東海道五十三次 日本橋

    日本橋 朝之景(日本橋の左横の赤い印の中に赤字で刷られている)
 東海道五十三次は日本橋からはじまる。ここから京都・三条大橋までの百二十余里(約500キロ)の道中が始まる。
 朝焼けの空を背景に手槍も勇ましく列を正した大名行列が橋を渡ってくる。その前景に、開かれて間もない木戸のむこうに仕入れを終えた魚屋達が描かれている。
 「お江戸日本橋七つ立ち(朝四時)・・・・・」と謡にある早立ちが普通だったようで、それから二里、高輪に至ってようやく夜が明け始める。
 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が有名になった頃からは、江戸を立つ人々は、わざわざ一度日本橋に寄ってこの長旅の出発点にしたという。 これほんと。?

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       上り唄
お江戸日本橋七つ立ち、初上り。あ々こりやこりや。行列揃えて、あれわいさのさ、こちや、高輪、夜明けの提灯消す。 こちやえ、こちやえ(以下囃子略)
恋の品川女郎衆に、袖ひかれ、のりかけお馬の鈴が森。こちや大森細工の松たけを。
六郷あたりで川崎の、まんねんや。鶴と亀との米まんじゆう。こちや神奈川いそいで保土ヶ谷へ。
痴話で口説は信濃坂、戸塚まあえ、藤沢寺の門前で、こちやとどめし車そ綱でひく。
馬入りわたりて平塚の、女郎衆は、大磯小磯の客をひく。こちや小田原相談熱くなる。
登る箱根のお関所で、ちょいと捲り、若衆のものとは受取れぬ。 こちや新造じゃぢゃないよとちょいと三島
酒もぬまずつゞみ、吉原の、富士の山川白酒を、こちや姐さん出しかけ蒲原へ。
愚痴を由井だす(さった)坂、馬鹿らしや。絡んだ口説きも興津川。こりや欺まして寝かして恋の坂。
江尻つかれてきは府中、はま鞠子、どらをうつのかどうらんこ、こりや岡部で笑はゞ笑わんせ。
藤枝娘のしをらしや、投げ島田、大井川いと抱きしめて、こちやいやでもおうでも金谷せぬ。
十一 小夜の中山夜泣石。日坂の、名物わらびの餅を焼く、こちやいそいで通れや掛川へ。
十二 袋井通りで見附けられ、浜松の、木陰で舞坂まくり上げ、こちや渡舟(わたし)に乗るのは新井宿。
十三 お前と白須賀二タ川の、吉田やの、二階の隅ではつの御油、こちやお顔は赤坂藤川へ。
十四 岡崎女郎衆はちん池鯉鮒、よくそろい、鳴海絞りはの舟、こちや焼蛤をちょいと桑名
十五 四日市から石薬師、願をかけ、庄野悪さをなおさんと、こちや亀山薬師を伏し拝み。
十六 互いに手を取り急ぐ旅、心坂の下から見上ぐれば、こちや土山つゞじで日を暮らす。
十七 水口びるに紅をさし、玉揃ひ、どんな石部のお方でも、こちや色にまようてぐにやぐにやと。
十八 お前と私は草津縁、ぱちやぱちやと、夜毎に搗いたる姥ヶ餅、こちや矢橋で大津入り。

※ 道中唄の歌詞は木村荘八随筆集『東京の風俗』(1949年毎日新聞社 1978年冨山房百科文庫)に収録されているもの。

       下り唄
花のは夜をこめて、逢坂の。あ々こりゃこりゃ。夕つげ鳥に送られて、こちや、名残をしくも、大津まで。こちやえ、こちやえ。
瀬田の長橋打渡り、近江路や、まのの浦風身にしみて、こちや草津石部水口へ。
土山行くのをふりすてて、情山、心細くも坂の下こちや人目のを忍びつつ。
往来をまねくをばな咲く、野尻より、亀山庄野石薬師。こちや追分行くのは四日市
かひを桑名の渡しより、尾張なる、熱田のを伏し拝み、こちや鳴海池鯉鮒の染め尽し。
岡崎通りて藤川の、流れなる、赤坂越えて御油までも、こちや吉田二夕川白須賀へ。
新井の渡船、帆をあげて、扇開いて、舞坂の、こちや浜松越えて見附けらる。
袋井掛川打過ぎて、日坂の、小夜の中山夜泣石、こちや菊川渡りて、袖ぬらす。
いはで焦るる金ヶ谷で、思わずも、花の女郎衆は大井川、こちや二八ばかりの投げ島田
花のゆかりの藤枝に、思ひきや、かかる岡崎真葛原、こちや夢か現か、宇津の女で。
十一 津田の細道はかゆかず、花染の、衣物の袖を振りはいて、こちや鞠子府中の賑ひな。
十二 江尻興津の浜辺より、はるばると、三保の松原右に見て、こちや浮世の塵を薩多坂。
十三 我元由井の乱れ髪、はらはらと、蒲原かけて降る雪は、こちや富士の裾野の吉原へ。
十四 沼津三島への、朝露に、かけ行く先は小笹原、こちや越え行く先は箱根山。
十五 雲井の花をわけすてて、小田原の、大磯小磯を打ち過ぎて、こちや平塚女郎衆の御手枕。
十六 花の藤沢過ぎかねて、神の露、ちぢに砕いて戸塚より、こちや保土ヶ谷までの物思ひ。
十七 思う心の神奈川や、川崎を、通れば、やがて六郷川、こちや大森小幡で鈴ヶ森。
十八 酔いも鮫洲に品川の、女郎衆に、心引かれて旅の人、こちや憂を忘れてお江戸入り。