剱岳(つるぎだけ)・劔岳・剣岳
(別山尾根ルート) 1人で登る
2010.08.14(剱沢へ)〜(悪天候のため停滞)〜08.17(劔岳)〜08.18(立山三山縦走) |
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別山から見る劔岳
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標高 |
剱岳 2999m
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歩く標高差 |
累積 計1500m
(全日程2200m)
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歩行距離 |
約13Km
(全日程20km) |
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行動時間 |
行動日 1日目
約3時間半 |
室堂ターミナル〜50分〜別山乗越・新室堂乗越分岐〜1時間30分〜剱御前小舎〜30分〜剱沢野営場 (剱沢野営場テント泊)
歩く標高差累積500m、歩行距離約5km |
停滞2日 |
悪天候のため停滞(剱御前小舎泊) |
行動日 2日目
約8時間 |
剱御前小舎〜30分〜剱沢野営場〜40分〜剣山荘〜20分〜一服剱〜40分〜前剱〜30分〜カニのタテバイ〜30分〜剱岳〜15分〜カニのヨコバイ〜30分〜前剱〜30分〜一服剱〜20分〜剣山荘〜30分〜剱沢野営場〜30分〜剱御前小舎(剱御前小舎泊)
歩く標高差累積1000m、歩行距離約8km |
行動日 3日目
約6時間 |
剱御前小舎〜30分〜別山〜60分〜真砂岳〜40分〜富士ノ折立〜15分〜大汝山〜15分〜雄山〜40分〜一ノ越〜50分〜室堂ターミナル
歩く標高差累積850m、歩行距離約7km |
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データ |
■■■■■■■■■■■■■■■ 剱岳について ■■■■■■■■■■■■■■■ |
さあ、今年の夏は憧れの剱岳にいよいよ挑戦だ。
この剱岳には、さまざまなエピソードがある。
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明治までさまざまな人がこの峰に挑戦するが、登頂不可能の峰とされていた。弘法大師が草鞋千足を費やしても登り得なかったと言われている。
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A |
明治40年7月13日陸軍参謀本部陸地測量部の一行によって、ついにその頂上が踏まれる。しかし、人跡未踏と思われていたその頂には、槍の穂と錫杖の頭があり、いつの年代かははっきりとしないが、修験者によってすでに踏破されていたことがわかった。(この辺の出来事が映画「点の記」で扱われている。)
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B |
国内の一般登山道(登攀用具等を使わずに登る)としては、最難関ルートと言われている。 |
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C |
現在の剱岳の標高は2999m(2004年の再測量結果)。1950年〜1960年代は3003mとされ、その後は2998mとなった。つまり、剱岳山頂に立つと、丁度首より上は標高3000mの天空に位置することとなる。 |
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D |
立山信仰では、剱岳は針山の地獄として描かれ、登ることが許されない山であった。 |
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E |
険しい山域として知られ、平成21年度の遭難は発生件数88件、遭難者数93人であり、毎年90件、100人近くの遭難が多発するところである。 |
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さあ、自分の力量を確かめながら数ヶ月訓練を続け、いざ、富山に出陣となった。
富山に着いて、駅前のホテルに泊まる。テレビで天気予報に釘付けになるが、かんばしくない。しかし、台風一過、ひどい雨ではなさそうである。とにかく、室堂まで行って、旅程を練ることとした。
■■■■■■■■■■■■ 行動日1日目(剱沢へ) ■■■■■■■■■■■■ |
