平成20年の短歌
 

師走

賜りしみかんに緑き葉添えられて友の便りの結ばれてあり
(たまわりし みかんにあおきは そえられて とものたよりの むすばれてあり)

霙降る一日の暮れゆく庭隅に迷いし猫か鈴しきり鳴る
(みぞれふる ひとひのくれゆく にわすみに まよいしねこか すずしきりなる)

淡々とニュウス読み継ぐアナウンサーの声詰まりたり女児殺害に
(たんたんと ニュースよみつぐアナウンサーの こえつまりたり じょじさつがいに)

終い湯に浸りつつ聞くチャルメラの笛の音路地を曲がり行くまで
(しまいゆに ひたりつつきく チャルメラの ふえのね ろじをまがりゆくまで)

パンを焼く匂いに誘われポケットの小銭数えつつ店のドア押す
(パンをやく においにさそわれ ポケットの こぜにかぞえつつ みせのドアおす)

「さあターシャ歩いて帰ろう」盲導犬と風のきれいな冬の日まといて
(「さあターシャ あるいてかえろう」 もうどうけんと かぜのきれいな ふゆのひまといて)

それぞれの生活の跡の積まれゆく連休明けのゴミステーション
(それぞれの たつきのあとの つまれゆく れんきゅうあけの ごみステーション)

大型店またオープンす 静もる露店に「野菜イランかねー」
(おおがたてん またオープンす しずもるろてんに 「やさいいらんかねー」

つかの間の夢を抱きて並びいる暮れの市場の抽選会場
(つかのまの ゆめをいだきて ならびいる くれのいちばの ちゅうせんかいじょう)

 夜9時過ぎ、始発から乗ったバスはガラ空きだったのに、繁華街からはどんどん込んできた。そのほとんどが忘年会帰りらしい。楽しげに宴会の続き話をするグループ、たあいもない言葉遊びをする若いグループ、ほほえましいカップルの会話・・・。そんな雰囲気の中にぼんやり座っていた。
 「オレ、これからサンタクロースにならねばならねんさ」
突然すっとんきょうな声に車内は爆笑。それでもかまうことなく、その声は続く。
 「ほれ、そんげに押さないで!子どもと母ちゃんにやっとこうて来たプレゼントが押しつぶされそうだがねー!」
 明後日はクリスマス。私たち一家にもそんなときがあったっけ。欲しがっている玩具をそれとなく聞き出し、こっそり買い込んで当日まで秘密の場所に隠しておいたときのあのスリル。眼を覚まさないようにそれを枕元に置いたときの緊張感。「サンタが来た」と子どもたちが喜んでいる様に、親として味わった満足感。
 ふいにその思いでは断ち切られてしまった。それは足もとに伏せていたターシャが立ち上がり、私にぴったり寄ってきたのだ。「もう少し前に詰めてくださーい」と運転手の高い声。滅多にない満員バスの中でターシャのしっぽが踏まれないように、私もあのおじさんみたいに「盲導犬も乗っていますので押しつぶさないでくださーい!」と叫びたくなった。



霜月

小春日の匂い残れる干し物を正座りてたたむ ささやかな幸
(こはるびの においのこれる ほしものを すわりてたたむ  ささやかなさち)

紙風船息を吹きかけ掌の上に乗せれば幼き見ゆる眼恋し
(かみふうせん いきをふきかけ てのうえに のせればおさなき みゆるめこいし)

秋日和葉を落としたる街路樹の枝剪り詰める音の明けき
(あきびより はをおとしたる がいろじゅの えだきりつめる おとのさやけき)

公園の風のよどみにかさこそと落ち葉のささやき 今日は立冬
(こうえんの かぜのよどみに かさこそと おちばのささやき  きょうはりっとう)

落ち葉掃く箒の音の軽やかに小春日和の路地裏通り
(おちばはく ほうきのおとのかろやかに こはるびよりの ろじうらどおり)

盲導犬と吾の吐く息白からん冷気身に沁む朝の遊歩道
(もうどうけんと われのはくいき しろからん れいきみにしむ あさのゆうほどう)

冬野菜詰めたるリュックを背負わせくるる露天の人の若き大き手
(ふゆやさい つめたるリュック しょわせくるる ろてんのひとの わかきおおきて)

