平成25年の短歌
師走
この朝何か良きことありそうな微かに揺れてしくらめん開く
(このあした なにかよきこと ありそうな かすかにゆれて しくらめんひらく)
花もぎて叱られたるは幼き日八つ手の花のつんつんと咲く
(はなもぎて しかられたるは おさなきひ やつでのはなの つんつんとさく)
ゆくりなく轟く雷に背を押されたどる家路の日暮れを早む
(ゆくりなく とどろくらいに せをおされ たどるいえじの ひぐれをはやむ)
時雨降る日は穏やかに犬といて編みかけ置きしセーター仕上げぬ
満身の力集めて登りたり垂直に立つフリークライミング
抑揚のなき声ナビに案内され吾にも買えた亀田への切符
起きがけに見たりし夢は遠き日の確かに吾なり 半分の虹
今月は偶然にもハンドタオルのセットを三組もいただいた。いづれも、ふかふかした肌触りも良く、色柄もすてきというメーカー品である。思案の結果、二枚の角をギャザーを入れながら縫い合わせ、タオルかけから落ちないようにリボンを縫い付け結ぶことにした。待合室のトイレにかけてみたら「かわいいね」などと言われわれながらグッドアイディアなどと満足している。
仕立物にて育てくれたる母なりき形見の指ぬき吾の指に温し
(したてものにて そだてくれたる ははなりき かたみのゆびぬき あのゆびにぬくし)
ボタン付けでも、繕い物でも針を持つときは決まって指ぬきをする。それは母から受け継いだもの。その指ぬきは、今になって私の指にしっくりして温かささえ感じさせてくれるのである。
霜月
木枯らしへ盲導犬の向きを決め人気なき朝の大通り渡る
(こがらしへ もうどうけんのむきをきめ ひとけなきあさの おおどおりわたる)
バスを降りての帰路、大通りの変形した十字路を渡らねばならない。朝7時から夜の8時までなら、ピヨピヨとカッコカッコが鳴って信号機の変化を教えてくれるのだが、夜の9時を過ぎた今はその手掛かりがない。その上、今日は日曜日なので人も車も少ないのだ。思案している私の脇を木枯らしに枯葉が飛ばされて行く音がした。しめた!この音について渡れば大丈夫。「フィズ、OK!」
盲導犬と歩める我に歩を合わせイチョウの黄葉歌友告げくるる
(もうどうけんと あゆめるわれに ほをあわせ イチョウのこうよう ともつげくるる)
「イチョウのはっぱ大分黄色くなってきたのよ」上を見上げながら歌うように友が教えてくれた。私も見上げて「空は真っ青なんでしょうね?」久しぶりに晴れた日の短歌教室の帰りの駅前通り。
水たまり避けくるるらし盲導犬左へ逸れてグレーチング踏めり
雨上がりの朝、バス停に向かって歩いているとフィズの歩調がいつもと違う。左へ左へとハーネスが動いたと思ったらぴょんと何かを飛び越えた気配。あれれ・・・私の靴底からカチカチと金属の音が・・・。こんなことを数回繰り返しているうちに、私も納得できたのだった。「フィズ、水たまりをよけてくれてたのね、ありがとう!」
ストーブの前にながなが横たわる犬の尻尾を踏みてみようか
気持ちよさそうにストーブを独り占めしているフィズ。頭からしっぽまで、こんなに長かったのね。
来る年も斯く健やかにと念じつつ軒のクーラーにカバーかけ終ゆ
雨が降って来ないうちにと3代のクーラーの室外機にカバーをかけ終えた。去年もこうして冬を迎え、また今年も同じように繰り返している。平凡な日々に感謝しながら。
