二人で出来るもん(1)


 耳元で、けたたましい電子音が鳴り響いた。
 週のはじめの月曜日。明日は学校だとわかっていて、夕べ遅くまでゲームをしていたのが悪いのか、今日の啓介はいつにも増して寝起きが悪い。
 それでなくとも、毎朝ギリギリまで粘った挙げ句、最後は母親に布団を引っ剥がされての起床なのだ。
「ん……」
 目覚まし時計の大音量をものともせず、啓介はもそもそとベッドの中で身じろぎをした。
 夏も間近な五月の初め。日中は夏日に近くても、明け方はまだ肌寒い。
 啓介は猫の仔のように丸まり、体温で温まった毛布にくるまった。ぬくぬくとした感触がまどろみを誘う幸せの時間。
 どうせ、そのうち嫌でも母親にたたき起こされるのだ。もう少しこうしててもバチはあたるまいと思った啓介は、本能の命ずるままゆっくりと寝返りをうった。
 しかし、平和は突然破られるものだ。
「う〜、さむいようママ」
 いつものごとく毛布を引っぺがされ、無意識のうちに甘えた声を出していた啓介は、そこに思いもかけない顔を見て、いっぺんに目が覚めた。
「ア、アニキ…」
「おはよう、啓介」
 優雅に、それでいてしっとりと甘い声で囁いたのは、兄の涼介だった。
 声だけでなく、姿も朝日に輝いてうるわしい涼介は、すでに着替えも終えて、実にさわやかな笑顔を浮かべている。
 啓介はというと、
「なんでアニキが…」
 と、言いかけ、さっき自分が寝ぼけて口走ってしまった言葉を思い出して真っ赤になった。

――― 誰に聞かれてもいいから、アニキだけはやめてほしかった…

 男兄弟の意地というより十三歳の羞恥心から、啓介のプライドはグッサリ傷つく。
「なにぼけっとしてるんだ。早くしないと遅刻するぞ」
 涼介は、そんな啓介の動揺を一笑すると、さっさと窓を開いて追い立てにかかった。
「一週間母さん達はいないんだ。ちゃんと自分で起きないとだめじゃないか」
「そうだった…」
 言われて思い出した。今日はその初日だったのだ。




 一ヶ月前、高橋夫婦はそろってその仕事柄、アメリカの有名大学の研修会に出席することに決まった。
高橋病院といえば、県内だけでなく、近隣の地方でも有名な総合病院だが、このほど心臓外科に力を入れる方針が決まり、夫婦は医者として、また経営者として、先進地アメリカに学ぶこととなったのだ。
 研修期間は一週間。
『ご搭乗のご案内をいたします。日本航空…便NY行き……』
日本の空の玄関口、成田空港の出発ロビー。
「いいわね、啓介。お兄ちゃんの言うことようく聞いて、良い子でいるのよ」
アナウンスが流れた後、高橋夫人は、見送りに来た兄弟の弟の方に、念を押すように言い含めた。
「だ〜いじょうぶだって。オレだってもう中学生になったんだから、自分のことぐらい自分でできるよ」
「そう? でもねぇ…」
 大きなバンビアイズをキラキラさせて背伸びする息子は可愛いが、つい最近まで小学生だったのだ。心配するなというのが無理な話だろう。
 いまいち頼りないと思った高橋夫人は、「お願いね」と、となりに控えたお兄ちゃんの肩をたたいた。
 子ども子どもした弟と違い、兄に対する両親の信頼は絶大だ。今回の渡米研修も、涼介にまかせておけば大丈夫という安心感から決断したことだった。
 しかし、それが啓介にはおもしろくない。
なんでお兄ちゃんばっかり…と、小さな唇を尖らせた。
 みかけは誰が見ても可愛らしい啓介だったが、気持ちのほうは一足早い思春期を迎え、いろいろと複雑なお年頃。大好きなお兄ちゃんだって時々は嫌いになることだってある。
 いや、決して本心からではないのだが。
「心配しなくても、啓介ならちゃんとやれるよ。中学生になったとたん、嫌いなピーマンだって食べれるようになったし」
落ち込みかけた啓介を励ますように、涼介はその小さな身体を抱きしめた。
「な、啓介」
「もうっ、苦しいよ。そういうアニキが一番子ども扱いしてんじゃんか」
憎まれ口を叩いても、それとなく気遣ってくれる兄のやさしさがうれしい。
 仲の良い兄弟のスキンシップに見送られ、高橋夫妻は一路アメリカへ旅立っていった。




