五島列島・平戸・長崎 のキリシタン教会巡礼 |
秘められたキリシタン殉教 の歴史と信仰 |
旧五輪教会(久賀島) |
大曽教会(中通島) |
秘められたキリシタン殉教 の歴史と信仰 |
2010年の春に、長崎県下に点在するカト リック教会を巡拝する旅をした。 五島列島・平戸・西彼杵半島・長崎・島原と 2週間かけて歩き、全部で60箇所の教会やキ リシタンの史跡などを巡拝することが出来た。 秀吉の時代から明治初期に至る、キリシタン 弾圧の長く悲惨な歴史を知ると同時に、日本に もこんなに素晴らしい教会建築群が在った事に 驚愕した。 迫害や殉教の歴史を乗り越え、静かに敬虔な 信仰を守り続けてきた里人たちによる手造りの 聖堂が大半である。美しい西海の風景に溶け込 むような聖堂・天主堂の佇まいは、その歴史と 共にいつまでも心に残るであろう風景となって いる。 ここでは、特に印象の深かった五島列島と平 戸の教会を御紹介するのだが、現在は世界遺産 登録を果たしており、観光的に開発されてしま う事を心から危惧している。 これら純朴な祈りの聖地へ、観光バスの団体 が無神経に踏み込んで行く姿は、想像するだけ で身の毛がよ立つ思いだ。 |
五島市の教会 |
|
堂崎教会 |
(福江島/五島市奥浦町) |
禁教令の解かれた明治6年 (1873) に、フ ランス人宣教師フレノ神父がこの浜辺でミサを 行い、年末には最初のクリスマスも祝ったとい う。明治12年にマルマン神父が建てた木造の 聖堂は、当時五島最古の教会建築だった。 現在の聖堂は明治41年に建てられた煉瓦造 りで、ペルー神父が設計したものを、福江の大 工野原与吉が施工した。教会建築の第一人者と なる若き鉄川与助も、ここで修行していたとい う。西洋建築を見たこともない大工の棟梁が、 かくも荘重な聖堂を建てた事に驚かざるを得な い。 教会は、風光明媚な入り江のほとりに建って おり、周辺から船でミサに訪れる信徒のための 船着場も設けられている。 建築は県指定の文化財になっており、木造三 廊式の内部はキリシタン受難の歴史資料館とな っている。 |
|
水ノ浦教会 |
(福江島/五島市岐宿町) |
明治維新直後に大浦天主堂で祝福を受けた水 ノ浦の信徒達がこの地で信仰を表明したことか ら、五島崩れと呼ばれる迫害が福江島でも次々 と起きていった。 五島崩れの発端は久賀島だが、維新後の新政 府までがキリシタン弾圧を行ったという事実を 知らなかったので、私にとってはかなり衝撃的 な史実であった。 穏やかな水ノ浦の港に面した高台に建つ、実 に気高くエレガントな聖堂で、昭和13年に鉄 川与助によって再建されたものである。 三廊式のゴシック様式で、リブ・ヴォールト の天井が実に美しい。 我が国最大の木造教会なのだが、ファサード に見られるレース装飾の様な繊細さも備えてい る。一体どうやって、与助は西洋の聖堂建築様 式を学んだのだろうか。 |
|
楠原教会 |
(福江島/五島市岐宿町) |
水ノ浦の海岸から少し山側に入った場所にあ る集落で、大村藩の政策によって寛政年間に外 海地方から移住したキリシタン達が開墾した地 だ。 水ノ浦に続いて、ここでも五島崩れの迫害が 起き、信仰を表明した信徒達は、禁教令廃止ま での間の悲惨な受難を経験する事となる。キリ シタンが投獄された帳方屋敷が聖堂の近くに復 元保存されている。 現在の聖堂は、明治45年に竣工した煉瓦造 りで、写真のような剛健なファサードが目を引 く。内陣は木造の三廊式で、木造のリブ・ヴォ ールト天井で構成された空間は誠に清々しい。 聖堂の設計施工者は不明だが、他の仕事と比 べて見た時、やはり鉄川与助の卓越したセンス が感じられてくる。何らかの形で関与していた 可能性は、かなり強いのではないだろうか。 聖堂最奥の祭壇部分の壁や天井だけが、リブ ・ヴォールト造りでない。これは、この部分だ け、鉄筋コンクリートに改修されているからで ある。 写真は煉瓦造りの正面ファサードで、重層の 屋根構造なのに左右の妻面が独立した「へ」の 字形になっているところに、ファサードの装飾 性が強調されているように感じられた。 |
|
