JR北陸線の存続と公共交通を考えるシンポジウムの記録
 
 2001年6月16日開催した「JR北陸線・ローカル線の存続と公共交通を考えるシンポジウム」の開会から各パネラーの最初の報告までをシンポジウムの「記録集」から転載します。
 
司会:北村信孝(前呉羽小学校校長、鉄道愛好家)
 昨日、一昨日の雨でアジサイが輝いて見えています。今日は何かとご多用のなか、私たちが企画したシンポジウムにお集まりいただきましてまことにありがとうございました。
 それでは、これからシンポジウムを始めたいと思います。まず始めに、呼びかけ人を代表いたしまして、足洗学園魚津短期大学の奥田教授にご挨拶をしていただきます。よろしくお願いします。
 
主催者挨拶:奥田淳爾(足洗学園魚津短期大学教授、入善駅を守る連絡会会長)
 本日はこのようなシンポジウムを計画したところ、こんなにも沢山の人参加していただき本当に喜んでいます。
 JR西日本はこの経営理念のなかに、「地域に愛され共に繁栄する総合サービス企業となることを目指し、わが国のリーデイングカンパニーとして、社会、経済、文化の発展、向上に貢献します」と謳い、「私たちはお客様に感謝し、お客様の立場で考え、お客様のニーズを先取りし、心のこもった最高のサービスを目指します」と記しています。
 入善駅は、もちろん、入善町にありますが、入善町は人口約3万人、JR入善駅の売上は3億円を超えているはずです。そのJR入善駅を、「JR西日本は子会社にその業務を委託し、夜間は無人化にする」と唐突に町に通告してきました。入善町は町を挙げて、JRによる直営の継続と無人化の撤回を要求しましたが、ついに聞き入れてもらえませんでした。せめて乗降口が凍結したり雪が積もったりする冬期間だけでも社員を配置してもらえないかと何度もお願いしましたが、これもまったく無視されました。
 氷見線、城端線、富山港線に対するJR西日本の姿勢には、同社の崇高な理念はまったく見られません。住民の声を無視してどんどんサービスを低下させています。同社の理念からすれば、住民の要求するサービスを提供する、住民の足を守り、地域を発展させる責務を持っていると思います。
 私たちが在来線の存続に力を注いでいる最中に、北陸新幹線の着工という決定がありました。国家財政が破綻した状況にあるなかで、私は、このような決定がまさかあるとは思いませんでした。
 整備新幹線が計画されたのは、1973年(昭和48年)計画どおりにいけば、その建設に40年の歳月を要することになります。東海道新幹線は4年で開通しました。そして、JR東海は運賃を半額にしても採算が取れるといっています。東京、名古屋、京都、大阪という大都市を結ぶから可能な訳でして、人口30万の富山と僧ケ嶽山麓の小さな駅(新黒部駅)で乗り降りする乗客とでは、桁が一つも二つも違うと思います。
 かつて富山県民のなかには新幹線に対する強い要望がありましたが、しかし、今、新幹線の要望と言うのはどんどん少なくなっています。富山県は県政に対する要望事項を毎年調査しています。平成8年に、新幹線建設という要求は第5位でした。それ以後はベストテンのなかに要求する声は入っていません。国労の調査によれば、新幹線反対という人の割合が賛成という人の割合よりも高いのです。
 新幹線建設の条件は、並行在来線の第三セクター化です。(この先駆けであります)しなの鉄道は、長野新幹線と同時に開業したわけですが、東日本から切り離され莫大な赤字を抱えています。
 幹線を木にたとえれば幹にあたります。そして、その幹というものは根があり、枝があり、葉が茂ってこそしっかりと立っています。せっかく新幹線を作っても地域を荒廃させ、乗客を送り迎えするローカル線を荒廃させては、繁栄するはずがありません。立ち枯れの恐れがあります。
 本日は、東北本線を守る会事務局長の山火さん、立命館大学の土居先生、その愛弟子の岡本先生、鉄道史研究の第一人者の草さん、良心的な労働組合の稲葉委員長をパネラーとしています。
 会場の皆さんの意見も伺ったりしながら、有意義なシンポジウムにしたいと思います。簡単ですが挨拶といます。
 
司会:北村
 ありがとうございました。
 それでは早速ですが、シンポジウムに入りたいと思います。
 シンポジウムの方は、富山大学の奥村教授の方で進めていただきます。それでは奥村先生よろしくお願いします。
 