 そうして迎えた二人だけの初日。
 なんとか遅刻はまぬがれたものの、今朝の失敗を思い出して、啓介は一人教室で赤面していた。
「どうした啓介。何ひとり百面相してんだ」
 教師の都合で自習になった四限目。教室では、思い思いに集まった連中同志、演習プリントを終えた順から雑談の時間になっている。
 後ろから肩を叩かれて振り向くと、小等部から一緒の悪友が人の悪い笑みを浮かべていた。
「何だよ、久保か」
「何だはねぇだろ。見たところプリントも終わってないのに、余裕だねぇ啓介君は」
「ほっとけよ。おまえだって人の答え写しただけのくせに。オレは今ブルーなんだ」
「どうせまた涼介さんのことでも考えてたんだろ」
「……」
 見透かされて黙り込むと、久保はわかったような顔でニッと笑った。
「今日も仲良くご登校だったな。見てたぜ。人気のある兄上を持つと大変だな」
 最後の方は、多少同情めいている。腐れ縁は伊達でなく、涼介の凄さもそれに関する啓介の悩みも知っている彼は、ある意味いい理解者の一人だ。
 啓介の悩み。それは最近の涼介との関係にある。
 別に兄弟喧嘩をしているわけではない。しかし、目に見えないぎこちなさを、啓介は最近なんとなく感じていた。
 一言で言えば、涼介が遠いのだ。
 なんでだろう。
 無い頭を使って、啓介は一生懸命考える。
 生まれて此の方、兄弟として育った二人の関係に特別変化はなく、自分でもどこか変わったというところは何もない。
しいて言えば、それは涼介に対するまわりの反応だった。昔から啓介が当たり前のように思ってきた啓介の凄さに、みんなが気づきはじめたのだ。




 今年の春、啓介は涼介と同じ市内の私立校へ入学した。
 もともとは小中一貫教育の学校なので、正しくは同じ学校の中等部への進学だ。
 それでもセーラー服の上着と短パンから、一気にブレザーへ変わる制服は、啓介の胸を期待と不安にふくらませてくれた。
何より楽しみだったのは、学年は違っても、涼介と同じ校舎で学べることだ。
 外部入学者のため、寮を完備している中等部は市街地の外れに建ち、小等部からは5キロも離れている。
 自他ともにお兄ちゃん子の啓介は、少しでも涼介と一緒にいられるのがうれしくて、前の晩からはしゃいでいた。
 しかし、現実はそう甘くはなかった。
 啓介が予想もできないくらい、涼介は有名人だったのだ。
 教室や廊下で見かける涼介は、いつもたくさんの人間に囲まれていた。生徒集会で壇上に上がる涼介を、クラスメートたちがため息を吐きながら見つめていたもの知っている。
「おまえ、あの人の弟で本当に良かったな。そうじゃなかったら今ごろ絶対命ないと思うぞ」
 本気で心配する友人に、啓介は何と言っていいかわからずしばしば困惑させられた。
 みんなが涼介を凄いと言う。
 涼介の凄さ。
 それは一言で言うとカリスマ的な存在感だろう。
 涼介の凄いところは、自分だって知っているつもりだった。
 見た目の秀麗さに加え頭脳の優秀さは言うまでもない。単に頭がいいだけでないことは、経験や実績を重視することでわかる。
 人当たりも良くスポーツも万能で、およそ他人が羨む才能にことかかぬ上に、それをひけらかしたりしないから、人気があるのは当たり前。
 当然、啓介が入学した時も、涼介は生徒会長というカリスマの頂点にいた。
 家でも学校でも、涼介は涼介だ。啓介の良く知っている賢くてちょっと弟に甘い兄。それはわかっている。
 けれど、それは自分だけが知っているわけではない。
 涼介のかっこよさ、優しさ、頭の良さはみんなが知ってて、だからこそカリスマなのだと、ここにきてようやく理解した。いや、させられた。
 今まで自分にとってただ一人の自慢の兄だった涼介。
 その存在が、最近少しずつみんなの共有物となり、自分の知らないところで勝手に一人歩きしている。




