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著者略歴:
水野貴司
1971年 高槻市に生まれる
大阪学院大学法学部卒
(株)審調社 業務員をへて
外資系損保嘱託調査員
(有)DMB取締役法務調査人
損保・法律事務所依頼事案調査にあたる

取材協力:
2005年9月:TBS「平成の保険の達人」番組製作協力
2006年7月:月刊THEMIS(テーミス)7月号p84にコメント掲載





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保険調査員 小事件簿





第三話
「ダイバーの中級意識 ― 日本海はあなどれない」


 7月に入りました。(注;2002年7月に執筆)夏はアウトドアの季節です。みなさんはどのように過ごされますか? スクーバダイビングは,費用がかかっても人気の衰えないスポーツです。海の生き物や海中の神秘の世界を求めて毎年多くのダイバーが潜ります。この時期,保険調査員は“みんながダイビングを安全に楽しめますように”と祈るような気持ちになります。というのも,ダイビングで命を落とした学生のAさんのことを思い出すからです。

 Aさんがスクーバダイビングに強くひかれるようになったのは,大学に入学した最初の夏休みにオーストラリアで潜ったことがきっかけでした。グレートバリアリーフのクリアな海,水色の海を自在に泳ぎ回る魚たち。国内で初めて体験ダイビングをした時とは全くちがうアクアの世界に,Aさんはすっかりとりつかれてしまいました。

 帰国して,学校が休みになると一回は潜るようになりました。和歌山沖や四国沖でも潜りました。Aさんは大平洋ばかりではなく,日本海でも潜ってみたくなりました。ただ,Aさんの気がかりは,ダイビング仲間がいないことでした。潜る時はいつもダイビングスクールに単独で申込み,気のあう仲間を探しましたがすでに仲間ができあがっているスクールが多く,日本海に行こうと思ってからもダイビング友達を求めて今まで利用したスクールとは別のスクールを当たりました。

 当時日本海でのダイビングを企画する業者はそれほど多くなかったのですが,Aさんは海山マリン*という業者が日本海ダイブツアーを企画していることを知り,一人で申込むことにしました。近畿にある海山マリンの事務所を訪れ,代表からツアーの説明を受けました。Aさんは同意し,申込書を記入しはじめました。質問には「あなたのダイビングのキャリアを教えてください。1. 初級,2. 中級,3. 上級」Aさんはしばらく考えた後,2.にマルをつけました。予約金3,000円を払って,当日を待つことにしました。

 8月の炎天下の中,Aさんはひとりで日本海を目前にした田舎町に着きました。用具はレンタルですから海山マリンが現地に持ってきてくれます。集合場所はさびれた小さな漁港。しばらく待っていると,海山マリンのスタッフが機材を満載した車両と共に到着しました。時を同じくしてツアーの参加者たちも続々とやって来ました。今回もAさんは友達になれそうな人との出会いを求めていましたが,やはりこのツアーもできあがったグループが数組で成り立っているようでした。気を取り直したAさんは近くの甲さんに声をかけてみました。話してみると甲さんも一人でこのツアーに参加したとのこと。でも,甲さんがツアーに参加した目的は,友達を作ることではなく,このツアーの目玉である「沈船」でのダイビングを体験することにありました。Aさんは“話が合わないな”と,少しがっかりしたことでしょう。

 そこへこの地方独特のなまりで話す漁師さんがやってきました。そしておもむろに漁港に停泊している自分の船に乗り込むと,「荷物を積んで」と声をかけました。海山マリンのスタッフもみんなに声をかけました。「それぞれ機材のチェックはすみましたか? では,船に乗り込みますが,バディを決めます。Tさんは丙さんと,Mさんは乙さんと...じゃあ,Aさんは甲さんと。」Aさんは,甲さんと一緒に組まれたことにどこか安易さを感じました。それに,いつもよりも機材のチェックが簡単すぎるようにも思いました。

