横浜駅東口。今は横浜そごうがある場所に百貨店が開業する前に何があったか、店員でも知っている人は少ない。横浜そごうができたのは1985年。いまから35年前。私は高校二年生だった。スカイビルはすでにあった。今の建物は建て替えられた二代目。

百貨店ができる前、そこには50mプールを備えた大きな水泳教室があった。小学二年生の終わりから五年生の秋まで、私は水泳教室へ通っていた。1977年から79年まで。

水泳教室に通いはじめた理由は、水が怖かったこと。水に顔をつけることも、水中で目を開けることなど、なおさらできなかった。それではいくらなんでも恥ずかしいので、一念発起して通うことを決めた。水曜と土曜の週二回。1回目の練習後、「もう二度と来ない」と泣きじゃくったことを覚えている。

行くって自分で決めたんでしょ

そう言い含められて、翌週からは一人で通った。

そうして、通うにつれて水にも慣れ、徐々に泳げるようになり、一年経った頃には水泳は特技になっていた。


水泳教室で楽しかったことは、他の学校の子と友だちになれたこと。前のグループの練習が終わるまで、ロッカー室前の床に座っておしゃべりしていた。当時、プラスチックのリングでお手玉を作って遊ぶチェアリングというゲームが流行っていた。練習時間のずっと前に行って遊んでいた。学校は違う友だち、というものはとても新鮮だった。

どこの小学校なのか、どうやって教室まで来ているのか、そんなことは互いに聞くこともなかった。ただ同じ時間を過ごしているだけで仲がよかった。

私は学校では勉強でも運動でも目立つ方だった。でも、水泳教室ではどの級に上がる時もギリギリだったので、いつでも劣等生だった。


四年生の冬休みには三泊四日の合宿もあった。行き先は常磐ハワイアン・センター。今でいうスパ・リゾート・ハワイアン。朝食前から泳がされ、午前も午後も練習漬け。それでも、初めて家族から離れて、長い間友だちと過ごせたのでとても楽しかった。

このとき、中身が空の椰子の実をお土産に買って帰り、家族に大笑いされた。どこにでもある名前を彫ったキーホルダーもお土産に買ったことも覚えている。あのキーホルダーは今、どこにあるだろう。部屋を片付けたときに捨ててしまったかもしれない。


幼い頃の私は乗り物酔いがひどかった。それから胃腸も弱かった。だから、横浜まで電車で30分かけて通うのは毎回、強い覚悟が必要だった。特に疲れ切った帰り道ではふらふらになって戻したり、急な腹痛に苦しめられたりすることもしょっちゅうだった。

始めた頃は5時から6時のコースだったので、4時頃に家を出て、あの頃はまだ駅前にあった駄菓子屋で長持ちする10円の飴玉を、往復のために2個買って電車に乗った。あとになって毎回50円くらい小遣いをもらっていたような気がする。駄菓子屋で50円の使い道を考えるのは楽しかった。

四年生の夏に四泳法ができるようになり、上級者のコースに昇級した。練習は6時から7時半。ひたすら泳いだ。一番キツかった練習は、クロールで呼吸は6回手をかくたびに1回。右呼吸で50m x 30本、左呼吸でまた30本。これだけで3,000m。これは辛かった。

私はグループでビリだったので、先頭を泳ぐ上級者に足を引っ張られて、いつも周回遅れになって泳いだ。

水泳や陸上競技は、ある程度まで上達してからはタイムを縮めることが目標になる。あとはタイムを縮めるために練習は延々と泳ぐことばかり。できなかったバタフライができるようになったという達成感はもうない。ただただ早く泳ぐことが目標になる。

月に一度の記録会では、最初こそぐんぐん自己ベストを更新したものの、やがてタイムは頭打ちになってきた。


練習はキツくなるばかり、帰る時間も遅くなる。頑張ってもタイムは縮まらない。横浜まで週に2回通うことがだんだん虚しくなってきた。

ちょうどその頃、学校の友だちと遊ぶのが楽しくなってきた。五・六年生の頃はサッカーや女の子も混じって「ドロ警」を広い学校のグランドでしていた。まだ「塾の時間だから帰る」という子は少なかった。

夕方、遊んでいる輪を離れて帰宅し、一人で電車に乗ってプールへ行く。まだストイックな生活に憧れる年齢ではなかった。私は水泳教室を辞める決心をした。小学五年生の秋。

水泳を辞めたのにはもう一つ理由があった。これはあとから自分で気づいたことだけど、家が不穏な空気に包まれていた。空気が張り詰めていて、息苦しい雰囲気だった。「水泳教室なんて行ってる場合じゃない」。そんな風にも考えていたように思う。

張り詰めた空気がガラスを割るように引き裂かれたのは、それから1年半後


あの頃の横浜駅東口は、高島屋とバスターミナルが整備されて華やかだった西口と違い、薄暗い裏街の雰囲気があった。

屋台のラーメン屋や、地面に座って物乞いをする人や、傷病兵のような姿の人もまだいた。そんな薄汚れた街をすり抜けてプールへ通っていた。同じ小学校の友だちと通っていたこともあったけど、最後は一人で通っていた。親しかった友だちも違うグループになり、もうチェアリングもしなくなった。電車でも一人、プールでも一人、帰り道も一人で、京急の車窓から夜の街並みを眺めていた。

あの頃の横浜は、少なくとも東口は暗かった。薄汚い街だった。そこにはまだ「戦後」があった。

一人でいることを好む、いわば孤独碧が私にあるのは、スイミング・スクールのせいかもしれない。

入学した中学校に水泳部はなかった。水泳だけが特技だったのに、部活がないので水泳は完全にやめた。すでに1秒に凌ぎを削るスポーツにも、正直、疲れ果てていた。

あのまま水泳教室を続けていたら。中学校で部活に入らず、水泳教室に戻っていたら。中学生活は違うものになっていたかもしれない。いや、どうしたところで中学校の3年間は変わりないものだったかもしれない。虚しい空想をいまでも時々している。

私がやめてから数年後、水泳教室は解体され、跡地には大きな百貨店ができた。代わりに京急線沿いにいくつか新しい教室ができた。どこも25mプールの小さいプールだった。

スイミング・スクールをやめてから、50mプールで泳いだことがない。


写真は黄昏の公園。

これくらい陽が傾いた頃、友だちにサヨナラをして水泳教室に出かけていた。


さくいん:横浜70年代