富山駅から朝一番、5:44発の富山地鉄電車に乗る。同じようにザックを抱えた仲間達が多く駅に集結している。対馬のフェリーや博多駅では、大きなザックを背負った姿はなんとも風景に浮いてしまっているのだが、富山駅では、こんな輩がたくさんいて、通行人の目も気にならずうれしくなる。この日はお盆時期でもあり、立山駅からは室堂まで直通バスが出ていたので、ケーブルカーが省略できた。ずっと空具合を気にしながら、外を眺めるが、視界に入るのはずっと濃いガスの中。目の覚めるような展望の道を進んでいるのに間違いないのだが、白くぼんやりとした景色が広がるばかりである。標高が上がっていくが、雨風はそれほど強くないようで、とにかく剱沢まで行こうとバスの中で考える。
そして、標高2400mの室堂に到着。
「んん!」
なんだが突風が吹いている。雨も横殴りとなった。下りるとき、係員が大きな声で、
「今日は雷注意報が出ています。登山にはむきませ〜ん!」
と叫んでいる。しかし、室堂ターミナルの中はこの天気の中でも、多くの人でごったがえしていた。下りてきた人と登る人が間混ざっての混雑である。今回はテント泊の予定であるが、天候次第によっては、すぐ山小屋に変更する覚悟を決めて、出発の身支度をした。室堂ターミナルから、室堂平に出ると、バスを下りた時に比べ、雨も少しやわらいでいる感じがする。『慎重』の文字を頭に刻んで、ガスの中をスタートである。
室堂平から火山ガスが噴出する地獄谷を経て、雷鳥沢キャンプ場を横切る。色とりどりのテントがならんでいるが、多くのテントはこれからの天候の崩れに備えて撤収をしているようであった。木の橋がかけてある沢を横切り、別山乗越の登山口へ。
これからはしばらくの登りである。25kgの荷物をえいちらと抱え上げなければならない。ゆっくりゆっくりのアルプス歩きで進もうと決める。しかし、歩き出して、ひとまず団体に道をゆずってもらうと、わざわざゆずってもらった手前、もうその団体に抜かれるわけには行かない。この辺の見栄が身を滅ぼすのだろう。結局、雨風の中、意地の歩きとなってしまう。この辺がまだまだ未熟だ。
白いガスの中なのだが、たくさんの人と歩いているという実感、立山連峰の中にいるといるという高揚感が、雨風のつらさを忘れさせてくれる。いつも島の道を一人でもくもくと歩く変化のない毎日は、雨でさえ、この地にいることを楽しく感じさせてくれる。
もくもくと登っていると、突然建築物が目の前に現れた。別山乗越の剱御前小舎である。2階建ての白い壁の建物は、この乗越で各分岐点の要所として、貴重な役目を果たしている。ちょっと中を覗いてみると、受付にとてもやさしいそうな男性と女性がいる。管理人の心平さんとヒーちゃんさんである。玄関に入ると、心平さんから
「そちらが休憩所になっていますので、ゆっくりしていってください。」
と温かい言葉がかかる。しばし、椅子に腰掛け、暖を取りながら我に返る。このときは、まさか今回の山旅でこの剱御前小舎に3泊もすることになろとうは思いもしなかった。しかし、とても温かさが心に残り、寒い雨風の中、去りがたい山小屋だった。
剱御前小舎を後にし、剱沢野営場を目指す。あいかわらずガスと小雨は降り続く。時折、強い風が横から吹きすさび、体をゆする。初めての道でもあり、自分の身の回り20mほどしか見えないので、慎重に歩を進めていく。30分くらいすると、これまた突然、色とりどりのテントが右側に現れた。剱沢野営場である。
劔沢野営場には着いたが、さて、どこにテントを張ろうかと考えて見て回るのだが、ガスのため全体的な地形が読めない。水場やトイレがどこにあるのかさえわからない。しかし、雨風は強まりつつあった。雨の中じっとしていると寒くてしょうがないので、適当な一箇所を見つけて、テントを設営することにした。
しかし、これが難儀だった。雨風は容赦なく横から殴りかかってくる。テントはポールを通して立てると、風に吹き飛ばされそうだ。一箇所にペグを打ち、固定しながら作業を進めるが、気づけばテントの内部とザックはずぶ濡れである。必死になって、風でテントが絶対に飛ばされないように押さえながら、ペグの上に多きな石を積み重ねる。ロープが切れたり、布が裂けてしまえばそれまでである。横殴りの雨と突風と戦いながら、どうにか設営を終え、テントの中に潜り込む。
濡れたザックとテントの底をよく拭いて、しぼって、また拭いてと何度も繰り返す。どうにかテント内の水浸しも落ち着き、寝転がってみるが、横からの突風でテントの形は変形し、側面の生地が目の前までせまってくるありさまである。体感で寒さを感じる度合いが強くなってきたので、濡れたシャツを着替えてシュラフに潜り込んだ。テント内は激しい雨が布を打つ音で充満し、ときおり強い突風の音が耳を刺す。寒くて心細さがつのるばかりだったが、おかしを無理矢理、口に放り込み、イヤホンをつけて、ラジオを聴くと気持ちが少し落ち着き、はっと我に返るありさまだった。
夜は、テント前室で生地に引火しないように最新の注意をしながら、調理をした。あたたかいものを食べると少しほっとする。いつも思うのだが、人間、寒さを強く感じると否定的になったり、悲観的な考えに思考が支配されがちになる。暖をとるということは、気持ちを落ち着かせ、適切な判断力を取り戻すということにもつながるようだ。
