平成17年の短歌
 

師走

空わたる風音軽く穏やかな師走朔はや夕暮るる
(そらわたる かざおとかろく おだやかな しわすついたち はや ゆうくるる)

ポツポツン間なくザンザブ降る雨の真昼の初冬 バス待ちている
(ポツポツン まなくザンザブ ふるあめの まひるのしょとう バスまちている)

まとう物みな地に返し大欅 枝しなわせて木枯らしを呼ぶ

溶かしたるバターを吸ってふっくらと夫の好みの半平焼くる
(とかしたる バターをすって ふっくらと つまのこのみの はんぺん やくる)

盲導犬真ん中にして夫と笑む写真添えたり 戌年の賀状に

 12月22日朝8時をちょっと回ったころのことである。テレビの音が途切れ途切れになり、やがてぷつんと消えてしまった。「停電だ」と夫が言った。「すぐにつくさ」などと話していたが、30,40分経ってもつかない。家中がゆれるほどの暴風雨が早朝から続いているのだ。
 食洗機と洗濯機は途中でストップ。暖房も給湯器も使えない。とりあえず掃除でもと思ったが、掃除機も使えないことに気づいた。それどころか、仕事の予約を受ける電話がまったく機能していないのだ。
 以前に使っていた小さなガスストーブがあったので寒さは何とかしのげたものの、何をするにも電気がなければできないのである。携帯電話で知人宅も同じ状況だと知り、いくらか安心した。夫がつけた緊急時の手巻き式ラジオで「復旧の見込みがない」と分かったのは11時過ぎだっただろうか昼食は冷凍庫にストックしておいた食パンをストーブの前に置いて解凍できたのだが、お湯を沸かすにもIHクッキングヒーターではどうすることもできない。不安定なガスストーブの上で2杯分のお湯を沸かしてコーヒーを入れた。1時過ぎ、停電が長期化したときのことを考え、夫が食糧を調達に出かけた。信号はストップ、どの店も閉まり、唯一コンビニの前だけがにぎわっていたそうだ。みんな考えることは同じ、食料はほとんどなくなっていて、それでもから揚げやパスタ、カップ麺などをびしょ濡れで調達して来てくれた。4時半過ぎだったろうか、テレビがついた。飛び上がるほどうれしかった。電気が復旧したのである。
 オール電化に甘んじていた我が家、電気のありがたさがしみじみ分かった年末の一日であった。



霜月

アケビの実ぱっくり割れて下がりたる雑木林の木漏れ日の中

笊の中に背比べして盛られいるドングリの実のひんやりと秋

球根の向きを揃えてプランターに夢を託せり あき澄める日に

聞いちゃった内緒話を ランドセル背負いし子らと行き交う路地に



 よほどの悪天候でなければ、同じ時刻に同じ道をターシャと歩く。ほとんど同じ人たちと行き交う。決まって挨拶を交わす人、いつもつっかけを引きずるようにして歩く人、二匹のワンちゃんを連れてターシャに声をかけてくれる人・・・。そして四、五人の小学生。
 この子供たちの前になり、後ろになりして歩いていた朝のこと。「ね、○○先生が好きなんだよ。でも、誰にも言わないで!」と言ったかと思うと、キャッキャッと駆け出して行った。なんともほほえましい子どもたちだろう。つい、ニコニコ顔になりながら、つられて早歩きになったターシャに合わせて坂道を一気に下った。

指先のつんと冷え染むこの朝 風は静かに冬を連れくる
(ゆびさきの つんとひえしむ このあした かぜはしずかに ふゆをつれくる)

 いよいよ冬将軍の到来。手袋とマフラーをつけ、身支度を整えて「ターシャ、さあ、出発!」。冷気をごくりと飲み込んで耳を澄ますとかすかに聞こえる。すっかりはを落とした木々の梢を渡る冬の風音が。