貝津教会 |
(福江島/五島市三井楽町) |
空海もここから旅立ったとされる、遣唐使の 寄港地として著名な三井楽の町に在る。 昔の小学校を想わせる様な板張りの木造平屋 建築で、瓦屋根の風情が心を和ませてくれる。 聖堂の内部は三廊式で、平天井という質素な 建築である。 何よりも感動したのが写真のステンド・グラ スで、素朴なデザインと優しい色が創出する光 の空間に思わず見とれてしまっていた。 現在の聖堂は鐘塔や玄関の部分など、何度か 改築されているのだが、竣工は大正13年であ り、簡素ながら均整の取れた温もりの感じられ る魅力的な建築だった。 |
|
井持浦教会 |
(福江島/五島市玉之浦町) |
玉之浦は五島独自の椿でも知られており、フ ィヨルドのように入り組んだ入り江の美しい場 所である。 教会は明治30年に建立された五島最古の煉 瓦造聖堂だったのだが、台風のために損壊し、 昭和62年にタイル張の鉄筋コンクリート造に 改築された。 写真は、教会背後の山畔の崖に掘られた洞窟 で、聖母が出現したという奇跡の聖地、フラン スのルルド洞窟を模した井持浦ルルドである。 フランスと同様の神聖な湧き水もあり、聖母 像も飾られて神秘的な雰囲気に満ちている。 ペルー神父が明治32年に作ったもので、日 本最初のルルドである。 長崎の教会には、ルルドやファティマなどの 聖地を模した一画を設けた所が多く見られた。 日本人の現世利益的な宗教観に合っているの だろう。 |
|
旧五輪教会 |
(久賀島/五島市蕨町) |
今回の旅で、最も感銘を受けた教会の一つで ある。五輪の里へは陸路からは数キロの山道を 歩かねばならず、私達は福江港からのジェット 船海上タクシーを奮発して直接海路から訪ねる ことにした。 五輪港の直ぐ前に建つ教会は、写真のように 何とも素朴な木造の聖堂だった。 明治14年の創建で、かつては浜脇教会の聖 堂だった。大浦天主堂に次ぐ古さであり、五島 では最古の木造教会として国の重要文化財に指 定されている。 背後の外陣と側面の尖頭窓以外の外観はまる で普通の民家のようなのだが、一歩内部へ入る と様相は一変する。 (当ページの巻頭写真参照) 小規模ながら三廊式で、リブ・ヴォールト天 井やアーケードを木造で意匠したセンスに舌を 巻いた。 陸の孤島とも言うべき、たった数軒の集落の 人たちの信仰に守られてきた聖堂。このままの 純朴な姿を守り続けて貰いたい、と切望する。 |
|
浜脇教会 |
(久賀島/五島市田ノ浦町) |
前述の旧五輪教会の聖堂は、実はここ浜脇教 会に造られた木造建築だった。現在の建築は昭 和6年に改築された鉄筋コンクリート造りで、 その際に木造の旧聖堂を解体し、筏で同島の五 輪へと運び移築したものである。 福江島を望む田ノ浦瀬戸に面した穏やかな里 の高台に建つ白亜の塔は、田ノ浦港へ向かう船 からも遠望出来るほど壮麗である。 正面の玄関の上に鐘塔が立ち上がり、上部は 八角錐のトンガリ帽子のような印象的な屋根に なっている。 聖堂内部は三廊式で、太い円柱・大きな柱頭 ・豪壮なアーケード、リブ・ヴォールト形式の 天井など、とてもコンクリート造とは思えない ような繊細な意匠が施されている。 明治元年にここ久賀島でキリシタン信徒が発 見されたことから、「五島崩れ」と呼ばれる厳 しい弾圧や殉教が起こった。 田ノ浦から程近い久賀町大開の猿浦という所 に「牢屋の窄」と呼ばれるキリシタンを投獄し た牢屋があった。そこではわずか6坪の牢屋に 信徒が200余名も押し込められる、という迫 害が行われた。8ヶ月の迫害の間に、子供も含 めた39名が牢内で死んだという。 現在は、牢屋の窄記念教会が建てられ、聖堂 横に殉教者の信仰の碑がある。聖堂内の床に6 坪の広さを示す絨毯が敷かれているが、そこに 200人が押し込められていたという実体は想 像する事すら不可能だ。 |
|
江上教会 |
(奈留島/五島市奈留町) |
