平成16年の短歌
師走
写真:シクラメン
ハイウエイ クワーンクワーンとひた走るリクライニングにまどろみている
(ハイウエイ クワーンクワーンと ひたはしる リクライニングに まどろみている)
10,23中越大震災により上越新幹線の運行も完全に復旧していない11月下旬、 郡山駅まで高速バスを利用し、東北新幹線で鬼怒川への旅をしました。バス、電車と乗り継いでの一人旅はちょっと不安でしたが、ハイウエイをひた走る軽やかなバスのエンジン音と、小春日和のぬくもりにすっかりまどろんでしまいました。足下ではパートナーのターシャも気持ちよさそうに眠っています。
父詠みし碑の短歌なぞる間を我が盲導犬は伏せて待ちおり
(ちち よみし いしぶみのうた なぞるまを わがもうどうけんは ふせてまちおり)
ふりかえり振り返りつつ通り過ぐ父の碑雨に暮れゆく
(ふりかえり ふりかえりつつ とおりすぐ ちちのいしぶみ あめに くれゆく)
五頭山麓の「やまびこ通り」には約250余の碑が並んでいます。その中に亡き父の 短歌碑もあります。小雨から本格的な雨降りとなった10キロのウォークも今年の楽しい想い出の一つとなりました。
ハーネスに結ばれし絆握りしめゼブラゾーンの流れに乗りぬ
(ハーネスに むすばれしきづな にぎりしめ ゼブラゾーンの ながれにのりぬ)
夕方の駅前通はさすがににぎやかです。大きな交差点を渡れば、バス停がすぐそこに。 ターシャとゼブラゾーンを渡る人たちの流れに乗りながら、頬に感じる風はすっかり冬 の感触。
盲導犬のゆまり終わるまで濡れて待つしっとりしとしと山茶花梅雨に
(もうどうけんの ゆまり おわるまで ぬれてまつ しっとりしとしと さざんかつゆに)
いつもの散歩道でターシャが決まって小用をする一角があります。時雨の降る朝 「さざんか山茶花咲いた道…」などと口ずさみながら浮かんでくるのは故郷の路地に咲いていた赤い山茶花なのです。
「おはよう」の挨拶交わす愛犬のふりふり尻尾が冬の気誘う
(「おはよう」の あいさつかわす あいけんの ふりふりしっぽが ふゆのき さそう)
人なつっこくすり寄ってくるターシャ。懸命に振るしっぽが朝の冷気をかき回しいち 早く冬を連れてくるように思えるのです。これからは忙しない年末、そして訪れるのは 柔らかな日射しの春。そしたらターシャ、またいっぱい歩こうね。
霜月
もう少しこのまま歩みたき思い小春日和の落ち葉敷く路
(もうすこし このまま あゆみたきおもい こはるびよりの おちば しくみち)
公園の日溜まりにかさっと散る紅葉風の奏でる秋の音聴く
(こうえんの ひだまりに かさっとちるもみじ かぜのかなでる あきの おときく)
節くれの指ににじます化粧水の香りほのかに秋深みゆく
(ふしくれの ゆびに にじます けしょうすい かおりほのかに あき ふかみゆく)
盲いても手元見つむる癖ありてさわさわと柿の皮むき終ゆる
(めしいても てもとみつむる くせありて さわさわと かきのかわ むきおゆる)
火加減を少し弱めて秋刀魚焼くそろそろ夫の帰り来るころ
(ひかげんを すこしよわめて さんまやく そろそろつまの かえりくるころ)
二枚になったカレンダーがヒーターの風で微かに揺れている。今年はいったいどうなってしまったのだろう。三条市周辺を襲った集中豪雨による大水害、記録的な猛暑、十を数えるほどの台風襲来の爪痕はいまだに生々しい。相次いで人里に出没する熊の話題、そして今、なお余震の止まない10.23中越大震災…。
日が経つにつれ中越大震災の被害が明らかになり、その惨事に心が痛む。大自然の破壊力にうち勝つことのできない人間の無力さ。故郷の山古志村を失い、その上、自力で建てた家も全壊してしまった友人。一週間も家族バラバラで避難所暮らしをしていた級友の話。ようやく携帯が通じた知人は、今も起こる大余震で「夜がこわい」「もうくたびれて何もやる気がしない」といっていた。まもなくやってくる冬、被災地は豪雪地域でもあるこ
とを思うと、ひたすら復興を願うのみである。
二週間経った今、救助活動に被災地へ駆けつけるボランティア。全国から届けられる救援物資。街角で募金を呼びかける学生。団体やグループで義援金募金口座が設けられた。それぞれの立場で自分にできる活動が展開されている。この力こそ、大自然の破壊力でさえ立ち向かうことのできない人としての「真心」なのだと思う。旅人にコートを脱がせた太陽のように…。
同じ県内でありながら私の住む下越地域、新潟市は何の被害もなく、平常な生活が保たれています。そして、大自然はいつものように優しく晩秋のたたずまいを映しているのです。ようやく今日、この幸せに感謝しながら霜月の愚作を載せる気持ちになりました。