神無月

雲海の中の富士山登り行く3200メートルの大地しかと踏みつつ

富士山の山頂近しと励まされ砂礫の上に一歩また一歩

富士山頂より吾を呼ぶ声へふらふらと船酔いのごとき体を運ぶ

ご来光眼裏いっぱいに富士山頂かすかに温き朝日をつかむ

夫の夢今し遂げたり 浪々と富士山頂に吟じゆくなり

(8月28,29日 富士登山)


 「私よ、ちょっとおしゃべりしない?」
 ターシャと散歩を兼ねて買い物に出かけようとしていたら電話が鳴った。「まあ、先生!ちょっとご無沙汰でしたね」それから小一時間も電話の前で立ったままのおしゃべりとなった。お互いの近況を交わしてから、先生は俳句、私は短歌を作ったときの気持ちを話し合う。「はい、分かります、その気持ち!」「でも、それちょっとヘンじゃない?」
 「今ねコスモスが満開よ」と窓外のようすを話されながら、先生の 風呂敷包み 秋桜(あきざくら)と1句を披露してくださった。うわあっ!思わずもらした溜息で受話器を落としそうになってしまった。遠い日の学生時代の思い出がよみがえってきて・・・。
 今度は私の愚作を。入りくる風はもう秋風鈴を小さく鳴らしてまっすぐに風  「まあ、まっすぐに風がいいわね。あんたらしくって」との感想をいただいた。
調子に乗って愚作をもうひとつ。取り出だす吾のてするり夫の湯飲み床へ落ちゆくまでの沈黙 笑い声とともに「ネッ、それで割れたの?」「いいえ、それが割れなかったんです」「まあ、それって割れなくて良かったね。あんた、怒られずにすんだもの」
 よき恩師にめぐり合えて、「幸せもの」だとしみじみと思うこのごろである。



長月

松虫草
写真:薄い紫の松虫草、花の大きさは3〜4センチ

満月を指さす吾娘の手をたどりかそけき夜気へ癈いし眼こらす
(まんげつを ゆびさすあこの てをたどり かそけきやきへ しいしめ こらす)

「十五夜お月さん見て跳ねる」口づさむ夫の後 盲導犬ぴょんぴょん吾を案内す


詩  「満 月」
  まっすぐに伸ばされた小さなてをたどり
  小さな目と同じ高さに腰をかがめて
  わずかに残っている視界に
  たしかに見たのです

  ひんやりと透きとおり
  失明の際に見た街灯のように明るく
  笑みを浮かべた母の顔のようにマルク
  それは閉ざされていた光の扉に映ったのです

  小さな両手で作られた満月のかけらが
  幾重にも重なってゆれていました

 満月を思い出しながら、ターシャと静かな夜道を歩いてきました。虫の音とターシャの足音だけの静かな夜でした。きっと、大きなお月さんが私たちを見守っていてくれるのですね。



葉月

眠りたる吾子の口元ま探ればミルクに濡れてやわらかきかな

潮騒の聞こゆる幅に眼裏へ海をひろげて砂にすわりぬ
(しおさいの きこゆるはばに まなうらへ うみをひろげて すなにすわりぬ)

いず方の村の祭りか故郷の降り立つ駅に遠花火聞く
(いずかたの むらのまつりか ふるさとの おりたつえきに とおはなびきく)

枝豆を露店に座り売る老いのかたき手に触れつり銭もらう

紅筆を幼き指に持ちかえつ吾娘は口元描きてくるる
(べにふでを おさなきゆびに もちかえつ あこはくちもと えがきてくるる)

点灯のかすかな音のさやけくて佇む部屋に秋立つらしも
(てんとうの かすかなおとの さやけくて たたずむへやに あきたつらしも)

