石塔紀行(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
    (11)
九州地方の石塔巡拝 
                  
    

 九州地方には特有の仏教文化が栄え、それ
に伴って石造美術にも特徴のある美しさを見
ることが出来る。
 豊後、特に国東半島や臼杵地方を語らずし
て、石造美術は在り得ない、とすら思えるほ
ど充実した遺構が残る地方である。
 若い頃からの石仏好きで、新婚旅行の旅先
に国東半島を選んだほどだった。半世紀近く
にもなる、単なる老人の懐古に過ぎないのだ
が。
 また歴史的に西への窓口となって来た北九
州には、大陸や半島との繋がりを示す遺構が
残されていて興味深い。




            国東型宝塔(南北朝期)
                宝命寺観音堂

          (大分県国東市武蔵町)
 
                     

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     米一丸地蔵堂石造九重塔 福岡市東区箱崎町
                
            
     福岡市の東北部、博多駅の北方に筥崎宮が鎮
  座しているが、その少し北に米一丸と呼ばれる
  一画が有る。九州大学の東側に当たるのだが、
  ここに米一丸伝説の残る地蔵堂が建っており、
  堂内に米一丸が祀られている。

   米一丸の供養塔と伝わる九重塔が、地蔵堂の
  裏手に建っていた。高さは4m強である。
   基礎は四方無地だが、初重軸部(塔身)の四
  方には、如来形の四方仏坐像が半肉彫りされて
  いる。顔の彫りなどが稚拙で、やや地方色の濃
  い表現になっている。
   唯一印相のはっきりしている定印の阿弥陀像
  が、従来の西側ではなく北向きとなっている。
  据え直した際の、単なるミスだろう。

   各層の屋根は豪放な造りで、軒口は厚く両端
  が反り上がっている。
   何よりも、屋根幅の低減率がかなり大きいこ
  とが、この塔の美しさを強調している。銘は見
  られないが、時代的に鎌倉末期は下らない、と
  推察した。
   相輪は明らかに別物だろう。

   堂の周辺には多くの中世石造物が祀られてお
  り、見るべき板碑も多かった。
                               

     
     
     般若寺跡七重塔 (福岡県太宰府市朱雀)
        
   
   1972年の新婚旅行で訪ねた九州の英彦山庭園
  群を再訪する夢がかなった旅で、これまた憧れであ
  った北九州の石造美術を併せて観る事が出来た。
   数多い収穫の中でも、この石塔は出色の逸品であ
  った。石造美術の専門書には「片野の七重石塔」と
  表記されているが、大宰府市役所の観光課で訊いて
  も現在は片野という地名は無いと言う。古い石塔な
  らこれしかない、という場所を教わってようやくた
  どり着いた。

   周辺はすっかり宅地化され、狭い一画に隠れるよ
  うにこの石塔が建っていた。
   七重や十三重という多層塔を美しいと思ったこと
  は余り無かったのだが、西日に輝くこの塔はまこと
  に秀麗に見えた。
   笠の重なり具合と塔身とのバランスが極めて美し
  く、笠の反りが古式の荘重さを備えている。塔身の
  梵字も美しいので、私はすっかりこの塔に見入って
  しまった。
   今まで見過ごしていた七重や十三重の塔を、見直
  す必要がありそうだと感じていた。石塔行脚の出発
  点となった記念すべき石塔である。
       

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     坂東寺石造五重塔 (福岡県筑後市熊野)
                 
     
     筑後市のほぼ中央に位置するJR羽犬塚(はい
  ぬづか)駅の北に、熊野という地区がある。
   天台宗坂東寺は熊野に建つ古刹で、最澄の開基
  と伝わり、南北朝期に再建されたという。
   写真は境内に建つ石造五重塔だが、寺域が近年
  整備されて様子はすっかり変わっているらしい。
  写真は小生が訪ねた15年以上前のものである。

   観る前から貞永元年(1232)という鎌倉前期の年
  号が入った塔、という認識があった事もあるが、
  いかにも古色豊かな風貌の五重塔だった。
   各層の屋根と軸部が別石であること、屋根の勾
  配が緩く、軒の反り具合が実にたおやかであるこ
  となどがその要因だったのだろう。

   初重軸部の四方には、如来形の四方仏が蓮座に
  載った坐像として半肉彫りされている。磨滅が激
  しく、残念ながら像容は明確ではないが、良い彫
  りであったことだけは確かだろう。

   最も特徴的なのは、各層の軸部と最下の基礎部
  分の四方に、五輪塔四門の梵字が彫られているこ
  とである。東側(発心門)には、上からキャ・カ
  ・ラ・バアの梵字が確認出来る。梵字は各門によ
  って、それぞれが変化するのは通例である。
   基礎の南側は修行門のアーだが、梵字の左右に
  仁王立像が彫られているのが珍らしい。   
                                     

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     日島曲墓地石塔群 (長崎県新上五島町日島郷)
                 
     
     五島列島のキリシタン教会
  を巡って、若松島から有福島
  を訪ねた際に立ち寄った日島
  の海辺に広がる墓地である。
   曲地区に在って、無数の石
  塔が海岸に林立する景観は戦
  慄的ですらあった。
   写真はその内の宝篋印塔二
  基で、笠の隅飾りや基礎上の
  反花、さらに基礎の格狭間な
  ど、京大阪など中央の石造文
  化と比しても全く遜色がない
  ことに驚いた。
   遣唐使など古くからの大陸
  との交易船の寄港地として栄
  えたという、この地の歴史の
  痕跡を見る思いだった。
   遺跡好き、石塔好きには堪
  らない場所だろう。
                                          

     
     
     最明寺五輪塔 (大分県宇佐市安心院町)
                
            
   今は宇佐市に併合されているが、かつては宇佐
  郡の安心院(あじむ)町であり、このお寺は下毛
  という集落の中にある。

   寺の建築は再建された新しいものだが、境内入
  口近くの塀の内側に沿って、五輪塔が三基、基礎
  をコンクリートで固めた状態で並んでいた。

   写真の五輪塔はその内の一番右側に建っている
  塔で、形の良いアングルということで、塀越しの
  斜め背後から撮影したものである。
   高さは106
cmで凝灰岩製、塔の四方に五輪
  塔四門の梵字(東門はキャ・カ・ラ・バ・ア)が
  月輪の中に彫られている。
   写真に見える面の梵字は五輪塔南門で、上から
  キャー・カー・ラー・バー・アーを表している。

   梵字の彫りがやや浅いことや、火輪(笠)の反
  りが小さいこと、また笠の上部に風輪の乗る露盤
  のような作り出しがあること、などが大層古風な
  風貌を示していると言える。確かに、水輪部分に
  は正元々年(1259)という鎌倉中期の銘が見られ、
  こうした印象を裏付けている。

   月輪の中に梵字の彫られた五輪塔は品格に満ち
  ており、かなりの上流階級の供養塔(または墓)
  と見てよいと思う。  
           

        
      
     長安寺国東型宝塔 (大分県豊後高田市)
     
     
   両子寺へと向かう途中の屋山の中腹に建つ、養老
  年間に創建されたという古刹である。
   深い木々に覆われた境内は閑寂で、本堂・庫裏な
  どが建つ境内は歴史的な空気に満ちていた。

   本堂の左側から少し山手へと登ると旧六所権現が
  あり、林に近い山際のところにこの宝塔がひっそり
  と建っていた。
   高さは約2m70、基壇を入れれば3m50とい
  う堂々たる宝塔である。
   二段の基壇上に、二区の格狭間を彫り込んだ基礎
  と、その上の複弁の反花が洗練された表現だ。
   塔身の軟らかく膨らんだ形が良いし、笠の大きさ
  や軒の両端の反りが美しい。また、双方の大きさの
  バランスには、何とも言えない落ち着きが感じられ
  る。それはきっと、ほんのちょっとした差異が、美
  しく感じるか感じないかの大きな分岐点となるのだ
  ろう。
   時代が示す様式の特性や、時代ごとに主流となる
  美意識の変遷の面白さは、その辺に由来するのかも
  しれない。
   相輪は後補で、どこにも銘文は無いが、鎌倉末期
  を代表する秀作の一つだろう。
   

       
      
     熊野墓地国東型宝塔 (大分県豊後高田市)
     