「ほんと、我が兄とは信じらんねぇほど優秀だよな」
他人事のように言いながら、ため息が漏れると、久保が心配げにうかがってきた。
「おまえさ、あの人と兄弟じゃなかったらよかったのにとか、考えたことないか?」
「それは…ないな」
 即答だった。
「別の意味でそうなんじゃないかって、疑ったことはあるけど」
「それって、おまえだけ出来が違うことか?」
「てめぇ、はっきり言うじゃねぇか。これでもオレは並だぞ」
軽く睨むと、自分と大差ない成績の友人は肩をすくめる。
「ま、おまえの気持ちはわかるけどな」
 高橋の家は代々医者の家系だ。出来がいいのは当然だ。その中にあって自分だけ範疇外なのは、貰われっこだからだろうなどと、一時は本気で悩んだりもしたのだ。
「でもよ。俺だったら、頭は良くてもかわいげのない息子より、出来は悪くてもかわいい息子の方がいいけどなぁ」
 ちゃかした言いぐさだったが、悪友にしては精一杯なぐさめてるつもりなので、啓介は小さくサンキュ、と微笑んだ。
 笑った啓介はかわいい。
 本人に自覚はないが、じつは啓介は今年度の一年生の中でもなかなかの人気があった。
 少しつり目な大きな瞳は小生意気な仔猫を思わせ、ついついかまいたくなるし、茶色のくせっ毛は柔らかそうで、思わず触りたくなるほどだ。
 久保が言うことも、あながち高橋夫妻の本音から外れてはいまい。
「それにしても、腹へったよなぁ」
 当の本人は、呑気なものだが。
「けど、おまえも気をつけろよ」
「なにが?」
 呆れ顔の友人に、いきなり真面目な顔をされて、啓介は少しうろたえる。
「言いたかないが、涼介さんのファンの中には過激な奴も多いから。この前だって、わざとぶつかったりして絡まれたりしたろ?」
「あー、あれはオレもトロかったから」
「馬鹿。そうやってヘラヘラ笑って許すから、連中が付け上がるんじゃないか」
 まったく心配でたまらないと、久保は保護者の心境で溜め息を吐いた。
「ありがと、久保。心配してくれて」
 気持ちだけ有りがたく頂くよと言ってる間に、やがてチャイムが鳴り、退屈な自習時間が終わった。
「さぁてメシだ、メシ」
立ち上がって、啓介はひとつ伸びをした。
 昼休みを直前に、早弁する者もいたが、いまどき珍しく給食がないこの学校は、昼食は弁当か、もしくは校内の食堂でとるようになっている。
さっさと食堂へ向かう啓介に、久保は珍しいなと首をかしげた。
「おまえいつも弁当じゃなかったっけ」
「今日はちょっとな」
適当にごまかすと、啓介は足早に教室を出た。




 放課後は、朝の天気が嘘みたいな大雨だった。
 夕方、七時をようやく回る頃帰宅した啓介は、5キロの道のりを傘をささずに歩いてきたせいですっかりずぶぬれだった。
 今日の天気が変わり易いことは、あらかじめ予報で知っていた。なのに、靴の中が歩くたびに音を立てるほど濡れているのは、持っていってたはずの傘が、なくなっていたためだった。
 びしょ濡れのまま玄関に入ると、いつもなら塾で遅いはずの涼介の靴が先にある。
「あれ、アニキ早かったんだな」
「どうしたんだ、啓介。そんなに濡れて」
 玄関の開く音に顔を出した涼介が、あわてて掛け寄ってきた。
「あ〜あ、ビショビショだよ。傘持って行かなかったのか?今朝あれほど言ったのに」
 持って行ったけどなくなったんだとは言えなかった。
「こらこら、そんなカッコで上がったらどこも水浸しになる」
 靴を脱いでリビングへ行こうするところを引き止められる。
「ほら、濡れたものはここで全部脱いで。いま拭くもの持ってくるから」
 涼介はすぐに浴室からバスタオルを取ってきた。のろのろと制服を脱ぎ始めた啓介の濡れた髪をゴシゴシ擦る。
 言われて脱ぎ出したものの、濡れた服は肌に張り付く上、長時間雨に打たれた指先はかじかんで、上手くボタンもはずせない。
 見かねた涼介はそんな弟に手を貸して、手際良く濡れた服を剥いでいった。
「ちょっ、ちょっと、アニキ。それは自分で脱ぐからっ」
 任せきってた啓介だが、さすがにパンツを降ろされてはたまらない。
「なに恥ずかしがってんだ。早く着替えないとカゼひくぞ」
 無情にも兄の手はパンツを引き降ろしにかかった。
「ぎゃ〜っっ、やめろ〜っ!やめてくれ〜っ」
 死にものぐるいで抵抗するが間に合わず、慌てて手にしたタオルを巻き付けた。
「アニキのバカバカっ。変態っ」
 真っ赤になって睨む弟に、涼介は
「安心しろ。見えなかったから」
 と、苦笑いした。すっかり子ども扱いだ。
「遅くなったからお腹すいただろう。夕ご飯の用意してあるから着替えておいで」
 動揺する啓介に、兄は脱ぎ散らかした服を片付けながら言った。