良き音に引かれ求めし韓国の土産の風鈴厨に鳴れり
(よきおとに ひかれもとめし かんこくの みやげのふうりん くりやになれり)

咲き盛る大きシクラメン求めても心の隅の憂こと晴れず
(さきさかる おおきシクラメン もとめても こころのすみの うきことはれず)

沈黙の闇を破りて救急車通り過ぎたり 深深と真夜
(ちんもくの やみをやぶりて きゅうきゅうしゃ とおりすぎたり しんしんとまよ)


シェル ありがとう

見えなくなった私に あなたは再び歩ける喜びを教えてくれました
一緒にいっぱい歩いたね そして、一緒にいっぱい迷子になったね
ゴミ捨て、おつかい、散歩、旅行・・・
見えなくなってあきらめていたことが あなたと一緒に取り戻せたものね
平成20年10月26日 あなたは16歳3ヶ月で天国に召されました
私の心にできた大きな空洞を ただ静かにみつめています
だって、あなたはあまりにもかわいかった
そして、出会いと愛することのすばらしさを いっぱいいっぱい教えてくれたもの
ありがとう シェル! さようなら シェル!



神無月

秋雨の一日暮れゆく路地裏にしまい忘れし風鈴の鳴る
(あきさめの ひとひくれゆく ろじうらに しまいわすれし ふうりんのなる)

彼岸花の赤を思いて触れし手に花びら冷たく露含みおり
(ひがんばなの あかをおもいて ふれしてに はなびらつめたく つゆふくみおり)

売れ残る野菜を値切る主婦もいて露店の市場はや夕暮るる
(うれのこる やさいをねぎる しゅふもいて ろてんのいちば はやゆうぐるる)

 「おだやかに、ゆったりと」。その日はこんな言葉の似合う天候だった。そんなゆったりした気持ちでバスを降りた。ちょっと遠回りして帰ろうね、ターシャ。いつも歩き慣れている遊歩道に出て風を切って進む。
なのに・・・。アレー、いつの間にか上り坂になっている?こんな坂はなかったはず・・・。さえぎる物もなく、だだっ広い感じ。頼みのターシャは得意げにスタスタ歩いている。
とにかく車の音を探さなくちゃ。「ハーネスを左手持ちで歩いて来たのだから」と自分に言いきかせるように頭の中を整理しても一向に現在地が分らない。しばらくあっちこっちをうろうろしていたら、ついに足覚えのある地面をキャッチ!なんと、いつの間にか新日本海フェリーの駐車場に入り込んでいたらしい。ああ、こんな秋晴れの日だったから良かった。もし、雨でも降ってきたら・・・。きっとホワホワお日さまに誘われて、もっと歩きたかったのかも知れないね?ターシャ!
 思えばこの駐車場はシェルと(最初の盲導犬)迷って泣きそうになったところだった。それも北風が身に沁みる寒い夕方だった。行きつ戻りつしているのを車の中から見ていたと言う人が声をかけてくださって、危ういところを助けていただいたっけ。
 10年ほども前の苦いことを思い出しながら、おだやかに、ゆったりとした気分で帰路に着いた。

昨夜の雨上がりし朝はこと更に木犀の香の著けく匂う
(よべのあめ あがりしあさは ことさらに もくせいのかの しるけくにおう)

木犀のかすかに漂う夕暮れの路地に幼らのさよならの声
(もくせいの かすかにただよう ゆうぐれの ろじにおさなの さよならのこえ)

木犀の香る一枝賜りて静もる家内に秋を広げる
(もくせいの かおるひとえだ たまわりて しずもるやぬちに あきをひろげる)

日の暮れをふんわり風が連れてくる遠き初恋 木犀の香よ
(ひのくれを ふんわりかぜが つれてくる とおきはつこい  もくせいのかよ)



長月


白い彼岸花
写真: 白い彼岸花

階段を数えつつ上れば駅のポームに友の声ひろがる「大夕焼けよ」

子には子の世界あるらし耳かさず雨降る中に賭けて行きたり

亡き友の夢に目覚むるこの夜半を物の音消し雨しきり降る
(なきともの ゆめにめざむる このよわを もののおとけし あめしきりふる)

