宇和島の歴史



 「古事記」には、 伊邪那岐命(イザナギノミコト)と、伊邪那美命(イザナミノミコ ト)がまず淡路島を生み、次に伊予の二名島(四国)を生んだが、「この島は、身一つにし て面四つあり。面ごとに名あり。故に伊予国は愛比賣(えひめ)という。」とある。
 宇和島付近の地形は、複雑な出入りと大小の島が多く、平地が少なくて陸地は急斜面のま ま海に落ち込んでいる。三陸沿岸や志摩半島にも見られるリアス式海岸で、起伏の激しい陸 地が海に沈降したためで、今の宇和島市街も周辺の丘の下までほとんどが海であった。背後 の山の土砂が崩れ、川水に流された土砂が長い年月をかけて扇状大地を作っていった。
 昭和31年5月に、北宇和島駅近くの田の中で、粘度を採取していた瓦職人が地下3mほど の所から土器の破片や石の斧、石の矢じりなどの石器類、さらに炭化した木の実や獣骨など を掘り出した。専門家の調査によって土器は縄文式後期のものとわかった。
 昭和32年4月には、伊吹町の畑で城北中学校の生徒たちが、沢山の貝殻に交じって石器や 土器類があるのを発見した。鑑定の結果弥生式後期の貝塚と認定された。
 昭和45年11月に三浦の無月で掘り出された土器類は、縄文前期の物と認定された。
 これらの出土品の発見により、宇和島近郊にも三千年以上の原始時代から我々の祖先につ ながる人々がこの地に生活していたことが分かった。
 人々が一定の土地に集まって生活を始めると自然発生的に生活共同体としての村が形成さ れる。人々は勝手に木材を切り出させないよう入山会を作り、灌漑用水の共同管理などを行 った。こうした集団を守り統御し支配する者が現われた。南予では宇和盆地などに地方豪族 の墓・古墳が多数発見されている。
 宇和と言う文字が最初に文献に現れたのは、伊予が大和朝廷の治下に入った皇統十二代の 景行天皇の時で、大后八阪入姫と共に道後温泉に行幸された時の奮事記に「国乳別命(くに ちわけのみこと)伊予宇和別(いようわわけ)祖」とあり、天皇の皇子武国凝別王を伊予の 国主に定めたと「旧事紀」(古代伝承を平安初期に編集)に記されている。宇和津彦神社の 記録によれば、主神宇和津彦神は国乳別命であるとされているので、その宮地は宇和島の付 近であったと思われる。
 延喜元年(901)に藤原時平らが編纂した「三代実録」(平安中期の三人の天皇の編年 史)には、貞観8年11月の項に伊予国七郷を宇和と喜多に分けたとあり、その内、宇和は石 野(伊波乃)、石城(伊波岐)、三間(美萬)、立間(多知萬)の四郷に分けたとある。同 じく仁和元年(885年)2月10日の項に「伊予国宇和津彦神社に従五位下を授けた」との記 録がある。
 大化改新よって律令制度が実施されたとき南予の地名も文献に出ている。その頃の伊予国 は14の郡に分かれており、「宇和郡」は立間(多知末)、石野(以波野)、石城(以波 岐)、三間の四郡だった。
承平元年(931年)、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧するために伊予掾(いよのじょう)に任 命され、伊予国府(今治市桜井)に赴任した藤原純友が、当初は瀬戸内海の海賊討伐に功を 見せたが、解任後も朝廷に対し反乱を起こし、その子重太丸と共に帰京することなく、瀬戸 内海海賊の頭領となった。純友は日振島を本拠地として千艘以上の兵船と四千名の配下を従 えて海賊となり、やがて瀬戸内海全域を荒らし貢租も略奪した。朝廷は純友追討使を差し向 け伊予警固使の橘氏によって純友は討伐された。
