平成22年の短歌
 

師走

真夜覚めてまっすぐに降る雨を聞く ヒツジガ一ピキヒツジガ二ヒキ

呑まされしカメラが胃袋映しゆく横たわる吾の意に関わらず

基礎検診吾のデーター解く医師はにこやかに言う「また来年いらっしゃい」

靴のひも解けて(ほどけて)結ぶ足下に盲導犬ひたと寄り来て座る

声高く二の段の九九繰り返す下校の子らと行き交う路地裏

舗装路を舞い来る落ち葉は地に返る土を求むか吾を越しゆく

メシイにも主婦にも慣れて賀状書く点字ワープロの音の哀しき(かなしき)

旅先に求めし奴隷の門松をアパート住まいの子に持たせやる

 師走とは思えないほどの穏やかな朝のことだった。玄関先でしきりに鳥が鳴いている。掃除の手を止めて耳を澄ますと、それは確かに小鳥の鳴き交わしているような声である。少なくとも二羽以上いるだろう。地面まで降りているようだ。こんなことは滅多になかったので、そのさえずりを聞きながら「どんな鳥かしら?」などと玄関を開けた瞬間飛び立ってしまった。
 いやな予感に「もしや?」とマンリョウの鉢植えに触れてみると…「やっぱりない!」あんなにいっぱい付いていた実がきれいになくなっていたのだった。
 もう十年近くも前になるだろうか。このマンリョウは、所属している会の「寄せ植え」教室の題材の一つで、剪定と移植を繰り返し私のお気に入りの一鉢なのだ。赤い実を付けた鉢を万年青と共にお正月の彩として重宝していたのに。それにしても、こんな玄関先に置いた鉢植えをよくもみつけたものだ。きっと赤く色ずいた頃を見計らって集団で調達に来たのだろう。厳しい自然界で生きぬく鳥の天性に脱帽である。
 実のなくなったマンリョウと猛暑に負けて実が付かなかった万年青、それに東京の息子たちも引っ越しで帰省できないという。兎年の正月は少々さびしく物足りなくなりそうだ。



霜月

花びらの顔に触れくるコスモスのトンネル抜けてまた入り行く

秋澄める薄日の中のバラ園を香にひたりつつ漫ろ巡りぬ
(あきすめる うすびのなかの バラえんを かにひたりつつ そぞろめぐりぬ)

ポケットの中までお日さま入れながら小春日和のバラ園巡る
(ポケットの なかまでおひさま いれながら こはるびよりの バラえんめぐる)

ブランコのきしみて揺るる公園の片隅にひそと冬が来ており

釣銭を地べたにしゃがみて数えいる小春日和の露店の市場
(つりせんを じべたにしゃがみて かぞえいる こはるびよりの ろてんのいちば)

交差点アイドリングのはたと絶え満員バスに静けさとがる
(こうさてん アイドリングの はたとたえ まんいんバスに しずけさとがる)

「霧よけが錆びていますよ」見知らぬ人が改築促がす寒き秋の夕暮れ

嗅ぎ合うを互いに窘め盲導犬の主らやおらに挨拶交わす
(かぐあうを たがいにたしなめ もうどうけんの ぬしらやおらに あいさつかわす)

ふんわりの毛並み探して伸ぶる手をぺろり舐めくる盲導犬フィズ
(ふんわりの けなみさがして のぶるてを ペロリなめくる もうどうけんフィズ)

 「おーい!滑るからもっとゆっくり」後ろから夫が怒鳴っている。数日前の嵐で歩道は落ち葉でいっぱい。その上をバリバリッと音を立てながら盲導犬フィズとスピードアップで歩くのは、この季節にしか味わえない爽快感なのだ。
確かに、重なった落ち葉を踏むと一瞬ツルッと滑るときがある。それを「エイッ」とばかりに踏みしめるのがまたなんともいえない気分だからたまらない。
 もう二昔にもなってしまうが、この落ち葉の季節になると決まって思い出すことがある。それは、落ち葉いっぱいの山道を、子どもたちに手を引かれながら歩いていたときのこと。後ろから父の「枯れ葉を踏むと滑ベルからゆっくり歩けよ!」と大きな声が追っかけてきたっけ。私たちは立ち止まって待ち、不規則で重たげな足音を聞いていた。膝と腰が痛むと言っていた晩年の父の思い出である。
 こんな晩年の父を思い出しながら、私とフィズは立ち止まり、夫のゆっくりした足音の近づいてくるのを待つこのごろである。





