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京焼のルーツを訪ねて

現代の焼物を語るとき、清水焼を抜きには考えられない。京都の焼物といえば清水焼で、多くの料亭でも会席料理というと、絵柄の洗練された京都の焼物を使っているところが多い。歴史的には京都の色絵陶器を完成させた、野々村仁清(ののむらにんせい)や尾形乾山(おがたけんざん)らの影響は多大なものがある。仁清の繊細で華麗な模様、乾山の絵画的な絵付けは独創的な美の世界を形作った。近代になってからは民芸運動の勃興とともに河合寛次郎や近藤悠三といった優れた名工を輩出して、京都のやきものの礎を作っていった。
一方でやはり京都の焼物と言えば、樂家に受け継がれている樂焼の存在を忘れるわけにはいかない。
樂焼とは

樂の名の興りは、古くは室町時代に樂家の初代長次郎が豊臣秀吉より「樂」の字を賜ったことに起源を発している。「聚樂第の茶碗」という名残の意味があるという。その当時から現在に至るまで、樂家および樂美術館のある場所は聚樂第のあった場所から400メートル東の上京区(油小路中立売上ル)にあり、表千家不審庵、裏千家今日庵、さらには武者小路官休庵からもほど遠からぬところだ。
樂焼の歴史に関しては、樂家十五代当主、樂吉左衛門が著した、「樂焼創成〜樂ってなんだろう」などの資料による他は知る由もないが、初代長次郎が中国からの渡来人で、瓦を制作する工人であったということは、驚くべき事実であった。
樂美術館の玄関を飾る
歴代の樂茶碗

樂美術館のある場所は、なんの変哲もない普通の住宅街の裏通り沿いで、地図を便りにでも行かなくてはとても行きつけるようなところではない。樂家の住まいの一角を利用した、全くのプライベートな美術館だからだ。1Fと2Fの2フロアーを利用した、こじんまりとした展示室だが、歴代15代全員のの樂茶碗が一同に並べられているのは圧巻だ。2代目以降の樂茶碗が、黒樂や赤樂でありながら他の京焼に相通じるような華やかさを秘めているのに対して、唯一初代長次郎の黒樂茶碗だけが、色あせた、鈍い色をしていて、異質なものに感じられたのは錯覚だろうか。
樂美術館入り口
澤井醤油本店の樽

京都の穴あきブロック
船岡温泉(大正12年創業)
京都は銭湯の宝庫

船岡温泉は北区紫野南舟岡町にあるが、この船岡山や大徳寺周辺から南下して北野天満宮周辺に至る地域は京都でも銭湯の宝庫のようで、地図で見るとざっと数えても30近くの銭湯が軒を連ねている。船岡温泉も本当の温泉ではないようだが、このあたりには温泉と名のつく銭湯が多い。きたやま温泉、大徳寺温泉、紫野温泉、門前温泉、大宮温泉、成巧温泉とあり、北野天満宮周辺にも北野温泉、梅の温泉、山城温泉、衣笠温泉、竜宮温泉などがある。もちろん初音湯、桜湯、玉の湯など、東京でもおなじみの名前の銭湯もあるのだが、金閣寺の近くに金閣寺湯と金閣湯があるのがおもしろい。それでは銀閣寺の近くにはというと、ありました、銀閣寺湯と銀水湯。あとはやはり祇園あたりに多いのだけれど、名前は千歳湯、大黒湯、旭湯など、比較的ありふれているようだ。
藤ノ森温泉跡の離楽庵
茶わん坂下のうどん屋喜楽
   