散り敷ける落ち葉の上に降る雨の奏でるフィナーレ しんみりと秋
ふっと目覚めた深夜、かすかに聞こえる雨音。日中フィズが公園で歩くのを躊躇していた落ち葉の山にも、この雨は降っているのだろうな、やがて雪に変わるまでのわずかな季(とき)を奏でているのはどんな曲だろう…そんなことを思いつつ、また私は夢の中へ…。
「ほら、あの人」うなずく吾もその人の名前出で来ず コーヒーすする
うんうん、あの人ね。お互いに行っている人は同じなのに、その人の名前が出て来ないもどかしさ。「お父さん、まあ、コーヒーでも飲みながら思い出しましょう」
神無月
小春日にのわのわ愛犬寝そべりてくっくと寝言しばらく続く
里山の日暮れは早し盲導犬にびっしり付たるイノコズチ除る(とる)
公園の小春日和に温もりて落ち来る枯葉を犬と見ている
緑葉の活力なべて幹に返し紅葉を装い地に戻り来る
(みどりはの かつりょくなべて みきにかえし もみじよそおい ちにかえりくる)
「こんなにも不器用なるや左手は」右腕骨折せし夫の溜息
無沙汰なる友の訃報を聞きし宵着信履歴に友の名たどる
通夜の経途切れたる間を聞こえ来る爪繰る音と深き溜息
この10月の天候は何と忙しかったことか。初旬は真夏を思わせるほどの暑さで、仕舞い込んだばかりの夏物を引っ張り出さなければならなかった。かと思えば、夕方にはいきなり十度以上も気温が下がって重ね着をする始末。いったい本来の「天高く馬肥ゆる秋」はどこへ行ってしまったのだろう。それに台風の大ラッシュ。毎週のように「予想外の大きな台風」の天気予報で事欠かなかった。
今日はそんな10月最後の日、久しぶりにお日様がのぞいてくれている。近くの保育園の子どもたちのにぎにぎした一団が家の前を通って行った。花壇の手入れをしている私に「こんにちは!」と先生の声。それに続いて子どもたちの元気な声が飛んできた。私も負けないぐらいのニコニコ顔で「お散歩なのね」と手を振った。ああ、これが本来の「秋」なんだろうな・・・。
「フィズー」家に戻り呼んでもわがパートナーが飛んでこない。もしかして…こんな日はきっと二回で日向ぼっこしているに違いない。驚かせてやろうと足音を立てないように階段を上がり始めたら、やっぱり…聞こえて来たのだった。「クックッ」フィズの寝言が。
長月
潮の香に旅の心を託す宵みすずの詩碑をなぞりツツ読む
(しおのかに たびのこころをたくすよい みすずのしひを なぞりつつよむ)
盲いわれ山頭火の句碑なぞるとき潮風ぼーっと汽笛運び来
(めしいわれ さんとうかのくひ なぞるとき しおかぜぼーっと きてきはこびく)
以上に首は山口県下関港にて
一面に虫の音集く遊歩道早朝散歩の歩をひそめ入る
(いちめんに むしのねすだく ゆうほどう そうちょうさんぽの ほをひそめいる)
あっけなく蔓解かれ来るゴーヤーを手繰り寄せつつ夏をしまいぬ
想い出の多き真っ赤なTシャツの断捨離をする夏の終わりに
負傷せし野鳥の憩う里山にひっそり咲けり赤きミズヒキソウ
(ふしょうせし やちょうのいこう さとやまに ひっそりさけり 赤きミズヒキソウ)
虫の音の小さくなりたる厨辺に今日の終いの雑巾濯ぐ
(むしのねの ちいさくなりたる くりやべに きょうのしまいの ぞうきんゆすぐ)
いつから秋に?