神無月

稲田風カラーンと晴れた秋空を肌で確かめハーネス握る
(いなだかぜ カラーンとはれた あきぞらを はだでたしかめ ハーネスにぎる)

丁寧に盲いの吾に手渡して宅配の若者戸を閉めて行く
(ていねいに めしいのわれに てわたして たくはいのわかもの とをしめてゆく)

たちこむる湯気の中より匂い来る甘く香ばしき新米よそう
(たちこむる ゆげのなかより においくる あまくこうばしき しんまいよそう)

常よりも一品多く卓に添え夫に留守居を頼みて発ちぬ
(つねよりも ひとしなおおく たくにそえ つまにるすいを たのみてたちぬ)

秋すめる華厳滝に真向かいて吾が体温の奪われてゆく
(あきすめる けごんのたきに まむかいて わがたいおんの うばわれてゆく)

落下する音聞き上げて眼を閉ずる 華厳滝の霧風幽か
(らっかする おとききあげて めをとずる  けごんのたきの きりかぜかすか)

 今年最後の登山である番屋山。そのふもとの吉ガ平は源氏の落人とその子孫が暮らした歴史のある村落だったが、昭和45年に過疎地域対策として離村したのだそうである。登山道入り口の林の中の数本の木肌の高い位置に人の名前が彫ってあると聞いて驚いた。「きっと、閉村されるときに村人が想いを込めて刻んだのでは?そのころは、まだ目の高さに彫ったはず・・・」などと思うと胸が厚くなった。
 ちょっとひんやりした曇り日、10月24日8時40分、登山開始。杉林をぬけブナ林を進むと大きな雨生ガ池(まおいがいけ)に出た。ここまではゆるい登りで散歩気分だった。ここから山頂までが急な登りになるのだが、土や木の葉の登山道が足に優しかったせいもあって、たいした疲れも感じないうちに約933Mの山頂に到着。途中、二箇所ほど生々しい匂いがして確実に熊の気配を感じた。道の真ん中に熊のウンチ、誰かが「まだほやほや!湯気が立っているよ」と言ったのを真正直に受けて身震いしてしまった。
 山頂でメンバーと車座になって食べるおにぎりは、例えコンビにの物でも最高においしい!眺望を聞きながら私なりにその計を想像するのだが・・・こんなときこそ「見える眼が欲しい!」と心の中で叫んでしまう。
 お腹も満たされ少し肌寒くなってきたころ「下山開始!」のリーダーの声。 いよいよ私の好きな下山に身支度を整える。急な坂道、苔生した石の上はともすると滑るので神経を遣う。「よくもまあ、こんな急勾配を登ったものだ」と驚くほどのところは慎重に歩を運ぶ。時には登山道に大きな朴の葉やブナの葉が覆いかぶさっていると、見える人でも道幅が判断しにくいので注意とか。
登りは気づかなかったことにも出会う。枯れかかった木にツキヨタケが上までびっしりと生えているという。その一つを手に乗せてもらった。片手に余るほどの大きさ、しっとりと重い。焼いてお醤油で食べたらさぞおいしかろう!だが、これは毒キノコなのだそうな。
今回はススキの穂に顔を撫でられての山行だったが、また野鳥の声や、花の盛りの季節に登ってみたい。そんな想いを誘う「あったかい」番家山だった。



長月

稲佐山の展望台に佇みて寄り添う盲導犬に夜景を託す
(いなさやまの てんぼうだいに たたずみて よりそうもうどうけんに やけいをたくす)

長崎の風に抱かれ漆黒の吾の眼に夜景を刻む
(ながさきの かぜにいだかれ しっこくの われのまなこに やけいをきざむ)

ウォーキング汗を拭きつつ水飲めばツツーッと汗のまた流れ来る

脳味噌を空っぽにしてひた上る炎暑最中の魔の三十三曲がり
(のうみそを からっぽにして ひたのぼる えんしょさなかの まの三十三まがり)

今はただ一歩出すのみ登れども登れども開けぬ胸突き八丁
(いまはただ いっぽだすのみ のぼれどものぼれども ひらけぬむなつきはっちょう)