     
   熊野磨崖仏の上り口にある胎蔵寺へと至る山道の右
  手に、この共同墓地へと登って行く小道が見える。
   古い墓地で、苔むした五輪塔や宝篋印塔が林立して
  いる中に、この国東型宝塔がすっくと建っている姿は
  とても感動的だった。
   実はこの塔には応安八年(1375)という南北朝中期の
  銘が入っており、年代的にはさして魅力的な要素は無
  かったのだが、美しさに心を打たれたという意味から
  御紹介をしようと思った次第である。

   相輪・露盤は完存しており、笠はやや損傷している
  ものの、軒両端の反りには鎌倉塔を思わせる風格が見
  られる。しかし、笠裏に二重に見える垂木型の造り出
  しが意匠されているのは、いかにも様式が爛熟した南
  北朝後期に相応しいものなのかもしれない。
   複弁反花と単弁請花の組み合わせは珍しいが、特筆
  したいのが陽刻(浮彫)された二区の格狭間である。
   塔身には、年号の他に、逆修の文字と施主の名前が
  列記され、最後に石工五郎太郎の名が入っている。
   この塔が、一族の極楽往生、法界成仏を求めた供養
  塔であった、ことが判る。
   同時代の作品には、美意識からは程遠い堕落した型
  式の塔も多いが、この作者は古典の美しさをしっかり
  と学んだ優秀な石工であったに違いない。
   

       
      
     富貴寺国東型宝塔 (大分県豊後高田市)
     
     
   蕗の里にあるこの寺は、国宝の阿弥陀堂で知られ
  る。雑木林に囲まれて建つ平安後期の木造建築には、
  これぞ日本人の美意識の結晶、と言いたくなるほど
  の優美さを伝えている。

   お堂の周囲には、鎌倉中期の仁治や文永の銘を持
  つ笠塔婆五基、石殿、石仏などと共に、二基の国東
  型宝塔が並んでいた。
   小さい方の宝塔には墨書銘があって、古塔と思い
  きや、慶長八年(1603)という桃山末期に制作された
  ものだった。
   写真が大きい方の国東型宝塔である。
   高さは3m15ほどで、全体的にふっくらとした
  良い形の宝塔だろう。好みから敢えてケチを付ける
  とすれば、笠の巾がちょっ小さく、屋根の傾斜が膨
  らんでいることくらいだろう。
   
   一段の基壇にのる基礎と、その上の反花には彫刻
  は無く、全くの無地である。その上の請花には、蓮
  弁の彫り線が微かに見えるが、途中で消えてしまっ
  ている。どうやら、彫刻が未完成の宝塔らしい。
   しかし、石塔全体が醸し出す雰囲気はとても荘重
  であり、どっしりとした塔身、大きな請花、重厚な
  相輪などを勘案すると、必然的に鎌倉末期という推
  定が成り立つであろう。感覚的な判断が許される、
  素人ならではの楽しみである。
   

     
       
     下払坊国東型宝塔 (大分県国東市国見町)
      
      
   国見町は半島の北部に当り、別宮八幡宮の在る
  伊美の町が中心である。私達はここに宿をとり、
  新鮮な魚料理を楽しんだものだ。

   かつて大伽藍を誇った千燈寺の寺域の中の、旧
  下払坊跡地にこの国東塔が建っていた。
   基礎の格狭間が良い形であり、反花は盛り上が
  ったように大きな複弁である。
   塔身は臼のように張りが有り、球形に近くぼっ
  てりとしている。イメージは長木墓地の塔に似て
  いるかもしれない。
   笠の両端に大きな反りが見え始めており、この
  部分も似ていることから、鎌倉末期の制作であろ
  うと決めた。
   笠や相輪と塔身や基礎の均衡が見事で、これも
  国東を代表する名塔の一つだと思う。

   苔むし荒れ果てたお寺の跡地に、これまた古び
  た石塔だけが残されているという光景は、諸行無
  常、歴史の無残さを感じざるを得ない。しかし同
  時に、石が示す不朽の生命感を通じて、人が石に
  託した切ない願いの様なものをも感じてしまう。
        

       
      
     別宮八幡宮国東型宝塔 (大分県国東市国見町)
     
     
   国東半島の先端に浮かぶ姫島を訪ねた際、伊美の
  港から島への連絡船に乗った。
   八幡神社は港から程近く、この宝塔は参道の木立
  に囲まれて堂々と建っていた。
   基壇を除いて高さ4mという、誠にどっしりとし
  た雄大な構想の塔である。

   二重の基壇の上に乗る基礎は、四石から構成され
  ていて格狭間などの装飾は無い。明治の廃仏毀釈で
  解体されていたものを復元修理したそうで、基礎以
  下はその時の後補である。

   塔身は高さのある複弁の大きい反花に乗っており、
  緩やかな膨らみのある円筒形で、ゆったりとした落
  ち着きを感じさせてくれる。
   塔身に銘文が彫られているが、はっきりとは判読
  出来ない。資料によれば、正応三年(1290)という鎌
  倉後期の年号が彫られており、仏舎利と如法経を奉
  じて建立されたことが判る。
   
   笠の軒はそれほど厚くなく、両端が極端に反り上
  がっているが、それが国東型宝塔の特徴と言えるか
  もしれない。
   二区の格狭間が付いた露盤の上に、伏鉢・請花・
  九輪・請花・火焔宝珠と、完璧な国東型相輪が乗っ
  ている。
   部材はほとんどが同じであり、おまけに配列の順
  番まで様式化しているというのに、人の顔の違いに
  似て、個々の微妙な特性を味わう面白さは格別であ
  ろう。   
   

       
      
     岩戸寺国東型宝塔 (大分県国東市国東町)
     
     
   国東塔を語る上で、決して外してはならない塔の
  一つである。何故なら、数ある在銘国東塔の中での
  最古の塔で、なおかつ眉目秀麗とも言える傑作だか
  らなのである。
   浜の里から文殊仙寺へと向かう道から、西北に山
  へと分け入って行くと、間無しで萱葺きの講堂や本
  堂が建っている寺域へと至る。
   本堂からさらに奥の院へと通じる石段を登って行
  くと、右手にこの重要文化財にも指定された美しい
  シルエットを見上げることになる。

   写真でもお判りの様に、全体的には国東塔の特徴
  を見事に表した秀麗な塔なのだが、唯一つ他塔と大
  きく違うのが塔身下の請花部分の造形であろう。
   単弁反花座の上に、二段に重なった蓮弁を彫った
  請花座で、さらに塔身との接点に細かな蓮華の反花
  が飾られているのである。
   精緻な表現であると同時に、釈迦の説法中に地下
  から湧出したとされる宝塔の勢いを、これほどまで
  に美しく描いた宝塔は他には無いだろう。

   総高は3m20余で、天にも届きそうな勢いが感
  じられる。
   塔身に銘文が在り、専日坊という当寺の僧が「当
  山平安、仏法興隆」を勧進して建立した旨が彫られ
  ている。
   紀年銘は弘安六年(1283)であり、鎌倉中期という
  魅力的な年号である。   
    

       
      
     神宮寺国東型宝塔 (大分県国東市国東町)
     
     
   奈良時代、仁聞菩薩の開基と伝えられる古刹であ
  る。平安末期には、六郷満山末山本寺として繁栄し
  たという。
   国東の中心街から両子寺へと通じる県道を西へ行
  き、馬爪という集落から右手の山麓へと入る。山道
  を上り詰めた所に、広大な寺域が展開する。

   本堂の左手からさらに細い山道と石段を登って行
  くと、六所神社へと着く。社殿の前が参道となって
  おり、その両側に石祠や石塔が並んでいる。
   その中で、この国東塔はスポットライトを浴びた
  かの如く、壮麗に輝いて見えた。

   建武三年(1336)の銘が在り、南北朝初頭の作であ
  る。当寺の良法上人が、天下太平万民安穏を祈念し
  造立した旨が記されているという。
   鎌倉期の豪放さは無く、全体にやや華奢な印象で、
  いかにも南北朝へと移行していく過渡期を感じさせ
  る塔である。
   二区の格狭間を持つ基礎、複弁の反花台座、壺形
  の塔身、などなど国東塔らしい特徴を見せている。
  相輪や露盤も完存しているのだが、私は笠の軒の、
  緩やかな反り具合がとても気に入ってしまった。古
  典を理解した南北朝の気品、とでも言えば良いのだ
  ろうか。
   

      
     