お花も小鳥も虫たちも
犬も猫も 子供も大人も
そして 星も月も風さえも
みんな眠った夜の更けに
夏の女神と秋の女神がま向かいて
にっこり笑って握手する
そして夏の女神は静かに立ち去って
残った秋の女神は大きく手を振って
涼やかな朝を連れてくるのです
葉月
新調の花ござの上にのわのわと寝そべる犬の尾を踏みてみん
(しんちょうの はなござのうえにのわのわと ねそべるいぬの おをふみてみん)
立秋を告ぐるニュースの窓越しに一匹の蝉ふいに鳴きだす
(りっしゅうを つぐるニュースの まどごしに いっぴきのせみ ふいになきだす)
深緑の鳴虫山は霧深し走り根に気を配りつつ登る
(しんりょくの なきむしやまは きりふかし はしりねにきを くばりつつのぼる)
電激痛ギクッと腰に走りたりボトル2本を持ち上げんとして
(でんげきつう ぎくっとこしに はしりたり ボトル2ほんを もちあげんとして)
我が背丈はるかに超えしひまわりの太き根もとに水飛ばしやる
産土に広がる稲田を渡り来る風は微かに秋の気配す
(うぶすなに ひろがるいなだを わたりくる かぜはかすかに あきのけはいす)
弟の初孫を抱かせてもらうとき過りるさみしさ孫のなき身に
(おとうとの ういまごをだかせて もらうとき よぎるさみしさ まごのなきみに)
「暑い、暑い」を繰り返していた夏も過ぎてみればほんの三週間余り。日中は30度を超すほどの暑さでも、朝夕には虫の音が聞こえ、季(とき)のバトンは確実に秋へとタッチされた。天候不順が続いている今年、夏と秋の同居はいつまで続くのだろうか?
3年前から南側の窓いっぱいにネットを張ってゴーヤーを育てている。緑のカーテンとして程よい日よけに、また収穫し食したりすることもでき、ささやかな「花育」生活とでもいえようか。
先日、墓参で田舎に帰省したときのこと。夜遅く帰宅し、まっさきにゴーヤーを見に庭に回ったら…なんとまあ、数日の留守の間にくたくたに萎れネットにぶら下がって見る影もない。正にゴーヤーの熱中症!すぐに蛇口前回の井戸水をかけたのだが。翌朝、恐る恐る窓から出した手に触れたのは・・・あの生き生きした葉とたくましい蔓。朝日を精いっぱい跳ね返しているように感じられた。
・・・夏バテ?寄る年波?の私にも、蛇口前回のシャワーが欲しいものである。
文月
さわさわと紫陽花に降る雨音を窓辺に立ちてしばし聞きおり
(さわさわと あじさいにふる あまおとを まどべにたちて しばしききおり)
紫陽花の大き花まりまさぐれば見えし日のわれ吾に語りく
(あじさいの おおきはなまり まさぐれば みえしひのわれ われにかたりく)
もう少し歩いてみよう雨後の朝百合の香ただよう路地を曲がりぬ
(もうすこし あるいてみよう うごのあさ ゆりのかただよう ろじをまがりぬ)
投票を終えたる帰路はゆったりと百合の香の路地へ盲導犬促す
ふっくりのキキョウのつぼみ指先でぽんと弾けばぽっかり咲けり
(ふっくりの ききょうのつぼみ ゆびさきで ぽんとはじけば ぽっかりさけり)
もう少し休んでいいよと雨音がアラーム止めたる気だるき吾に
(もうすこし やすんでいいよと あまおとが アラームとめたる けだるきわれに)
雨、曇り、ときに雷とともに豪雨といったような天候で終わってしまった7月であった。このめまぐるしい天候と同じように、私の生活も落ち着かないうちに8月をむかえ、今日はもう4日。これといった予定のない日曜日は久しぶり。6時前に早朝の風を切って我が家全員の散歩にスタート。ラジオを聞きながら歩いている夫が「おい、やっと梅雨明けしたぞ」と教えてくれた。例年より遅い「夏本番」の到来である。
三つ四つ触れつつ計る頃合いを今朝はどっちのゴーヤをもごうか
葉の陰にかくれるようにちょこんとぶら下がっているゴーヤーに触れたときの感触は、いたずら盛りの幼い息子の仕草と重なってしまう。ネットをたどりながら、三つ、四つ…といたずら息子を追っかけ捕まえたように、またほろにがいゴーヤーの匂いを楽しめるのも「夏」が届けてくれるひと時、私はこの暑い夏が大好き。