 言い尽くされた言葉ではあるが「月日の流れは速い」を痛感している。父と弟の墓参を済ませ、すっかり小さくなった母に会ってこの年のお盆も過ぎようとしている。
 弟の車に乗せてもらい、増改築直後の故郷に帰省した。その真新しい対面式のダイニングキッチンに、椅子とテーブルという洋風なスタイルで食事をいただいた。そのそばの小さなちゃぶ台で86歳の母は黙々と食事を取っている。
「若いもんのいうことを利いていれば間違いない」とでも言うかのように私たちの会話に入ってこない。否、入れないほどに老いたのだ。そう思うと無性に母の手料理がなつかしく思い出される。幸いなことに庭先や玄関、茶の間、仏間、居間などの作りはそのままになっていて、幼いころの思い出がいっぱい残されている。食後、母と並んで蝉時雨を聞きながら稲田の風に吹かれ、しばらくその思い出に浸っていた。
 こんな気分に触発されたのでしょうか、今月の三十一文字は昭和50年ころのページにしてみました。



文月

あじさい
写真:薄い水色のあじさいの花

 いつも歩く市場通りに、近くの小学生が作った七夕飾りがいくつも下げられている。ときどき短冊や笹の葉が顔にかかったりすると、見えない私にはうれしくて「笹の葉さーらさら、軒端に揺れる・・」などと口づさみながら今年も早朝散歩を楽しんでいる。
 一大決心をして北海道盲導犬協会に入所したのは7年7月7日、七夕の日だった。そこで出会ったパートナーのシェル号、ターシャ号の誕生日はこの月の13日。今、こうして出かけたいときに出かけられることの幸せに感謝し、文月はページの許す限り「盲導犬との日々」にしよう。

シェル号の眼は澄みているとう指導員に渡されしハーネスしかと握りぬ
(シェルごうのめは すみているとう わたされしハーネス しかとにぎりぬ)

盲導犬持ちて初なる買い物は夫の好みしビーフステーキ

自己紹介パートナーの名告ぐるときユーザーは皆やさしき声す
(じこしょうかい パートナーのな つぐるとき ユーザーはみな やさしきこえ す)

盲導犬の高さに吾も腹這いて炎天の歩道の照り返し覚ゆる

アイマスクの体験歩行終えし子らに盲導犬座らせ盲いを語る
(アイマスクの たいけんほこう おえし こらに もうどうけんすわらせ めしいをかたる)

新調の玄関マットに長々と四本の足伸ばして盲導犬は

七年を使い来し食器おろおろと洗うシェル号リタイヤの朝

「ありがとう一緒にいっぱい歩いたね」頭撫でつつハーネス外す

シェル号よ鳴け吠えろ さようなら抗う足音耳に刻みぬ
(シェルごうよ なけ ほえろ さようなら あらがうあしおと みみにきざみぬ)

ビロードのような毛並みのターシャ号今日から一緒に「さあ歩こうね」

ぴったりと寄り来るターシャに従いて心新に訓練受くる

路地ごとに止まるを誉めて新しき盲導犬ターシャと心通わす

追い越してまた追い越され子供らと盲導犬と吾と朝の通学路

虫の音を耳にたどりてターシャ号の歩み促す暮れ早き路地に
(むしのねをみみにたどりてターシャごうの あゆみうながす くれ はやきろじに)

「お母さんをよろしくね」ターシャの頭撫でながら娘は嫁ぎ行く時雨降る日に

尾をたたみ耳をたたみて眠りいる盲導犬は犬に戻りて

動かざる盲導犬の足下を探れば柔らかく花が群れ咲く

盲導犬伴いて乗ればバスの中犬の話題のしばらく続く
(もうどうけん ともないてのれば バスのなか いぬのわだいの しばらくつづく)



水無月

すいれん
写真:桃色のすいれんの花

昨夜の雨足らいてすがし緑風の山に向かいて登山靴履く
(よべのあめ たらいてすがし りょくふうの やまにむかいて とざんぐつはく)

木の肌に触れつつ吾も木となりて風に吹かるるブナ林の中
(きのはだに ふれつつわれも きとなりて かぜにふかるる ブナりんのなか)

しばらくは欅の下に佇みて若葉を揺らす風の音きく
(しばらくは けやきのもとにたたずみて わかばをゆらす かぜのおと きく)