 以降、平安時代の中期から、宇和郡は橘氏の子孫が土着して豪族となり、鎌倉時代まで橘 氏の統治が続いた。
 嘉禎二年(1236年)宇和郡は橘氏に代わって西園寺氏の荘園となった。西園寺氏は自ら は下らず代官を派遣して治めていたが、南北朝時代の後に中央の統制が乱れたので領地を確 保するために一族が下って、宇和町松葉城(黒瀬城)を本拠地として宇和全郡の支配を図っ た。
 その後は西園寺氏が南予地方の有力者として地方の豪族を統率したが、旗下の諸豪を統制 できなかった。旗下には御荘殿(城辺)、津島殿(岩松)、板島殿(板島)、魚成殿(魚 成)、野村殿(野村)、法華津殿(法華津)、有馬殿(戸雁)、萩森殿(八幡浜)など15の 勇将が居た。
これらの諸将は、いわば農民・漁民の束ねというべき位置にいて、中央政権では考えられな いような牧歌的なもので、貧しい生活ながら支配は緩やかで、人情は温和だったと伝えられ ているが彼らの間で争いは絶えなかった。
 応仁の乱(1467年)の後は戦乱の世となり、土佐の西園寺や豊後大友の軍兵が宇和に 度々押し寄せた。
天文15年(1546年)7月、大友の軍船が南君奥浦に上陸して陣を取り、家に放火し稲を刈り 採った。大友勢は板島、九島、大浦にも上陸し主戦隊は三間に侵入した。三間大森城には土 居備中守清貞がいて防戦した。大友軍は立間尻の山に登り立間の石城になだれ掛かったが、 土居清宗は城にこもって応戦せず、夜を待って夜襲を掛け大友軍を敗走させた。
 豪族間の争いは絶えず、天文15年から永禄元年までに、伊予領内だけでも97度の合戦が あったが土居勢の持ち場は敗れたことがなかった。
 永禄元年(1558年)、豊後の大友義鎭が肥後・筑前を制したのち6月、軍船百余艘で日振 島に渡ってきた。報を受け、高山の城には五百余騎、法華津に千五百余騎、御荘は千余騎、 津島に七百騎、板島には五百余騎、立間石城には二千余騎を守りにつけた。20日間の戦いの 後豊後勢は日振島に退いた。
 永禄3年(1560年)8月28日、九州七ヶ国の軍兵三萬五千余騎が南君白浦付近と、大浦唯 波猪の尾から上陸した。豊後勢は9月丸串城の安藤を降ろし、別動隊が御荘勤労修寺を降し た。三間大森城の清貞は石城も危機が迫る中で、土井の家の再興するときを考えて、15歳の 清良を能寿寺に預けた。
 9月17日、三間大森城の土居清貞は周囲がみな敵となった中でこれまでと覚悟を決め、妻 子を逃がし、三歳の嫡子を三島神社の河野修理太夫通信に預け、一人も残らず城を打ち出て 斬り死と決め、敵陣に乱入して石城を目指し突進した。
 石城での戦いも激しく、日々討死するもの多い中で奮戦していたが、捕虜となった者の口 外で敵に井戸を掘り起こされ水が枯れた。10月6日石城では、最後の酒宴の後本丸に入っ て、末座から順に切腹し、豪力者が背に回って打々と介錯した。妙栄夫人が愛孫を左右に抱 いて炎の中に身を投じ石城は陥落した。黒瀬も降り宇和郡は大友の旗風になびき、西園寺公 広も大友に和した。
 天正3年(1575年)西園寺宣久が板島丸串城の城主となったが、西園寺氏は度々土佐の長 宗我部氏から攻撃を受けており、天正12年(1584年)には長宗我部氏に敗れ、西園寺氏支 配下の諸城主は長宗我部氏に服従することとなった。
   