五島とは、西から福江島・久賀島・奈留島・ 若松島・中通島の総称であり、福江島から奈留 島までが五島市に合併されている。 福江・長崎間を結ぶフェリーが寄航する奈留 港から、峠を越えた辺鄙な場所に江上の里があ る。瀟洒なこの聖堂は、木立の間にその優雅な 姿を見え隠れさせていた。 大正7年に鉄川与助が設計施工した、完璧と も言える美しさを備えた木造平屋の教会だ。 板張りの壁面、瓦葺き重層屋根の構成で、軒 天井に繊細な装飾が施されている。内陣は三廊 式、主廊側廊共に漆喰仕上げのリブ・ヴォール ト天井になっている。 半円アーチ構成のアーケードや重なった二つ の柱頭を持つ列柱が、木造ならではの華奢で繊 細な聖堂の雰囲気を創出している。 木目が手描きされた柱や、ステンドグラス風 に手描きされた窓ガラスなど、豊漁の利益と労 働奉仕で自分達の聖堂を建立した信徒達の血と 汗とが染み込んでいる様に見えた。 この集落も外海など西彼杵半島から移住して きたキリシタン農民によって開墾された里で、 暮らしていくだけでも厳しい状況の中で、かく も美しい聖堂を守り続けてきた信徒達に心から の敬意を抱かざるを得ない。 |
五島市の他の教会 |
|
浦頭教会 |
(福江島/五島市平蔵町) |
|
三井楽教会 |
(福江島/五島市平蔵町) |
|
牢屋の窄教会 |
(久賀島/五島市久賀町大開) |
|
奈留教会 |
(奈留島/五島市奈留町浦) |
新上五島町の教会 |
|
土井ノ浦教会 |
(若松島/新上五島町若松郷) |
若松島と中通島の間には若松瀬戸という矮狭 だが風光明媚な海峡があり、現在はその上に架 かる若松大橋で結ばれているので、離れ小島だ った若松島への行き来は楽になった。 土井ノ浦集落の漁港を見下ろせる高台に、白 亜の近代的な意匠の鉄筋コンクリート造教会が 建っている。この玄関と鐘塔は平成10年に改 修されたものだが、写真の聖堂内部は明治後期 に建てられたもので、従来は後述の中通島青方 にある大曽教会の聖堂だった。 木造平屋の三廊式で、天井構成は全て漆喰仕 上げ4分割リブ・ヴォールトである。 列柱アーケードの上に太い横木が通っている のがやや無骨に目立つが、緩やかな円弧のアー チがそれと調和しながら穏やかな雰囲気を醸し 出している。 若松島では大平教会と有福教会へ詣でること が出来た。いずれも素朴な里の、自然に溶け込 んだような美しい聖堂だった。 |
|
福見教会 |
(中通島/新上五島町岩瀬浦) |
福江港から中通島を結ぶ高速船は、島の南端 に近い奈良尾の港に着く。私達はそこでレンタ カーを借り、中通島の浦桑に4泊5日の滞在で 上五島の教会群を巡拝することにしていた。 この里のキリシタンは、五島崩れの際には追 求迫害を逃れて生月島などに逃れたそうで、こ こにも受難の歴史が秘められていた。 現在の聖堂は、大正2年に建てられた煉瓦造 りの平屋建築である。 内陣は三廊式だが、煉瓦造りには珍しい台形 の折り上げ天井であり、簡素でとても美しい。 老朽化が激しかったためか、随所に改修の痕 跡が見られるが、五島灘を望む景勝の地で、あ たかも苦難の歴史を信徒と共に歩んできたかの ような筋金入りの風格が感じられた。 |
|
中ノ浦教会 |
(中通島/新上五島町宿ノ浦) |
中ノ浦の集落は中通島の南部に位置し、深く 入り組んだ入り江の奥にひっそりと暮らす人達 の里である。ここにも五島崩れの悲惨な迫害の 歴史が秘められているが、この穏やかな光景か らは想像をすることも出来ない。 教会は写真の如く、入り江に面して建つ簡素 な木造平屋造りで、重層の瓦屋根と白い板張り の壁面との対比が鮮やかである。 大正14年の建築で、玄関上部の鐘塔は後に 増築されたのだそうだ。 聖堂の構造は三廊式で、折り上げ天井となっ ている。祭壇部分だけが漆喰仕上げのリブ・ヴ ォールト天井になっているのは不自然で、身廊 部分は後世の改築ではないか、という説もある そうだ。 内部に入って先ず目を引くのが、主廊と側廊 との間の壁面に描かれた大きな椿の連続模様だ った。左右の壁に五個づつ並んでいるのだが、 その大胆な意匠は見事だ。 椿は五島のシンボルとも言うべき花であり、 四弁の花びらが十字架を象徴している様でもあ る。この折り上げ天井と椿のモチーフは、現在 は廃墟と化してしまったのだが、鉄川与助が大 正9年に久賀島に建てた細石流(ざざれ)教会 にとても類似しているそうだ。その美しさを絶 賛された細石流教会の存在が、中ノ浦教会改築 の理由となったのかもしれない。 |