うっそうと椛茂れる庭園の木漏れ日揺らし初夏の風過ぐ
(うっそうと もみじしげれる ていえんの こもれびゆらし しょかのかぜ すぐ)

風の辻三つ超え来て信号を渡れば我が家 盲導犬促す
(かぜのつじ みっつこえきて しんごうをわたればわがや  もうどうけんうながす)

 ついこの前のこと、耳なれない鳥の鳴き声に目を覚ました。それはまるで音声信号機にそっくりなカッコウの鳴き声だった。最初は耳を疑ったが、同じパターンで「カッコ、カッコ」と繰り返される。近づいてはまた遠のき、朝に弱い私でさえ、すっかり目覚めてしまった。
 このけたたましい鳴き声の正体を直に聞くため、いつもより速い散歩に出た。そのカッコウは、毎年訪れるコースをけたたましく鳴きながら飛び交っているようだった。
 近ごろ、カラスの鳴き声が変わってきたと思う。少し前までは、童謡にも歌われていたようにかわいさがあった。それがこのごろは恐ろしいほどにふてぶてしくさえ聞こえる。ターシャと歩いている真上をだみ声で鳴き交わしながら飛び交うこともしばしばである。
 初夏の風を全身で感じながら歩く6月。さわやかな緑風は、またすんだカッコウの初音やかわいいカラスの鳴き声を取り戻してくれるのだろうか。



皐月

ぼたん
写真:赤いぼたんの花

囀りを明るく真似て口笛の子は陽の匂い持ちて帰り来
(さえずりを あかるくまねて くちぶえのこは ひのいおいもちて かえりく)

ななかまど色づくころにまた来よと母の引き寄す葉のやわらかし
(ななかまど いろづくころにまたこよと ははのひきよす はの やわらかし)

青空を肌で確かむベランダにもたれて癈いし眼をしばたたく
(あおぞらを はだでたしかむ ベランダにもたれて しいし めをしばたたく)

しばらくは欅の下に佇みて若葉を揺らす風の音聴く
(しばらくは けやきのもとにたたずみて わかばをゆらす かぜのおと きく)

ブナ林の大樹の木肌に耳当つれば若葉の息吹く音が聞こゆる
(ブナりんの たいじゅの きはだにみみあつれば わかばのいぶく おとがきこゆる)

つやつやと晴れたる朝葉桜のさやげる音の思いまぶしき
(つやつやと はれたるあした はざくらの さやげるおとの おもい まぶしき)

 満開の花の下にひっそりと出番を待っていた木の葉。桜前線が次の地へ移りはじめるころ、若葉は一斉に萌え出す。雨上がりの朝など、天に向かって伸びゆくその音が聞こえるようだ。柔らかな葉は、風を生み小鳥を遊ばせる。そして天と地のエネルギーを吸いながら存分に枝葉を張り、野も山も緑で覆い尽くす。まさに五月はやがて来る夏の暑さを遮るための準備をしている季節なのだ。



卯月

福寿草
写真:福寿草

かたくりの花に触れつつ色問えば「母さんのセーターとおんなじ色よ」
(かたくりのはなにふれつつ いろとえば 「かあさんのセーターと おんなじいろよ」)

花びらそらし光のなかに乱舞する春の妖精かたくりの花
(はなびらそらし ひかりのなかにらんぶする はるのようせい かたくりのはな)

沈丁花の香り漂う裏通り軽き靴音追い越し行けり
(じんちょうげの かおりただよう うらどおり かろきくつおと おいこしゆけり)

盲導犬ターシャの眼にも映るのか桜の香降りくる上を見ている
(もうどうけんターシャのめにも うつるのか はなのかふりくる うえをみている)

手のひらに頬に花びら流れくる今日のそよ風桜色して
(てのひらに ほほに はなびらながれくる きょうのそよかぜ さくらいろして)

葉の中の堅きつぼみのチュウリップ だあれにも言えない秘め事かくす
(はのなかの かたきつぼみのチュウリップ  だあれにもいえない ひめごとかくす)