          300年位前の宇和島の地形 ……は昭和45年頃の海岸線 (宇和島市誌から)

 天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐により、長宗我部氏は土佐一国のみの領有を 認められ、西園寺氏は領地を没収されて伊予国は小早川隆景の所領とされた。
 天正15年に戸田勝隆が宇和(宇和島)・喜多(大洲)16万石を領し入府し、戸田弥左衛 門を板嶋丸串城に居城させた。
戸田氏の苛政・検地の強行に百姓一揆が続発したが、戸田氏はこれを西園寺残党が一揆の糸 を引いていると邪推して旧家豪族九百余人を惨殺し、九島に隠居していた西園寺公広をだま し討ちにして殺害した。法華津氏は九州に去り、板島西園寺氏も滅亡した。
 戸田勝隆は、文録3年(1594年)に病死した。勝隆の死後には藤堂高虎が宇和郡の内の七 万石に封ぜられ、板島丸串城に入城して大々的に築城工事を行った。高虎は慶長13年 (1608年)に今治に移り、代わって宇和郡十万石は富田信濃守信高が領して入城したが、 慶長18年(1613年)には改易となり、宇和郡は幕府の直轄領となった。
 慶長19年(1614年)30歳の伊達秀宗が宇和郡十万石を賜り翌元和元年(1615年)に入部 した。
 秀宗の父、伊達正宗は13歳の折に福島三春の田村家より11歳の愛姫(めごひめ)を迎え たが、子宝に恵まれず、東奔西走する政宗に同行していた側室のお新造の方(吉岡局・よし おかのつぼね)が、移住の途中で天正19年(1591年)9月に秀宗を出産した。
 秀宗は豊臣秀吉の願いにより4歳で秀吉の養子となり、聚楽第で元服し、秀頼とは義兄弟 として育ち、何不自由なく少年時代を送った。関ヶ原の戦いの直前には石田三成側の人質と なり、その後は徳川家康のもとへ政宗の證人として出されていた。当時は長男が家督相続す ることが原則であったが、政宗は家康をおもんばかってか、豊臣の影響の強い長男秀宗を退 けて、正室の子で8歳年下の次男忠宗を仙台藩の二代跡目とした。
 秀宗は、家康の命により四家老の一人彦根の井伊直政(井伊直親の子で幼名虎松)の娘と 婚姻し、長男宗實をもうけていたが将来の見通しもなく京都で悶々と過ごしていた。
 慶長19年(1614)方広寺大仏殿の「国家安康」の銘に家康がクレームを付けたことに端 を発した「大阪冬の陣」があり、秀宗は父政宗と出陣し少年期を義兄弟として過ごした豊臣 秀頼に弓を引くこととなった。
 この大坂冬の陣に対する政宗の勲功と秀宗の忠義への行賞の名目で、秀宗に伊予の国宇和 郡十万石は新封された。これは親子が素早く時世を読み徳川に就いた褒賞はいえ、北で強大 な勢力を持っていた伊達政宗に対する恐怖感から、家康が秀宗を政争の渦に巻き込み、人質 として西に置いたと言う見方もできる。
秀宗の入部前は、わずか30年の間に五代の領主の変更があり、牧歌的政治が永く続いたとは 言え、田畑は荒廃し人心も荒んでいた後の入部だった。
 当時の民百姓は、畳、雨戸、床板、天井のない、屋根と丸太だけの家に住み、土間に筵を 敷いた貧しい生活であり、しばしば領主に刃向い、日本でも有数の頻度で一揆があった。
政宗は秀宗を不憫に思ってか六万両の大金を持たせ、侍大将に譜代の桜田玄蕃を付し、総奉 行には父の婚姻に際し、母方の最上家からお付きの方として仕官し、その有能さを評価して いた山家清兵衛を登用し、五十七駒を中心とする家臣団を付けた。
 秀宗は政宗より付された五十七騎に加え、大阪で召し抱えた家臣や船頭衆、部屋住みの付 侍や小姓など約800人を引き連れて一度も訪ねたことのない宇和島に入城した。着城後に旧 冨田家臣や五か月遅れて下着した桑折らの一行を合わせて家臣団を形成した。秀宗入城時に 役人が藤堂新七郎から受け継いだ領地には、天守閣、35の櫓、20の番所、250軒の侍屋敷、 田畑は17郷273ヶ村で102.154石があった。
 入部に際し借用した六万両の返済を巡り藩論が分裂したが、入部三年後から総奉行山家清 兵衛の主張した案のとおり、毎年三万石を政宗没までの22年間仙台に返済し続けたことが判 っている。藩政は悪化し領民からの厳しい取り立てを主張する侍大将桜田玄蕃に対し、藩士 の減俸や仙台への返済など善政を説いた清兵衛が対立し、清兵衛の殺害に至った。