     不動院跡五輪塔群 (大分県国東市国東町)
                
           
   国東半島の東、旧国東町の浜崎という集落の
  西側、小さな丘状の森の中に、写真のような奇
  妙な形の五輪塔が七基、不規則に並んでいる。
  かつては九基在ったそうだが、「浜崎祖形五輪
  塔群」と呼ばれる史跡として保存されている。

   通常の五輪塔は、空輪と風輪が一体化する場
  合は多いが、基本的に五輪は別石である。
   ここの祖形五輪塔は七基とも通常のものとは
  違って、一石から五輪が彫り出されている。
   五輪それぞれの形もユニークであり、押しつ
  ぶされたような何とも異様な風貌である。
   火輪(笠)にはほとんど反りが見られず、水
  輪は偏平な球体というよりはタイヤ状といった
  ほうが近いかもしれない。

   この古式一石五輪塔は畿内や関東ではほとん
  ど見られないのだが、後述の大分臼杵の中尾五
  輪塔にかなり類似していると思う。
   中尾のものには嘉応二年 (1170) という平安
  末期の年号が彫られているのだが、残念ながら
  こちらには見られない。だが、屋根の反りや球
  体の偏平度合いから、時代的にはこちらのほう
  がやや古いのではないかと思われる。
              

    
   
     長木墓地国東型宝塔 (大分県国東市国東町)
     
    
   森の中の古い墓地にひっそりと立つ、この国東塔の
  何と美しいことであろうか。いかにも中世以来の名家
  の墓地らしい幽邃な雰囲気の中に立ち、しっとりと苔
  むした深い哀愁に満ちた歴史を感じさせてくれる。情
  緒で物を見るという、素人ならではの楽しさである。

   火焔形宝珠、反花と蓮座、その上に乗るふっくらと
  した塔身などが国東塔の特徴である。
   笠の反り具合や全体的なバランスが塔の優劣を左右
  するのだが、この塔は塔身がぼってりとして優しく、
  強い意志と共に柔和な精神を象徴しているかのようだ。
   塔身に元亨元年 (1321) 造立の銘が有り、生前供養
  を意味する逆修の目的で立てられたということだが、
  鎌倉末期の地方の豪族が示した磊落な気質を物語って
  いる。

   この墓地には同年代に建立された分厚い板碑も数基
  有り、まるで中世の石造美術館のような観が有る。
   私は今までに4度だけ、国東半島の石造美術を探訪
  した事がある。磨崖仏、国東塔、板碑などの宝庫であ
  り、これらを見て歩く楽しさは他の土地では滅多に味
  わえない喜びである。          
           

      
            
     吉木旧九重塔 (大分県国東市国東町)
      
   
   旧国東町吉木の集落に隣接して、この優美で
  力強い石塔が立っている。
   現在は相輪を失った八重の層塔だが、従来は
  九重石塔であったと思われる。笠の逓減率が大
  きいので、十一重や十三重は考え難い。

   高さ6mという豪壮な塔だが、屋根の軒裏に
  垂木の造り出しが彫られているのでとても優雅
  に見える。
   三重の基壇の上に、側面二区に格狭間を入れ
  た基礎が乗る。初軸部には金剛界四仏種子が、
  力強く薬研彫りされている。写真の正面に彫ら
  れているのは、阿しゅく如来を象徴する“ウー
  ン”という梵字である。

   屋根の勾配は両端が大きく反った形で、とて
  も躍動的な印象を受ける。
   無銘であるために制作年代は諸説あり、鎌倉
  後期から南北朝初期とされるが、豪快さの片鱗
  が残るあたりからも、どうやら鎌倉末期説が正
  しいような気がする。
   どちらにせよ、見る者の心をつかむ感動的な
  名品であることは間違い無い。   
           

   
        
     大聖寺跡五輪塔群 (大分県国東市国東町)
    
    
   素晴らしい国東宝塔と板碑を保存す
  る長木家墓地が在る堅来からほど近い、
  来浦という集落の外れにこの寺院跡が
  ある。偶然通りかかって発見した場所
  である。古びた五輪塔が、私達を呼び
  止めたかの印象を受けた。
   大聖寺は延文三年(1358)の創建だか
  ら、南北朝中期ということになる。
   この地の豪族の供養塔群らしいが、
  ここには新旧取り混ぜて祀ってある。
  写真は特に古そうな部分を撮ったもの
  である。
   右端の五輪塔が一番気に入ったもの
  で、笠の傾斜である流れが直線的であ
  り、軒が薄く反りが緩やかであること
  や、水輪が扁平で大らかであることな
  ど、鎌倉初期をも思わせる風貌ではな
  いだろうか。寺の建立以前の墓とも考
  えられる。
   荒廃しきった寺院の跡、つわもの達
  の夢や怨念を連想するに相応しく、苔
  むした五輪塔達は無言のままだった。
             

    
      
     照恩寺国東型宝塔 (大分県国東市武蔵町)
     
     
   照恩寺境内の植木に囲まれた場所に、この美し
  い国東塔が建っていた。元は椿八幡宮にあったも
  ので、明治の廃仏毀釈により倒壊放置されていた
  ものが、この寺の手によって移築されたという。

   基礎上部には、二区に仕切られ、また二重の輪
  郭線で囲まれた格狭間が、さらに一重複弁の反花
  台座が設けられている。
   塔身はふっくらと優美な茶壷のような形をして
  いる。
   笠はやや反っているが、塔身とのバランスにお
  いて実にすっきりとしており、良い姿である。
   塔身には銘文が刻まれており、妙法蓮華経を奉
  納するため、正和五年(1316)に造立されたとのこ
  とである。笠の反りは鎌倉後期を明らかに示して
  いる。
   笠の上の露盤は四方とも連子模様で、伏鉢、請
  花、九輪、請花、宝珠と揃い、完璧な相輪を構成
  している。笠、塔身のやや華奢で優雅な雰囲気に
  は似合わないほど太く、豪華な相輪となっている。

   一塔ごとに違った表情を見せる国東塔の美しさ
  に、私は長い間魅せられたままである。
          

      
       
     西光寺国東型宝塔 (大分県国東市武蔵町)
       
     
   照恩寺から同じ谷筋を両子山に向かって登って
  いくと、吉広という集落に着く。この寺はその外
  れに位置している。

   二区に仕切られた基礎には格狭間が入れてあり、
  そこに至徳四年(1387)の年号が読める。これは南
  北朝末期に相当するのだが、全体には鎌倉かとも
  思わせるような造形美が明らかに在る。
   愛らしい塔身が特徴で、五輪塔の水輪のような
  丸みを帯びた茶壷形である。
   四方に地蔵像が彫られているが、合掌する諸龍
  地蔵、如意宝珠を捧げる無二地蔵、香炉を捧げる
  伏勝地蔵、錫杖を持つ延命地蔵、と勝手に解釈し
  た。六地蔵の図像学的想像によるものなので、自
  身やや頼りは無い。
   宝珠が破損しているが、南北朝としては相輪全
  体は太く豪快であり、鎌倉期のイメージを残して
  いるように見える。

   国東塔が示す従来のフォルムとはやや違う印象
  を受けるのは、やはり丸い塔身に由来するのだろ
  うが、全体が整った美しさは格別である。
           

   
  
     釜ヶ迫国東型宝塔 (大分県国東市安岐町)
    
              
   国東半島に広く点在する宝塔は、国東型としてど
  れもおおよそ同じ形状をしている。しかし詳細に眺
  めてみると、人の顔の造作が微妙に異なるように、
  それぞれの個性が見えて来て面白い。

   後述の長木墓地のものがぽっちゃり型とすれば、
  この釜ヶ迫のものは細面の瓜実型と言えるだろう。
   国東には、岩戸寺・照恩寺・財前墓地・石丸・長
  安寺のものなど、数え切れない程の宝塔が残され、
  そのいずれもが鎌倉から南北朝にかけての、石造美
  術が最も充実した時代の遺品なのである。

   その大半を見て歩いた中で、安岐町弁分という所
  で見たこの宝塔くらい優美なものは他に無かった。
  地に足のついていないような、華奢で繊細な危うさ
  を感じるほど、線の細い美しさなのである。
   塔身に銘が在り、建武二年(1335)と刻まれている
  が、南北朝の最初であり、鎌倉期の豪快さがやや失
  せ、優雅な姿へと移行していく時代を象徴している
  ようだ。
   写真の塔身に見える梵字はバク(釈迦)で、時計
  回りに、バイ(薬師)サ(観音)キリーク(弥陀)
  の順に四方仏が彫られている。 
            