 急登なる難所の岩場をよじ登りひそと咲きいる駒草に触るる
(きゅうとなる なんしょのいわばを よじのぼり ひそとさきいる こまくさにふるる)

喘ぎつつ「もう一息」の声にまた登る 遂に掴みたり火打山頂の風
(あえぎつつ 「もうひといき」のこえに またのぼる  ついにつかみたり ひうちさんちょうのかぜ)

しゃりしゃりの歯ざわ りよろしカキノモトごま酢にあえて味調うる

ひとり降り後はふんわり稲の香の乗り来るを待ちバス走り出す

ススキの穂熊笹に触れしみじみと風透きとおるこの秋見たし

 あの猛暑からストンと晩秋になってしまったような今年の9月。私にとっても、めまぐるしい日々だった。そして「長い月」だった。周りが勝手に動き出し、気がつくとその中にうろうろしている自分に気づいたこともしばしば。体の一部が気だるくって、今一、やる気が湧いてこないこのごろである。
 そんな気分を取り消すように盲導犬フィズと庭に出た。「フィズ、お花よ」家族の一員になって2ヵ月半のフィズだが、得意げに花壇へ行ってくれる。そのフィズが止まったところの鉢植に小さな蕾がいっぱい!なんと、エンジェルトランペットに蕾がついたのである。
毎年3,4回は対輪を咲かせていたのに、この猛暑にお手上げしたのだろう。草丈も伸びず花も咲かせてくれなかった。あまりにしょぼくれてしまったので、つい先日、庭隅に移動しておいたのだった。
 鉢の前でちょこんと座っていたフィズが立ち上がった。何か訴えるように鼻 先で私の手をつっついてくる。「そうか、世の中は前進あるのみ!夕食の準備 をしなくっちゃね!」。
たとえ小さくても花を咲かせることを忘れなかったこのエンジェルトランペットのように、私も「やるべきこと」をしなければ。「さあ、お使いよ!フィズ」明日から10月だもの。



葉月

幸せはこの一杯にあり生ビール子と婿と嫁といて「乾杯!」

指先をちくり刺したる茄子のとげ取れたて野菜の並ぶ盆市

里の家軒に下がれるる風鈴の鳴り合う音色のこもごもにして

寝返りをまた夫うてり 音たてて犬が水飲み熱帯夜明く

いつしかも虫の音聞こゆさ庭辺に風通りゆく夏の夕暮れ

埠頭へと続く舗装路とおり来る一筋の風小さき秋の香

 とにかく今年の夏は「暑い!」その暑さもじりじり照りつけるのではなく、大気そのものがじっとりした熱を帯び、体に纏わりつくのだ。逃れようにも逃れられない。ここ数年は冷夏だったからなのだろうか、それとも加齢のせいなのだろうか、この倦怠感は。
 それでも、散歩、花壇の水やり、掃除、朝食の支度、洗濯と9時半ころまで忙しなく動く。それからクーラーの効いた部屋でのんびり飲むコーヒーは何にも代えがたい至福のひと時。このコーヒータイムがあるからこそ、汗びっしょりになりながら動き回れるのだと言っても過言ではないだろう。
 子どもたちがまだ小さかった夏休みのことである。いつものように夫が仕事に取りかかってから私がコーヒーを飲んでいると「そんなにおいしいの?」と息子が感心したように言った。私はとっさに「おいしいよ!だからお母さんが死んだらお墓にお水じゃなくってコーヒーを上げてね」。するとこんな一言が返ってきた。「えっ、今からお母さんばっかり好きなのねらっていないでよ!ずるいよ」。
 その息子が先日、帰省して言うことには「まだコーヒー飲んでるの。早く年とってしまうよ」。 このひょうきんさは、やっぱり変わっていないと思いながら「大丈夫、孫の顔を見るまではコーヒー飲んで若さを保つからね」と言い返してはみたものの・・・この無気力さは、暑さだけじゃなくて、もしかして?のせいもあるのかしら。



文月

ハーネスを初心にかえり握りしむフィズの歩調に戸惑いつつも
(ハーネスを しょしんにかえり にぎりしむ フィズの ほちょうにとまどいつつも)

札幌の駅の地下街背を伸ばしハーネスに従い訓練受くる
(さっぽろの えきのちかがい せをのばし ハーネスにしたがい くんれんうくる)