水無月
JALとう乗りたる箱は雲を越ゆ我が旅心はやも全開
(JALとう のりたるはこは くもをこゆ わがたびごころ はやもぜんかい)
盲導犬とひたに階上り来て大倉山ジャンプ台の高さを知れり
(もうどうけんと ひたにきざはし のぼりきて おおくらやまジャンプだいの たかさをれり)
八重桜たんぽぽリラの咲き競い小樽の水無月にわかに夏めく
小樽港廃れて久し手宮線の大きくぼみにタンポポの咲く
(おたるこう すたれてひさし てみやせんの おおきくぼみに タンポポのさく)
「マツバボタン好きだったよねおかあちゃん」黙止し植えいる梅雨の晴れ間に
(「まつばぼたん すきだったよね おかあちゃん」もだしうえいる つゆのはれまに)
風鈴を小さく鳴らして入りくる梅雨の晴れ間の風は水色
(ふうりんを ちいさくならして はいりくる つゆのはれまの かぜはみずいろ)
新築を祝いて父の植えくれし万年青咲きたり命日の朝
(しんちくを いわいてちちの うえくれし おもとさきたり めいにちのあさ)
毎朝散歩の後は花壇に水をやるのが、ここ夏の日課となっている。見える人だったら15分もすれば終わってしまうほどの狭い庭なのだが、私の場合はその倍以上もかかってしまう。鉢やプランターの位置で方向や位置を確認し、葉や花に触れながら水をかけて回るのだから。
日毎に伸びる朝顔やゴーヤーの蔓をネットにからませてやったり、咲き終わった花柄を積み取ったりしながら、唯一私に戻れる至福のひとときを楽しんでいる。
「あれっ、ここに置いていた鉢がない…」それは雨が二、三日ほど続いたあくる日の朝のこと。直射日光に弱い観葉植物の鉢植えを奥の勝手玄関の前に並べて置いたのだが、その一か所に空間ができている。
冬の間、治療室の出窓を陣取っていたサンセベリアの大鉢が見当たらないのである。24センチもの素焼きの鉢だから風に飛ぶことなど考えられないし、片手で簡単に持つことなど難しいはずである。
手のひらに乗るほどの小さな一鉢を買ってから何年経ったことだろう。サンセベリアは炭酸ガスを吸って、酸素を吐き出すという空気をきれいにする植物といわれている。植え替える度に鉢を大きくし、株分けもして患者さんにも分けたりもして来たのだった。
幸運にもこの春に株分けした小さな一鉢が残されていた。我が家から消えた一鉢は、きっとどこかの地で育っていてくれることを念じる他ない。この残された小さな一株を育てながら、心穏やかな日々を過ごしたいものである。
皐月
想いでは胸内深くしずもりて流れ来るコロプチカにステップを踏む
(おもいでは むなうちふかく しずもりて ながれくるコロプチカに ステップをふむ)
咲き満つる牡丹諸手に溢れたり「ぼたん色」とうその色見たしも
(さきみつる ぼうたんもろてに あふれたり ぼたんいろとう そのいろみたしも)
読後感誰かに語りたき夕べかそけき雨音闇にひろがる
(どくごかん たれかにかたりたきゆうべ かそけきあまおと やみにひろがる)
盲導犬フィズの瞳に映れるは萌ゆる若葉か木の葉のさやぐ
(もうどうけんフィズの ひとみにうつれるは もゆるわかばか このはのさやぐ)
また一軒取り壊されて駐車場となりたる朝花冷えの風
(またいっけん とりこわされて ちゅうしゃじょうと なりたるあした はなびえのかぜ)
抑揚のなき声ナビに案内されやり直しつつ入金済ます
(よくようの なきこえナビに あないされ やりなおしつつ にゅうきんすます)
到底は百キロ完歩のかなわざり我がリストバンド用捨なく切らる
(とうていは 百キロ完歩の かなわざり わがリストバンド ようしゃなくきらる)