夜中も雨、風はおさまらない。ラジオでは、富山県地方に大雨警報が発令されたと告げている。同時に雷、突風に注意ということである。えらい日に入山してしまった。この風にテントが持つかなあとか、竜巻がくればどうしようもないなあとか、テントごと飛ばされたらどう脱出するかなど、まさかの場合に思いを巡らせて、なかなか眠りにつけない夜を過ごすことになった。極めつけは、午後11時頃のNHKラジオ。なんと怪談話が始まってしまった。この状況で幽霊の怖さにまで、神経を尖られたら、もう精神が崩壊してしまう。しかし、最後まで聞いてしまった。幽霊に比べたら、この雨風なんてなんでもない。もう、なんでもこいの夜である。
朝になると、雨は小降りになった。風もずいぶんおさまった。しかし、剱岳は濃い雲の中。今日は剱岳アタックは無理である。岩場が連続するこの山に、岩が濡れた状態と風が強い日の入山は危険過ぎる。本来なら今回は剱岳に登ったあと、3泊4日をかけての立山〜薬師岳〜折立への縦走を考えていた。しかし、数日天気は回復しそうもない。今回は天気がいい日の剱岳登頂を最大・最低の目標にすることとした。このままテント泊での停滞も考えたが、2日間程度の停滞を何もないテント泊で過ごすことは至難の技である。また、剱沢野営場は携帯が通じず、家族と3〜4日も音信不通になっては心配をかけてしまう。すぐ近くの黒部川では登山者が川に流されるという事故が昨日あったばかりである。途中寄って、とても感じがよかった剱御前小舎に数泊し、携帯が通じる室堂まで下りてひとまず家族に連絡をとることとした。
■■■■■■■■■■■■ 停滞(剱御前小舎にて2日間) ■■■■■■■■■■■■ |
剱沢でテントをまとめ、剱御前小舎に向かう。雨はほとんど上がっていたが、時折の風は冷たい。剱御前小舎に着き、宿泊の旨を告げる。食料のストックは余裕があるので、素泊まり6000円で泊まることにした。床を濡らしてはいけないので、スーツをすぐ脱ごうとしていると、支配人の心平さんが、
「寒かったでしょう。あの部屋が乾燥室になってますので、そこで脱がれて、落ち着いてから受け付けをしましょう。」
と声をかけてくれた。
「あっ、お客さん、そこ、床濡れるからスーツ脱いでね。」
なんて、言われるかと思っていたので、なんとやさしい言葉だろう。昨日から自然の厳しさにちょっと参り気味だったので、この暖かい言葉に心を打たれてしまう。乾燥室にはジェットストーブがあり、びしょり濡れだったスーツやスパッツ類があっという間に乾いてしまった。この日は前日の疲れもあり、午後の時間に3時間も爆睡してしまった。
翌日も天気が悪く停滞。1日山小屋で過ごせるかと心配していたが、たくさんの山の本を読みあさっているうちに、あっという間に一日が終わった。雨がやめば、剱御前に散歩がてら歩こうかと思っていたが、終日雨となり、缶詰状態だった。剱御前小舎は稜線上にあるので、沢から水が引けず、雨水を利用している。飲み水はペットボトル500mlで400円、また夕食時はお湯が1リットル100円で分けてもらえるのだが、今回は雨水を利用した水道水を煮沸して、自炊することにしてみた。いざやって見ると、500mlのお湯を冷ますのに20分近くかかり、飲み水を作ることの大切さを身にしみて感じた。これまたいい経験である。食堂で自炊をしていると、裏副支配人のみどりさんがさりげなく「どうぞ」とお茶を持ってきてくれた。剱御前小舎のみなさんは、愛想を振りまいて派手に客商売をしているという感じではないのだが、客の一人一人の動向をしっかり見ていて、さりげなく、本当にさりげなく手や声を差し伸べてくれる。それがとても心地よく、2日間の停滞が楽しい時間として心に残ることになった。
2日間は、剱御前小舎にある山の本をたくさん読んで過ごした。日頃、ゆっくり本が読める時間もないので、この時間はとてもぜいたくなものとなった。ゆったりとした時間を過ごし、時折天気予報チェックしながらの2日間を過ごした。
家族に携帯電話で連絡するため、室堂まで行ってみようと考えていたが、剱御前小舎からも場所によっては携帯が通じたので、助かった。
2日目の夜、次の日の天気予報は、「晴れ時々曇り」。風もない予報だ。当初、もう一日の停滞も覚悟していたが、前線が弱まって、剱岳に向かう日が一日早まった。いよいよ明日は憧れの剱岳である。しかし、一日体を動かしていないので、夜中に目が覚めてしまった。不安と期待の夜となる。外には満天の星が出ていた。
■■■■■■■■■■■■ 行動日2日目(剱岳へ) ■■■■■■■■■■■■ |
迎えた剱岳登山の当日。朝4時に起きると、空は晴れ渡っていた。山を覆い尽くしていた白いガスがとれて、剱岳がその全貌を明らかにした。その颯爽として、威厳のある姿には感動すら覚えてしまう。その姿に深田久弥の「日本百名山」の中の剱岳に関する名文が心に浮かんだ。(深田さんは百名山を選んだことに多くの価値が語られるが、その文章の鋭さ、的確さ、表現の豊かさには感動する。)