この辺り吾が家ならん百合の香の著けき角へ盲導犬促す
(このあたり わがいえならん ゆりのかの しるけきかどへ もうどうけんうながす)

 平成7年から盲導犬歩行をするようになって早15年。このたび3頭目の共動訓練を無事に終了することができた。
 名前はフィズ、平成20年3月生まれの2歳の女の子。人懐っこくて遊び好き、ちょっぴり臆病で素直な性格は、シェルとターシャを足して二で割ったような感じ。まだ若葉マークの盲導犬フィズだが、ハーネスを差し出すと一生懸命に首を突っ込んでくるしぐさにターシャと別れた悲しみを癒されている毎日である。

紫陽花のまり花ほったり盛り上がり あめあめふれふれ雨が大好き

ほったりと大きまり花際立たせ紫陽花の雨梅雨湿りして

こちょこちょっ半袖の腕くすぐられ立ち止まりたり 朝顔の蔓

湯気の中ひとつつまみて確かむる黒崎茶豆の香ばしき味

「もぎたてだよ」求めたる茄子のきしきしとマイバックに入りゆく音の愉しき(たのしき)

しわしわのこんな腕でもうまいかい?ブーンと飛び来て蚊が飛び去りぬ

ゲリラ雨の襲来ならん いきれたる風に土の香際立ちて雨



水無月

足取りのもつるる歩み伝いくる帰路のハーネス ターシャ十歳
(あしどりの もつるるあゆみ つたいくる きろのハーネス  ターシャ10さい

普段着でリュックを背負えば言わずとも市場へ案内す盲導犬は
(ふだんぎで リュックをしょえば いわずとも いちばへあないす もうどうけんは)

ピヨピヨとカッコカッコの響き合う初夏のゼブラゾーン盲導犬促す
(ピヨピヨと カッコカッコの ひびきあう しょかのゼブラゾーン もうどうけんうながす)

子どもらの視線の中にりんと立つターシャのな前吾が告ぐるとき
(こどもらの しせんのなかにりんとたつ ターシャのなまえ わがつぐるとき)

子どもらに盲導犬の話する吾が足下にターシャ伏せいる

「誰か来たの?」誰より先に尾を振って戸口へかけ行く盲導犬ターシャ

全身で綱引き遊びをせがみ繰る ハーネス取ればターシャはラブちゃん

哀しみは胸内深く折りたたみ最後の散歩のハーネス握る
(かなしみは むなうちふかく おりたたみ さいごのさんぽの ハーネス握る)

伏せたまま吾のみじっと見てるとう ターシャよ!静かに静かに撫でやる

しゃがみこみ夫の撫でいる声優し「八年間をありがとうターシャ」

ハーネスに縺るる歩み伝いくぬ ターシャよ!盲導犬のリタイア迫る

美容院、八百屋、魚や、郵便局に ハーネスワークをありがとうターシャ

あうはわかれのはじめなり。真夜に聴くターシャの寝息とそぼ降る雨音



皐月

こだわりは捨ていしものを毛糸編む指のもつるる春寒き夜 藤の花淡く漂う公園のベンチの上に雨静かなり

金次郎の銅像建てる廃校の跡地に藤の花の風吹く

保育園の前立ち話のママさんら 私と盲導犬の行く手を阻む

芽吹き雨すっぽりすぽすぽ濡れにつつ紫陽花の葉のグーンと広がる

イヌフグリ、スミレ、オーレン、カタクリの咲き継ぐ国上(くがみ)の山道登る

囀り(さえずり)の中の小道を登り来てポロシャツのボタン一つ外しぬ

 「切りますよ、いいですか?」「はい、大丈夫です」こんな会話がつけっ放しのテレビから聞こえてきた。その雰囲気に何か引き付けられ、拭き掃除の手を止めてテレビの前に駆け寄った。
 抗がん剤の副作用で髪が抜け、人の前に出ることができなくなった患者さんに「かつら」を安価に提供している美容院とそのお客のボランティア団体の紹介だった。「この髪が悩んでいる方にお役に立てばうれしいです。ショートをしばらく楽しんでから、またロングにできるんですから」と女性は明るくインタビューに答えていた。
 暗いニュースが多いこのごろ、久しぶりに耳にしたホットな話題に私の心もほんわり。立ちつくしたまま、髪を撫でて・・・「こんなに薄くなった髪ではボランティアは無理」と現実の寂しさに直面させられてしまった。