|
大曽教会 |
(中通島/新上五島町青方) |
新上五島町の中心である青方の町の東、青方 港の入口の高台にこの堂々たる煉瓦造りの教会 が建っている。 創建は明治12年で、現在見る聖堂は大正5 年に鉄川与助の設計施工で再建したものだ。そ の時の旧木造教会が、前述の若松島土井ノ浦教 会へ移築されたのだった。 鐘塔の八角ドームの屋根は斬新な意匠で、そ のアイディアは後述の頭ケ島教会へと継承され る。煉瓦の壁面を良く見ると、色の違う煉瓦で 巧みに変化を着けたり、ヨーロッパでは“ロン バルディア帯”と呼ばれる鋸状の装飾が施され ているなど、与助の非凡な技量を外観からも窺 い知ることが出来る。 内部は三廊式で、主廊側廊共に漆喰仕上げ4 分割リブ・ヴォールト天井が素晴らしい。 (当サイトの巻頭写真参照) アーケードは束ね柱列柱になっており、木造 ならではの優しい雰囲気を創出している。 鉄川与助は明治12年に新上五島の丸尾郷に 生まれ、昭和51年に亡くなるまでの97年間 に約50ヶ所のカトリック教会を設計施工して いる。このサイトでも本教会のほかに、堂崎・ 水ノ浦・楠原・江上・冷水・青砂ケ浦・頭ケ島 ・旧野首・紐差・山田・田平などを取り上げた 程、与助抜きに日本の教会建築は語れない程、 その業績は偉大であり重要な存在なのである。 |
|
冷水教会 |
(中通島/新上五島町網上郷) |
奈摩湾に面した集落の背後の高台に、この瀟 洒な木造教会が建っている。 トンガリ帽子屋根の付いた八角形の鐘塔が、 下見板張の聖堂にとても似合ってチャーミング に感じられた。 堂崎のペルー神父達から西洋建築技術を学ん でいた鉄川与助が、初めて自身の手で設計施工 した建築史に残る聖堂である。 会堂は三廊式で、写真のように主側廊共に漆 喰仕上げの4分割リブ・ヴォールトである。 四角柱の使用、太いリブ、低い位置の柱頭な ど、重苦しさを感じさせる聖堂として、まだ若 い与助の欠点を指摘する人もいるようだが、明 治40年という年代を思えば、ずば抜けた進取 の精神と努力、優れた感性を感じさせる素晴ら しい作品だと思う。 |
|
青砂ケ浦教会 |
(中通島/新上五島町奈摩) |
冷水教会とは奈摩湾を挟んだ対岸に在り、現 在では比較的大きな集落になっている。迫害を 逃れて西彼杵の外海から移住してきたものの、 禁教令解放までの迫害はここでも厳しかったよ うだ。 現在の聖堂は3代目とのことで、明治43年 に鉄川与助が冷水・旧野首に続いて設計施工し た自身三作目の建築である。 聖堂は平屋の煉瓦造りで、正面に大きな尖頭 アーチの入口を設け、その両脇に色の濃い煉瓦 を用いて控壁を付け、十字架を象徴している。 構造体である煉瓦そのものをデザインとして利 用しようとする意図には、与助の並外れたセン スが感じられる。 内部の構造は、一連の与助の作品に共通して おり、三廊式で主側廊共漆喰仕上げの4分割リ ブ・ヴォールト天井になっている。ただ、ここ では、アーケード上の横木が後陣にまで延びて いるのが最大の特徴だろう。 高い天井と壁面にどっしりとした荘厳な印象 を与える役目を果たしており、きりっとした聖 堂空間を構成している。 基本的な疑問として、煉瓦造り建築の屋根は どういう構造なのだろうと思っていたが、木骨 トラス架構つまり木組みなのである。聖堂の輪 郭構造だけが煉瓦であり、天井やインテリアは 木造ということである。 |
|
仲知教会 |
(中通島/新上五島町津和崎郷) |