全く、剱岳は太刀(たち)の鋭さと靱(つよ)さを持っている。その鋼鉄のような岩ぶすまは、激しい、嶮しいせり上がりをもって、雪を寄せつけない。四方の山が白く装われても、剱だけは黒々とした骨稜を現している。その鉄(くろがね)の砦と急峻な雪谷に守られて、永らく登頂不可能の峰とされていた。
「日本百名山 深田久弥 著 剱岳より」
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剱岳の姿に見とれながら、剱御前小舎を出発する。剱沢に向かう道、ずっと剱岳を眺めて歩く。少しずつ剱岳にも陽の光がささやかに当たり始めた。数日間の雨の煙に包まれて眠っていた剱岳を眠りからいきなり醒まさないように、ゆっくりとそしてやわらかに陽の光が剱岳にふり降り注がれ始めた。その神秘的な自然の営みにしばし見とれながら剱沢に向かった。
今日は、不必要な荷は剱御前小舎においてきたので、サブザックで身軽である。しかし、最初が軽快だと調子にのってとばすと、後で足にきかねない。あくまでも我慢我慢。25kgの荷を担いでいるつもりで、ゆっくり歩きを心がける。
剱沢に着くと、県警のヘリが飛んでいる。八ツ峰の向こう、剱岳の北方稜線上でホバリングしている。剱沢野営場の富山県警山岳警備隊派出所からは、隊員が身支度をしてヘリポートに向かっている。その後もヘリは何往復かを繰り返していた。どうもこの日8人のパーティが剱岳北方稜線で身動きがとれず、救助を求めたようだ。無事全員が救出されたが、この時期のこの天気でのあのルートであることに疑問が投げかけられそうだ。たまたまこの日が天気が回復してよかったが、あのまま天候が崩れていたら、動けない状態が続いていたやもしれず、夏山とはいえ、剱岳の厳しさを改めて感じることとなった。
剱沢からは、いくつかの雪渓を横切って、剣山荘へ向かう。何度歩いてもこの雪渓ってやつは、苦手だ。キックステップで歩くのだが、ついつるっといってしまいそうな不安が心を横切る。ストックがあれば、まず安心であるのだが、今日はサブザックのため、ストックはおいてきた。滑らないように用心用心の雪渓渡りとなる。
剣山荘を経て、いよいよ剱岳への登山が始まる。最初は緩やかな登りと、簡単な鎖場を経て、ほどなく一服剱に着く。この剱岳山頂に至るまでのピークの名前がおもしろい。「登り初めて一服休憩したくなる『一服剱』」、「急な坂と鎖場を登って、山頂に着いたと勘違いさせる『前剱』」、「位置は特定できなかったが、ガスがかかっていると軍隊が間違って山頂に着いたと思い、バンザイをしてしまう『軍隊剱』」など、山頂の手前にいくつもの関門が待ち受けている。
一服剱からは、剱岳の山頂は見えない。前剱までの急坂が見えるのみである。それもかなりの急登のようで、ちょっと身が引き締まる。北アルプスはすぐそこに見えていても、なかなか到着しないのである。スケールが大きすぎて、視覚的な距離感が狂うときがある。
一服剱から少し下って、前剱への急登を登り出す。落石をおこさないように慎重に歩いていく。大岩を目印にしながら、少しずつ登っていく。大岩の左側を通り、前剱頂上前にも鎖場がたくさん出てくる。しかし、ずっと三点支持で登ってきているので、このあたり、体が三点支持にこなれてくる頃である。一服剱から振り返る剱沢、別山が美しい。立ち止まっては眺め、立ち止まっては眺めながら進む。
前剱の山頂を過ぎると、鉄の橋があり、急傾斜の岩壁をトラバースする。写真で見ていると、迫力満点だが、渡ってみると、手がかり足がかりがあり、鎖もあるので、慎重に渡りさえすれば問題ない。この後は、登ったり、下ったりを繰り返しながら進む。下りルートと登りルートに分かれているので、矢印をよく見ながらルートを選択する必要がある。
鎖場が連続するが、三点支持を忠実に守り、高所感に負けず、ひとつひとつの箇所を、慎重にクリアしていく。やがて、平蔵の頭を過ぎ、平蔵のコルに着いた。いよいよカニのタテバイである。ここは垂直に近い岩壁を数十メートル登っていく。登山者が壁にへばりつく様子がカニのようで、縦に這っていくのでこの名前が付いたのだろう。
この日のタテバイは団体さんで渋滞中だった。しばし、コルで待機するが、この突然の休憩で体は風に冷やされ始める。しかし、前が詰まっているので、どこにも進むことができない。このままでは寒さで震えそうなので、寒さを我慢せずフリースを着込むことにした。このタテバイは渋滞していることもあるので、その前後で自分が待ちの時間を持たなくていいように調整しながら歩いてくる必要があると感じた。
いよいよタテバイにて、自分の番となり、足をかける。前が詰まっているので、少し鎖場を登っては壁上で待ち、少し登っては壁上で待つといった登り方となる。あまりにもゆっくりとしか登れなかったので、あれもう終わり?という感じだった。そんなに登った実感がなくタテバイは終わってしました。垂直の壁の実感はないのだが、後から登る人を見ると、確かに垂直の壁を登ってきていた。