卯月

声高にキャーキャー話す少女らが降り行きて春の車内の何ごともなし
(こわだかに キャーキャーはなすしょうじょらが おりゆきて はるのしゃないの なにごともなし)

胸内をメールの中に閉じ込めて指の覚えしIDを打つ
(むなうちを メールのなかに とじこめて ゆびのおぼえし アイディーをうつ)

空の雲地の影法師眼裏へ陽春の下ハーネス握る
(そらのくも ちのかげぼうし まなうらへ ようしゅんのもと ハーネスにぎる)

ホーホケキョ 芽吹きの風の山すそに今年初なる登山靴履く
(ホーホケキョ めぶきのかぜの やますそに ことしはつなる とざんぐつはく)

盲い吾の指に見詰むるイカリソウ錨なす花やわらかにして
(めしいわれの ゆびにみつむる イカリソウ いかりなすはな やわらかにして)

イヌフグリ、スミレ、オーレン、カタクリの咲き継ぐ国上の山道うらら
(イヌフグリ、スミレ、オーレン、カタクリの さきつぐくがみの やまみちうらら)

鶯と一日終えたりウォークの25キロのゴールを踏みぬ
(うぐいすと ひとひおえたり ウォークの 25キロの ゴールをふみぬ)

昭和の日42527回地球踏みしめ25キロウォークの完歩証受く
(しょうわのひ 42527かい ちきゅうふみしめ 25キロウォークの かんぽしょううく)

 今年の春は行きつ、戻りつ。それでもチューリップがやっと咲いてくれた。 花も心持小さめだが「春を連れて来ましたよ」とでも言わんばかりに・・・。
 今月の半ばころ、所属している山の会の今年度初の国上山周辺山行に参加した。 前泊した宿で鶯の初々しい声に目覚めた。きっと楽しい山行になると心が弾んだ。
じっとしていると寒いくらい、桜も未だ三部咲きとか。ザックや登山靴を身に つけると体がしゃきっとして、冬眠から覚めたような心地。薄日の中の農道を 歩いているうちに足取りも快調に「山歩き」のパターンを思い出してくれた。
 ここ2,3日、続いていた雨であの階段の多い山道もドロンコで大変だろうと覚悟していたが思っていたよりも歩き易く、階段には土崩れを防ぐための整備がされていた。スミレ、コブシ、ユキワリソウやカタクリの花が咲き続いている景をパートナーから教えてもらいながら、山道を上り下りして312メートルの山頂の三角点に触れた。
いつものことだが、三角点をこの手で触れたときの達成感!充実感!何にも勝る至福のひとときなのだ。だから、また山に登りたくなる!
広い山頂はかなり風が強く、おにぎりを食べているうちに寒さが増し、雲行きも怪しくなり出したので早々に下山したのだった。



弥生

あの路地もこの路地からも匂い来る今日のそよ風沈丁花色
(あのろじも このろじからも においくる きょうのそよかぜ じんちょうげいろ)

春キャベツサラダにせんと刻みいる寒の戻りの霧笛聞きつつ
(はるキャベツ サラダにせんと きざみいる かんのもどりの むてきききつつ)

まあ、こんなところにも春!マンホールの蓋にびっしり柔らかき草

すっぽりと包むがに降る春の雨草木の新芽ほぐれ伸びゆく
(すっぽりと つつむがにふる はるのあめ くさきのしんめ ほぐれのびゆく)

バスの中着信メロディー鳴り出せばとっさに確かむ吾の携帯
(ばすのなか ちゃくしんメロディー なりだせば とっさにたしかむ われのけいたい)

潮の香の風に乗り来る無人駅ブリキの箱に切符を落とす
(しおのかの かぜにのりくる むじんえき ブリキのはこに きっぷをおとす)

軽やかに「ピヨピヨ」「カッコー」の響き合う春めく朝の交差路渡る

触りたる物みな見たしと想う日よ 丹念に盲導犬へブラシかけやる

 昨日までは、ふんわりした日差しが届いて私も「のびのびモード」してたのに、今日のこの寒さはいったいどうしたのだろう!?
夜半から吹き出した西風が、だんだん強くなり雨まで降りだして・・・。そして、今は雪になってしまった。「おおっ、寒い!」片づけようとしていたセーターを取り出して、ストーブの設定温度も上げたりして、また冬バージョンに逆戻り。
今日の外出はダウンコートにブーツ、マフラーと手袋も忘れずにしっかり装備して出かけねば・・・。