中通島の北側は細長く延びる半島状になって おり、かつては新魚目町であったが合併で島全 体が新上五島町となった。仲知(ちゅうち)の 里の教会はその最北端である津和崎という郷に 属している。津和崎にはもうひとつ、米山(こ めやま)の里に教会があった。やはりここも外 海からのキリシタン移住者の手で開墾された土 地で、五つの集落で成り立っているという。 鄙びた里なのだが、仲知の聖堂建築の堂々た る大きさとモダンな姿にびっくりした。 現在の聖堂は昭和53年に建てられた三廊式 の明るい光に満ちた美しく壮麗な建築である。 特に素晴らしいのがステンド・グラスで、聖 堂の壁面全てに飾られており、キリストを主題 とした見事な図像が描かれていた。 ガリラヤ湖を渡る奇跡、エルサレム入城、最 後の晩餐など、聖書の中の著名なキリストの奇 跡の場面が描かれている。 気になった一枚が、写真の左側の妙なステン ドグラスだった。日本人らしき男達の群像が、 キリストと一緒に描かれているのである。 キリストの最初の弟子となったガリラヤ湖畔 の漁師達になぞらえて、教会設立に尽力した地 元仲知の五人の漁師達の肖像が描き込まれてい たのだった。 |
|
旧鯛ノ浦教会 |
(中通島/新上五島町鯛ノ浦郷) |
細長く深い入江の最奥にある鯛ノ浦の里から は、やや小高い丘を少し登った所にこの教会が 建っている。 外海の出津から移住してきたキリシタンの末 裔が暮らす里であり、ここも明治初年の五島崩 れで多大な迫害を経験している。 教会の創立は明治14年とのことだが、この 旧聖堂は明治36年の建築である。 木造平屋造りで、下見板張りの外壁はどこか 郷愁を誘うような懐かしさを感じさせる。 聖堂は三廊式で、主側廊共に漆喰仕上げのリ ブ・ヴォールト天井である。列柱は四角柱で、 柱の間隔が狭いことと、リブ・ヴォールトの伸 びやかなことで、中規模の割に大らかな空間を 創出している。 旧聖堂の正面入口に建てられた煉瓦造の鐘塔 は昭和24年に増築されたもので、被爆した長 崎の旧浦上天主堂の煉瓦が積み上げられたもの だそうだ。シックな造りで、明治期の木造聖堂 との間に違和感は無く、最初からあったかのよ うな風情で一体化している。 建物の老朽化が激しかったので、昭和54年 に新聖堂が旧聖堂の前面に建てられた。現在旧 聖堂は図書館や信仰教育の場として活用されて いる。 ここ鯛ノ浦は、幕末から明治初期にかけて、 上五島のキリシタンを指導したドミンゴ森松次 郎の出身地として知られる。 |
|
頭ケ島教会 |
(中通島/新上五島町友住郷) |
頭(かしら)ケ島と中通島とは狭い瀬戸を隔 ててはいるが、頭ケ島大橋で結ばれているので 離島というイメージは無い。おまけに島の中央 に上五島空港が建設されたので、道路も拡張整 備されている。 幕末までは無人島だった島で、迫害を逃れた 鯛ノ浦のキリシタンが移住した。ドミンゴ森松 次郎は神父を島にかくまい、青年伝道師を養成 する場所を提供していたという。 教会の創建は明治20年だが、明治43年に 大崎八重神父が石造聖堂の建築を鉄川与助に依 頼して、大正8年にようやく現在の聖堂が完成 したという。 資金面でも労働奉仕の面でも、信徒達の信仰 の強さが大きな役割を果たしたようだ。 教会は写真で見るように、五島唯一の石造教 会建築であり、鉄川与助が手掛けた最初で最後 の石造聖堂作品である。 正面中央の鐘塔は大曽や田平と似ており、左 右壁面にはロンバルディア帯装飾を大胆に取り 入れている。 建坪40坪強のこじんまりとした聖堂で、内 部は柱の無い単身廊である。天井は船底のよう なイメージで、ハンマービーム架構と呼ばれる 二重の持ち送りによる折り上げ天井である。 又、持ち送りや天井部分に施された花模様の 装飾が、聖堂内の雰囲気を清雅な明るさに導い ている。 教会の前方にある海辺のキリシタン墓地の佇 まいは、迫害を乗り越えてきた信徒達の過酷な 受難の歴史が秘められている様な鮮烈な光景だ った。 |
新上五島町の他の教会 |
|
桐教会 |
(中通島/新上五島町桐古里) |
|
高井旅教会 |
(中通島/新上五島町奈良尾) |
|
浜串教会 |
(中通島/新上五島町岩瀬浦郷) |
|
若松大浦教会 |
(中通島/新上五島町宿ノ浦郷) |
椿の台座に載る聖母マリア像 |
|
大平教会 |
(若松島/新上五島町西神ノ浦) |
|
有福教会 |
(有福島/新上五島町有福郷) |
|
船隠教会 |
(中通島/新上五島町東神ノ浦) |
|
佐野原教会 |
(中通島/新上五島町東神ノ浦) |
|
真手ノ浦教会 |
(中通島/新上五島町今里郷) |
|
焼崎教会 |