 返事をして着替えてくると、涼介はすでに支度を整えていた。
「これ、全部アニキが作ったのか」
 テーブルに並んだ品々を見て、啓介が驚いた声を出した。
 二人分の食事だというのに、煮物から揚げ物まで十品の超える料理が、ところ狭しと並んでいる。
「ほかに誰が作るというんだ。これでも料理は得意なんだぞ」
「それは知ってるけど」
 苦手なものがあれば知りたいくらいだと思いつつ、一口摘まむと、
「ん、んまい。これけっこういける」
「こらこら。行儀が悪いぞ。ちゃんといただきますしてから食べなさい」
「は〜い」
 怒られても、おいしいものが目の前にあれば、啓介はごきげんだ。
 あらためて二人仲良くいただきますと合掌した。
「うまいうまい。アニキほんと料理の天才だよな」
 しばらく食べることに熱中していると、頃合いを見計らって、涼介がご飯のおかわりをよそってくれる。
「ほら、そんなに急いで食べると胸につかえるぞ。お茶を飲め」
「サンキュ」
 お茶を飲み干して一息つくと、啓介はほとんどの皿を自分一人で片付けていたことに気がついた。
「アニキ、ほとんど食ってねぇじゃんか。具合でも悪いのか」
急に心配する弟に、涼介は苦笑する。
「いや、おまえの食べっぷりの良さに見とれてたらなくなったんだ」
「え〜、なんだよそれ」
 食い意地のはったところをからかわれ、啓介はへそを曲げた。
 それをよしよしとなだめられ、
「デザートもあるぞ」
 という涼介の一言で、
「たべるーっ」
 啓介の機嫌は元どおり。好物の焼きプリンとあって飛びついた。実に単純である。
「でもアニキ、なんだって今日はこんなに豪勢なんだ」
「食べ終わってから聞くところがおまえらしいな」
「も〜、ちゃかすなよ」
「わるいわるい。いや、今日おまえに弁当作ってやれなかったから、そのお詫びをかねてたんだ」
「弁当なんて、そんなの気にすることなかったのに」
「でも、母さんはどんなに忙しくても作ってくれてたしな」
 しかし、それが必ずしもおいしいとは限らなかったが。
「うちの学校の食堂は金かけてるだけあって種類も豊富だけど、それだとおまえ自分の好きなものしか食べないだろう」
「そ、そんなこと…」
 絶対ないと言いたいが、啓介に好き嫌いが多いのも事実だ。
「そんな嫌そうな顔するな。おまえが嫌いなものもちゃんとおいしく食べれるようにしておくから」
「ん〜…」
 スプーンを咥えたまま小さく唸る。
 素直なだけに顔に出やすい啓介は、ほかにも心配事があるらしい。
「なんだ。まだ不満そうだな」
覗き込む涼介。それに対して、
「オレ、また生徒会室まで行かなきゃいけない?」
 上目遣いに問われ、涼介は啓介が何を心配しているか気がついた。
 新学期の当初、涼介たちの母は二人が同じ学校に通うのを幸いに、手間を省くため今まで別々に詰めていた弁当箱を一つにして持たせた。
 二人分だが弁当は一つ。二人は仲良く一緒に食べることにしたのだが、多忙な涼介は昼休みも生徒会室に詰めることが多かった。
 そこで啓介の方がわざわざ生徒会室まで行っていたのだが、兄とはいえ、かたや学校中の人気を誇る生徒会長。同じ弁当を突つく間、シンパの視線の痛いこと痛いこと。
 これで弟じゃなかったら、生きて生徒会室を出られないんじゃないかと思ったくらいだ。
 以来、啓介はこっそり母親に泣きついて別々の弁当にしてくれるように頼んだのだった。