      あと五分、あと三分とバス停に身を堅く立つ小雪舞う三月尽(やよいじん)



如月

囀りの澄みてひろがるこの朝風の光るを手に握りしむ
(さえずりの すみてひろがる このあした かぜのひかるを てににじりしむ)

寒明けのぽかぽか日ざしに誘われて咲くプリムラの春を購う
(かんあけの ぽかぽかひざしに さそわれて さくプリムラの はるをあがなう)

ふわふわの犬の冬毛にいっぱいの日差しの注ぐ如月四日
(ふわふわの いぬのふゆげに いっぱいの ひざしのそそぐ きさらぎよっか)

さ庭辺のつんつん出たる球根の芽を眠らせて新しき雪
(さにわべの つんつんいでたる きゅうこんの めをねむらせて あたらしきゆき)

いかような色にも形にも馴染む 天よりの使者ひた降る雪は
(いかような いろにもかたち にもなじむ  てんよりのししゃ ひたふるゆきは)

いち早く春を連れ来しオニシバリの淡き花の香朝日に漂う
(いちはやくはるをつれこし オニシバリの あわきはなのか あさひにただよう)

ぴったりと寄り添いて来る愛犬に編むてを止めて呼吸合わせいん
(ぴったりと よりそいてくる あいけんに あむてをとめて いきあわせいん)

 私は掃除機が大嫌い。だって、あの音はうるさいでしょう!それに、お散歩やトイレタイムの後に朝食をいただいてご機嫌モード、もう1眠りし始めようとしているのに傍若無人にも私の陣地をひっくり返して部屋中の空気を吸い込み回るんだもの。
 そんなとき、とってもいい避難所をみつけたの。それは二回のお母さんのベッドの上。掃除機の音はうれしいことに私が二回へ駆け上がる足音を消してくれるから、お母さんには分らないわけ。お日さまいっぱい、ぽかぽかしていてとっても静かなの。だから私、掃除機の電源を入れるのを待って二階へ駆け上がることにしているの。今では、そんな私の早業もバレちゃって、ベッドの上に私専用のマットがひろげられてあるのよ。
 お仕事がなければお昼までゆっくり、ぐっすり孤独タイムをむさぼっている私は「盲導犬ターシャ」10歳です。



睦月

 寒気と突風に負けじと身を引き締めて迎えた2010年。この切り良き数字と寅年に私も心機一転・・・などとちょっぴり抱いた夢。でも、自身の体調と相談しながら「虎穴」の二文字をわきまえてのことであるが・・・。そして「ありがとう!」の多き寅年にしたいと願う。

疾風の埠頭に向かい新年を告ぐる汽笛の鳴るを待ちおり
(しっぷうの ふとうにむかい にいどしを つぐるきてきの なるをまちおり)

 午前零時の5分前に私はターシャと外へ出た。申し合わせたように娘とほやほやの息子の嫁ちゃんが追って来たので、ターシャをまんなかにして寒気と強風に震えながら門に立って船から鳴り響く汽笛を待っていた。

埠頭より吹き荒ぶ中新年を告ぐる汽笛の間近にきこゆ
(ふとうより ふきすさぶなか しんねんを つぐるきてきの まじかにきこゆ)

凄まじき埠頭の汽笛消えにけり吹き荒びつつ2010年明くる
(すさまじき ふとうのきてき きえにけり ふきすさびつつ 二せん十ねんあく  る)

 「おめでとう!」私たちは、がっちり握手を交わした。強風に吹き飛ばされないように足を踏ん張って立ち共有していたほんの数分がこんなにも感動的な「新年の挨拶」になったのだろう。冷たい手に互いの温もりが伝わり、母としての喜びをかみ締めることのできた2010年のスタートだった。

ふつふつと厨満たして六人となりたる族(うから)の雑煮を作る

「小さいころのお姉ちゃんにそっくりね」焼いている餅がぷーっと膨れる

健やかに族の集う三が日十二本の箸ざくざく洗う

「よくもまあこんなに飲んだのね」正月三日びん缶ボトル分別しつつ

これで平成22年の短歌のページを終わります。
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