 この時季になると、父が摘んできてくれたたった一本のかたくりの花を思い出す。私の視力がどんどん落ち始めていたころのこと。コップに入れながらその花の色を保育園から帰ってきた娘に尋ねた。しばらく考えてから「お母さんのセーターとおんなじ色よ」と応えた。それは、自分の視力で選んで買った最後の洋服。襟に真っ白な雪の結晶が編み込まれていたお気に入りのセーターだった。
 最近はそのかたくりの花を訪ねて早春の山へ出かけるようになった。今年は裏弥彦に案内してもらった。雪割草やかたくりが満開の中を中腹まで登り、山頂近くからは残雪を踏みながら進んだ。
 あれから随分と年月を重ね、娘も巣立ち、父も他界した。そして私はあのころの父の齢に近づきつつある。あと何回、このかたくりの群咲く早春の山に登れるだろう…。そんなときになったら、今度は「お母さんのセーターとおんなじ色よ」のセーターを編むことにしようかしら…。



弥生

桃と水仙の花
写真:桃畑の水仙

萌え出ずる水仙の芽はつんつんと吾の手に触れて命ま愛し
(もえいずる すいせんのめは つんつんと あのてにふれて いのち まかなし)

桜草咲く花鉢を購いて花の香揺らし日だまり歩む
(さくらそう さくはなはちをあがないて はなのかゆらし ひだまりあゆむ)

ふり仰ぐ頬に一瞬風花は冷たさ残しはやも消えゆく
(ふりあおぐ ほほにいっしゅん かざはなは つめたさのこし はやもきえゆく)

軽やかに朝の気揺らし響きくる埠頭の汽笛春めきにけり
(かろやかに あさのきゆらし ひびきくる ふとうのきてき はるめきにけり)

青き空目には見えねど吾を包む日差しに春の光覚ゆる
(あおきそら めにはみえねど われをつつむ ひざしにはるの ひかりおぼゆる)

亡き父に似たる大きな咳払い春の彼岸の故郷の駅
(なきちちに にたるおおきなせきばらい はるのひがんの ふるさとのえき)

 3月になっても凍てつく日が続き、なかなかこのページを記す気になれなかった。ようやく十日経った今日、厚いコートを脱ぎスニーカーで早朝散歩を楽しむことができた。埠頭の汽笛も心なしかのびのびと聞こえ、思わず背伸びをしてしまった。「やよい」とはなんと柔らかな響きだろうなどと思いながら。
 あたたかな日差しに誘われ、プランターや鉢植えを見回ってちょっと遅い「春」に触れてみた。つんつんとした球根の芽、葉の陰にみつけた堅い椿のつぼみ。冬の寒風にもめげずに咲き続けていたビオラ。沈丁花のつぼみがふっくら膨らみ、今にもあの甘い香りとともに咲き出しそうだ。枯れた葉の下にクリスマスローズの花芽をいくつもみつけたときは嬉しかった。これは早春に咲く花の中で私が一番好きな花だから。柔らかな雑草がもう伸び始めていたが、なんだか「春の息吹き」を握りつぶすような気がしてしばらくこのままにしておこう。「やよい」という柔らかな優しい響きにあやかって…



如月

冬の里山の風景
写真:冬の里山

十字路を盲動犬と渡りたり音消して雪はひたに降り積む
(じゅうじろを もうどうけんとわたりたり おとけして ゆきは ひたに ふりつむ)

片栗粉つまんだような感触のこくこく寒の雪踏みしめる
(かたくりこ つまんだような かんしょくの こくこく かんの ゆき ふみしめる)

ほつほつと雪踏む夫の足音に吾が音重ね路地歩み行く
(ほつほつと ゆきふむ つまのあしおとに わがおと かさね ろじ あゆみゆく)

ハーネスに伝いくる若き犬の力雪降りしきる路地歩むとき
(ハーネスに つたいくる わかきいぬのちから ゆきふりしきる ろじ あゆむとき)