       
      
     財前家墓地国東型宝塔 (大分県杵築市大田)
     
     
   両子寺へと登って行く道の途中に在る森厳な地域
  で、紀氏の末裔と伝えられる財前家の墓所である。
   木立に囲まれて建つ五輪塔数十基・板碑十数基・
  国東塔二十基は、大半が鎌倉から南北朝へ至る中世
  の石造品ばかりである。
   それらが苔むして林立する姿は、何とも壮麗とし
  か言いようが無いほど感動的、といえる場所だ。

   中でも一際異彩を放っているのが写真の宝塔で、
  総高3m60という大型の国東塔である。
   国東式の相輪が完存しており、露盤には二区の格
  狭間が意匠されている。
   笠の軒は両端が反るのは国東塔当代の様式だが、
  四隅で薄くなっているのは、後述の石丸塔に類似し
  ているかもしれない。
   塔身は肩の張った壺形で、首部を入れて75
cm
  らいの高さである。ふっくらとした柔和な塔身であ
  り、ちょっとした曲線の違いが様々な印象をもたら
  す、ということを教えてくれる。
   この塔身の周囲に銘文が刻まれているのは写真か
  らでも判るが、年号は元応三年(1321)という鎌倉後
  期の作であり、現世の安穏と後世の菩提を祈願した
  供養塔である。
   基礎には二区の格狭間、その上にやや背の高い単
  弁反花座が設けられている。
   装飾技術などはそれ程優秀とは思えないのだが、
  古塔特有の落ち着いた雰囲気を持つ国東塔傑作の一
  つだと思う。
   右側の国東塔は南北朝のものだろう。  
   

        
      
     石丸国東型宝塔 (大分県杵築市大田)
     
     
   旧大田村は、国東半島では唯一海の無い市町村だっ
  た。それが貴重というわけではないが、行政単位に個
  性が失われていくことを危惧している。
   石丸は旧大田村役場の在った集落で、この宝塔は大
  田中学校背後の丘陵上に建っている。

   二段の大きな基壇が据えられ、その上にこの安定感
  の感じられる石塔が建っている。
   基礎には二区の格狭間が、四方に彫られている。
   その上の反花は彫りの深い複弁で、別石の彫りとな
  っている。
   写真は下から見上げた格好なので、塔身はやや押し
  つぶされた形に見える。しかし、基礎からの全体の高
  さが1m60で塔身は42
cmだから、実物も臼か壺
  のような平べったい形をしている。西光寺宝塔のよう
  に類例は少しだが在る。
   塔身に銘が彫られ、実際に元徳二年(1330)と読むこ
  とが出来た。鎌倉末期の下から二番目の年号である。

   笠は両端の反った国東様式であり、軒も厚く全体に
  引き締まった良い像容である。笠の上の露盤と反花ま
  でが一石で仕上がっている。
   相輪は失われたが、泰然自若たる落ち着きが素晴ら
  しい、とても印象深い国東塔だった。
        

     
    
     坂水五重塔 (大分県杵築市大田)
      
     
   国東半島の南部を占める大田村に沓掛という集
  落が有り、そこの坂水という地区にこの石塔が建
  っている。

   屋根の張り出しが極端に少なく、各層軸部の高
  さが大きいことなど、第一感は朝鮮の影響かと思
  ってしまった。しかし、山香町の西明寺石造三重
  塔など似た事例も有り、特定の石工による様式が
  この時代に有ったのかもしれない。

   紀銘年は延元4年(1339)とあり、この地の豪族
  であった田原直平の墓塔との伝承が残る。付近に
  は、南北朝期の五輪塔が林立する田原家墓地も保
  存されており、古い格式を有する名門であること
  を示している。
   最上部の相輪は失われており、露盤のみが残っ
  ている。石材は安山岩らしく、笠と軸とは別石を
  積んでいる。

   基礎側面を三つに区切り、それぞれに格狭間を
  入れてあるのが特徴である。輪郭線が二重である
  ところなどに、派手ではないがさりげなく贅沢を
  する奥ゆかしい教養が感じられる。
       

       
   
     西明寺三重塔 (大分県杵築市)
     
    
   旧山香町内河野という場所なのだが、従
  前はかなりの山の中で場所を探すのに苦労
  した。近年この近くを通ったが、新道が出
  来ており案内の標識が出ていたので、現在
  は迷うことは無いだろう。

   貞和四年(1348)という銘が基壇上部に彫
  られており、南北朝初期のものである。
   相輪は失われているが、雲形文様の露盤、
  蓮華文様の二層目軸部などの細部には、優
  れた技法を見ることが出来る。
   初重軸部には、金剛界四仏種子が月輪の
  中に薬研彫りされており、陽刻された蓮華
  座が見事だ。
   鎌倉期のものと比べると、やや力強さは
  失われているものの、写真のシルエットに
  見る通り全体像はとても優美である。
   塔の周囲を境界壇にしてあり、四隅に方
  錐形の柱状碑が立っている。
          

       
      
     願成就寺国東型宝塔 (大分県日出町)
     
     
   木下氏歴代の城下町であった日出(ひじ)は、別府
  と杵築に挟まれた静かな町で、特に城下カレイの美味
  は垂涎の的となっている。食いしん坊の私達夫婦は、
  城下カレイのためだけに大分までの往復航空券を買っ
  ても良い、とすら思っている。

   国道10号線の赤松峠を下ったあたりに赤松の交差
  点がある。お寺の山門は、そこから眺めることが出来
  るほど近い。

   国東塔は、境内の石垣の脇に建てられている。
   火焔付きの宝珠・九輪・請花・反花と完存している
  相輪、二区格狭間の露盤、軒の両端が大きく反った笠、
  ふっくらとした塔身、などは良く国東塔の特色を表し
  ている。

   この塔が特徴的なのは、基礎の格狭間が三区になっ
  ていることだろう。長木墓地の宝塔など、類例は在る
  が珍しいものである。
   もう一つの特徴は、請花座の蓮弁に、写真でははっ
  きりとは見えないのだが、花脈のような細い無数の縦
  線が彫られていることである。これも、類例は希少で
  ある。
   銘文は塔身に在って、応長元年(1311)という鎌倉後
  期の年号を見ることが出来る。
   塔全体が傾いているのが気になるが、総高3m45
  という、安山岩で出来た大型の国東塔の傑作である。
 
        

     
     
     御霊神社五輪塔群 (大分県別府市)
                    
            
   別府温泉郷八湯のひとつ亀川温泉から山手へと
  入ると、そこは血の池地獄などで知られる柴石温
  泉へと通じている野田という地区である。そこか
  らさらに山へ分け入った羽室という鄙びた集落に、
  この神社がひっそりと建っていた。
   小さな社殿の背後左右両側に、五輪塔・国東型
  宝塔・角塔婆・板碑など二十基余りの石塔が祀ら
  れている。
   鎌倉から室町期にかけてこの地を治めていた、
  竈門(かまど)氏一族の墓所と考えられるらしい。

   写真は、本殿左に建つ四基の五輪塔の内で最大
  の塔で、高さは220
cmある剛毅な佇まいだ。
   以前、嘉元四年(1306)という年号の五輪塔の存
  在が確認されたというのだが、該当する銘の彫ら
  れた五輪塔は現存せず、摩滅してしまったのか、
  またこの塔がそれに当たるのかもはっきりしない。
   しかし、この五輪塔の風貌からも、鎌倉末期は
  下らないであろうことは明白であり、石塔群の中
  の白眉であることには違いは無い。
   二重台座で上段は側面二区の格狭間が彫られ、
  別格の人物を祀った可能性が強い。
   最大の特徴が梵字で、写真の正面は下から「ア
  ・ビ・ラ・ウン・ケン」と彫られている。これは
  大日如来三身真言の内の報身真言である。
   右側に見える梵字は、やはり下から「ア・バン
  ・ラン・カン・ケン」で同じく三身の内の法身真
  言であり、他の二面には応身真言と金剛界五仏の
  種子が彫られている。
   大層珍しい梵字の配列だが、豊後には事例も在
  るようで、事実次の大野ですぐ遭遇することとな
  った。
            

    
   
