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永六輔・町田忍著の「TOKYO銭湯ウォーキング」に書かれている本郷編のとおりに歩いてみることにした。ただし、出発地点は地下鉄三田線の白山駅。はじめに訪れたのは、これも本には書いてなかった白山神社へ。 白山神社遠景

本籍地が白山御殿町(これは旧住居表示で、今の白山)なのにほとんど訪れたことがなかった。お詫びの意味も込めて白山神社にお参り。御殿の名の由来は犬公方と呼ばれた5代将軍徳川綱吉のもともとの御殿があったことによる。 白山神社正面

白山神社本瓦 ここはアジサイの花の頃がいいらしいが、藤棚?も気になる。今は何の花も咲いてない。本瓦葺の屋根に落ち葉が積もって風情があった。

八百屋お七の墓 ほかのガイドブックもちょっと拝見して八百屋お七の墓参り。お七が通ったという路地をみた。2つ折れ3つ折れの小道で、いかにもそれらしい感じだった。お七は恋のために放火をして火炙りの刑にあってしまった15歳の少女だ。

野水家商店 次が町田氏ご推薦の野水家の、昭和初期の西洋風建物。むかしの建物はなかなか立派だ。細かい部分にもデザインが施されているのがよくわかる。そういう芸術的側面が今の建築では省略されていることを改めて実感させられる。

次に本郷探索の目的の一つである最初の銭湯、鏡湯にやってきた。が何と本日定休日であった。中庭も残っていて、いい感じだ。鏡湯の看板も大きく立派で男性的な印象。 鏡湯正面

平入りながら瓦葺屋根で、横から見れば破風もある。町田氏によれば、番台のある宮造りとあり、日曜日には朝湯もやっているらしい。 鏡湯側面

本郷追分の交差点は中仙道への分岐点で、日本橋から数えて最初の一里塚のあったところ。ここにある高崎屋酒店は宝暦年間創業の老舗とか。 高崎屋酒店

万定フルーツパーラー 東大正門前の向かい側にある万定(まんさだ)フルーツパーラーでカレーライスを食べた。開業は大正3年で、現在の建物は震災後の昭和3年に建てられたものとのこと。おばさんは上品で丁寧で、カレーも申し分なかった。コーヒーも味わって、後ろ髪を引かれる思いで店を後にした。満足したあとで写真を1枚。

東大壁と樹木 これは東大構内の建物脇の樹木。敷地の狭いところにあるためか壁にへばりつくように伸びていて、壁面のオブジェの様だった。幹の伸び具合と色のバランスがおもしろかった。

三四郎池は加賀百万石といわれた前田家の上屋敷跡の庭園跡だが、そのことは最近まで意識したことはなく、せいぜい三四郎の姿を思い浮かべるぐらいだった。荒れ果ててはいるが、紅葉が昔を彷彿とさせた。 三四郎池と紅葉

池の上には瓦葺の倉庫のような建物がある。そんなに古いものではなさそうだがけっこう立派な本瓦葺で、色づいた銀杏とのコントラストがまぶしかった。建物のいわれはわからない。 銀杏と蔵屋根

鬼瓦の鬼の顔をしげしげと眺めてみたら、なるほど鬼そのものであった。柴又帝釈天でみたものと同じ? 鬼瓦

東大赤門裏 東大赤門唐破風

東大赤門瓦近景 赤門は東大の代名詞ともなっていて、我々凡人には敷居が高いが、もとはといえば加賀藩邸の門。考えてみたらこれだけの立派な武家屋敷の門が他にどこに残っているだろう。

東大赤門なまこ壁 ここにこんなに綺麗ななまこ壁があるとは今まで気がつかなかった。だいたい都内の古い建物は震災と戦災でほとんど残っていないのだから、そう思うと一つ一つのものが貴重に見えてきた。梅の紋章は加賀藩のものだろうか?

      東大赤門鬼瓦 東大赤門瓦屋根

本郷かねやす 「本郷もかねやすまでは江戸のうち」とは大抵のガイドブックに書いてあるし、この店の左脇の石碑にも刻まれている。薬種・小間物商だったらしいが、今もこまごましたものを扱っている。

九谷焼商店 春日通りの一つ裏のこじんまりした通りが昔の大横丁通りだ。だいたい今の大通りの一本裏が昔の繁華街であることが多い。ここはまた町田氏の世界で、銅板貼りの戦前の建物がいくつも残っている?あるいは残されている?写真の店は加賀の焼き物、九谷焼を売る店のようだが、閉店間近かなのか売りつくしと書いてあるのが気になる。

化粧品店かさい こちらは資生堂化粧品かさいと書いてある。営業中かどうかわからない(少なくともこの日は営業していない)。店がいつも閉まっていて店の前に車を停めてしまう人がいるためか、「駐車ご遠慮下さい」と書いた張り紙がしてある。