編みかけてしまい置きたるセーターを取り出してみる チチロ鳴く夜に

時おきて途切れては鳴く蟋蟀に音をひそめて明日の米とぐ
(ときおきて とぎれてはなく こおろぎに おとをひそめて あすのこめとぐ)

草木一面ムシ時雨する朝まだき散歩の足の吸い込まれそう
(くさきいちめん むししぐれする あさまだき さんぽのあしの すいこまれそう)

パソコンに今日の想いを詰め込みて夜更け静かに電源を切る
(パソコンに きょうのおもいをつめこみて よふけしずかに でんげんをきる)

 この年も過ぎ去った猛暑が恋しい季節にと・・・年月の移ろいに戸惑っている。
 そんな朝のこと、サンスベリアの鉢の周りに砂がこぼれていることに気づいた。夫が鉢をひっくり返したに違いないと安全な場所に移して置いた。数日後、また砂がこぼれていた。不思議に思い鉢の中を注意深く触ってみて驚いた。なんと、針のような小さな芽がいくつも砂を突き破って出ていた。その新芽たちは、鉢すれすれに敷いてある飾り砂を押しのけてのぞいていた。また砂が盛り上がって今にもこぼれそうな箇所もいくつか触れた。
 このサンスベリアは円錐形のタイプで数年前に娘と一緒に買ったものだった。お盆に来た彼女は我が家の鉢を見るなり「まだあるのね。私のなんかとっくに枯れてしまったのに」と驚いていた。朝日の当たる窓際に置き、忘れたころに液費を薄めた水をやるだけで育つ手間のかからない観葉植物。平たい葉の形をしたものなど、その形状もいろいろあるが、いずれも直立して造花のような感触である。この円錐形のタイプのサンスベリアを繁殖させたのは初めてだった。さっそくこの喜びを娘に電話したのは言うまでもない。

サンスベリアの根元の土を盛り上げてつんと触れるは新芽の幾つ

鉢の砂こぼして新芽の出できたりサンスベリアはツンと尖りて
(はちのすな こぼしてしんめの いできたり サンスベリアは つんととがりて)



葉月


雑草の中であでやかに咲く彼岸花
写真: 赤い彼岸花

アスファルトに真昼の暑さ残しつつ続く猛暑の一日(ひとひ)暮れゆく
 今年の夏はこんなに暑い日が少なかったように思う。

熱帯夜水飲むくりやに立ちすくむ冷蔵庫に氷の生(あ)るる音怪し(あやし)
 あれは6,7年前になるだろうか。暑さで目が覚め水を飲みに台所に降りて来たら・・・。誰もいないはずなのに・・・。思わず水の入ったコップを落としそうになってしまった。冷蔵庫を買い換えたときの恐ろしい思い出。

力こめ当(あ)つる包丁に大き西瓜パシッとはじけ甘き香放つ
 田舎から大きなスイカをもらったときのこと。包丁を当てたとたんに「パシッ」とはじけたあの音!甘い香りとともにまっかな色が目に浮かぶ。

せみ時雨の木立のトンネル抜け出でてひろがる稲田に日暮れの迫る
 うっそうと茂った木立は蝉の音のトンネルだ。その音に吸い込まれそうで、思わず盲導犬のハーネスを持つ手が緊張してしまう。

一本の箸にて食(た)ぶるところてん山茶屋包みかなかなの声
 こんな体験はもう二度とできないのではないだろうか。ところてんのほのかにすっぱい味とともに忘れられない山すその思い出。

癌を病む友見舞い来て風鈴の優しき音色の駅を後(あと)にす
 いつも元気だった友を見舞っての帰り。風鈴の音がこんなにも寂しく、悲しく感じられたことはなかった。

稲田風吹き通りゆく部屋に座し父母の仏前に手を合わせいる
 昔のままの家なのに何かが違うのです。昔のままの田んぼから吹いてくる風なのに、やはり何かが違うのです。たまらなく父母に会いたくなってしまいました。

 今月はいつの間に過ぎたのだろう。「暑い、暑い」と言っていた日も例年より少なかったように思う。とにかく、天候がめまぐるしく変わり「ゲリラ豪雨」などという言葉が頻繁に繰り返された月である。
 今日もその「ゲリラ豪雨」が夕方に出没した。今はすっかり涼しくなり、虫の音が何事もなかったように聞こえる。