         
                当時の宇和島城図

 当時の宇和郡169.512人のうち、農(漁)民は89.5%、町人2.5%、士卒4%、その他4%だ った。表石十万石ながら作穀は参万八千石、その三分の一は未進だった。清兵衛が年貢を七 公三民から六公四民に減じたと史家は激賞しているが、江戸期の全国平均は四公六民であ り、清兵衛が領民に寄り添ったとはいえない。
 下級武士の給金は40石くらいであったが、内政の総奉行山家清兵衛が(1000石)、侍大 将桜田玄蕃が(1750石)、秀宗の後見役桑折左衛門は(7000石)だった。
 悪家老一味は元和6年(1620年)6月29日の深夜、丸の内の山家邸を襲った。蒸し暑い、 雨の降る晩に蚊帳の四隅の吊り手を切って、息子3人、娘と娘婿(塩谷匠)その子2名の8 名の命を奪った。9歳の美濃姫は邸内の井戸に投げ込まれ。妻と母親と二人の娘は前日から 邸を離れており、檜皮ヶ寮(伊方屋仁兵衛の別邸)に避難させていたが、松野町吉野生に逃 れる途中で娘二人は斬り殺された。妻と母親は日振島の清家久左衛門によって九州に渡った 後に仙台に逃れた。仙台には宇和島に来る折、残してきた長男喜兵衛がいた。
 清兵衛の奥方が、仙台藩へ保護を求めた事で事件は発覚した。秀宗から政宗への連絡は形 式的な物であったかも知れないが、政宗は飛脚の報告や、桑折左衛門の復命書からもほぼ正 確な全容をつかんでおり、清兵衛の長男喜兵衛には、わが子秀宗の不明を詫びて善処を約 し、清兵衛の忠節をたたえて供養料を下賜している。当然の如く政宗は怒り心頭となり、秀 宗を詰問して謹慎を命じ、実の父が子の改易を幕府に願い出るという前代未聞のお家騒動と なった。秀宗が妻の実家である彦根藩の井伊直孝に仲介を依頼し、彦根藩や仙台藩の仲介工 作の結果、改易願いは取り消された。
 この事件は「悪家老桜田玄蕃が山家清兵衛を蚊帳の中で暗殺した」との伝承の方が圧倒的 に信じられているが、愛媛新聞が昭和29年に、景浦稚桃氏の協力記事として「山家清兵衛が 悪代官を懲らしめたため、悪家老桜田玄蕃一味に蚊帳の中で殺された」という説は後世のデ ッチあげで有ると掲載した。また昭和54年8月には、「山家清兵衛暗殺は、実は上意討ち」 との記事を出した。
 事件は、秀宗が家老の告げた清兵衛の不正会計を疑い、山家の殺害を許可したというのが 真実であると思われる。秀宗が成敗したということは、上意によって科人を殺したと言うこ とである。