炭団坂へ向かう途中の取り壊し予定の民家。こんなに門構えが立派で玄関に破風のある家に住んでいた人たちは、今はどうしているのだろう。歴史と呼ぶには短か過ぎるスパンの話だが、栄枯盛衰を感じさせられる。 民家(廃墟)

アライ理髪店はかつて「喜之床」という床屋で、石川啄木の住居跡だそうだ。かつての建物は明治村に保存されている。床屋も屋号をつけていたのがおもしろいし、風情のある屋号だ。 喜乃床跡アライ

炭団(たどん)坂を下るといよいよ昔ながらの細い路地道へ。樋口一葉住居跡とゆかりの井戸を通り越して、鐙(あぶみ)坂を下っていくと菊水湯の前に出る。開業直前で一番湯をねらう人たちが早くもたむろしていた。 菊水湯玄関

げ魚のモチーフはわかりやすく、菊と流水を表している。唐破風屋根ともども立派なものだ。女将さんの四季折々の手作り暖簾が見られなかったのは残念だ。 菊水湯げ魚

伊勢屋質店遠景 さらに菊坂通りに出てすぐのところに一葉ゆかりの伊勢屋質店の古い建物と倉がある。文京区の立て看板の説明書きがあり、文化財扱いされているようだ。

伊勢屋質店正面 それにしてもまるで京の町家のような建物が東京にもあったのかと思うと不思議な気持ちになったが、考えてみれば江戸時代には東京中が京都のようであったに違いない。震災と戦災で失われてしまっただけなのだ。

となりの八百屋 倉の左隣にあるのが、屋根が傾いて今にも崩れそうになっている現役の八百屋さん。立て看板こそないが、ここにも一つ戦前ではなく戦後の昭和が終焉を迎えようとしている姿を見た。

菊坂から胸突(むなつき)坂を上った。ここを歩くと胸を突かれるように苦しくなるのかと期待しすぎていたためか、胸が何ともなくてがっかりした。鳳明館は今も営業中。このあたりはかつての旅館街だ。 鳳明館

旅館街やら本郷アパートをみて、朝日湯に向かったがなかなか見つからない。駐車場の奥を覗いてびっくり。そこがかつての朝日湯の洗い場だった。ガイドブックに載っているのと同じタイル画が。 朝日湯跡のタイル絵

脇に目をやるとカランの跡もちゃんと残っている。白山1丁目には先の鏡湯とここともう一つ富士見湯がある。ちなみに白山2丁目には光楽湯と白山浴場がある。町内会に5件はきつかったのか? 朝日湯跡カランと壁

朝日湯から白山通りへ向かう右曲がりの路地の途中の民家は欄干のある洒落た建物だ。昔は窓を開けて欄干から外の空気を吸えるような生活だったに違いないと感じさせるような建物だ。 欄干のある民家

富士見湯全景 富士見湯破風

富士見湯は正面破風3重で、左右にも千鳥破風を覗かせた期待通りのそれは美しい銭湯だった。廃業の朝日湯に落胆した後だったためか、この威風堂々の構えを前に喜びがこみ上げた。 富士見湯屋根

富士見湯玄関

初音湯全景 初音湯破風

さらに白山通りを渡って小石川2丁目に入る。初音湯もまた美しい正面を持つ銭湯だった。鬼瓦もげ魚も素晴らしい。 初音湯鬼瓦

げ魚のモチーフは松の枝をバックにした2羽の鶴だろうか。木彫りの立派なものだ。
ここは比較的道幅のある裏通りだ。左脇からのぞき見た煙突の根本のところがあまりにも太いのに改めてびっくりした。
初音湯側面と煙突

初音湯玄関

善光寺門と柿 善光寺坂を上ると善光寺の山門をちょうど閉めているところだった。門の朱色と境内の柿の実の赤い色がよくマッチしていて、晩秋の寂しさを醸し出していた。

椋の大木 慈眼院のそばの沿道沿いに椋(むく)のほとんど枝のない巨木が残されていた。往年は大きな傘のような、さぞ立派な巨木だったに違いないと想像を巡らした。

もうひとつの徳川家の菩提寺の伝通院についたときは、すっかり暗くなり始めていた。こんな時間にもお参りをしていた老夫婦がいた。 伝通院本殿

写真以上に暗くて誰もいない墓地に入って、もっと早い時間に来れば良かったと少し後悔した。ここは徳川の何人もの奥方達が眠っているところなのだ。 徳川家奥方の墓

家康の母お大の方(伝通院)の墓石はすぐに見つかった。波乱の生涯を送った千姫の墓石をみつけたときはもうすっかり夜の帳が降りていた。人影もないところでご対面してしんみり。

北野神社夜景 伝通院前の参道は今は使われていないのに、その割に違和感のあるぐらい大きな広小路として残っていた。最後に牛を祭っている北野神社への階段を駆け上り、社の両側に鎮座する牛石に挨拶した。


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