街路樹の葉群を風の揺らしつつ秋はいち早く忍び寄りくる

「お母さんまっさおな空よ」見えぬ眼を凝らせば風は秋の気配す

蝉しぐれして静かに暮れゆく故郷(ふるさと)の裏庭に吹く風ははや秋

稲穂田を渡りくる風さわさわとわれの素足に秋運びくる

盲導犬のハーネス握れば寝不足のけだるき背筋しゃんと伸びくる



文月


淡いピンクのばら。花びらが浮き出しているように写っています。
写真: 淡いピンクのバラの花

脱ぎ散らす履物を子に諭しつつ揃えて和む今日の終わりと
(ぬぎちらす はきものをこに さとしつつ そろえてなごむ きょうのおわりと)

川の面にネオンが映ると夫の言う吾の眼裏へ知りし色浮かべり
(かわのもに ネオンがうつると つまのいう わがまなうらへ しりしいろうかべり)

並びいる吾子の瞳に映れるは萌ゆる若葉か木の葉のさやぐ
(ならびいるあこのひとみに うつれるは もゆるわかばか このはのさやぐ)

風向きの今朝は変わりて鳩の声くぐもり聞こゆ梅雨じめりして
(かざむきの けさはかわりて はとのこえ くぐもりきこゆ つゆじめりして)

烏の声真似しつつ子ら駆けて行く雨の降り初む夕暮れの路地
(からすのこえ まねしつつこら かけてゆく あめのふりそむ ゆうぐれのろじ)

梅雨晴れにはさみの音を響かせて花終わりたる紫陽花を剪る
(つゆばれに はさみのおとを ひびかせて はなおわりたる あじさいをきる)

ふつふつと布巾を煮沸せる音をこもらせ長き梅雨の雨降る
(ふつふつと ふきんをしゃふつ せるおとを こもらせながき ばいうのあめふる)

梅雨晴れにさおいっぱいに広げたるすすぎ物ひるがえしつつ夏は来にけり
(つゆばれに さおいっぱいにひろげたる すすぎものひるがえしつつ なつはきにけり)

一人飲むグラスに氷入れるとき溶けゆく音の身にしみとおる
(ひとりのむ グラスにこおり いれるとき とけゆくおとの みにしみとおる)

落としたる氷片諸手に探りおり 溶けゆく物はすでに帰らず
(おとしたる ひょうへんもろてに さぐるとき とけゆくものは すでにかえらず)

寝不足のけだるき吾に清めたる両の義眼の冷えなじみくる
(ねぶそくの けだるきわれに きよめたる りょうのぎがんの ひえなじみくる)
ねじ花が咲いていますと結びたる点訳の友の文の親しき
(ねじばなが さいていますと むすびたる てんやくのともの ふみのしたしき)

奥只見の風はさ緑 タンポポの綿毛を遠く飛ばしてやりぬ
(おくただみの かぜはさみどり  タンポポの わたげをとおく とばしてやりぬ)

銀山平の林道ゆるゆる上り行く吾をつつみて春蝉の声
(ぎんざんだいらの りんどうゆるゆると のぼりゆく われをつつみて はるせみのこえ)

野の香り雪の冷気を運びくる尾瀬沼渡る風は遥けし
(ののかおり ゆきのれいきを はこびくる おぜぬまわたる かぜは はるけし)

チングルマ サワラン キスゲ リンドウの花を揺らして尾瀬沼の風



水無月

わが下駄の音澱みたる湯の町に空低くして夜霧たちこむ
(わがげたの おどよどみたる ゆのまちに そらひくくして よぎりたちこむ)

指間よりこぼるる清水のひいやりと微かに川の匂い沁みくる
(ゆびまより こぼるるしみずの ひいやりと かすかにかわの におい しみくる)

船底の大きく揺れて蛇行セり 阿賀ノ川の流れいと変わるらし
(ふなぞこの おおきくゆれて だこうせり あがのがわのながれ いと かわるらし)

早苗田の真直中を走り来てインターチェンジに遠かわず聞く
(さなえだの まっただなかを はしりきて インターチェンジに とおかわずきく)