あの高橋涼介の弟として時々話題になったとしても、今のところ平穏な日々を送っている身としては、今更恨みを買うようなマネはしたくない。
「わかってる。ちゃんと別々に詰めてやるから安心しろ」
 涼介にやさしく諭すように言われて、ようやくほっと息をつく。その様子に涼介が少しだけ傷ついていることも知らずに。
「なぁ啓介。おまえそんなにお兄ちゃんといるのが嫌か?」
「えっ、なんでそんなこと…」
「学校内じゃしょうがないと思ってたけど、最近一緒に登校するのも嫌がってるみたいだし」
「そ、そんなことねーよっ。オレ別にアニキのことさけてなんかいねぇし」
 憂いを帯びた眼差しを前に、啓介はあわてて言い募った。
「それにオレっ、アニキのことスっ、スキだし」
 最後の方はしどろもどろになった啓介だが、気持ちはちゃんと伝わったらしい。ニッコリと学園中を虜にする麗しい笑みとともに、
「オレも啓介がスキだよ」
 と、お返事が来た。
 日頃から見慣れているにもかかわらず、不覚にも啓介は赤くなる。
 そこへ自然に涼介の手が伸ばされ、
「……っ!」
 啓介の口元をやわらかな感触がかすめていった。
「なっ、なっ、…っ」
 驚きのあまり目を見開いて、呆然となる啓介。
「ア、アニキ…、今のは…」
「おべんとついてたよ」
 何が起きたのか、必死に確認しようとする啓介に、涼介はじつに涼しい顔でのたまった。その唇に残っているのは、まさしくたった今啓介が食していたプリンのかけら。
「……」
 啓介は一気に脱力した。
 確かに、プリンの食べこぼしを口のまわりにつけたままだったのは恥ずかしい。
 しかしこの時啓介が、ここが学校じゃなくてよかったと心底思ったとして、誰がそれを責められるだろう。
「アニキ、頼むからそれ学校でだけはやらないでくれ」
 やっとのことでそれだけ言うと、なんだ残念と笑われた。すっかり子ども扱いである。
「やっぱアニキが一番オレのこと子ども扱いしてるよなぁ」
「そりゃおまえはかわいい弟だからな。たまには兄としてかまってやらないとすねるだろ?」
「たった二歳しか違わねーだろ」
「いやいや、たかが二歳、されど二歳だ。身体つきだって、こんなに違うしな」
 言われてみればそのとおり。並んだ時の二人の背の差は、二十センチもある。
「た、確かにオレはチビだけど、大人の証明はそれだけじゃないんだぞ」
 むきになって言い返すと、それがおかしかったのか涼介はクスッと笑い、啓介の耳元に悪戯っぽく囁いた。
「だったら一緒にお風呂に入ってみるか?」
「え?」
 一瞬、何のことかわからず見返すと、間近に涼介の息遣いを感じた。いやでもさっきの唇の感触を思い出し、啓介は慌てて俯く。
 そこへ涼介の軽やかな声が追い討ちをかけた。
「 ナニがどれくらい大きくなったかお兄ちゃんと比べてみなきゃ。さっきは確かめ損なったしな」
「!」
とたんに啓介の頭はスパークした。
 慌てて立ち上がろうとして、勢い椅子までひっくり返してしまう。
「あっ、あっ、アニキ、それって…」
「おや、さすがに意味は分かったみたいだな」
 言葉も出ず真っ赤になる啓介。
 しかし、兄は無情にもニッコリ微笑み、
「心配するな。オレはどんな啓介もスキでいる自信はある」
甘い言葉でトドメを刺した。




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