しんしんと雪降る夕べしんしんと毛糸編み継ぐ糸玉転がし
(しんしんと ゆきふるゆうべ しんしんと けいと あみつぐ いとだま ころがし)

 雪の積もったあさ、ゆっくりゆっくり歩く。道路の段差や凹凸、周囲の音や空気の流れなどで描いている頭の中の歩行地図も、雪はうばってしまうのだ。張りつめた空気を切って、いつもの散歩コースを間違わないように。盲導犬ターシャが踏み締める雪の音と、私の踏み締める長靴の音が作る小気味よいリズムを楽しみながら…。
 先月末から大寒気団が襲来し、この新潟市でも20センチほどの積雪となった。 一日中粉雪が舞い冷え込みも厳しくなった夕方、窓から外を見ていた夫が独り言のようにつぶやいた。「雪が降るときは、空が明るいよな」と。言われてみれば確かにそんな記憶がある。子どものころマントにくるまって降りしきる雪道を通学していたときも、積もった雪を踏み締めながら買い物に出かけたときも、見上げた空はいつも明るかった。子どもながら不思議に思ったものだった。雨の日の空は昼でもどんよりと暗いのに。雨は水色、雪は白。こんな表現に疑いを持つこともなく絵日記を書いていた幼いころが懐かしく蘇ってくる。
見えし日の色鮮やかに蘇るたとえばくつくつ踏み締める雪



睦月

太く長く汽笛響かせ埠頭より新しき歳の明くるを知らす
(ふとくながく きてきひびかせ ふとうより あたらしきとしの あくるをしらす)

 新年あけましておめでとうございます。
 日中のあわただしさから解放され、去年と今年の狭間に立ち、心静かに埠頭から聞こえる汽笛に手を合わせる。このひとときが「生きている」という実感と安らぎをかみしめることのできる私の至福なのです。この町に住んで幾度、この汽笛に手を合わせ、家族そろって暮らせる健康に感謝してきたことでしょう。
そして毎年、三十一文字にこの感動を託すのですが、どの年の短歌にも満足できずにいるのです。停泊している船から一斉に放たれる汽笛は、新しい歳の空へ、世界へつながる海原へと響き渡り、またこの町にも……。

のびやかに夫の吟詠流れゆきうからら集う新たなる歳
(のびやかに つまのぎんえいながれゆき うかららつどう あらたなるとし)

途切れたる母の話の次を待つ鉄瓶の湯のたぎる炉端に
(とぎれたる ははのはなしのつぎをまつ てつびんのゆの たぎるろばたに)

いろり端上座に父の声やさし子や孫の名をときに違えて
(いろりばた かみざにちちの こえやさし こやまごのなを ときにたがえて)

 まだ子どもたちが小さかったころ、実家で祝った新年は楽しいものでした。いろりを囲んで、親、子、孫が集うのです。酔いがまわるときまって 父は夫の吟詠を聞き、漢詩の講釈をしたものでした。年を重ねる毎に子どもたちも成長し、上座を占めていた父も他界して、今では姉弟老夫婦のみの席となりました。

「おばあちゃんになったのよ」と沿え書きの点字の賀状繰り返し読む

胸熱く書きたる一枚もさり気なく賀状に束ねし若き日ありき

逝きし人の名は瞬時にて消されたるワープロは速やかに賀状刷りゆく

 元日の朝、お雑煮を作っていると、若い元気な足音とともに賀状の束が届く。胸をわくわくさせながら、娘が読んでくれる声に耳をかたむけるのです。年毎に新しい人との出会いがあり、そして新しいメッセージの交換が生まれる。昨年までは娘に読んでもらっていた人の賀状が、今年は点字になっていて、その人の優しさに心打たれました。

ワープロのファイル「十七年」と入力し新しき年の日記を開く
固有名刺思い出せずに立ち止まる新春番組のテレビの前に

 今年もよろしくお願いいたします。

これで平成17年の短歌のページを終わります。
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