耳鳴りかと歩を緩めれば浅草岳の裾野うずめて春蝉の鳴く
(みみなりかと ほをゆるめれば あさくさだけの すそのうづめて はるせみのなく)

 もうとっくに入梅しているのに一向に雨らしい雨が降らない。よどんだ空気がじっとりと体にまつわり、今にも降り出しそうになるのだが・・・。もしや?と思い、草花の水やりをしないでいるときに限って陽が差して暑くなる。まったく今年は「気まぐれ」な6月。
 そのせいだろうか。紫陽花の開花が遅いように思う。梅雨の中で、まあるく盛り上がって咲くアジサイが好きなのに。先月、屋久島へ行ったときに見たアジサイはふんわりと大きかった。やはり、今年の新潟の6月はちょっと異常気象になっている。後でまとめて大雨にならなければ・・・と私の力ではどうにもできないことを念じているこのごろである。

街路樹の木の葉揺らして緑風は梅雨夕焼けの埠頭へ渡る
(がいろじゅの このはゆらして りょくふうは つゆゆうやけの ふとうへわたる)

菜を刻む音の確かさ主婦吾のたつきのリズムは厨より始む
(なをきざむ おとのたしかさ しゅふわれの たつきのリズムは くりやよりはじむ)

想い出は色を保ちて蘇る吾が見えし日のメガネかくれば
(おもいでは いろをたもちて よみがえる わがみえしひの メガネかくれば)

探せどもみつからざりき腕時計雨降りて着たるコートより出ず
(さがせども みつからざりき うでどけい あめふりてきたる コートよりいず)



皐月


赤いカーネーション
写真:二輪の赤いカーネーション

耳慣れぬロックを厨に響かせて娘は母の日のケーキ焼きいる
(みみなれぬ ロックをくりやに ひびかせて こは ははのひの ケーキやきいる)

オルゴールゆっくりとなり止まるとき 過去にふれたるひそかな想いに

 昨年の「母の日」に娘夫婦が植えてくれた芝桜がみごとに咲いた。20株ほどが色を競い合い、まるで花模様のじゅうたんを敷いたように。今年はカルミヤと西洋シャクナゲを植えてくれた。「水をやっておいたからね」と大人びた声が頼もしい。いつの間に気の利く子になったことかと・・・。
だが、その喜びもほんのつかの間。水やりをしたのは自分たちが植えた芝桜と今日のプレゼントだけ。すぐ隣にある私が育てている草花は、2,3日続いた晴天にしおれたままだったのだ。

野良仕事の母の帰りを待ちながら夕焼けの空見ていし日のあり

吾にまだ母あることの嬉しくてブローチのカーネーション赤きを胸に

針箱の母の指ぬき節くれの吾の指になじみて母の温とさ
(はりばこの ははのゆびぬき ふしくれの あのゆびになじみて ははのぬくとさ)

夜更けまで縫い物していた母でした 象牙の篦のすべすべとして
(よふけまで ぬいものしていた ははでした ぞうげのへらの すべすべとして)



卯月


満開の桜と水辺に群生する菜の花
写真:上堰潟(うわせきがた)公園の桜と菜の花

自転車の子ら一列に通り行く春日に軽きブレーキの音
(じてんしゃの こらいちれつに とおりゆく はるひにかろき ブレーキのおと)

 雨の中自転車に子はもどり来し荒き息して玄関に立つ
(あめのなか じてんしゃにこは もどりこしあらきいきして げんかんにたつ)

登校の自転車の子はそそくさと角なる吾に風残し行く
(とうこうの じてんしゃのこは そそくさと かどなるわれに かぜのこしゆく)

会社にて事のありしか帰りたる子を物言わず部屋にこもりぬ
(かいしゃにて ことのありしか かえりたる こはものいわず へやにこもりぬ)

春浅き空をしきりに鳴き交わすウミネコ幾つ高く舞いおり
(はるあさき そらをしきりに なきかわす うみねこいくつ たかくまいおり)

ふきのとう日向に向きて並びいる中の一つが大きく開く
(ふきのとう ひなたにむきてならびいる なかのひとつが おおきくひらく)

鍵をあけ一人戻れる玄関ににおいスミレのほのかに匂う
(かぎをあけ ひとりもどれる げんかんに においすみれの ほのかににおう)