この後はしばらく岩場を歩いて山頂へ。団体さんの後ろを歩いているためか、なかなか山頂が遠かった。そして、8時半過ぎ、念願の剱岳山頂に到着。やっと着いた山頂には、写真で何度も見た祠があり、2004年にヘリで運ばれて埋められた三角点の標柱もあった。山頂のみなさんはここに無事辿りつけたことを喜びあっている。ましてや、この晴天、誰もが至福の時を感じた瞬間である。遠くには後立山や北アルプスの峰々が雲の切れ間から姿を見せている。憧れの剱岳山頂に自分がいることが夢のようである。
しかし、うれしい中にも案外自分の気持ちは冷静である。それは、帰路も難所が続くということに起因している。普通の山だと、山頂で70%は山登りが終わった気がするのだが、ここは剱岳、山頂に来て未だ30%という気持ちでいた。終盤に差し掛かる頃、足が疲れたり、気がゆるんだりしての事故が後を絶たない。剱岳は下山終了までが勝負である。
山頂で360度のパノラマを楽しんでいると、下から雲がわき上がってきた。今日の午後は曇りで雷雨もあるという予報である。沸き上がる雲を見ながら、下山にかかる。
下山路をしばらく行くと、今度はカニのヨコバイにたどり着く。今度も団体さんが前で渋滞である。しばし、みんなの渡り方を眺める。後ろに来た別のグループのリーダーの男性と渡り方の相談である。
「私の読んだ本は左足を先に出すって書いてあったね。」
「確かに、ガイドは左足からと言ってますねえ。」
「でも、僕の見たDVDは右足からでしたよ。」
あれこれ相談していると自分の番が来た。
よくよく見ると、まず右足を軽く架けられる段がある。そこに右足をかけて、鎖をしっかり持って左足を探ると棚に足がのる。ここは、本には全く足を置くところが見えないと書いてあるのだが、鎖を持って落ち着いて目をやると、踏み場は見えるので大丈夫である。その後は落ち着いて、横に進み、長いハシゴを下る。このハシゴの取り付きが少し難しそうで、後ろのグループが穴が空くほど私の動向をじっと見ているので、
「まず、右手をかけて、右足を下ろして、ええと、左手で・・・うまく言えませんが、なんとかなります。(笑)」
と言いながら、ハシゴに取り付いた。
下山ルートではあるが、これまた鎖場を登ったり、下ったりの繰り返しで全く気が抜けない。頂上から下り出して、ずいぶん経っていたのだが、夢中で下りていたので、気を落ち着けるためにしばし休憩をとる。改めて眺める景色にうっとりである。手と足を駆使して登ったり、降りたりをくり返しているので、上手に休憩をとらないと、気づいたら足がへろへろということにもなりかねない。はっと我に返ることの大切さも学ぶ剱岳であった。
前剱を経て、大岩の横を通り、落石を誘発しないようにゆっくりと足を降ろして進んでいった。一服剱まで来たとき、さぁ〜と雲がわいてきて、前剱方面は白いガスの中に消えた。この後、剱岳は雲の中に佇むこととなり、朝の貴重な時間に登れたことに感謝する気持ちだった。
登りも下りも同じ頃を歩いて親しくなった群馬から来た青年と剣山荘でゆっくりと会話を楽しんだ。そうしているうちにガスがもっと降りてきたので、剣山荘を後にして、剱御前小舎に向かった。
剱御前小舎に着くと、受付に心平さんの笑顔が待っていた。
「いやぁ、最高の剱でしたあ。」
との私の声に、自分のことにように喜んでくれた心平さんである。
その夜は何度も何度も剱岳の威容が目に浮かんできた。山に憧れ、自分なりに時間を無理に作って訓練してきたここ数ヶ月、目標に向かって努力し、達成するというのはとても気持ちがいいことであると改めて感じた。自分の気を引き締めて、厳かな気持ちで山に向き合える、剱岳はそんな魅力にあふれた山だった。
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行動日 1日目 |
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室堂に到着するが、雨。
ガスの中をてくてくと歩く。
きっとまわりはきれいな景色が広がっているのだろうが、
ただ道を眺めて歩くのみである。
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別山乗越にある剱御前小屋に着く。
ガスの中を歩いていたので、目の前に突然現れてびっくり。
玄関を入って、休憩室でほっとした時間を過ごさせてもらった。
とても居心地がよい山小屋である。
この時は、まさかここに戻ってきて、宿泊することになろうとは思っていなかった。
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別山乗越から30分ほどで剱沢野営場に着いた。
ここも、突然テントが目の前に現れたので驚いた。
谷の上部からの吹き下ろしが強い。