 当時の処分は「手討ち」、「切腹申付け」、「処分の決まる前に自ら切腹」、「斬殺され た」、等がある。切腹申付けは、斬殺より軽く、士分としての名誉ある処罰であり、切腹 場、介錯人を含め厳格な作法があった。当時は、大名でも自分成敗は禁止されており、清兵 衛など大身の家来の処分は、幕府への届け出が必要であった。
 「切腹申付け」という成敗なれば、幕府にも仙台にも公然と届け出ればよく、藩史類から 抹殺する必要はないし、当人の他に子供三名、隣家の父子三名、家来まで殉難している本件 は切腹申し付けとは考えられない。公然たる成敗として切腹を申付けたのなら、秀宗の父、 政宗が遺族に「忠死なり」と称えて黄金十両を贈ることはありえない。
 桜田玄蕃の私怨による暗殺なれば玄蕃は処分され、桜田家も断絶は免れないはずである が、山家家が断絶となり、桜田家は保護され繁栄存続し、江戸時代末期まで家老として仕え ている。玄蕃は事件当時には大坂に滞在していたので、直接手を下すことはできなかったの に、玄蕃悪玉説にすり替えられた。
 清兵衛の霊は藩政を乱す悪玉どもに祟って、彼らを次々と変死させた。
 清兵衛が死んで11年後の、秀宗の正室亀姫の三回忌法要の際に、正眼院で読経中に突然大 花瓶が倒れ、礼拝していた桜田玄蕃の頭上に落ちて玄蕃が不慮の死を遂げた。
 初代藩主秀宗の長男宗實は三十三歳で没、藩主代行をながく勤めた次男宗時も三十九歳で 亡くなった。その他の子も菊21歳、満3歳、鶴松18歳、徳松3ヶ月、竹松6歳、清15歳、岩松 1歳と早世が続いた。二代宗利の七男六女は、信州真田家に嫁いだ長女豊姫のみが長寿で、 兵助3歳、多尾3歳、六松3歳、鉄千代10歳、金十郎3歳、冨之助15歳、栄之助8ヶ月、光33 歳、千代之助1歳、佐知9歳、賢9歳と早世が続いた。
 清兵衛の死は伊達家にとっても後から考えると後ろめたいものがあったところに、身辺に 次々と災難があったので清兵衛の祟りではないかと考えて、藩主が率先して霊を祀った。
 秀宗の次男宗時は清兵衛の霊の鎮魂を願い、承応2年(1653年)和霊神社社殿を桧皮森に 造営した。初願主は19歳の伊達宗利となっている。
 理由も公開できぬ形で、上命により清兵衛の家族が非業の死を遂げたことは領民の同情を 集めた。民衆信仰は人神を祀った和霊神社に集まり漁業神、護国神として崇敬を集めること となった。
 五代村候は自ら清兵衛の護国神化に参画し、寛政六年(1794)没までの六十年間に、御 供所、随身門、回廊などを建立していった。こうして和霊信仰は拡大していった。
 伊達氏の治政は、その後九代250余年に亘った。
            