     深田宝篋印塔 (大分県臼杵市)
      
      
   写真は“日吉塔”と呼ばれるこの宝篋印塔の背
  後から撮影したもので、前方の山裾に見える大き
  な屋根は臼杵石仏群の古園石窟の覆いである。
   塔の左手は、石造五重塔や石造仁王像のある満
  月寺であり、臼杵の磨崖仏群の全てを遠望出来る
  という素晴らしい立地条件である。

   基礎は二区に分けて格狭間が彫られており、一
  段付けて塔身が乗っている。
   塔身の正面は入口の様になっていて、内部を刳
  り抜いて室内らしき空間を造ってある。扉を吊り
  込む穴までが設けられている。
   石造の厨子のような造りで、他にほとんど類例
  は無いだろう。
   塔身の大きさが、全体におおらかな安定感をも
  たらしているように思える。

   笠は六段だが、やや偏平な印象を受ける。
   巾のある軒は、両端が微かに反っている。この
  感じは鎌倉期のもの、と直感した。
   隅飾は二弧輪郭付きの意外に小振りなもので、
  石は独立しており、ほぼ垂直に立っている。

   全体的な落ち着き、軒の反り、直立する隅飾、
  きりっとした格狭間など、鎌倉後期を推定させる
  材料が揃っている。それだけに、相輪はオリジナ
  ルとされているが、時代的にやや細いのではない
  か、と私には思われた。
     

    
     
     日吉神社五輪塔 (大分県臼杵市深田)
                 
              
   臼杵の石仏群を巡る遊歩道の途中、山王石仏と
  古園石仏とのほぼ中間に、左手の山の上にある日
  吉神社へと通じる小路がある。
   急坂を登り、日吉社を左に見ながら更に登った
  左手の薮の中に、この小さな五輪塔が石柵に囲ま
  れて祭られていた。

   高さは1m余りだが、地輪の高さが不明なので
  正確には判らない。
   一石から彫り抜いた石塔で、堂々たる風輪、軒
  の反りが少なく屋根の傾斜が小さい笠(火輪)、偏
  平な球体の水輪など、小振りながらまことに剛毅
  で端正、まことに均整の取れた美しい五輪塔であ
  る。
   紀年銘など一切無いので、年代は形態から判断
  するしかない。まあ、これが最高の楽しみのよう
  なものではあるのだが。
   後述の中尾にある承安塔に類似していることか
  ら、制作時代は平安末期から鎌倉初期にかけての
  もの、と言っておけば間違いは無いだろう。
   特に、笠の形態がとても似ており、同じ一石五
  輪塔でも後述の備後尾塔の笠と比べれば、明らか
  にこちらの方が古式であろう。

   材質はこの地に多い凝灰岩でやや荒削りにも見
  えるが、五輪塔そのものが示すほのぼのとしたフ
  ォルムの原形を見るような気がして嬉しい気分に
  なっていた。
            

    
     
     中尾五輪塔 (大分県臼杵市深田)
                 
             
   日吉神社の五輪塔からさらに山道を進み、竹薮
  を抜けた辺りから少し崖下へ下って行く。
   そこはちょうど、臼杵石仏群の堂ケ迫石仏背後
  の崖上に当たる場所である。

   木造の覆屋の中に、大小二基の一石造り五輪塔
  が保存されている。
   写真は大きい方で154
cmあり、地輪の梵字
  「ア」の右側に
「嘉應弐」と記されていて、この
  塔が平安末期を示す嘉応二年(1170)に制作された
  ことが判る。
   国東の不動院跡でこの手の古式五輪塔を見てい
  たのでそれ程驚かなかったが、初めて見ればやは
  りかなり衝撃的なフォルムだろう。塔のルーツが
  インドのストゥーパにある、という説の証しにな
  っているかのようだ。

   梵字は下から「ア・バン・ラン・(カン・ケン)」
  で、これは豊後各地で見た大日法身真言である。
   他の二面に報身真言・応身真言が彫られて大日
  三身真言を構成していることは共通しているのだ
  が、もう一面に胎蔵界五仏の種子が彫られている
  のが珍しかった。他は全て金剛界五仏である。

   小さい方の一石五輪塔は102
cmで、前述の
  日吉社五輪塔にとてもよく似ている。
   こちらには承安二年(1172)という、これも平安
  末期の銘がある貴重な遺構だ。梵字は四面共、大
  日法身真言の五文字が下から刻まれている。
   
           

    
     
     備後尾五輪塔 (大分県臼杵市野津町)
             
             
   この辺りは現在は臼杵市に併合されたが、かつ
  ては大野郡野津町であった。
   旧野津町の八里合という地区にこの五輪塔があ
  ることは知っていたのだが、備後尾(びごの)五
  輪塔とか都留平(つるびら)五輪塔などと表記さ
  れているので、正確な所在は不明だった。
   レンタカーのナヴィゲーター地図に、重要文化
  財五輪塔として
∴印が記されていたので、その地
  点まで行ったのだが、そこは会社の倉庫だった。
   会社の方に伺って、裏山に整備保存されている
  五輪塔までようやくたどり着くことが出来た。

   この五輪塔も凝灰岩製で高さ106
cmという
  小振りな一石造り五輪塔で、近年建てられたと思
  われる立派な覆屋の中に鎮座していた。
   ふっくらとした宝珠(空輪)と半球(風輪)が
  笠(火輪)に食い込むように載っている。
   やや厚みのある軒は美しい反りを見せ、水輪の
  球体は押しつぶしたような偏平な形である。

   銘文が、写真にも微かに写っているが、笠 (火
  輪)部分の梵字「ラン」の両側に記されている。
  年号は弘安八年(1285)で、右為?蓮?と彫られて
  いるので、?蓮という人の供養塔として建てられ
  たものだろう。
   四方に五輪塔四方門の梵字(種子)が彫られてい
  るが、写真に見える梵字は西側の菩提門であり、
  上から「ケン・カン・ラン・バン・アン」と読む。
   鎌倉中期とは思えない程の、古式の風格を備え
  た逸品だろう。  
         

    
     
     松尾五輪塔 (大分県臼杵市野津町)
                
        
   前記の八里合から県道を西南にしばらく走ると、
  亀甲という地域に入る。ここから右へ折れれば野
  津の中心街へ、直進すれば水地の石造九重塔から
  風連鍾乳洞へと通じる分岐となっている。
   そこから左折して山裾の方へ向かい、これ以上
  車が進めなくなった所で、右手の小高い丘へと登
  って行くと、この堂々たる五輪塔が私達の訪問を
  待っていたかのような風情で建っていた。
   実は、案内の標識に従って行けたので、迷うこ
  とが少しも無かったのだった。

   私はこの五輪塔を見て、即座に前述の宇佐安心
  院の最明寺五輪塔を思い出していた。
   最明寺の五輪塔の特徴であった笠上部の露盤は
  見られないのだが、全体のシルエットはとても類
  似しているように思えたのである。
   笠の傾斜が緩いこと、軒が薄く反りが少ないこ
  と、水輪の球形がやや偏平なこと、梵字が月輪の
  中に彫られていること、などがそうした印象に繋
  がったものと思われる。

   梵字は、五輪塔四方門が、塔の四方に彫られて
  いる。写真に写っているのは北側涅槃門で、上か
  ら「キャク・カク・バク・ラク・アク」と読む。
   銘文は無く、制作年代は不明で、大半の石造美
  術書には取り上げられていないが、鎌倉期は下ら
  ない傑作のひとつだと確信する。
          

    
       
     王子九重塔 (大分県臼杵市)
     
    
   大分県は市町村合併に熱心だったが、旧地名の頃
  に探訪した小生にはどうも今ひとつピンとこない。
  ここもかつては野津町王子だったが、現在は臼杵市
  と合併している。
   水田やビニールハウスの並ぶ農地の中にポツンと
  立っているのだが、延万寺の跡と伝わっている。

   豊後の石塔を代表する傑作で、初重軸部に文永四
  年(1267)という銘が彫られている。鎌倉中期という
  魅力的な年代だが、軸部が大きく笠の軒の出方が小
  さいので見事な安定感を示している。
   前出の吉木層塔と比較すると、こちらの方が総体
  的に野武士のような豪放磊落さが感じられる。