テントが飛ばされても一度は止まるかもと、
雷の時は避けるべきの大岩の横にテントを張った。
デジカメは湿気でズームエラーが出て使えない。
携帯電話のカメラでどうにか撮った写真である。
夕食は前室で調理。
ばたつくテントを押さえながらの調理である。
夜は雨と風にテントが揺らされる。
大雨警報まで発令されて、ちょっと一人が心細い夜となった。
心細いときの特効薬は、温かい食べ物とラジオである。
このふたつで、不安がだいぶ遠のいてくれた。
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停滞2日 |
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次の日、雨は小降りとなり、ガスがとれ、近くの視界はきくようになった。
しかし、剱岳はいまだ姿を見せず。
今夜も雨のようなので、雨風に懲りて、剱御前小舎に宿泊することにした。
雨の合間をぬって、急いで片付けを進める。
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停滞1日目、夕方一瞬ガスが晴れ、美しい夕焼けが姿を見せた。
剱岳も暗い中、シルエットではあるが、初めて姿を見せた。
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2日間の山小屋停滞。
休憩室で、3度の食事を作る。
部屋の窓からは、雨の中行き交う登山者の姿を眺め、読書の2日間を過ごす。
予報では、明日は「晴れ時々くもり」
それまでの予報より一日早く天気が回復しそうだ。
いよいよ明日は剱岳である。
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行動日 2日目 剱岳へ |
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朝、ガスが晴れ、快晴である。
5時に剱御前小舎を出発する。
サブザックで身軽ではあるが、重い荷物を持ったつもりでゆっくりゆっくり歩く。
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剱沢野営場から眺める剱岳に、朝の柔らかい陽の光が差し始める。
歩くルートを確認するが、あの切り立った岩は本当に登れるのかという感じ。
期待と不安が交錯する時間。
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ちょっと苦手な雪渓を横切りながら、剣山荘へ向かう。
剣山荘の裏から、いよいよ剱岳登山開始である。
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まずは緩やかな登りで始まる。
すぐに鎖場が登場。
しかし、まだまだ普通の鎖場である。
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朝5時半頃、ホバリングしていた県警のヘリが
せわしく往復しだした。
遭難者の救助で搬送していたようだ。
岩場を登り、一服剱に到着する。
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一服剱から見た前剱。
今から歩く道を目で追う。
目印の大岩がはっきりとわかった。
見た目ではこんなものかと思うが、
見えていてもなかなか着かないのが北アルプスである。
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落石を起こさないように、慎重に大岩を目指す。
急な登り、一歩一歩を確実に登る。
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振り返ると一服剱と剱沢が見える。
歩いては足を止め、振り返って景色を楽しみながら歩くことができる。
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岩場を巻いて登るよう進むと、前剱に着く。
迫力ある岩場に目を奪われる。
ここからが鎖場の連続である。
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登りルートと下りルートに道が分かれ出す。
思わず下りルートに入りそうになるのだが、プレートと矢印をよく見ながら進んで行く。
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鉄の橋を渡り、岩壁をトラバースする。
足の下はこんな感じの崖。
ホールドと足場はしっかりしているので、滑らないように注意して歩く。
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三点支持をしっかり守り、連続した岩場を進んでいく。
