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著者略歴:
水野貴司
1971年 高槻市に生まれる
大阪学院大学法学部卒
(株)審調社 業務員をへて
外資系損保嘱託調査員
(有)DMB取締役法務調査人
損保・法律事務所依頼事案調査にあたる

取材協力:
2005年9月:TBS「平成の保険の達人」番組製作協力
2006年7月:月刊THEMIS(テーミス)7月号p84にコメント掲載





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保険調査員 小事件簿





第九話
「善意の酒が... 鉄道事故の悲哀」


 歴然たる事実として,人はひとりでは生きてゆけません。できれば,他の人の善意も感じながら生活したいと,だれもが思うことでしょう。しかし,今回ご紹介するのは,家族をはじめ,職場の同僚たちの“善意”が積み重なって起きてしまった,やりきれない事故です。

 A男さんは繊維会社に勤める50代の管理職です。会社では後輩から,面倒見の良い先輩として人気があります。その温厚な人柄は家庭でも変わらず,奥さんもA男さんになんでも打ち明けられる円満な生活を送っていました。ただ,みんなの悩みを聞きすぎたせいか,A男さんの晩酌の量が徐々に多くなっていきました。お酒ぐらいの楽しみは...と大目に見ていた奥さんも,夫が時々手を震わせているのを見てあわてて量を減らしましたが, 医者にみせたところ,重度のアルコール中毒と診断されました。もちろん,通勤もできなくなり,酒をやめるために断酒会にお世話になったりしました。主治医も,酒一滴でも命取りになるから,と厳重に禁酒令を出しました。

 禁酒の苦労の末,ようやく6ヶ月間,一滴もアルコールを口にしないことに成功しましたが,不幸は,ある新年会のシーズンにやってきました。

 A男さんが勤めていた会社の後輩たちが上司に,新年会にA男さんを招待したいと持ちかけたのです。上司たちは話し合い,もはや模範的な社員とは言えないが,その人柄ゆえに出席を認めるという,前例のない決定を下しました。

 知らせを受けたA男さんは久々に仲間に会えるということで喜びました。心配したのは奥さんです。「新年会」と言えばお酒がつきもの。でも夫があんなに喜んでいるんだから,と目をつぶることにしました。夫には一言,「あなた,絶対にお酒はだめよ」

 新年会の日,A男さんは電車とバスを乗り継いでなつかしい事務所に着きました。食堂には,すしやオードブル,おつまみが並び,ビール,日本酒,ウイスキーも勢ぞろい。その向こうに,ずっと会いたかった仲間たちがいました。同僚たちは酔ってくるとA男さんに酒をすすめましたが,A男さんは難なく断り続けました。楽しいひとときが過ぎ,帰り際に,A男さんをあまりよく知らない事務員がA男さんのみやげの箱にそっとカップ酒を2本入れました。A男さんは仲間たちに別れを告げ,バスに乗り,鉄道に乗るために駅のベンチでひとり余韻にひたっていました。

 「楽しかったなー。でもみんなに会えた後のひとりぼっちは,かえってさみしい...」A男さんはふと,もらったみやげの箱に目をやりました。箱の中に,さっきまでの楽しい音楽や笑い声が残っているような気がしてきました。A男さんは箱を開けてみました。サンドイッチと巻き寿司が入っていました。その横に,カップ酒が2本。

 A男さんの記憶はここまでしか残っていません。

 A男さんに意識が戻ったとき,彼は大学病院の中でした。心配そうな家族の顔が少しやつれていて,自分の胴体には包帯がぐるぐる巻かれ,いろんな管が通されていました。家族を安心させなくては,と思ったA男さんは重大な事実に気づきました。自分の右腕が肩の部分から,ないのです!

 保険調査員は事故の事実関係を調べました。A男さんが事故に遭ったのは,降りる予定だった駅でした。休日でほとんど人はおらず,ホームに駅員はいませんでした。A男さんを最後に見たのは,線路上に横たわっている彼を見た列車の運転士でした。その運転士は急制動をかけましたが間に合わず,A男さんをひいてしまったのです。

 保険調査員は事故当時のA男さんの意識状態について意見を求めるべく,搬送された病院と,アルコール中毒治療の主治医に面談調査しました。それらの話を総合すると,重度のアルコール中毒患者の場合,禁酒していてもごく少量の飲酒で,一気に意識を失うことがあるとのこと。

 また,現場のホームは幅がわずか1.5mしかないことも含めると,どうにか列車から降りられたA男さんが,列車が行ってしまった後,足を踏み外して線路へ転落したことが十分に考えられました。きれいな切断であれば接合手術も可能でしたが,列車の轢過による切断の場合,切断面がひどく,砂塵が傷口に入りこんでいたりするため接合は不可能でした。

 自分よりも家族や同僚を大事にしたA男さん。その彼を支え,少しでも癒そうと励んでいた奥さん。先輩への感謝を忘れない後輩や仲間思いの同僚...。だれが悪いというわけでもないのですが,この事故は保険調査員にとって,“リスクマネジメント”にいう,“リスク”とはいったい何なのか,真剣に考えさせる事案となりました。



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