   最大の特徴は、初重軸部の四方に掘り込まれた四
  仏坐像だろう。舟形に彫られた光背の中に、弥勒・
  薬師・弥陀・釈迦の四仏が半肉彫りされている。像
  のすぐ後ろに光背として二重円相が彫られ、外側の
  舟形光背との間が幾重もの羽形線で結ばれている。
   相輪は後補だが、ここではさほどの違和感を感じ
  させない。補修は無理にしないほうが良いと思って
  いるが、この程度が最低限の補修だろう。
   角に面取りをしたような手法が見られる格狭間も
  珍しく、両端に隅柱を立てたような形になっている。
          

       
    
     蓮城寺薬師堂宝塔 (大分県豊後大野市三重町)
    
    
   旧三重町の中心街から、延岡へと抜
  ける日向街道を約3キロ南下すると、
  内山千手観音として親しまれているこ
  の寺に着く。
   寺の境内にも文中四年(1375)の銘が
  ある、南北朝後期の石造宝塔があるが、
  薬師千体仏で知られる薬師堂の右に建
  つ、この二基の石造宝塔が重要だろう。
   基礎は大層薄く造られている。
   塔身の四方には扉形が彫られており、
  それぞれの間に梵字が確認できる。詳
  細は判らぬが、バイ(薬師)が見える
  ので、おそらくは顕教四仏の種子だろ
  うと思う。
   写真では暗くて判然としないが、首
  部は二段構造になっている。下段には、
  組み物の上に勾欄が緻密に彫られてお
  り、上段には扉形が彫り込まれるとい
  う、とても細密な彫刻である。
   笠は軒の巾が広く、ゆったりとした
  勾配で、軒は両端が微かに反っている。
   右側の宝塔の塔身に彫られた銘文か
  ら、永仁四年(1296)の制作と考えられ
  ている。   
  

    
     
     常忠寺五輪塔 (大分県豊後大野市大野町)
                    
            
   豊後大野市は、かつての大野郡大野町や犬飼、
  三重、緒方など、石造美術には縁の深い七町村の
  合併で出来た広範な市である。
   このお寺は、旧大野町の藤北という大層鄙びた
  山村に、小さなお堂としてひっそりと建っていた。

   本堂の背後の小高い場所に、大小十数基の五輪
  塔が並んでいた。
   中でも一番目を引くのが写真の五輪塔で、高さ
  は2mちょっとありそうだった。
   地元では、豊後守護職であった大友氏初代大友
  能直の供養塔とされており、もしそうだとすれば
  当然鎌倉期の塔ということになる。
   しかし、水輪がやや細長め球形であり、空輪と
  風輪の背が余りにも高いことから、私の見た限り
  でも鎌倉期の様式とは異なった、かなり近世の塔
  だと思えないこともない。

   次の問題は梵字である。写真の梵字を下から読
  むと「ア・ラ・ハ・ウーン・バン」である。そん
  な配列は在り得ず、これは前述御霊神社のものと
  同じ大日如来応身真言「ア・ラ・ハ・シャ・ナウ」
  と金剛界五仏「アク・キリーク・タラーク・ウー
  ン・バン」とが混在しているものと思われる。
   つまり、上部の空輪・風輪の向きが違っていた
  らしい。現地で判っていたら直したのだが、市の
  文化財だけに早急に向きを直していただきたい。
   大日如来三身真言を彫った石塔の大半が鎌倉期
  のものであることから、市も鎌倉期のものとして
  指定しており、何とも謎めいた石塔である。
               

  
    
     大慈寺九重塔 (熊本市南区野田)
                 
     
   熊本市の南部、国道3号線が加勢川と緑川に
  挟まれた杉島地区を通過するあたりの東側に在
  る曹洞宗の禅刹である。
   二層の立派な山門をくぐると、広大な境内に
  は多くの伽藍が建ち並んで壮観である。
   当寺の諸石塔は、開山の寒厳禅師を祀る廟所
  周辺に林立している。

   廟所に向かう参道の右側に、写真の石造九重
  塔が建っている。
   切石積の基壇や自然石の基礎は後補で、その
  上に相輪を欠いた九重塔が載っている。高さは
  
3m以上はありそうだ。
   各層は屋根と軸部を一石とした構造で、軒の
  反りは古風で緩やかである。だが、誰が見ても
  六層目から上の屋根は不自然な重なりであり、
  少なくとも上三層は後から入れ替えられたもの
  である。
   方形の塔身には四方仏ではなく、法華経の字
  句を記した位牌型が彫られていた。「南無妙法
  蓮華経塔」と「如法書写妙法之塔」とが、四方
  交互に配されているのである。
   何とも珍しい塔身だと思っていたら、塔身内
  部に空洞が設けられ、法華経の写経が安置され
  ていたとのことであった。
   永仁五年 (1297) という鎌倉後期初めの年号
  が発見されているという。
                   

   
    
     大慈寺十三重塔 (熊本市南区野田)
                 
     
   廟所へ至る参道の廟所門手前の一画に、参道
  を挟んで九重塔とこの十重の層塔が向かい合っ
  て建っている。現在は十重だが、本来は十三重
  塔であったと考えられる。
   かつては、山門の外に建っていた塔で、近年
  現在の場所へ移築されたものだそうだ。
   高さは
370cmほどで、年号銘の無い塔ではあ
  るが鎌倉後期と見られる。前掲の九重塔と比べ
  ると、同じ後期でも時代は少々下がるかもしれ
  ない。

   こちらも基壇は新しい切石積で、その上に四
  面とも二区に輪郭を巻いて中に格狭間を意匠し
  た基礎が載っている。
   塔身(初重軸部)には、舟形に刳り抜いた中
  に半肉彫の顕教四仏像が彫られている。
   写真は東面の弥勒如来で(弥勒は本来は北面
  なのだが)、時計回りで薬師如来、釈迦如来、
  阿弥陀如来と続いている。塔身の向きは、移築
  の際にずれてしまったのだろうか。

   各層の軒口はやや厚めで、両端は落ち着いた
  重厚な反り方を見せている。
   各層の軒の反り方を詳細に眺めると、五層目
  より上、特に最上層に不自然なつながりがある
  ので、失われた三層はこのどこかへ収まってい
  のだろうと想像してみた。
   鎌倉後期らしい豪壮かつ秀麗な十三重塔が、
  目の前に出現したかのような気分だった。
                  

  
    
     大慈寺宝篋印塔 (熊本市南区野田)
                 
     
   大慈寺廟所には寒厳義尹禅師が祀られてい
  る。禅師は鎌倉中期の名僧で、宋へ二度も渡
  り、九州各地に寺院を建立している。難所で
  あった緑川に大橋を架けるという偉業を達成
  し、この地に寺領を得たという。
   禅師は天皇家の落胤であったので朝廷との
  関係が深く、現在でも廟所のあちこちに菊の
  御紋を見ることが出来る。

   廟所の中央に、写真の宝篋印塔が祀られて
  いる。高欄を巡らした基壇に載っており、や
  や崩落した基礎は無地で、上二段に塔身が載
  っている。霊根塔と呼ばれる。
   塔身も一切の装飾の見られない素面で、禅
  師の墓塔に相応しいものとしての意匠だった
  のかもしれない。
   笠は上四段下二段で、隅飾は輪郭付きの二
  弧、心持ち外側へ反り気味に見える。四段な
  ので、やや扁平な印象を受ける。
   笠上の露盤と相輪は一石で彫られており、
  伏鉢・請花・九輪・請花・宝珠と完備してい
  るようなのだが、磨耗が激しく詳細がよく見
  えない。
   装飾が少ないので、部分的には見るべきも
  のが少ないが、いかにも禅師の墓塔らしい荘
  厳な佇まいには風雪を経た静寂な年輪が感じ
  られた。
   禅師が入寂した正安二年 (1300) 直後の造
  立とすれば、鎌倉後期の塔と考えられる。
   廟所内に、やはり鎌倉後期と言われる二基
  の宝篋印塔が祀られている。
                  

    
    
     本光寺笠塔婆 (熊本市中央区坪井)
                 
     
     市内東北部分のこの辺りは大小の寺院が並ぶ
  寺町で、本光寺はその内の一つである。
   山門を入って直ぐ、本堂の右手に写真のよう
  な方形の笠塔婆が置かれていた。
   この地味な塔婆が何故貴重なのかは、写真右
  面(正面)の梵字の下に「奉造立石塔婆一基、
  安元元年 (1175) 」と彫られており、平安末期
  というとんでもない年号が確認出来るからであ
  った。本邦最古の笠塔婆、ということになる。