夜の九時過ぎ、いつものことだが、盲導犬のフィズにブラッシングをかけ終えて「さあ、お花を見に行こうね」とリードを持つ。この言葉を待っていたかのようにフィズは立ち上がって「こっち、こっちよ」と得意げに花壇に向かう。日中は初夏を思わせるほどの暑さだったが、今夜はひんやりした風に思わず身震いしてしまった。
ほころびかけているエンジェルトランペットのつぼみを確かめてから、伸び始めたゴーヤーの蔓をネットにからませてやった。それから、昨日植えたばかりのひまわりと松葉ボタンが枯れていないことににっこり。あれあれ、ふんわり手に触れたものは?まあまあ、サニーレタスがこんなに広がっちゃってる。両手いっぱい摘み取って、明日の朝のサラダにしようね。こんな風にしてフィズと夜の見回りはおしまい。これで本当に私の日課は「おしまい」
卯月
これが赤これが黄色と幼な子の手にふんわりとチューリップ咲く
(これがあか これがきいろと おさなごの てにふんわりと チューリップさく)
物陰となりたる鉢の水仙は地を這いつつも日に向きて咲く
(ものかげと なりたるはちの すいせんは ちをはいつつも ひにむきてさく)
背伸びして枝先に咲くマンサクのかそけき花の指に触れたり
カタクリの咲く山道を一息に登り詰めれば海の広がる
カタクリの花を眠らせ里山に卯月半ばの雪降りしきる
葉桜の木漏れ日の下重ねこし齢静かにたたみておりぬ
(はざくらの こもれびのもと かさねこし よわいしずかに たたみておりぬ)
ウォーキング
踏み出した一歩が次の一歩を導いて
風を感じて 歩く
風を切って 歩く
支え合い、新たな出会いにつながって
ゴールをめざしひたすら歩く
風を切って歩み続ける
風が生まれて また歩く
25キロウォークのゴールはすぐそこに!
弥生
春日向つぼみほころぶパンジーのつぶやきを聞く「はーるがきたよ」
(はるひなた つぼみほころぶ パンジーの つぶやきをきく 「はーるがきたよ」
ほのかにも香り漂う水仙の花ある部屋に毛糸編みおり
ゆくりなくラジオより流れ来るコロプチカに編む手を止めてステップ踏みぬ
盲導犬は盲導犬を見返りぬ使用者同士のすれ違うとき
(もうどうけんは もうどうけんを みかえりぬ ゆーざーどうしの すれちがうとき)
踏み外し両膝つきて転びたり春日に温きコンクリートは
昨秋、ふとしたことから気の合った友だち3人で村上の「人形さまめぐり」に出かけようということになった。この話が持ち上がったとき、正直私はその気になれなかった。なぜなら「伝統ある雛人形はガラスケースに納められていて、見えない者にはつまらない」と決め込んでいたのである。だが、観光課の職員から意を尽くして説明していただいたお蔭で見えないハンディーなど吹っ飛び、楽しい村上の旅となったのである。
かつて城下町として栄えていたころのイメージを復元したという黒塀に触れたりして、観光ボランティアさんの説明に耳を傾けながら次の町屋まで歩く。早春の風を感じながら…。
古の暮らし偲びつつ巡る路地 寺町・細工町・鍛冶町・大工町
(いにしえの くらししのびつつ めぐるろじ てらまち・さいくまち・かじまち・だいくまち)
辻ごとに風情異なる城下町村上町屋の雛をめぐる
(つじごとに ふぜいことなる じょうかまち むらかみ まちやの ひいなをめぐる)
町屋は狭い間口だが、奥行きはかなりある。お茶屋、小物屋、お菓子屋、お食事処と巡った。中でも私が感動したのは、やはりこの手で触れて対面することができた大浜人形だった。それは土で作られている人形で、江戸時代の末期に瓦職人が仕事の合間に作ったそうな。土とは思えないほどすべすべしたまろやかな感触の人形が寄り添っている。幾万の人の手に撫でられて来たことだろう。
小物並ぶ町屋の奥の雛段に寄り添い在す大浜人形
(こものならぶ まちやのおくの ひなだんに よりそいおわす おおはまにんぎょう)
ちょこなんと我が盲導犬も鎮座して村上町屋の雛にま向こう
(ちょこなんと わがもうどうけんも ちんざして むらかみまちやの ひいなにまむこう
如月
