ファンクラブに入会
 さて、セカンドアルバムが出て、その年の冬にはすっかり織田哲郎のとりこになっていたわけですが、とにかくメディアでの露出が少ないというか、単に売れていないだけなのか、TVにも出ない、雑誌にもほとんど載らない、という日々が続きました。最新情報、というものに飢えていました。ファンクラブがあれば入りたいと思っていたのですが、それすらよくわからない、という状況でした。(今だったら、インターネットという便利なものがあるからいいんですけどね) 

 サードアルバムはセカンドの1年後くらいには出る予定だったのですが、詞がなかなか完成しなくてかなり後れて発売になりました。大学3年の8月後半でした。待ちくたびれるくらい待ったのですが、今振り返れば、こんなの序の口でしたね。だってこの時代は毎年アルバム1枚ずつリリースしてるんですから。ここ10年間アルバムを出してないということを思えばはるかに幸せだったということになりますね。
 
 さて、サードが出るまでに織田さんの「声」をちょっとでも聴きたくて、コーラスで参加している他のアーティストのアルバムをレンタルで借りてきたりもしました。マリーンとかマライアとか秋本奈緒美とか・・・。4枚目のアルバムまでずっと一緒に活動してきた北島健二のソロアルバムにボーカリストとして参加していることを知って、例の進藤先輩にレコードを借りてテープにダビングもしました。それほどまでに彼の「声」に飢えていたということです。「渇望」してましたね。ソロデビューする前に、「WHY」というユニットで1枚、「9thイメージ」というバンドで1枚アルバムを出していたので、これも入手しようとしたのですが、見事に両方とも廃盤になっていまして、断念。(その後しばらくしてから9thイメージはCDが再発されたので迷わず購入しましたが) 

 で、待望のサードアルバムのタイトルはNIGHT WAVES。1曲目は「Baby Rose」という曲で、後に近藤真彦が気に入って自分のシングルとしてカバーしました。それなりにヒットしたようです。(関係ないけど私は近藤真彦と同い年です) 最初はシングルのB面になるはずだったのがなぜかA面になったそうな。織田さん本人はこの曲をシングルカットはしていませんが、マッチがカバーしてからは、ライブでこの曲をやる時に「近藤真彦でおなじみの・・・」という紹介をつけるようになってましたね。言うまでもなく、マッチはこの曲を歌いこなしていないのですが。このアルバムからのシングルは3曲目の「STAY〜置き去りにされた愛の中で〜」という地味な曲でした。一応シングルも買いました。(アルバムの発売1ヶ月前にリリースされたので)

 当時の日記を読んでみると、「もう最高」とか、2曲目と4曲目が「背筋がゾクゾクするほど気にいってしまった」とか、「今回のアルバムの特徴は転調がけっこう多いってこと」とか書いております。「セカンドよりもグレードは確実にアップしている」なんて書いているのですが、後になってからはこのサードよりもセカンドの方が好きでしたね。サードはレコードで言うB面の印象が薄いんですよね。
 
 で、このサードアルバムの歌詞カードだったか、アルバムの雑誌広告だったかに「ファンクラブ募集中!」ということが書いてありまして、「おおっ!あったのか!」と思い、早速入会しました。当時の名前は「ハスラーズ・クラブ」。事務所の名前が「ハッスル・ミュージック」だったのでそこからつけたみたいです。会員番号は00188。けっこう若い番号でしょ。途中で事務所の名前も変わってファンクラブ自体の名前も「ティーズ・クラブ」(Tは「哲郎」のイニシャル)に変わったのですが、今も会員番号は000188です。桁がひとつ増えています。0で始まる番号は今ではけっこうレアなはず。当時の会報とかもほんとに手作りのものでしたね。そもそも「入会要項を送ってください」という手紙を送ったら、それに対して手書きの返事がきましたからね。印刷とかコピーじゃなくて。織田さんの初期のアルバムにコーラスで参加したりしていたPICという人の直筆でした。当時のファンクラブはこのPICさんが切り盛りしていたようです。会報の字も手書き(さすがにコピーだけど)で、たしかPICさんの字だったんじゃないかな。少ししてから会報などはきちんとした印刷のものになっていきましたが。

 というわけで、ファンクラブに入り、定期的に情報は入手できることになりました。同じ頃にCBSソニーの方で「バックアップパーティ募集」とかいうのがあって、そっちにも参加してました。「新曲を有線放送やラジオのチャート番組にリクエストしよう!」というような企画があったりしました。そんな情報の中、サードアルバムが出た年の秋、FM北海道の「夕方タウンビート」(生放送)という番組に織田さんがキャンペーンでl来る、ということを知り、「NIGHT WAVES」を持って(もしかしたらサインしてもらえるか、という淡い期待を抱いて・・・)、スタジオのギャラリーまで見に行きました。今はドンキホーテになってしまっているYESという大型家電店の上のほうにあるカプセルスタジオでした。メジャーなゲストが出演する時は超満員になるギャラリーが、その日はガラーンとしていました。ほとんどいない客の大半は番組をいつも見ているような常連だったようです。短い番組なんで番組はあっという間に終わりましたが、私は最前列に座って織田さんを見ていました。ガラス越しとはいえ、本人を間近で見たのはこの時が初めてでした。その日の日記にも「とにかく実物をこの目で見てきたってことに今日の収穫がある」と書き残しています。番組のトークの中で「札幌でライブをやりたい」とか「今度来る時はバンドを連れて来たい」と力を入れて言っていましたが、それが実現したのはなんとその3年後の1988年のことでした・・・。しかし、今思えば、この時は惜しいことをしましたねえ。まだ大学3年だった私は押しが弱く、こういう時に自分の願望をはっきり表現することができませんでした。今の自分だったら、スタジオのガラス越しにアルバムジャケット(CDじゃなくてレコードですからね、けっこう大きい)を見せてアピールし、ついでに「サインしてください」くらいのことを別の紙にマジックなんかで書いてみたりして、可能な限り努力をするだろうなあ・・・。

 生のライブを体験するのはまだまだ先の話ですが、上記のエピソードの数日前にFMでスタジオライブがオンエアされ、当然私は最高級のテープ(当時は「メタル」)を用意してしっかりと録音しました。発売してまもない「NIGHT WAVES」からの曲が5曲(A面のみ)と9thイメージ時代の「色褪せた街」とファーストアルバムの最後の曲「SOMEBODY TO LOVE」の合計7曲でした。録音中は、途中でノイズが入らないかとかデッキが故障するんじゃないかとかテープが曲の途中で切れたらとかかなり不安でたまらなかったですね。めったにない機会ですから。「デッキから(テープを)取り出して5秒後にはしっかりツメを折った」と日記にも書いています。このテープは今も宝物として保存してあります。この間カーステレオが故障してカセットしか聴けない状態になった時に久々にこれを聴きました。懐かしかった!


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