神無月
写真:秋桜
つづれさせつづれさせさせ夕暮れを鳴く蟋蟀にせかされている
(つづれさせ つづれさせさせ ゆうぐれを なくコオロギにせかされている)
虫の音を耳にたどりて盲導犬の歩み促す暮れ早き路地に
(むしのねをみみにたどりて もうどうけんの あゆみうながす くれ はやきろじに)
想い出は胸内深く静もりて記憶を誘う木犀の香よ
(おもいでは むなうちふかくしずもりて きおくをさそう もくせいのかよ)
松ぼっくり手に遊ばせて山間の暮れゆく秋の音を聴き入る
(まつぼっくり てにあそばせて やまあいの くれゆくあきの おとをききいる)
コスモスの色眼裏に揺らしつつ群れ咲く斜面の風に吹かるる
(コスモスのいろ まなうらにゆらしつつ むれさくなだりの かぜにふかるる)
日中の日射しのぬくもりを微かに残しながら暮れてゆく十月。日一日と日暮れが早くなる季節。まして雨降りの日など、あまりに早い日暮れに心細くなってしまう。門灯を点けに降り立った玄関の片隅でコオロギが鳴き始めた。幼いころにいつも聞かされた母の言葉が聞こえてくるようだ。
「ほら、こおろぎが鳴き始めた。じっき寒くなるすけ、着物のほつれを直せと催促してるんだよ」と。今の時代は洋服のほつれを直して着ることもないけれど、タンスの中は半袖と長袖がごちゃ混ぜになっているし、網戸やカーペットも夏のママ。プランターや鉢物も冬の準備をしなければ・・・などと急にせかされてしまうのになかなかその気分になれない。
台風もことなく過ぎ、久しぶりに秋晴れが戻ってきた。ぱりっと乾いた洗濯物を取り込み、夕食の仕度までにはまだ少し間があるので買い物がてら散歩に出かけよう。ターシャはそんな私を見抜いていたかのように、ハーネスを付けると勢い良く歩き出した。
市場へ行く手前で思わず立ち止まってしまった。あの木犀の香りがふわあっと漂っているのだ。今朝ここを歩いたときにはなかったのに…まだ淡い香りだから二、三日もしたら町のあちこちにこの香りが漂うことだろう。急に立ち止まった私の足下でしっぽを振っているターシャ、「朝もこの香りがしていたよ」とでも言いたそう。
庭先でコスモスの花が揺れ、木犀の香りが漂い、私の生まれた十月、しんみりと郷愁を誘われるのである。
長月
蝉時雨して静かに暮れゆく故郷の裏庭に吹く風ははや秋
(せみしぐれして しずかにくれゆく ふるさとの うらにわにふく かぜは はや あき)
住み慣れし町並み眼には見えねども握るハーネスに秋冷覚ゆ
(すみなれし まちなみめにはみえねども にぎるハーネスに しゅうれいおぼゆ)
潮騒を遠く聞きつつ朽ち葉踏み登り詰めれば潮の香のする
(しおさいを とおくききつつ くちばふみ のぼりつめれば しおのかのする)
薄の穂藪蘭の花柏の実盲いの吾の指に知る秋
(すすきのほ やぶらんのはな かしわのみ めしいのわれの ゆびにしる あき)
意を決し盲いの吾も蛇を見ん 蛇は素直にほにょほにょ触らす
(いをけっし めしいのわれも へびをみん へびはすなおに ほにょほにょ さわらす)
とにかく暑かった夏も8月に入って間もなく涼風が感じられるようになった。
お墓参りに訪ねた田舎も蝉時雨と虫の音が入り混じり、稲田を渡ってくる風はじっとしていると肌寒いくらい。すっかりまるく小さくなった母と縁側に並んで腰をかけ、子どものころのことを繰り返し話してくれるのを聞いていると、なんだか夏から秋へと移りゆく自然に向き合っているような気がしてならなかった。四季の移ろいが半月ほど早まったように感じるのは私だけだろうか。
先日、県自然科学館主催の自然観察会に参加し、国上寺周辺や五合庵、岩室の白岩などで一日楽しんだ。蝉の脱け殻の入ったフイルムケースをバスの中でいただいた。こわさないように注意深くその脱け殻に触ると、子どものころに見付けて遊び回ったことが懐かしく蘇る。
国上寺周辺を散策しているとき、観察員が蛇を捕まえられた。「見てください。大丈夫ですから」と勧められたが、想像するだけで身震いがする。付き添いが「80セ
ンチくらいでまだ子どもの蛇みたいね」などと教えてくれた。「大丈夫ですから、見えない方は触ってください」とまた声がする。「そうだ、見えない私にとってみるということは触ることなのだ」とふっと好奇心が首を持ち上げた。
だが、あのにょろにょろした不気味な蛇に触るなんて…しかし、いったん首を持ち上げた好奇心をどうすることもできない。意を決し、深呼吸してからこわごわ手を伸ばし