(中通島/新上五島町飯ノ瀬戸郷) |
|
猪ノ浦教会 |
(中通島/新上五島町続浜ノ浦) |
|
跡次教会 |
(中通島/新上五島町三日ノ浦郷) |
|
青方教会 |
(中通島/新上五島町青方郷) |
|
丸尾教会 |
(中通島/新上五島町丸尾郷) |
|
曽根教会 |
(中通島/新上五島町小串郷) |
|
大水教会 |
(中通島/新上五島町曽根郷) |
|
小瀬良教会 |
(中通島/新上五島町立串郷) |
|
江袋教会 |
(中通島/新上五島町曽根郷) |
火災で大破し修復中だった。 現在は復興していると思う。 |
|
赤波江教会 |
(中通島/新上五島町立串郷) |
|
米山教会 |
(中通島/新上五島町津和崎郷) |
|
野首教会 |
(野崎島/小値賀町野崎郷) |
住民が全て離島し、無人島となってしまった この野崎島を訪ねるには、小値賀(おじか)島 からの村営連絡船に乗るか、中通島の漁船をチ ャーターするしか方法が無かった。 中通島に滞在していた私達は、津和崎港で釣 客輸送の船を仕立て、野崎島へと渡った。 壊滅し廃墟と化した集落の中に、写真の野首 天主堂だけが毅然と建っている姿に感動した。 明治41年創建の煉瓦造りで、鉄川与助が手 掛けた最初の煉瓦建築だった。内部の三廊式、 主側廊の漆喰仕上げ、4分割リブ・ヴォールト 様式はすでにここで完成している。 閉ざされていた聖堂に入り、全ての窓の外扉 を開くと、素朴だが色鮮やかなステンドグラス を通して明るい光が差し込んできた。 この時代にかくも優れた意匠のカソリック聖 堂が、かくも辺鄙な孤島に存在したことだけで も奇跡に近い。 この静謐な雰囲気のまま保存されることを切 望してやまない。 |
平戸の教会 |
|
宝亀教会 |
(平戸島/平戸市宝亀町) |
平戸島のこの地区にも、外海地方から移住し た潜伏キリシタンが多かったらしい。 教会の歴史は古く、明治11年に出来た民家 御堂が原点となった。現在の聖堂は、明治31 年に紐差のマテラ神父が指導し、紐差の信徒も 加わり宝亀の信徒全員の力を結集して建てられ た。施工したのは宇久島の宮大工で、黒島のキ リシタンの熱心な信仰に感化され、洗礼を受け たという。 建築はファサード部分だけが煉瓦造りの木造 平屋で、ファサードは写真のように色鮮やかで 印象的な意匠となっている。朱色と白のモルタ ル仕上げになっているが、従前は全て煉瓦その ものの色だったらしい。全体が白く塗られた時 代もあったそうで、従来の煉瓦の姿に戻すべき だ、と言う人もいる。 聖堂建築プランの大きな特徴が、コロニアル 風のアーケードになった左右のテラスだろう。 連続する尖頭アーチで結ばれた柱廊で、長崎東 山手の洋館を見るような気分だ。誰が設計した のかは、はっきりとはしないようである。 内部は三廊式で、主廊側廊共に板張りの4分 割リブ・ヴォールト天井になっている。 柱や柱頭・天井等がファサード同様色鮮やか に彩色されており、やや荘厳さに欠けた印象を 受けた。だが高い天井が作り出す空間は実にお おらかで、片側5ヶ所づつの出入り口にもなる 窓のステンドグラスが明るく開放的である。 |
|
紐差教会 |
(平戸島/平戸市紐差町) |
平戸島のほぼ中央に位置しており、この地で 宣教師ペルー神父が潜伏キリシタンを見つけて 洗礼させ、仮聖堂を建てたのが始まりだった。 最初に建てられたのが明治18年に建築され た木造の聖堂で、昭和4年に鉄筋コンクリート 造に改造された。何と、設計施工は鉄川与助で ある。 ちなみに、木造の旧聖堂は佐賀の馬渡島教会 となっているそうで、いつか訪ねてみたいと思 っている。 鉄川与助は97歳までの長寿を全うし、生涯 に約50のカトリック教会を手掛けている。 鉄筋コンクリート造りは熊本の手取教会に次い で2作目であり、天草の大江教会・崎津教会へ と継承される。 高台に建っているので、かなり遠方からもこ の美しい白亜の聖堂を眺望することが出来る。 ある本にはロマネスク様式と紹介されていた が半円アーチの開口部やロンバルディア帯装飾 を見ると納得してしまう。ヨーロッパを見たこ とも無い与助は、一体どうやって知識をものに したのだろうか。宣教師の指導のほかにも、図 面や絵や写真を参考にしていたのだろうか。 内部は三廊式で、側廊は板張り平天井、主廊 は板張りの折り上げ天井である。俗に船底天井 と呼ばれる様式だが、与助得意の花柄模様が巧 みに描かれている。 やや大きな柱頭を持つ円柱のアーケードは、 壮麗な聖堂を荘厳に演出している。 時間外で閉まっていた入口の扉を、少しだけ と言って親切なシスターが開けてくださった。 |
