旅行記、キタブ市


                                                 { 写真はすべて私のカメラで撮影したプライベート写真です } 河野 善福
【旅 行 記】

 平成14年9月2日 昼過ぎ、キタブ市に着いた。キタブは人口14万人、農産物や畜産の盛んなところで、ブドウ、玉葱、
人参、ジャガイモ、牛、豚、鶏、卵、繭の年間生産高が市役所の前に表示してあった。記録してこなかったので数量はわ
からないが、町の特産品と言うことだった。

 玉葱の乾燥工場に行った。直径5cm位の小粒の玉葱でソ連時代には自分たちは食べられなかったと言っていた。
最初に玉葱をスライスして、次に乾燥機に送り込むのであるが、乾燥機は長さが150mもあり1時間に2トンの乾燥品が生
産できると言っていた。

 次に唐からし畑に行った。12cm位の普通の韓国種の益都で、春3月に植えて2度取りをした後で、10日以内に最後の
収穫をしてから引き抜くと言っていた。この地カシカダリア県に200ヘクタール作付けされ、その内キタブには市と韓国人
の共同経営で100ヘクタール作付けされた。今年は3〜400トンの収穫を予定していると言っていた。最終的には3,000ヘ
クタールまで増やしたいと話していた。
 
                 
市長さんの自宅に招待されて食べたロシア料理
( すべて私たちのグループがご馳走になり、私が撮影した料理です )
     

 昼過ぎにキタブ市役所に立ち寄り市長に挨拶した。市長は自宅に招待してくれて、昼食をごちそうしてくださった。 カリモ
フ大統領はサマルカンドの生まれで64歳。 現市長は大統領がこの市役所に勤めていた頃いっしょに仕事をした部下で、 
昨日の独立記念日に「国民のために努力した人」として大統領から表彰されたと言って、表彰状を持ってきて見せてくれた。
 バロープローフ(牛肉、人参、白い豆、綿の油と羊の油で米をドライカレー風にしたもの)などを戴いた。

 2時30分に出発。メキシコの種を植えた畑に行った。 大型の唐からしで20cmぐらいあり辛味は弱いが甘味が強いので
良い商品であると言っていた。 この種も100ヘクタール作付けされ、観た畑だけで5ヘクタールあると言ったが、この畑で
も広大な畑であった。

 3時10分に唐からしの乾燥工場に着いた。工場の庭の地面に唐辛子が直置きだったので、コンクリートまたはシートの上
に置いてほしいと要望したが、夜に水分が出て溜まるので湿気が出てダメだと言っていた。

庭に隙間無く乾燥のため置かれた唐辛子と選別作業中の婦人(これが女性の作業中の服装)(普段着)



 崔氏も中国に引き取ってからエアーブラシをかけ、きれいにするから大丈夫と言っていた。
 
 唐からしは1ヘクタールから乾燥品が2トン採れるという。 1ヘクタールには7万本位の苗を植える、種を蒔いて30cmくら
いに育った時に植え替え無ければならない。その時1割位が枯れるので1ヘクタールあたり8万粒の種が必要だと言って
いた。

 3時20分帰途につく、土と岩だけの山道を小さいロバにまたがり、移動している光景がたびたび見られる。 たいていは大
人の農夫が一人で、仲間も誰も居ない道を山越えしている。大人がまたがれば足が地面に届くような小さいロバに、穀物
らしきものが入った布袋を左右に振り分け荷物にして、農夫も乗っているからロバが可哀想になってくる。

 4時30分、サマルカンドのレギスタン通りにあるモスクに着いて見学をした。 レギスタンとは砂の広場と言う意味だそうで、
このモスクは三つのマドラサ(神学校)からなっている。 向かって左側のウルグベクのマドラサは14世紀に造られた神学
校で、ティムールの孫のウルグベクが建てたもの。右側のシールダールのマドラサには玄関のアーチにライオンが描かれ
ており、天井に金箔を施した部屋がある。 最近の修復にも大量の金を必要としたと言っていました。 外壁の青味を帯び
たタイルはとても美しいもので、アラビア文字の部分も模様に溶け込んでいて、言われなければ判らないほどです。正面に
あるテッラカーリのマドラサはチムール王国が滅亡した後の17世紀の建造だそうな。玄関アーチをくぐって入ると、モスクの
内には中庭があり、中庭を取り囲んで周りに小部屋が50くらいもある。 今ではすべての部屋が土産物売場になっている。
 置物、民族衣装、ジュータンなどを売っている。 正面の中央広場には特設の舞台が作られていた。 夏の夜にはこの広
場で音と光のショーが行なわれると言っていた。 

 土産物屋で値段をだいぶ叩いて安くさせて小皿を10枚買った。 小皿を一枚ずつ紙に包んでもらったが、宿に帰って整理
したら9枚しかなかった。 後日別の店で1,700円位(17,000cym)の買い物をした時も、同行した通訳さんが、私の出した500
cym札の束から34枚数えてくれて店員に渡した。 お札の数え方は左手の手のひらを上にして、お札の束を縦長に持って左
手の親指で押さえ、右手の親指で上から1枚ずつ右手の方に引っ張るようにして、右手の中に移していく人が多かった。
 私も数えてるのを観ていたが、正面に居た人が受け取って隣に居る人に渡した。 後は私は正面にいた人と買った商品の
方しか見ていなかったが、隣で数えていた人が4枚足りないと言うので数え直した。 札は30枚しかなかったので4枚払った
が、たしかに34枚渡したはずで、この国ではお金は特に受渡しには充分の確認を必要とすると思った。

雨季を除くとウズベキの空には毎日雲が無い。 夜空の星は隙間無く天を覆いすぐ近くにある。

 


 1966年4月16日、タシュケントに大地震が有り建物の60%が倒壊したが、日本人が造った劇場は倒れなかった。アミル
チムル(昔の英雄)の像のある独立広場では、昨日大統領を迎えてコンサートが有ったと言っていた。 ここら官邸の周り
は全て道路封鎖され、軍のトラックが横向きに連なっていた。  10時市内の"美都里"に再び入って夕食。 
 11時宿舎に帰った。

  









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