、その蛇に触った。「ここがお腹、ちょっと柔らかいでしょう。それから、ほら、しっぽ」意外にもおとなしく、触感も悪くない。続いてしっぽから頭に向かってなで上げるとざらざらした感触が指先をついた。一瞬しっぽがぴくりと動いた。「うわあっ、もうこれが限界」と思わず後ずさり。こんな体験は一生に一度でたくさんだと、まだ触感が残っている手を思い切り振った。
葉月
写真:朝顔
研ぎ水の澄むまで研げと教わるる見ゆる日ありき 黙し米研ぐ
(とぎみずの すむまでとげと おそわるる みゆるひありき もだしこめとぐ)
子どもらの遊びし後か手花火の匂い残れる路地帰り行く
(こどもらのあそびしあとか てはなびの においのこれる ろじかえりゆく)
盲導犬ターシャの伸ばす鼻先をたどれる指に朝顔の咲く
(もうどうけんターシャの のばす はなさきを たどれるゆびに あさがおのさく
真っ新な空気切りつつ盲導犬と早朝ウォーク 風の生まるる
(まっさらな くうき きりつつ もうどうけんと そうちょうウォーク かぜの うまるる)
ハーブ園の香り集めて流れくる風の行方を想いていたり
(はーぶえんの かおりあつめて ながれくる かぜのゆくえを おもいていたり)
結婚して初めての夏、夫の実家へ墓参に帰ったときのことです。男の子しか恵まれなかった義母は、初めての嫁の私をかわいがってくれ、あれやこれやと手を取って教えるのです。その一つがお米の研ぎ方でした。海と山に囲まれた小さな漁村で暮らす義母は、たくましく朗らかな人でした。今、町の生ぬるい水道水で米を研ぎながら、あの冷たい井戸水とともに義母のことが思い出されるのです。
そんな義母が孫に会いに、大きな荷物を持ってよく来てくれました。「さあ、おばあちゃんが花火あげてやるよ」と子ども達と一緒になってはしゃぐのです。この花火遊びをしてやることは、視覚障害の私たち夫婦にとって本当にむずかしいことでした。
猛暑続きを嘆くのも、一年365日からみればわずかな日数です。そう言い聞かせながら、涼しいうちに盲導犬ターシャとウォーキングで一汗流してから、草花に水やりをするのが夏の日課です。「あれっ、ターシャなにしてるの?」匂い取りをしている仕種をたしなめていると、柔らかい物が手に触れました。「まあ、大きな朝顔。一番咲きを教えてくれたのね」ちくちくした葉の中の大輪の花は、昨年、総合学習で訪ねた小学校からいただいてきた「命のあさがお」なのです。
文月
登校の娘が戻り来て庭先の百合が咲きしと告げてかけ行く
(とうこうの こがもどりきて にわさきの ゆりがさきしと つげてかけゆく)
両の掌に蛍を包み盲い吾の闇へ一つの灯りをともす
(りょうのてに ほたるをつつみ メシイあの やみへひとつの あかりをともす)
夜の更けにエンジェルたちが吹きそうなトランペットの大輪開く
(よのふけに エンジェルたちがふきそうな トランペットの たいりんひらく)
梅雨が明けたような明けないような、真夏のような暑い日があるかと思えば、梅雨寒の日があったりでなかなか複雑な月です。でも、木々は鬱蒼と茂り、草花も夏の花が咲き始めています。
朝、掃除をしていると決まって思い出されるのが、最初の百合の短歌です。まだ子ども達が幼かったころ、鉢植えの草花を育てる楽しさを覚えました。「忘れ物なあい?」と念を押す私に「行って来ます」と元気に飛び出した娘が、あっという間に戻って来たではありませんか。
「やっぱり、なに忘れたの?」と振り返る私に「あのね百合が一つ咲いたよ」と嬉しそうに。頼んだわけでもないのに、子ども達は庭先のちょっとした変化を教え
てくれていたのです。その子ども達も巣立ち、今は夫と二人暮らしです。
春に植え替え、丹念に育てている草花も、うっかりするといつ咲いたのか気づかないこともあるこのごろです。
でも、開花を香りで告げてくれる花もあるのです。先日の夜、私のパートナー盲導犬ターシャを寝る前のトイレタイムにと庭へ出たとき、クールな香りが微かに流れてきました。
この香りは昨年たくさん咲いたトランペットの香りに違いないとそうっと触れてみました。トランペットそっくりな形の花が開きかけていたではありませんか。この花は夜に開花し、しかも夜だけ香りがするのです。
五年ほど前に近所の方から一本いただいて、挿し木をして増やしました。寒さに弱いのでダンボール箱に入れ、物置で越冬させます。桜の開花後に植え替えをして育てていますので、開花の瞬間のうれしさはひとしおです。
これで平成16年の短歌のページを終わります。
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