|
山野教会 |
(平戸島/平戸市主師町) |
生月大橋が完成して生月島へ行くのは大層楽 になったが、橋の手前から山野の里へと登って 行く道は分かり難かった。 キリシタン禁教の時代に外海地方から五島へ 移住した人達が、更なる厳しい弾圧のために五 島を離れ、平戸島のこの地に住み着いたのだと いう。現在でも、住民の全てがカトリックだそ うだ。 写真で見た聖堂は板張りだが、現在の外壁は 別の建築材か化学ボード張りの様に見える。 創建は明治20年で、現在の聖堂は大正13 年に完成している。昭和54年に玄関部分を取 り込んで改築が行われたので、旧来の素朴な味 わいが消失したことを惜しむ声もある。不釣合 いな尖塔が付け加えられたのもこの時期だ。 平成12年の改造で板張りの風情も失われて しまい、外観のイメージが一変してしまった。 聖堂の外観にかなりがっかりした私達を、イ ンテリアが救ってくれた。写真の通り、内陣は ほぼ大正時代のままで、黒崎教会の建築に携わ った川原清次という棟梁が施工した。 三廊式で、俗にコウモリ天井と呼ばれる板張 り4分割リブ・ヴォールト天井がとても美しい ではないか。 上下にコリント風の柱頭が飾られ、半円状の 付け柱が各面に付いた四角柱が並ぶアーケード はとても壮麗である。40坪弱の小規模な聖堂 だが、外観からは想像もつかないような優美な 空間を創出している。 |
|
平戸ザビエル記念教会 |
(平戸島/平戸市鏡川町) |
平戸の観光名所に“教会と寺院の見える石畳 の道”というのがある。歩いてみたが、光明寺 の瓦屋根の本堂や鐘楼の向こうに、ゴシック風 の教会の尖塔が聳える光景は、不思議に調和し て違和感無く見えるところが平戸らしいと言え るのかもしれない。 仮聖堂が出来た明治43年が創立期であり、 現在の教会は昭和6年に、大天使聖ミカエルに 捧げて建てられた。 献堂から40年たった昭和46年に、3度に わたるフランシスコ・ザビエルの平戸訪問を記 念して、ザビエルの記念肖像が聖堂の前に建て られ、以来ザビエル記念教会と呼ばれるように なった。 案内書にドイツ・ゴシック様式と書かれてい るのが可笑しいが、八角形の鐘塔の四隅に小尖 塔を配した意匠は、我が国の聖堂としては異色 なデザインだったかもしれない。 建築は鉄筋コンクリート造で、大天使聖ミカ エルに捧げた聖堂らしく、天に飛翔するイメー ジが尖塔として表現されている。 内陣は堂々たる三廊式で、8分割のリブ・ヴ ォールト天井を採用している。太い円柱による アーケード列柱が豪壮な印象で、表面に塗った 漆喰の下から装飾塗装の模様が浮き上がって見 える技法が珍しい。 上下に柱頭を配した円柱や、三連の尖頭盲ア ーケードが連なる“見せ掛け”トリビューンと いう側廊上部の階上通路が配されている。 鉄筋コンクリート造とは思えぬほどの繊細な リブ・ヴォールトの印象が、聖堂全体を明るく 壮麗な空間に仕立て上げている。 |
|
山田教会 |
(生月島/平戸市生月町) |
現在では大橋の開通で平戸島と直接結ばれて いるが、従前は船でしか渡れない孤島だった。 西坂で処刑された長崎十六聖人の一人聖トマス 西を筆頭にして、多くの殉教者を出した島で、 禁教令が解かれて以後も隠れキリシタンとして 従前の信仰スタイルを守ってきたという。 大橋を渡った館浦の集落から背後の高みへと 少し登った場所に在る山田免という里で、明治 13年頃には仮聖堂が設けられていたそうだ。 現在の建築は大正元年にマタラ神父の指導で鉄 川与助が設計施工した。 当初の構造は、木造の玄関を付けた煉瓦造り であったが、昭和45年に玄関部分が鉄筋コン クリート造に改築され、方形の鐘塔が増築され た。