カンアオイ片栗の花登り来てメシイの指に春確かむる
(カンアオイ カタクリのはな のぼりきて めしいのゆびに はるたしかむる)

 ミスミ草と聞きて触れる眼裏に薄紫の小花が揺るる
(ミスミそうとききて さわれるまなうらに うすむらさきの こばながゆるる)

桜花咲き初むるらし微かにも花の香の風髪揺らし過ぐ
(さくらばな さきそむるらし かすかにも はなのかのかぜ かみゆらしすぐ)

ケキョ ケケキョようやく初音の調いて枝移りゆく卯月の三日
(ケキョ ケケキョ ようやく はつねのととのいて えだうつりゆく うづきのみっか)

チューリップ精一杯に膨らんで日に向きいるは何か言いたげ
(チューリップ せいいっぱいに ふくらんで ひにむきいるは なにかいいたげ)

 いつも歩いている遊歩道の一角に桜の木が10本ちかく植えられていて、ベンチが置いてある。今年は例年より一週間ほども早く開花し、しばらく楽しませてくれた。雨上がりの朝、いつものように歩いているとターシャが立ち止まった。「花びらがじゅうたんみたいだぞ」と夫も立ち止まった。「そうか、桜前線も無事に通過したのだ」と私も納得。その花びらのじゅうたんの上をそうっとそうっと歩いた。「私もこんな風に潔く終わりたい。



弥生


紫色のかたくりの花
写真: 春を告げるかたくりの花

階段のきしむ音してゆっくりと父は居去りつつ降りて来るらし
(かいだんの きしむおとして ゆっくりと ちちはいざりつつ おりてくるらし)

居去りつつ階段上り来し父の吾呼ぶ声のあたたかくして
(いざりつつ かいだんのぼり こしちちの われよぶこえの あたたかくして)

「春の小川」路地に響かせ下校時の子らハモニカを吹きつつ行けり
(「はるのおがわ」 ろじにひびかせ げこうじの こらハモニカを ふきつつゆけり)

葉の間よりわずかに出でしくんし蘭の花芽みつけたり弥生の朝
(はのまより わずかにいでし くんしらんの はなめみつけたり やよいのあした)

 詩 「かたくりの花」
よりそって語り合うかのように かたくりの花が うつむいて咲いている
花を見守るかのように まろやかな葉が やわらかく包んでいる
風邪が癒えぬままに めっきり老け込んだ父が コップに入れたかたくりの花
夕暮れの庭先から 父の咳き(しわぶき)が聞こえる

 夕方、市場通りを歩いていたら大きな咳ばらいが聞こえた。それが亡くなった父とあまりにもよく似ていて・・・。
 あの日も、ちょうど今日と同じように彼岸の最中で父が泊まりに来ていた。私が「かたくりの花」をはじめて見た日。まだ小さかった娘にその色を尋ねたら「お母さんのセーターとおんなじ色よ」と教えてくれたっけ・・・。そのころが懐かしくなって、三昔も前のノートを紐解いてみた。

また一軒駐車場となりたる海近き市場通りに霧笛の響く
蕗のとう自転車に乗り届けくれし亡き父想いつつパッケージ開く
カップ二つ静かに注ぐコーヒーの香の満たされてゆくささやかな幸
(カップふたつ しずかにそそぐ コーヒーのかの みたされてゆく ささやかなさち)



如月


濃いピンクの雪割草
写真: 濃いピンクの雪割草

もがり笛激しき夜はストーブの点火のタイムを早めて眠る
(もがりぶえ はげしきよるは ストーブの てんかのタイムを はやめてねむる)

寒の水ワカメほどよく膨らみて夕べ厨に磯の香放つ
(かんのみず わかめほどよく ふくらみて ゆうべくりやに いそのか はなつ)

やわらかき春のキャベツを刻みおり今日立春のサラダにせんと
(やわらかき はるのキャベツを きざみおり きょうりっしゅんの サラダにせんと)

ゆでるには惜しき菜花の一束を雪降る夕べの卓に飾れり
(ゆでるには おしきなばなの ひとたばを ゆきふるゆうべの たくにかざれり)

黙しつつジャガイモの芽を欠きてゆくその秘められし命の哀し
(もだしつつ じゃがいものめを かきてゆく そのひめられし いのちのかなし)