               明治初期の宇和島町区域図 (宇和島市誌から)

 伊達宇和島藩第7代藩主の 伊達宗紀公は春山と号し、書画俳諧にも優れたものを残した が、隠居所として作った天赦園は名園である。
 第8代藩主、伊達宗城公は幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を宇和島に招き、 更に長州から大村益次郎(村田蔵六)を招いて軍制の近代化に着手した。提灯屋の嘉蔵を村 田蔵六に同道、長崎に留学させ西洋式蒸気船の機関を学ばせ、宇和島で蒸気船を建造させ た。また福井藩松平春獄、土佐藩山内容堂、薩摩藩島津斉彬とともに「幕末の四賢侯」と言 われ、幕末の政治に参画し藩政の改革に貢献した。
 慶応3年(1867年)10月、徳川15代将軍慶喜は大政奉還を奏請し、封建政治は崩壊し た。新政府は翌年3月、五か条の誓文を交付し江戸を東京と改め、年号を明治として中央政 府の官制を定めた。幕府の直轄地と一部の諸侯の領地を府・県とし知事に任命したが、その ほかの二百七十余の藩はそれまでのまま諸侯が統治を続けた。
 明治3年(1870年)に平民も苗字を称することが許された。
 明治4年7月、新政府は廃藩置県を断行し、全国の行政区画は三百余の府・県単位に統合さ れた。これを同年11月には三府七十二県に再編し、現在の愛媛県は宇和島・吉田・大洲・新 谷の四県を併せた宇和島県と、東中予を併せた松山県の二県となった。
 当時、「宇和島」に属していた町村は、丸の内、堀端通、追手通、広小路通、桜町、富沢 町、薬研堀通、御徒町、元結掛、神田川原通、中之町、鎌原通、大榎通、賀古町、大石町、 笹町、愛宕町、鋸町、一宮下町、竜華前通、北町、竜光院通、向新町、須賀通、佐伯町、大 工町、樽屋町、本町、袋町、堅新町、裡町、戎町、船大工町があった。
 [丸穂村]に下村、藤江浦、大浦、中間村、柿原村があり、近在に[光満村]〔高串村〕 〔九島浦〕〔東三浦〕[西三浦]〔川内村〕[宮下村][寄松村][保田村]〔祝森村〕が あった。
 明治5年(1872年)に宇和島県は神山県に、松山県は石鉄県に改称され江木康直が権参事 として県の責任者に任命された。翌明治6年に両県を併せて愛媛県が誕生した。
 明治23年(1890年)町村制が施行されて、宇和島町が発足した。初代町長は山崎惣六氏 で給料は12円であった。
 天保8年(1837年)生れの児島 惟謙は、明治24年に大審院長に就任し、訪日中のロシア 皇太子に警備中の巡査津田三蔵が切りつけた大津事件で、司法権の政治からの独立を守り 「護法の神様」と言われた。
 安政2年(1855年)生まれの穂積陣重は、日本初の法学博士となり、日本国民法成立にか かわった。後に枢密院議長を務めた。
 安政4年(1857年)生まれの大和田建樹は、藩校の明倫館に入学の後、東京大学の書記と なり、明治33年『鉄道唱歌』全5部作を発表。唱歌・軍歌多数を残した。
 明治19年(1886年)生まれの大宮庫吉は、日本酒精に入社の後、技術者として京都伏見 の宝酒造に移り、昭和20年社長に就任した。昭和32年に宇和島市公会堂が建設された際に は巨額の寄付を行い、同公会堂は大宮ホールと呼ばれた。
 明治34年(1901年)、桜町に県立宇和島高等女学校が開校し、翌年町立宇和島商業学校 が裡町の仮校舎で開校した。
 大正3年(1914年)宇和島鉄道が開通した。
 大正6年(1917年)、宇和島町に丸穂村を合併した。
 宇和島町の隣村の八幡村は、下村・中間村・柿原村・藤江浦・大浦からなっていた。泉が 森に水源を発する須賀川は、高串・光満からの流れと合流して宇和島湾にそそぎ、河口の藤 江の海に多量の土砂を堆積してきた。藤江の地先の海は陸地化していた。八幡村は市街化拡 張事業によって、新興の商工業地として宇和島町をしのぐ勢いとなった。上水道問題も港の 改修も八幡村との協議なくしては解決しないので、山村豊次郎町長は合併を提案した。協議 の結果、大正10年(1921年)北宇和郡宇和島町と八幡村が合併し、市制を施行し宇和島市 が誕生した。大正14年に宇和島市の庁舎が新築完成した。
 宇和島湾の内港は拡張浚渫を繰り返したが土砂の流出堆積のため、干潮時には船舶の出入 りにも支障をきたした。和霊神社下からの内港に向かう流れを大浦に変更することとした が、工事は北新町(北陽花街)を貫通するため、料理屋25戸、置屋9戸、百人に近い川端芸 者の移転が問題となった。警察から「現位置は風俗・公安上最適地ではないが、付け替えに 伴い立ち退きを要しないものは従来通りの営業を認める。立ち退かざるを得ないものと移転 希望者には泉屋新田(まだ人家のない埋立地、築地)に営業を許可する。」となり、北陽に 留まる者と築地に移転する者とに分かれた。着手から2年6か月を要し昭和7年10月、須賀川 の付け替え工事は完成した。
  