   四面上方に金剛四仏の種子を、月輪内に薬研
  彫りの梵字で表現している。下手な書体だが、
  個性的で躍動感に満ちている。写真は右がキリ
  ーク(阿弥陀)で、左はバン(大日)だが従来
  のアク(不空成就)に替えて彫られている。
   裏面の梵字は、時計回りにウーン(阿閦)タ
  ラーク(宝生)となっている。
   平安期と聞いたからなのかもしれないが、塔
  婆の石そのものが語り掛けてくる歴史の重みの
  ような貫録を感じさせられていた。

   塔婆の上に載る笠は鎌倉期のものらしいのだ
  が、明らかに別物であり、何とも不釣り合いで
  気に入らなかった。更に、その上に載っている
  五輪塔の水輪や層塔に至っては、悪趣味以外の
  何物でもなく、即刻撤去して欲しい。古式の笠
  塔婆の品格を冒涜するもの、と考える。  
                                         

   
    
     円台寺跡笠塔婆 (熊本市北区植木町)
                 
     
     熊本市と合併した旧鹿本郡植木町にある寺院
  で、熊本市もここまで来ると全くの農村地帯と
  なる。現在の円台寺からは少し離れた果樹園の
  ビニールハウス内に、ここから出土した二基の
  笠塔婆が保存されている。

   写真の笠塔婆は、建久四年 (1193) 鎌倉初期
  という最も平安期に近い年号を持つ貴重な遺構
  である。先述の本光寺笠塔婆に次ぐ、本邦二番
  目の古さであり、ここに在るもう一基の建久七
  年塔を加えると、今回の旅で古さでは上位三点
  を全て見たことになるのだった。

   本塔は完全な四角柱状の方形で、上端に見え
  る露盤のようなものは笠を差し込む突起と考え
  られ、同じものが下端で台座に差し込まれてい
  る。梵字の下辺りに亀裂の痕跡が見られるが、
  修復は施されている。
   塔上部に、蓮座に載る月輪内に梵字が薬研彫
  りされているが、これは胎蔵界四仏の種子であ
  る。写真は背面のアク(天鼓雷音)で、右はア
  ン(弥陀)さらにアー(開散華王)ア(宝幢)
  と続く。朱色の彩色跡が残るが、従来はどうい
  った形状だったのだろうか。
   若干離れて建つ建久七年塔も、梵字の組み合
  わせがユニークな見応えのある遺構だった。
                                         

  
    
     田原五輪塔 (熊本市北区植木町豊岡)
                 
     
   西南戦争の大激戦地として知られる旧植木町
  の田原(たばる)坂には、現在は資料館と公園
  が残されている。
   山肌一面にツツジが咲き乱れる田原坂公園か
  ら、真北へ通じる山道を進んだ路傍の小高い場
  所に、この重量感に満ちた石造五輪塔が建って
  いた。

   先ず最初に特異なイメージを受けるのは、水
  輪(塔身)部分の四方全てに、月輪に囲まれた
  梵字のキリークが彫られているからだろう。
   阿弥陀如来を象徴する種子で、基礎の銘文に
  もある通り極楽往生を阿弥陀信仰に求めた逆修
  の意味を含めたものなのだろう。
   扁平な球形にやや穏やかな筆致の梵字からは
  品格のある雰囲気が感じ取れる。

   きりっとした形の空・風輪が心地よい。
   火輪(笠)は、程よい傾斜の屋根で、軒口は
  厚く両端へ向かうほど弓なりに反っている。
   地輪(基礎)は背が低く、何行もの銘文が刻
  まれている。建治三年 (1277) という鎌倉中期
  の魅力的な年号と、往生極楽、田原寺などとい
  った文字が見え、かつて存在した田原寺の石塔
  であったことが知れる。
   熊本では、後述の西安寺五輪塔に次いで古い
  風格に溢れた五輪塔である。
                     

   
    
     厳島神社五輪塔 (熊本市北区植木町豊岡)
                 
     
   前述の田原坂公園の在る丘陵地帯の西側の裾
  野あたりに、舟底と呼ばれる田園地帯の集落が
  残されている。直接は行けないので、田原坂を
  下って北側から回ることにした。
   愛らしい集落の中心の小高い丘の上に祭られ
  たこの神社も、まことに愛らしく清楚な地元の
  鎮守社であった。
   石の鳥居をくぐり、直ぐに細く急な石段を登
  ることになる。
   登りきってすぐ右側に、写真の石造五輪塔が
  他の小五輪塔や板碑などと一緒に一列に並べら
  れていた。

   全体に穏やかに均整の取れた五輪塔で、かつ
  ての集落の字名をとって「舟底五輪塔」と呼ば
  れていたが、現在は厳島神社の名を冠している
  ようだ。
   優雅な姿の空・風輪が載る火輪は、緩い傾斜
  の屋根が落ち着いており、軒の反りも緩やかで
  ある。四方端がめくれるように反っているとこ
  ろはこの地方の特徴でもあり、様式は次掲の西
  安寺五輪塔の系列であることを物語っているか
  もしれない。
   水輪は田原の塔に似たやや角張った球形で、
  こちらは四方に梵字の「ア」が彫られている。
  胎蔵界大日如来を象徴する種子であり、塔その
  ものが大日塔として建立されたものであろう。
   地輪に元亨二年 (1322) 鎌倉後期の年号と、
  「為円台寺住僧」などという銘文が見られるの
  で、至近の円台寺に関係した遺品であると推察
  出来る。
                     

   
    
     西安寺五輪塔 (熊本県玉東町西安寺)
                 
     
   前述の田原坂から3Kmほど
  南西に、
JR鹿児島本線の線路
  を越えて行くと、西安寺の集
  落に着く。
   寺は喪失したが、白山宮と
  いう社背後の竹林の中に、相
  良氏墓地と記された一画があ
  り六基の堂々たる石造五輪塔
  が建ち並んでいた。
   中央最大の塔が、正嘉元年
  (1257) 鎌倉中期のもので、
  低い地輪、背に高いなつめ形
  の水輪、大きく反り上がった
  火輪などが特徴の大らかな五
  輪塔である。
   五輪塔四門の梵字が、豪快
  な筆致の薬研彫で各輪に刻ま
  れている。
   手前の塔は嘉元二年 (1304)
  左隣は正応元年 (1288) とい
  う古塔がずらりと並んでいる。
         

   
    
     誕生寺五輪塔 (熊本県玉名市築地)
                 
     
   平安末期に創建された浄光寺蓮華院の跡地に、
  昭和5年に皇円の霊告を受けた川原是信が皇円を
  本尊として再興した真言律宗の大寺院である。
   皇円は平安末期の天台宗の名僧で「扶桑略記」
  の著者として、また晩年に法然を出家得度させた
  ことでも知られている。この地が皇円の誕生の地
  だったので、蓮華院誕生寺と命名されたという。

   二基の立派な石造五輪塔が、山門左側の石造の
  囲いを巡らした中に建っている。
   皇円が祖父である関白藤原道兼の菩提を弔うた
  めに建立したので“関白塔”と呼ばれるという説
  や、平重盛が伽藍や五輪塔を建てたという説もあ
  るのだそうだ。

   二基共に銘文や梵字など装飾の一切無い、摩訶
  不思議な五輪塔である。
   水輪は、全体的なバランスから見るとやや小さ
  めな扁平球形で、やや迫力を欠いているように見
  える。
   しかし、笠(火輪)は分厚い軒口が豪放で、両
  端の力強い反りが見事に鎌倉後期の特徴を示して
  いる。とすれば、平安末期の皇円や平重盛とは百
  年以上の隔たりがあるので、この五輪塔の真の出
  自は不明だが、高さ
3mにも及ぶ鎌倉後期の大型
  五輪塔の存在は特筆されるべきだろう。
                  

   
    
     吉祥寺跡宝塔 (熊本県玉名市山田上)
                 
     
   前述の誕生寺から北へ約2Km行った雑木林
  の中に、かつて吉祥寺という寺院が建ってい
  た場所が残されていた。吉祥寺は日吉神社の
  神宮寺であったそうだが、現在では写真の宝
  塔が一基保存されているだけだった。

