旅行記、唐辛子視察



                          { 写真はすべて私のカメラで撮影したプライベート写真です } 河野 善福

唐辛子畑で明るく元気に働く少女達 


 


 【旅 行 記】
 平成14年8月31日、タシュケント(Tashkent)は夜明けが6時、朝は気温18度位か半袖シャツではやや冷える。 8時ゴル
フクラブの食堂でトーストとコーヒーの朝食。 タシュケントの砂漠の中に唯一のゴルフ場を造っているのも韓国人との合弁。
 会長さんはもと韓国大使館の大使としてタシュケントに来た徐 健二氏、社長さんは李 聖熈氏。 客は日本人と韓国人
と欧米人。 ゴルフのゲーム代は1ラウンド50ドルと聞いた。プレイヤー一人にキャデーが一人手押し車で付き月給10ドル、
後はプレイヤーからのチップが1ラウンド4〜6ドルと言う。 崔氏とからし畑を管理している SKY CO.,LTD 社長の Lee 
Do Hyong氏等に案内されて8時40分唐辛子畑に向かって出発した。
 Lee氏は韓国の農心(政府の公社)にいた人で、崔氏がタシュケントに送った人と聞いた。 タシュケント郊外に5年前に作
付けを開始し、3年前から本格的に収穫できるようになったという畑に向かった。
 9時30分着。 この農場は10haくらい、ここでのからし(益都)収穫は乾燥前で約200トン、9月下旬の雨季までに収穫を急
ぐとの事で、老婦人、中年女子、15歳くらいの少女約100人が町からバスで就労に来ていた。 彼女たちは斜面の通路にビ
ニールを敷き、ここで選別作業をしていた。収穫をした唐からしのヘタを付けたまま(ヘタを取ると乾燥した時に中の種が落ち
る)枝葉を取る作業をしていた。これを布の袋に入れて山の尾根まで約300mを担ぎ上げていた。尾根には広い道があってこ
こで彼女たちは一列に並び、自分の作業量を検量し、記帳を受けた唐辛子をビニールの上に広げて自然乾燥をしていた。
9月下旬の雨季までは雨は降らないとの事で、何の覆いもされない放置状態であった。夜間もこのままだと言っていた。
  唐辛子の選別作業中の少女達
 

 山の尾根にはコンクリート製の120cm角位のU字溝が、はるか遠くの山の川から引かれている(崔氏が始める時には既
にあった)という。U字溝には30mおき位に出水口があり、ここから出た水は麓(ふもと)に行くまでに1mおき位に何本も枝
道がとられ、その枝道も山の斜面に斜めに造られて水が下方に流れるよう配慮されていた。水の枝道ごとに畝(うね)が作
られ、その畝の上に唐からしの苗が植えられていた。
     
 ウズベキスタンの唐辛子生産は、韓国人の唐辛子事業進出と、国の外貨導入による民主化政策がうまくつながってなさ
れた事業である。従前のジャガイモ、綿花などの生産に比べ収入がよく、町の主要農作物となると同時に、就労場所の提
供を国が歓迎し協力が得られている状況がよく解かった。
 このあたりの道路は馬糞、牛糞あたりまえ、2〜5頭の牛を連れてのんびり歩く少年の姿が多く観られる。家畜の散歩に
付き合っているように見えた。
       山の尾根伝いに延びた配水溝          尾根の計量所に唐辛子を運ぶ少女達
 

 

 12時工場に到着。保管倉庫に行くと、ここでもヘタを残した唐辛子の選別作業をしている女性グループが居た。ここの工
場では唐辛子の水分を8〜10%まで乾燥し中国の青島に送り、青島でヘタ取りと最終選別を行うとの事だった。 ヘタ取り
を最後までしない理由は、ヘタを取ると種が飛び散って回収できないからで、種は種だけで集めて鶏の餌などに販売するのだそうです。
     
 唐辛子の原産地は中南米で、唐辛子はナス科の多年生草。日本への渡来は16世紀半ばころで、ポルトガル人によって
持ち込まれたと言われている。中国への伝来は明朝の末期(1700年ころ)と言われ、本場と思われている朝鮮には日本
から持ち込まれたと言う説が強く、韓国でもその説を認めている。 唐辛子の唐はもちろん中国のことで、琉球を得て九州
に伝えられたという説もある。 日本の品種は鷹の爪(3〜5cm)や八つ房、三鷹(5〜7cm)、だるま(2〜3cm)など全体
に辛味が強くて小粒のものが多いが、世界的には辛味も形状も多種多様である。
 辛味の正体はカプサイシンで鷹の爪には0.3〜0.6%含まれている。天鷹の0.35%と益都の0.1%の中間品が韓国で主に
使われている望都という品種で、水分20%、カプサイシン0.2%くらいのものである。
     
 戦前は栃木県など北日本を中心に、国内で8000tの収穫があったと言われ、1960年頃には輸出が4000t位あったと言う
が、現在の国内生産は200t位で90%以上を輸入に頼っている。輸入品は大半が中国からであるが、実はその生産を中国
人に契約栽培させているのが韓国人である。 韓国では土地が無く連作するので農地がやせて作柄が良くない。(ナス科
のものは土地がやせて連作が出来ない)野菜なれば年数回収穫が出来るが唐辛子は年1回の収穫であるので、唐辛子
つくりをやめてスイカ、黒豆などを作る農民が多くなったことと、人件費が高くなったので、中国に産地を求めたと言われてい
る。韓国の唐辛子需要は年間21万t前後である。日本の年間需要量6000tの単純比較で35倍の消費量であるが、人口
4700万人で対比すると一人当たり80倍位消費していることになる。 韓国の国内総生産は17万t位で、5万トンくらいを中
国人に中国で作らせて、足りない4万t位を自国に輸入し、日本向けにはその1割の6000t位を輸出すれば足りるので、日
本は中国人が作ったものを、韓国人から買っていると言うことになる。
     
 日本人でも吉岡食品工業鰍フ現社長の父君、吉岡精一氏が国交回復直後の1975年頃、人件費の安い中国・河北省の
天津に栃木三鷹(4〜6cm)を持ち込んで栽培させた(天津で作った三鷹なので天鷹とよぶ)と記録にある。
 韓国人が社会主義国の中国に資金と技術を提供して、安く農産物を手に入れることを覚え、次に、新たに求めた地が政
府要人とのつながりの深い、ウズベキスタンであった。







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