手足を駆使して登ることに慣れてきて、体も調子にのってきた。
天気も素晴らしく、気分は高度とともに高揚していく。
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平蔵の頭付近。登りルートであるが、登ったり、下ったりを繰り返す。
平蔵谷を見下ろす。
ずっと奥まで雪渓が続いている。
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カニのタテバイが見えてきた。
ちょうど団体が登っているところである。
この後、しばし待ちながらの登りとなった。
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平蔵のコルから来た道を振り返る。
白い枠の中に人がいる。
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カニのタテバイを登り出す。
ホールドをしっかり取り、杭や鎖を掴みながら登っていく。
渋滞しているので、前の人との間隔をついつい詰めすぎになってしまった。
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足の下はこんな感じ。
最後は垂直の壁を登ることになる。
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カニのタテバイが終わった後は、岩がごろごろとした道を山頂まで進んでいく。
この辺からの眺めは絶景である。
来た道を振り返ると、なかなかの道である。
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しばらく歩くと山頂に着く。
晴天の中、たくさんの登山者でにぎわっていた。
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八ツ峰方面の眺め。迫力ある岩峰が立ち並ぶ。
ふと気づくと、自分が今佇むのは雲の上だという不思議。
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別山、剱沢方面、後ろには立山三山。
その奥には、アルプスの峰々が累々と続く。
その景色に、ずっとずっと見とれていた。
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山頂の祠。
この2999mの風雪に耐えているすごい祠である。
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2004年に埋設された三角点。
明治に初めて登頂した柴崎隊もさすがに担ぎ上げることができなかった標柱(全部で100kgあるらしい)を、ヘリで運んで埋設された。
山頂でのんびりとした時間を過ごし、下山にかかる。
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下山路ですぐ待つのは、カニのヨコバイ。
岩のトラバースであるが、最初の一歩で足が届きにくく、難所のひとつになっている。
先の団体の後ろとなり、このときも渋滞していたので、みんなの足の運びをゆっくりと観察する。
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足の踏み場に届けば、あとは鎖を掴みながら、岩をトラバースしていけばよい。
そのあと、取り付きにくい長いハシゴを使って下っていく。
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下りルートも、また上ったり、下ったりを繰り返す鎖場が続く。
調子に乗りすぎて、休まずに歩くと、足への負担は強くなるだろう。
気分は高揚し、ついつい続けて歩きたくなるのだが、
前剱近辺でしっかり休憩して気を落ち着けるのも大切だと感じる。
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下りは、一休みをしながら、花を楽しんで歩いた。
登りには気づかない花がたくさん咲いていた。
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下りの一服剱あたりでガスが山を包みだした。
この後、剱はずっと雲の中となった。
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岩と雪の殿堂、剱岳。
憧れの山は、2日間を待って、晴天で迎えてくれた。
その美しさ、風格、厳しさ、眺め。
どれをとっても、素晴らしいの一言に尽きる山である。
憧れの山の余韻はずっとずっと心に残っていた。
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