茶わん坂の風情

清水寺に行くには、修学旅行生は真ん中の清水坂を上る。ちょっと知っている人は北の二年坂や三年坂(産寧坂)から、あるいは南の五条坂から上る。でも五条坂の京都陶磁器会館を過ぎてからY字路を右に行き、さらに南寄りに位置する茶わん坂を上ることもできる。この道は人通りもまばらで、かといって結構いろんな店もあってなかなか風情のある通りだ。「茶わん坂由来」の立て看板によると、その由来は古くは聖武天皇(734〜743)のころ、僧の行基が清閑寺村茶碗坂で製陶を始めたことにより、また徳川家光の時代に屋久兵衛なるものが五条坂一円で彩色陶器を作り始めたのが清水焼の始まりだと言う。
茶わん坂
京扇子の伊藤常商店
焼物の風鈴
西陣織岡本織物店
茶わん坂のお店

茶わん坂には焼物を売る店ばかりでなく、いろいろなお店が点在していて、通行人の目を楽しませてくれる。京扇子だけを売る店が数軒あった。なかなかきれいな絵柄のものが並んでいる。扇子は盆地で蒸し暑い京都では、必需品なのかも知れない。焼物の風鈴が涼しげに軒先に並べられていた。あまり風がなくて音色を聞くことはできなかったが、どんな音がするのだろう。坂を上りきったあたりには西陣織を売る岡本織物店があった。結構、若い女性で賑っていて、織物そのものと言うよりも西陣織りを利用した小物が人気を集めて入るようだった。
             
近藤悠三記念館

近藤悠三について
近藤悠三と言う人は知る人ぞ知る近代の京焼の名工なのだろう。とにかくこの記念館のあるところで生まれ、ここを仕事場としていたとのことだから、生粋の清水寺門前の人ということになる。民芸運動の勃発とともに活躍し、大胆で男性的なタッチの染付けの絵皿に柘榴や葡萄を描き、えもいわれぬ赤ぶどう酒色で上絵付けを施した皿は見事である。また、独特の方法で金の絵付けを施した富士も傑作だ。1977年、75歳で重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定、1985年、83歳で没するまで第一線で活躍。
国宝清水寺本堂の鬼瓦
清水寺境内のお地蔵さん


清水坂もろもろ

清水寺真正面の清水坂は修学旅行生や外人でごった返していた。道沿いの店は大賑わいだが、わき道に入るとふっと静かな空間が広がっていたりする。この店はディスプレーも英語で書かれていて、奥のカフェで外人の集団がお茶(コーヒー)をしていた。ビールを飲んでいたのかもしれないが・・・。
露天に並べられた陶器
産寧坂(三年坂)から二年坂へ

国の重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に指定されている町並みや集落が全国に55ヵ所ある。この中に京都では嵯峨鳥居本、上賀茂、祇園そしてこの産寧坂が含まれている。保存地区に指定されているのは、産寧坂(三年坂)、二年坂から高台寺道の周辺と、八坂の塔(法観寺)から下河原通周辺のエリアだ。残念ながら?清水坂周辺は含まれていない。また、ちなみに関東の伝建地区はどこかというと、川越(埼玉)と佐原(千葉)の商家町、少し離れて福島は下郷町の大内宿(宿場町)が指定を受けているものの東京、神奈川に指定地域はない。
産寧坂入り口
瓢箪と招き猫の店
破風のある軒先
町屋を思わせる通り抜け
産寧坂沿いの町並み

産寧坂の名前は清水坂にあった安産信仰の子安塔に由来するらしい。三年坂の別名の方は、三年坂で転ぶと三年で死ぬといういやな俗信があるらしい。転ばなくて良かった。ふとした路地に京都の町屋造りの構造を垣間見る。瓢箪と招き猫を扱う店がユニークだ。上の写真のみやげものやは屋根の上の飾り付けが見事だった。特に東京の銭湯の屋根を思わせる破風作りの屋根を見つけたときは思わず嬉しくなった。もちろん、神社仏閣の屋根をまねているのだろうけど・・・。
             