 船に乗り込み,沖合い200mくらいのところまで行きました。船は冬場は漁船ですが,夏は漁師さんの副業としてダイビングツアーの“足”になっています。水面にはブイがありました。「あのブイの下に沈船があります。“沈船”というのはここだけですよ。正しくは“魚礁”と言ってください。“沈船”だと当局の許可が下りないんです。面白いポイントですよ。じっくり楽しんでください。注意事項はいつものとおりです。では,バディごとにどうぞ!」Aさんは心の中で“え? いつものとおりって,それだけ?...”と思いましたが,グループは次々に入水していきます。船と水面に高さがありましたから,背中からバックロールで飛び込んでいきます。Aさんはこの入水方法は1度だけしかしたことがありませんでしたが,なんとか入水できました。船からスタッフがAさんに「大丈夫ですか?」と聞きました。Aさんは「大丈夫です」と言いました。スタッフは船の反対側の様子を見に行きました。「大丈夫です。」これがAさんの最後の言葉になるとはだれも思わなかったでしょう。

 最初に入水したスタッフが船から少し離れたブイのところで人数点呼しました。「Tさん,おられますねー,丙さんもいっしょ...甲さん,Aさんは?」甲さんは答えました。「入水の時から一緒じゃなかったんです。Aさんは私とは反対側からバックロールで...」スタッフの顔が青ざめました。船に残ったスタッフに水面に泡が出ていないか尋ねましたが見当たりません。Aさんの入水から少なくとも10分以上経っています。

 スタッフたちは懸命に水中を探しました。そして約10分後,船の真下で椅子に座ったような姿勢で静止しているAさんを発見しました。水深15mほどのところです。Aさんの口からはレギュレーターが外れていました。スタッフはAさんの後ろから抱えるようにフォローし,スタッフ自身のレギュレーターをフロー状態にしてAさんの口に少しでも空気が入るようにしました。そして,たいへん危険なことではありますが,懸命に急浮上しました。急浮上するとスタッフ自身の肺を傷める可能性があります。

 船の無線で救急車が呼ばれ,船上から救急車,病院に至るまで関係者がリレーで心配蘇生術を施しましたが,Aさんは数日後,病院で亡くなりました。

 保険調査員はこの事故の原因をあらゆる角度から調べましたが,なぜ悲劇が起きたのかははっきりとは分かりませんでした。しかし,船からブイまで移動すれば良かっただけなのになぜAさんが水の深みで発見されたのか。エアもほとんど残っていましたし,Aさんには大きな既往症はありません。もしかしたら,何かを落として自分で拾いに行こうとしたのかもしれません。いずれにしても,保険契約者である海山マリンは,遺族が望めば,責任を追及されるでしょう。ただ,海山マリンの代表は保険調査員にこう話しています。

 「よく誤解されるのですが,ダイビングスクールとダイビングツアーは違うものなのです。スクールは懇切に指導を与え,インストラクターがついて終始見守っていますが,ツアーは基本的に,自分一人で責任を持ってダイビングできる人にスタッフが添乗して案内しているだけなんです。」保険調査員は「Aさんは“中級”に丸をつけておられましたね」と聞いてみました。代表はこう言っています。「後でそれとなく遺族のかたに聞いてみましたが,Aさんは今まで20-30回程度のダイビングしかしていない。私たちに言わせれば,それぐらいの経験ではまだビギナーの段階です。ただ,申し込み時にしつこく参加者のレベルを聞くこともできませんからね。“中級”と言われると,敬意を表してそれなりの扱いになりますよ。ちなみに私は5,000回は潜っています。」

 保険調査員は日本人がよく“中流意識を持っている”と言われることを思い出しました。自分のことを“中くらいである”と考えるのは謙虚なことかもしれません。しかし,自分の力を正確に知ることは非常に大切です。スクーバダイビングが命にかかわるスポーツである割には,客観的な評価基準というのは当時なかったようです。機材だけが進歩しファンの数が増える。事故の原因は分からないものの,もしAさんが自分の技術を“初級で,ビギナーなんです”と伝えていたら,違った展開になっていたかもしれないと思うと,「本当の意味で謙虚になる」ことの大切さを思わずにはいられません。

*名前は変えてあります。



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