現在の聖堂の側面を見ると、玄関部分以外 は煉瓦造りのままになっていることが判る。 聖堂の正面だけを見た限りでは、とても鉄川 与助の手による建築とは思えない。 しかし、内部に一歩足を踏み入れれば、そこ には与助ならではの美意識が集約された別世界 が広がっている。 三廊式で、主廊側廊共に4分割リブ・ヴォー ルト天井なのだが、板張りならではの木の温か みを感じさせる造りになっている。 全てのアーケードやリブが半円アーチを基調 としているので、聖堂全体にゆったりとした気 品を感じさせる快適な雰囲気が漂っている。 |
|
田平教会 |
(平戸市田平町) |
現在は平戸市に合併されたが、平戸島とは狭 い瀬戸を隔てた九州本土側にある旧田平町にこ の教会はある。かつての平戸島へのフェリーの 玄関口JR平戸口駅は、日本最西端の駅として 知られていた。 五島の教会を巡拝した後にこの聖堂を訪ねた のだが、本当に日本にこんな教会が存在したの か、と改めて感動した。 九州の教会建築を語る上で外すことが出来な い鉄川与助の設計施工で、大正7年に完成した 煉瓦造りの聖堂である。福岡の今村教会に次ぐ 煉瓦造聖堂の傑作とされるのだが、これ以後何 故か、煉瓦造を止め木造か鉄筋コンクリート造 へとシフトする。今回訪ねた教会では、紐差、 水ノ浦などがこれ以後の仕事という事になる。 板張りの4分割リブ・ヴォールトは得意な手 段で、高窓の下に完全な形のトリビューン(ト リフォリウムと言う階上回廊)が設けられてい るのが大きな特徴である。 正面ファサードは荘重なデザインで、与助独 自の手法でもある八角ドームを載せた鐘塔が印 象的だった。やや装飾過多な感はあるものの、 日本の聖堂建築史に残る荘重な傑作であること は間違いない。 国の重要文化財に指定される程の完成度であ ることは誰もが認めるところだろうが、完璧な 与助の表現の中に、もうこれ以上何を表現すれ ば良いのか、といった達成感と閉塞感が同時に 感じられるような気がしてならなかった。 |
長崎・九州各地の教会と史跡 |
長崎県を初め九州各地にも、多くのカトリック 教会が分布している。 長崎市内を中心に、キリシタン迫害の歴史を 残す大村市、旧外海町、島原半島などのほか、 福岡・熊本・天草などその中心である。 私財を投じて大野教会を手造りしたド・ロ神 父の感動的な逸話や、多くの殉教者たちの受難 の歴史を知る旅となった。 深い信仰を背景に建つ聖堂は、大小新旧を問 わず、いずれもが風土に溶け込んだ美しい佇ま いを見せてくれた。 |
|
大野教会 |
(長崎市下大野町/旧外海町) |
|
出津教会 |
(長崎市西出津町/旧外海町) |
|
黒崎教会 |
(長崎市上黒崎町/旧外海町) |
|
野道共同墓地 |
(長崎市西出津町/旧外海町) |
キリシタン墓地 |
|
大浦天主堂 |
(長崎市) |
サンタマリアの御像 |
|
浦上教会 |
(長崎市) |
|
西坂刑場跡 |
(長崎市) |
二十六聖人殉教地 |
|
中町教会 |
(長崎市) |
|
三ツ山教会 |
(長崎市三ツ山町) |
|
神ノ島教会 |
(長崎市神ノ島町) |
|
沖ノ島馬込教会 |
(長崎市伊王島) |
|
雲仙教会 |
(雲仙市小浜町) |
|
島原教会 |
(島原市白土町) |
|
原城址 |
(南島原市南有馬町) |
島原天草の乱史跡 |
|
白浜キリシタン墓碑 |
(南島原市口之津) |
|
水主(かこ)町教会 |
(大村市) |
|
三浦町教会 |
(佐世保市三浦町) |
|
黒島教会 |
(佐世保市黒島町) |
|
浅子教会 |
(佐世保市浅子町) |
|
今村教会 |
(福岡県大刀洗町今) |
|
旧大名町教会 |
(福岡県久留米市津福本町) |
|
手取教会 |
(熊本市上通町) |
|
崎津教会 |
(熊本県天草市河浦町) |
|
大江教会 |
(熊本県天草市天草町) |
-------------------------------------------------------------- |
このページTOPへ |
世界の建築へ |
総合TOPへ |