゆうつもりでオレを呼び出したんだよ」
 不審に思って問いただすと、連中は『おや』という顔をして啓介を見た。
「察しがいいねぇ、そのとおりさ。だったら話は早い。俺たちゃ別に高橋涼介のシンパでもなんでもねぇ。どっちかっつーと憎んでる方かな」
「そうそう。アイツのせいでいろいろ邪魔されたし」
「いかにも優等生みたいなツラして気にくわねーのなんの。一回ヤキいれなきゃいけねーって思ってたとこさ」
 勝手なことを言う連中に、啓介はムカついた。
「気に入らないだなんて…そんなのおまえらが勝手に思ってるだけじゃないか!」
 好き勝手に自分達のイメージで涼介を判断するなんて。こんな奴等に涼介の何が分かるってんだ!
 同時に、啓介は涼介を崇拝する人間達のことも思った。

 ――― あいつらだって、もしかしたら自分達に都合のいいアニキの部分しか見てないんじゃないか?

 そう考えると悔しくてしょうがない。

 ――― オレのアニキなんだぞ! 誰にも渡すものかっ

決意も新たに睨み返し、
「それで? 本人には手が出せないから、かわりにその弟をやっちまおうってか?」
 ジリジリとまわりを取り囲まれて、啓介は後ずさった。
「そうさ。いくらなんでもアイツに直接手を出すほど俺たちゃ馬鹿じゃねーからな。と思っていたけど、おい、見ろよ。こいつこうして見るとけっこうかわいいじゃんか」
「ああ。こりゃ別の意味でやっちまいてーかも」
 冗談じゃない!
 仲間の一人に腕を掴まれ、啓介は目の前のそいつに思いっきり蹴りを入れた。
「ぐっ!」
 痛みにうめいて前のめりになったところをすかさず逃げようとする。
「っのやろう!」
「嘗めてんじゃねぇぞ、このガキ」
 予想もしない反抗に、上級生達はいきり立った。
「おとなしくすれば優しくしてやったものを。こうなったら少し痛い目みてもらおうか」
 四方から伸びてきた手に引き倒され、あっと言う間に上着を剥ぎ取られる。
「ちくしょうっ! はなせよ」
 必死に暴れるが、押え込まれて動けない。それでも啓介は力いっぱい連中を睨み付けた。
「おっ、いいねぇその目。気の強いところがなんかソソる。それにみろよこの首、折れそうに細いぜ」
 シャツの中にまで手を入れられ、啓介はゾッとする。
「こんなことして、アニキに勝てるとでも思ってんのかよっ!」
「気が強いのはいいけどどこまでもつかな?」
 さらに頬を張られ、啓介は一瞬意識が薄れた。
「へぇー、かわいい乳首。ピンク色だよ。エッチだなぁ」
 どっちが!
「はなせよ、このやろ! はなせってばっ」
 抵抗しようにも力はなく、あまりの気持ち悪さに啓介の目尻に涙が滲んだその時、
「そこまでだ!」
 部屋のドアが開け放され、サーッと光があたりを照らし出した。
「ったっ、高橋涼介っ」
「なんでここにっ」
 そこにいたのは涼介だった。
「アニキ…」
 突然の涼介登場にビビった連中の手が緩み、その背中ごしに頼もしい兄の姿を見たとたん、啓介は安堵のあまり涙ぐんだ。
 そんな啓介に、それまで冷静だった涼介の瞳が、怒りのために眇められる。
「貴様ら…、よくも人のかわいい弟に…。無事に帰れると思うなよっ!」
 怒声とともに連中に殴り掛かる涼介。
 だが、啓介の意識はそこまでが限界だった。
 それまでの緊張感と突然訪れた安堵感に、啓介の意識は遠くなり、そのままぷっつり途切れたのだった。




 気がつけば、保健室のベッドに寝かされていた。放課後なのか、遠くでランニングの掛け声がする。
 何時だろうかと壁時計を見ようとして、啓介は全身に走った痛みに思わずうめき声を漏らした。
「…ってぇ」
 その痛みに、理科準備室での出来事を思い出す。
「そうだ、アニキは…」
 途中、意識を失ったとはいえ、助けに来てくれたのが涼介だったのは覚えていた。でもそれから先の記憶はない。
「啓介、気がついたのか?」
 ベッドの仕切りカーテンが開き、久保が顔を覗かせた。すぐ側で、啓介の意識が戻るのを待っていたのだろう。二人分のカバンを抱えて心配そうな顔をしている。
「あんまりビックリさせるなよなぁ。おまえが涼介さんに運び込まれた時は、心臓止まるかと思ったよ」
「オレ、アニキに運ばれて来たのか?」
「ああ。昼休み、突然理科準備室で倒れたとか言って、涼介さん慌てて飛び込んで来たんだ。だいたいおまえもおまえだ! 人の忠告無視して無茶するから、危ない目に遭うんじゃないか」
 自覚が足りないと叱られて、啓介は素直に反省した。
「久保がアニキに知らせてくれたのか?」
「そうさ。今日は朝から様子がおかしかったから、なんかあるなと気をつけてたんだ」
 おかげで貞操の危機は免れたらしい。
「それでアニキは?」
「うん…それが…」
 久保は一瞬躊躇うように目を逸らすと、言いにくそうな顔で、
「涼介さんな、今病院に行ってるんだ」
 と告げた。
「病院? なんでっ、どっか怪我したのかっ?」
「ああ。おまえを助けようとして喧嘩になった時、棚が倒れて怪我しちまったらしい」
「そんな…」
 啓介は、薄暗い理科準備室の様子を思い浮かべ、その両脇に並んでいた頑丈そうな棚が涼介に倒れたことを想像して真っ青になった。
「オ、オレ帰るっ」
「おいおい、ちょっとまてよ」
 ベッドを転げ落ちる勢いで降りる啓介を、久保が慌てて引き止める。
「そんなに急いだって、まだ涼介さんは帰ってないよ。一応検査とかあるみたいだから。それよりおまえの方が心配だって言ってたぞ」
「オレ、倒れたんだったな」
「そうだよ」
「…なさけねぇ」
 後先考えず飛び出した結果がこれでは、涼介も呆れたに違いないと、啓介はガックリ肩を落とした。
「こんなはずじゃなかったのに…」
 少しでも、涼介の役に立ちたかったのだ。
 小さい頃から、出来の悪い弟の失敗を、笑って許してくれた涼介。けれどもう、自分は小さい子どもではない。
 大きくなるにつれて、涼介との差を意識させられた啓介は、置いていかれないよう必死だった。
 いずれ、弟というだけでは見向きもされなくなるかもしれない。
 そう思うと、啓介は涙が溢れて止まらなくなった。
「こんなんじゃオレ、いつかアニキに見捨てられちゃうよぉ」
 えっく、えっくと嗚咽が漏れると、見かねた久保が、
「馬鹿だなぁ。そんなことあるもんか」
 と苦笑した。
「おまえはあの人にとっては特別なんだから」
 それは、今日の涼介を見た人間ならみんな分かったはずだ。
 理科準備室から保健室までは、ぐるりと中庭を回っていくつかの教室を通らなければならない。
 日頃冷静沈着で廊下を走ったこともなかった涼介が、鈴なりの視線をものともせず、啓介を抱きかかえたまま全力疾走したのだ。あの涼介があんなに慌てているところなど、今まで誰一人見たことはなかった。
 けれど、久保の慰めも啓介の涙を止めることはできず。
 その日啓介は傷心のまま、一人家路についたのだった。






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