大尾 京都 三条大橋
   京師 三條大橋
 江戸より百二十六里余(約500キロ)、半月以上の泊りを重ね風雪に耐えた東海道の旅もこの三條大橋であがりで、大尾と記されている。三条大橋から見た東山は京都らしい風景として知られていた。
はるかな東山三十六峰の峯々が連なり、山間には寺々の屋根が点在する。緑の山は清水山で中腹に清水寺が見える。大橋には行き交う人々が描かれ、右端には京風俗を示す人々が描かれている。
橋の欄干から一人鴨川の水に見入る旅人が描かれているが、何を思っていたのだろうか。
この三條大橋の絵は橋脚が木製で描かれているが、実際は石作りの橋脚だったそうで、後摺りの絵では訂正されている。

 さて、毛鈎による鮎釣りは京都の公卿の間で楽しまれていたものが、江戸中期元禄の頃、加賀に伝えられ発展したものと聞く。
金沢城下図屏風(部分/鮎ドブ釣りの様子)はじめ京で蠅頭鉤(はえがしらばり)とよばれていたものが、加賀藩で研究改善されて蚊頭鉤(かがしらばり)と呼ばれるようになり、その後「加賀鉤」あるいは「石川鉤」といわれる現在の形になった。
 加賀藩では、鮎毛鉤の作成とそれを用いた鮎釣りは武士だけに許されており、特に毛鉤の作成技法は藩内の秘密とされた。
 明治以降にその制限がなくなり、加賀鉤製作法が播州、土佐に伝えられて鮎毛鉤の三大製作地になったといわれる。
 鮎毛鉤による鮎釣りは、明治〜昭和中期が最盛期で、鉤の種類は最も多いときには二千数百種にもなった。
(アユ毛鉤という呼び方は、昭和30年頃に芳賀故城氏が提唱して一般化したという。それまでは、蚊鉤、加賀鉤、石川鉤などと呼ばれていた。)

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 広重は、江戸は八代州河岸にあった定火消という家職の家に生まれた。
 天保三年(1832年)広重36才の年、家職柄、幕府の八朔御馬献上という行事の共廻りの役に加わって、京に上った。その旅の収穫が「東海道五十三次」五十五枚の錦絵となった。という話しが定説となっていた。
しかし、これは三代目広重が語ったという事だけが伝わっているだけで、それを裏付ける記録は一切無い。
 近年の研究では、広重は東海道を旅したことはないというのが真相のようである。
 いずれにせよ、広重の「東海道五十三次」は傑作中の傑作であることには間違いない。