柔らかき芽をすっくと伸ばしつつ穴倉の隅にたまねぎの生
(やわらかき めをすっくとのばしつつ あなぐらのすみに たまねぎのせい)

うらうらと注ぐ日差しにゆるゆると雪の溶けゆく寒暖かし
(うらうらと そそぐひざしに ゆるゆると ゆきのとけゆく かんあたたかし)

朝の雪足裏にざくざく崩るるを春に急かるる思いに歩む
(あさのゆき あうらにざくざく くずるるを はるにせかるる おもいにあゆむ)

日溜りを歩めばしいし吾の眼に明るさ増しぬ 春めきにけり
(ひだまりを あゆめばしいし われのめに あかるさましぬ はるめきにけり)

出かけたる夫の忘れし携帯が戸口に奏でるアメージンググレイス
(でかけたる つまのわすれし けいたいが とぐちにかなでる アメージンググレイス)

 母がよく言っていたっけ「二月は逃げていく月」だと。そんな言葉がしみじみと迫ってくる年代に私も達したのだろう。いや、達したのである。
 最初の6首までは、昭和のころに詠んだ主婦としての作を載せてみた。そのころは、育ち盛りの子どもたちや雑用に追われくたくたになって床に就いたものだった。食事の支度をしながら短歌を作ったり、考えごとをしたりして台所仕事は格好な至福タイムだったのだ。この6首を選んでいるうちに、そのころの想い出が頭を占領してしまい文がなかなか書けそうになくなって・・。
 気を取り直して後の4種は最近の作からにした。これらは大切なパートナー・盲導犬の存在なくしては詠めない。そして、それは今の私に至福のひとときを与えてくれているのだ。
 寒さが緩んだのを見計らい我が家の散歩も開始となった。今朝の散歩で夫が独り言のように「二月は逃げて行くんじゃない。あったかい春を探しに一足早く発つんだよな、ターシャ」と。夫の独り言の最後はいつも「ターシャ」で終わるのだから・・・。



睦月

重々と埠頭に汽笛の広ごりて新しき歳穏やかに初む
(おもおもと ふとうにきてきの ひろごりて あたらしきとし おだやかにそむ)

コーヒーの香り満たして夫と二人「今年もよろしくお願いします」
(コーヒーの かおりみたして つまとふたり 「ことしもよろしく おねがいします」)

この年は少し緩めて生くるべし六十路に入りたる吾がさじ加減
(このとしは すこしゆるめて いくるべし むそじにいりたる わがさじかげん)

盲導犬ターシャの笑う初夢に覚めてしばたたく視力なき眼を
(もうどうけんターシャのわらう はつゆめに さめてしばたたく しりょくなきめを)

来し方の鬱きことすべて流さんと思う初湯に流れぬ一つ
(こしかたの うきことすべて ながさんと おもうはつゆに ながれぬひとつ)

 紅白歌合戦も終わりみなが談話している家からターシャと外へ出た。冷え込んだ夜気に思わず身震いをしながら埠頭へ続く大通に向かった。ゆく歳とくる歳の狭間を響きくる汽笛に手を合わせるのはいつもの習い。なのに、その度にしんみりした気持ちになるのはなぜなのだろう。昨日が明日に、それは去年から新年になるという、それだけのことなのに。

厨辺の間近に雷鳴とどろけば食器の音をひそめて洗う
(くりやべの まぢかにらいめい とどろけば しょっきのおとを ひそめてあらう)

生ごみの袋重たし 雪道を轍に沿いて盲導犬と
(なまごみの ふくろおもたし ゆきみちを わだちにそいて もうどうけんと)

突風に吾が盲導犬は凛と立つ握るハーネスに命が通う
(とっぷうに わがもうどうけんは りんとたつ にぎるハーネスに いのちがかよう)

たちまちに我の音の地図かき消して遠吠えのごと疾風迫り来
(たちまちに あのおとのちず かきけして とおぼえのごと しっぷうせまりく)

人気なき路地に盲導犬と立ち尽くす 足裏の吾が地図奪いて降る雪
(ひとけなき ろじにもうどうけんと たちつくす あうらのわがちず うばいてふるゆき)

これで平成20年の短歌のページを終わります。
限りなく透明な世界のトップページへ。
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