 旧、須賀川 和霊神社下からキリン館横を流れていた  現在もこの川跡が道路になっている。

   
北新町から築地に移転した花街の料理屋・置屋 左の拡大図
(宇和島港の「みなと文化」  山口隆史 著より)

 昭和16年(1941年)、国鉄卯之町・宇和島間が開通し、昭和20年国鉄予讃線が全線開通 した。

     
        昭和18年頃の宇和島                           昭和21年の宇和島

  昭和16年(1941年)、国鉄卯之町・宇和島間が開通し、昭和20年国鉄予讃線が全線開通 した。

 
埋め立て前の内港風景     (昭和23年に埋め立てた)         内港近辺の商店   昭和19年頃?

 昭和16年(1941年)、国鉄卯之町・宇和島間が開通し、昭和20年国鉄予讃線が全線開通 した。
 昭和11年(1936年)坂下津に誘致した近江帆布は、昭和16年8月政府の要求で操業を停止 し休業となって、用地建物は強制的に海軍に買収された。昭和19年3月「松山海軍航空隊宇 和島分遣隊」となり、松山から1.800名が転属し、機上での航法など操縦以外の訓練を受け た。
 終戦後市内の学校はほとんど焼失していた。焼け残った予科練の跡地で鶴島小学校、城 北・城南中学校、鶴島高等女学校と宇和島工業学校(旧宇和島商業学校)が授業を始めた。 昭和21年、この地で宇和島商工学校、宇和島商業高等学校と改称された学校は、昭和24年 に宇和島東高等学校商業科となった。
 昭和6年の満州事変、昭和12年からの日中戦争と戦争が続き、昭和16年からの太平洋戦争 では宇和島市もその被災を免れなかった。
 昭和16年には早くも小麦粉、食用油、鶏卵、酒類、食塩が配給となり、17年には味噌、 醤油、石鹸、乾麺が、18年には甘藷、和傘、蚊帳、食酢、塵紙、毛布が配給となった。19 年には総合配給制となった。食料も乏しくなり国民は皆飢餓に耐えた。
 宇和島市へは昭和20年5月10日の爆弾の投下に続いて、計12回の空襲爆撃を受けて旧市街 の大半が焼失し焦土と化した。
 昭和23年(1948年)から約1年間で、新内港の浚渫を行い、この土砂で旧内港を埋め立て 現在の新町・柳町・丸の内5丁目一帯の地域を造成した。
 昭和33年(1958年)、宇和島市公会堂が新築完成した。


  昭和40年頃の宇和島

 昭和23年(1948年)から約1年間で、新内港の浚渫を行い、この土砂で旧内港を埋め立て 現在の新町・柳町・丸の内5丁目一帯の地域を造成した。
 昭和33年(1958年)、宇和島市公会堂が新築完成した。
 昭和51年(1976年)、市庁舎を内港埋立地に新築移転した。
 昭和55年(1980年)、恵美須町商店街・新橋商店街のアーケードがカラー舗装された。
 昭和62年(1987年)、南予文化会館が完成した。
 平成5年(1993年)、新内港の埋め立てに着工し、宇和島湾は埋め立てが進んだ。
 平成17年(2005年)、北宇和郡吉田町、三間町、津島町と宇和島市が合併し、新しい宇 和島市となった。
 平成24年(2012年)、四国横断自動車道宇和島北IC~西宇和ICが開通した。
 平成28年(2016年)九島大橋が開通した。


 平成10年頃の宇和島

 
  和霊神社                       八つ鹿おどり

  
天 赦 園           闘  牛           宇和島城


現在の宇和島市

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   なお、記載内容に間違いの箇所があれば同じくお知らせください。

    〔参考文献〕
  南 予 史           久保 盛丸著
  兎の耳 もう一つの伊達騒動   神津 陽 著
  板 島 橋           木下 博民著
  宇和島市誌      宇和島市誌編さん委員会
  宇和島港の「みなと文化」    山口隆史 著
  宇和島市に関連するホームページ

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