街角の八百屋、花屋の閉店(とざ)されて寒風まっすぐ突き刺さりくる
桜草、水仙、パンジー、チューリップ春めく花舗に手袋を脱ぐ
にょろにょろの蛇をつかみて目ざむれば深爪の拇指ひりひり疼く(うずく)
「ただいま」へ応えのなきは知りにつつ二度目を少し大き目に言う
うなづき合いケーキ選べる老夫妻の後に並びて順を待つ吾
やわらかな物言いするは男の子学生どやどやバスに乗り来る
普段は夫との生活なので食卓はその席だけ使うように片隅に寄せて置いて十分なのだが、子供たちが来たときには席の確保に大変である。
「家具だってそのときの状況によって買い換えた方がいいのよ」と娘に言われ、長年使ってきたスチールの戸棚を処理することにした。なるほど届いた収納棚は、レンジや炊飯器、ポットが納められるようにできていて、それでいてスマートなのである。だが、その整理には嫌というほどの現状に直面させられてしまった。
一日かけてもその中身の移動に満足できないでいる。その上「えーっと、あのお茶はどこだったっけ…」などと、欲しい物のありかに戸惑ってしまう。こんな場合、若いころにはすぐに対応できたはずなのだがと痛感すること仕切り。
それにしてもまた買い来しか調味料似たるパックが戸棚に並ぶ
(それにしても またかいこしか ちょうみりょう にたるパックが とだなにな らぶ)
あらあら、なんとまあ―、またここにも!買い貯めならぬ「忘れ買い?」思わず三十一文字になった作である。
●教訓「ときには身辺処理も大切である」
なぜなら、自ら健忘症をチェックすることができるからである。
睦月
漆黒の闇を貫き響き合う除夜の汽笛のただ中に立つ
屠蘇機嫌なりたる夫は愛犬と戯れにつつ寝そべりており
大みそか我が家の習いの納豆汁湯気と香りと四人の家族
露天湯に眼つむりてゆったりと山の風聴く正月二日
新雪をキュッキュッと鳴らし雪色の風を切り行く盲導犬と
花びらの中に小雪を休ませて冬ざれの庭に山茶花咲けり
暖房の程よく効きたる部屋内に閉じいしチューリップまた開きけり
「あら、そのカップ見覚えがあるわ」と姉が驚いた声をあげた。それは夫がずーっと愛用しているコーヒーカップなのである。「私、その模様が気に入って選んだはずよ」遠い昔を思い出すような姉の声に、私も飲みかけのコーヒーを置いて「確か、紫のキキョウの模様よね」と応えた。
それは結婚祝いに姉夫婦からいただいた物だった。白地に濃い紫のキキョウと緑の葉が描かれているコーヒーカップの五脚セットで、私の好みではなかった。最初は来客用にしていたが、一つ、二つと壊れいつのころからかこのカップだけが残ってしまった。
子供たちが中学生になったころから我が家にコーヒータイムができ、それぞれのマイカップが登場した。娘のは、旅先で根負けして買ってやった手焼き風のちょっとお高いカップ、息子のは、おばあちゃんからいただいたオレンジのぽっちゃりしたカップ、私のは、当時オープンしたミスタードーナツの景品の分厚いカップ。夫のは、なかなか決まらなくて思案の結果たった一つ残っていたこのカップになったのである。
不思議なことに、あのころのカップがいまだに存在している。息子は上京先に持って行き、娘は家に来たときに使っているし、私はこのカップでなければコーヒーを飲んだ気がしないし、夫も同様に「おれのカップ」と愛用しているのである。
姉はなつかしそうに「お父さんが紫は結婚祝いとして地味だと言っていたんだけどね、私はこのキキョウの色、落ち着いていて好きなのよね」と言った。一年前に他界した義兄さんのことを思い出しているような姉のさみしそうな一面が偲ばれ、胸が痛くなった。私たち夫婦も、このカップをいただいてからはや40数年。私もすんなりと紫系の色が受け入れられるようになったこの頃である。
これで平成25年の短歌のページを終わります。
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