   薄く二段になった基礎の上に、堂々とした
  重量感に満ちた塔身が載っている。
   塔身正面に方形の輪郭が線状に彫られ、二
  区に仕切られた中に二つの梵字が薬研彫され
  ている。いずれも蓮華座の上の月輪内に置か
  れているが、右が釈迦如来を表わす「バク」
  で、左は多宝如来を表わす「アー」である。
   これは二仏並坐という法華経に説かれた場
  面に由来するもので、京都安養寺宝塔など二
  尊が刻まれた事例を時折目にする事がある。
   法華経の「見宝塔品第十一」に、地面から
  湧き上がった七宝の塔内に坐す多宝如来が、
  釈迦如来を招じ入れ二尊が並んで結跏趺坐し
  た、という場面なのである。

   軸部背後に建長二年 (1250) という鎌倉中
  期の年号が彫られており、在銘宝塔としては
  本邦屈指の遺品のひとつと考えられる。
   あまり違和感が感じられない笠は、近隣か
  ら運んだ別塔の屋根だそうだ。相輪は新しい
  別物だろう。
                  

  
    
     毘沙門堂宝塔 (熊本県玉名市山田)
                 
     
   前掲の吉祥寺跡から山田の里へと下ったあ
  たりに、山田の毘沙門堂が建っている。堂前
  に石の鳥居が建っているので、村の鎮守と間
  違ってしまいそうなほど愛らしいお堂だ。
   石段を登ったお堂の左側の草むらの中に、
  写真の石造宝塔が淋しそうに建っていた。

   見るからに前掲の吉祥寺跡宝塔に似た宝塔
  で、相輪は新しいが、笠は古い層塔の屋根を
  流用したものらしい。軒口の反りが古式であ
  り、軒下に垂木が細かく彫り出されているこ
  とからの想定である。
   塔身軸部の正面、方形に刳り貫いた龕の中
  に、二仏並坐の場面がここでは仏像形で彫ら
  れている。
   左が多宝如来、右が釈迦如来だろうが、顔
  部が破損しており、像容は仏像というより僧
  形に近い。三段の台座の上に載る蓮華座に坐
  す姿は凝った表現だろう。
   塔身右側に彫られた建長四年 (1252) とい
  う年号は、吉祥寺跡のものに次ぐ築造で、か
  なりの影響を受けたものと考えられる。
   年号と共に記された法華経見宝塔品の一部
  の偈文には、釈迦の説法の正当性を多宝如来
  が認めた部分が刻まれている。
   亡くなった比丘尼を弔う趣旨も彫られてお
  り、この一帯の宗教性の色濃さを示すものと
  して興味は尽きない。
                  

    
    
     米氏邸十三重塔 (熊本県八代市植柳元町)
                 
     
     八代市の米氏邸を訪ね、庭内に据えられた湯
  前の旧城泉寺に在った十三重石塔の見学をお願
  いした。御当主夫人が快く迎え入れて下さり、
  私達は心置きなく見学をすることが出来た。

   現在は十一重だが、下から四層目と五層目の
  間に断層が見られ、従来は十三重であったこと
  が判る。
   各層の笠と軸部は一体でなく、それぞれを積
  み重ねていく古い様式の手法で、これは後述の
  九重塔や七重塔にも共通している。
   初重軸部に銘文が彫られており、「右為滅罪
  生善・・寛喜二年 (1230) 」と確認が出来る。
  鎌倉前期という年代には感動だが、妙に「為滅
  罪」という文面が心に残った。

   各層の軒裏には垂木型や隅木が作り出された
  緻密な彫りで、隅木の先端それぞれには各種の
  鬼面まで彫られている。
   各層の軸部四方は、二重円光式光背を彫りく
  ぼめた中に、阿弥陀座像が半肉彫されている。
   屋根幅の逓減率は古式で、緩やかな曲線と両
  端の品格ある反りは時代の様式を象徴している
  ようだ。軸部の幅が屋根に比して大きいのは、
  新羅の塔のイメージに近いと感じた。
   旧城泉寺において、九重塔・七重塔と一列に
  並んだ姿を想像するだけで身震いするほどの感
  動だった。
                                         

    
    
     旧城泉寺九重塔・七重塔 (熊本県湯前町瀬戸口)
                 
     
   かつて存在した城泉寺は現在阿弥陀堂一棟だけ
  を残すのみで、明導寺によって管理されている。
   正面の阿弥陀堂に至る参道の右側に、写真のよ
  うな二基の石塔が建っている。先述の米氏邸十三
  重塔は、かつては参道の左側に建っていたそうで
  現在は新築のレプリカ塔が建っている。それだけ
  でも、壮大な景観だった。

   手前が九重塔、奥が七重塔である。いずれも、
  十三重塔と同様に、笠と軸部を重ねて積み上げる
  古い方式で建てられている。
   両塔の笠や軸部、相輪など随所に補修や後補の
  痕跡が認められるが、全体のシルエットは十分当
  初の雰囲気を保持していると思われる。
   軒の反りや軸部の阿弥陀像など、ほとんどが十
  三重塔と共通しており、ある時期に集中的に造立
  されたのだろう。
   軒下に二重の垂木型や隅木が彫り出されている
  が、十三重塔に在った鬼面は見られなかった。

   両塔共に銘文が彫られており、十三重塔と同じ
  寛喜二年 (1230) 鎌倉前期という年号が確認出来
  る。三塔に共通して「為往生極楽・・願主沙弥浄
  心・・仏師幸西、院主念西」の文字が見え、この
  地の豪族が極楽往生を祈念して建立したことが判
  る。この辺境の地に、かくも優れた層塔が三基、
  それも鎌倉前期に建立された歴史的な背景を思わ
  ずにはいられない。  
                                         

   
    
     大隅国分寺跡層塔 (鹿児島県霧島市国分中央)
                 
     
   国分という地名の由来となった大隅国の国分寺
  だが、現在は跡地が史跡広場になっているのみで
  寺院建築の痕跡は全く残っていない。
   唯一残っているのが写真の石造層塔で、広場の
  中央に唐突な感じでポツンと建っている。

   二重目の軸部に、康治元年 (1142) 平安後期と
  いう年号が確認出来る。国分寺は奈良時代末期頃
  に創建されているので、この石塔が直接国分寺と
  関係があったかは不明だが、本邦屈指の古石塔で
  あることは事実である。

   現在は六重だが、従来は七重だったというのが
  定説となっている。最上部二層は後補の別物で、
  更に二層目と三層目の間に屋根幅のギャップがあ
  るようにも見える。軸部の幅の逓減率は自然に見
  えるが、それでも四層目より上がやや不自然かも
  しれない。
   屋根幅に比して軸部の幅の広い様式は、韓国で
  見た新羅の石塔や中国の塔にもとても似ているよ
  うに感じた。
   屋根の軒裏に二重の垂木型や隅木が彫り出され
  ており、豪壮な中に繊細な美意識も備えていたの
  かと感心させられた。
   湯前の城泉寺も含め、この南九州に泰然とした
  大陸的な石造文化が存在したことに驚かざるを得
  ない。
                                         

   
    
     隼人塚五重塔 (鹿児島県霧島市隼人町)
                 
     
   以前見た写真では中央と右塔は二層目まで、
  左塔は一層目までしか建っておらず、ほとんど
  の部材は崩落又は埋没していたらしい。平成十
  年に発掘された部材を含め、三基の五重塔が復
  元されたものである。
   相輪の全てと、屋根は右塔の三層目、軸部は
  右塔の四層目と中央塔の五層目が、新たに補充
  されたそうだ。
   
   中央塔軸部には如来形の座像が彫られている
  が、左右塔では両脇に連子窓を意匠した像とな
  っている。
   各層の屋根の勾配は緩くおおらかで、やや厚
  い軒は穏やかな曲線を描き、両端で若干反り上
  がっている。軒先には、一重の垂木型と隅木が
  彫り出されている。
   三基の豪壮な五重塔が林立する景観は、修復
  後とは申せ誠に見事と言える。
   奈良期に隼人を平定した後、一族の霊を鎮め
  るために設けられたという伝説の真偽は、塔の
  周囲に配された四天王像の存在と共に、五重塔
  の示す説得力によって裏付けられているように
  感じられた。
   五重塔の様式が平安後期から鎌倉初期の様式
  かと思われ、奈良期とは直接結びつかないが、
  後に建てられた供養塔と解釈できるだろう。
                              

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