清水下、文斎窯の煙突

窯元、文斎窯
清水の窯元

五条坂を下った東山通りを起点にして五条大橋に向かう錆びれた大通り(五条通り)沿いに今でもいくつかの窯元が点在している。有田や備前でも見られるような窯元独特の煉瓦作りの煙突を見つけたときは、京都にきて一番の喜びだった。五条通りからでは煙突見えず、ガイドブックにも書いてない。たまたま、穴あきブロックを探して裏道をぶらついていて、偶然目の前に現れたものだから、その驚きもひとしおだった。すぐに正面に回って確認したら文斎窯という立派な窯元だった。今でもここで焼物を焼いているのだろうか。店の正面は閑散としていて、店を開けている様子はなかった。ちなみに河井寛次郎記念館があるのは、この通りの反対側の路地を入ったところだ。
文斎窯入り口
陶器の狛犬
若宮八幡宮

五条坂裏筋、建物の横壁
若宮八幡宮

窯元に両脇を挟まれるようにして若宮八幡宮の入り口がある。陶器神社と呼ばれていて、古くは陶祖椎根津彦命(いねつひこのみこと)を祀り、その後は仁清、乾山、木米を祀っているという。氏子の陶磁器業者が中心となって毎年、8月7日から10日の若宮祭の協賛事業として陶器市が催されるとのことだが、普段は訪れる人は人っ子一人いない。狛犬と賽銭箱が陶製とのことだが、本堂付近には立ち入る事ができず、垣根の隙間から陶製の狛犬を眺めた。鳥居脇の石碑に「清水焼発祥の地、五條坂」と書いてあった。さらに五条通りを進むと和菓子屋の五建ういろがある。
             
鴨川越しに観る割烹鶴清

鴨川と五条大橋
牛若丸と弁慶が出会った「五条の橋」は五条大橋のことだとばっかり思っていたが、一つ北側の松原橋だというから、わからないものだ。五条大橋のそばには有名な割烹鶴清がある。夏場はここの屋形船のような縁側で、涼をとりながら食事をするのが通の楽しみと聞いた。五条大橋のたもとから見る鴨川の流れはゆったりとしていて、悠久の変わらぬ自然の営みを感じさせた。
料亭の破風
ビルに埋もれる古家

五条楽園と高瀬川沿い

五条大橋を渡って京都駅に向かう途中、妙に錆びれた、ふつうでない雰囲気が気になって、路地裏へ足を踏み入れた。するとそこはお茶屋が軒を連ねる一角、五条楽園であった。街の片隅には五条楽園歌舞錬場もあり、このあたりもかつての花町であったことを覗わせる。そのためか弁天湯、梅湯などの銭湯も多く、楽園の面影を残していた。ちなみに祇園には宮川町歌舞錬場、祇園甲部歌舞錬場がある。
五条楽園歌舞場
弁天湯
梅湯
新京都駅改札付近
新しい京都駅

五条楽園から河原町通りを南下し、七条通りを通って京都駅へ向かった。新しい京都駅の外観は、まるでロンドンのユーロ特急の出発駅のような斬新なデザインだった。改札周辺の開放的な構造も他に類をみない、ヨーロッパ的な感覚の作りだ。プラットホームもあくまでも広く、高く、長距離列車の終着駅の趣だ。旅の終わりを締めくくるにふさわしいと感じ、満足感に浸ることができた。
新京都駅プラットホーム
京都の焼物の旅を終えて

焼物の産地というのは、一般的には山間部にあって一つの焼物の街を形成しているようなところであることが多い。街に入ればどこもかしこも焼物一色に埋め尽くされていて、訪問先を見つける苦労もない。そういう観点からすると京都という街はひどく異質な存在だ。清水焼の陶磁器を扱う店はいっぱいあるけれど、焼物の産地としての臭いを感じ取れるかどうかは全く自信が持てなかった。しかし、五条坂の煉瓦作りの煙突を見たとたん、京都も決して例外ではないということを実感できた。そういう目で見てみると東山界隈もまさに焼物にうってつけの地形をしている。京都という街があまりにもいろいろなものを内抱しているために、焼物の産地としての京都がわかり難くなっているだけなのだろう。窯元の多くが山科の清水焼団地に場所を移しつつあるが、これまでどおり京焼の伝統を受け継いでいってほしいものだ。
             


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