シンポジウム司会:奥村義雄(富山大学教授)
 富山大学の奥村です。シンポジウムの司会を勤めさせていただきますが、できるだけ内容のある中身の濃いシンポジウムになりますように、また、シンポジウムが円滑に進みますように皆様方のご協力をお願いいたします。
 それでは、早速シンポジウムに移らせていただきます。お手元の資料集の表紙にありますように、まずはじめに5人の方に報告していただきます。報告していただく方々のレジメ、報告用紙を皆さんのお手元に、資料集とは別の形だと思いますが、そろえています。
 最初に、立命館大学で交通政策を専門にされている土居靖範先生に、「地方鉄道の重要性と政策課題」と題してお話をしていただきます。その後、東北線を守る運動に長い間携わるってこられた山火武津夫さんに、その体験をもとにして、「運動の経験と今後の運動のあり方」についてお話をしていただきます。
 そして、富山近代史研究会の草卓人さんに、富山県の交通の歴史、「鉄道の歴史と今後の問題点」についてお話をしていただきます。さらに、富山商船高専の岡本勝規先生には、国際流通について研究されている関係で、環日本海というグローバルな視点で「富山県の公共交通の交通体系」の問題を考えていただきます。最後に、国鉄労働組合の稲葉敏さんに、「JRの現状と取り組み」について、また、今後の課題等についてお話をしていただきます。
 こうして、一通り5人の方にお話をしていただいた後、若干の休憩時間をとりまして、その後、会場の皆さんからご意見なり質問なりをお受けしたいと思います。そして可能な範囲でそれぞれの報告者からご意見、回答をしていただき、最後には、全体のまとめ的な回答を5人の方にしていただく、そうゆう要領で進行する予定ですのでよろしくお願いします。
 それでは、早速ですが土居靖範先生にバトンタッチをいたします。
 
土居靖範(立命館大学教授)
 どうもはじめまして、立命館大学の土居です。
 大学で何を教えているかといいますと、交通政策論で今、「街づくりと交通」というテーマで授業をやっています。われわれのキャンパスは草津市の方にあり、交通の不便な所で、JRの駅からバスしかありません。そこに新しく路面電車を引いたらどうなるのか、バスルートをこう変えたらどうかとか、運賃をどうしたらいいかとか、いろいろと第一線の問題を捉えましてワークショップをしながら学生諸君に発表させたりしています。
 今日のタイトルは、お手元の発言内容の骨子として書いてあります。このとおり進むか解りませんが、基本的には地方鉄道の重要性と政策課題ということでお話したいと思います。
 大きく3点あります。
 まず、地方鉄道がなぜ重要かということを改めて問い直して見たいと思っています。2番目は、21世紀における鉄道軌道の優位性を確認していきたい。3番目は、そういった重要性をもつ鉄道に、公的資金を投入すべきだということを訴えたい。
21世紀は鉄道・軌道の時代
 21世紀に入って一年になりますが、交通の便でどういう世紀であるべきかということを糸口にしたいと思います。歴史的なことですが「20世紀は自動車と航空機の時代」といわれました。これがそのまま21世紀もいくかどうか。ほとんどの人がこの車社会が21世紀もずうっと車社会で行くのではないかという形で思われていると思います。いろんなSFの映画を見ても,車が空中を走ったりしていますが。だいたい車が進化した形になっています。20世紀が自動車と航空機の時代だったわけですが、19世紀の交通は「鉄道と蒸気船の時代」といわれています。その前の18世紀に産業革命がありまして蒸気機関という機械的なエンジンが発明されて、それが鉄道とか船に搭載されて、19世紀が鉄道と蒸気船の時代でした。果たして21世紀はどんな交通社会になるかということが今日のポイントです。21世紀は鉄道が復活する時代と私は考えています。
自動車交通の三悪
20世紀の後半に入りまして、世界的に車社会にどんどん突入していったわけです。あまりにも車が増え続けまして、車の持っている弊害が深刻なっています。車も便利なところもあります。家の前から目的地までいつでもいけます。ダイヤに縛られず、とりわけ雨の日には便利だとか、いろんなメリットがあります。しかし、あまりにも車が増え続けて現実には、その弊害が深刻です。特に自動車交通の三悪です。
一つは交通事故です。死者は毎年1万人、事故件数は100万件以上起きています。19世紀から20世紀、さらに21世紀は、本来なら文明の進歩ということで、野蛮な交通事故がもっとダウンすべきではないでしょうか。50年間、日本だけに限定しても50万人の死者が累々として横たわっているわけです。非常に野蛮な形で進んでおり、事態は横ばいから減少していかない、これは人類の文明の進歩に反していると思います。
自動車交通の三悪の二つ目は、公害です。象徴的には大気汚染です。尼崎の公害裁判訴訟などさまざまな被害者が裁判を行なっていますが、それでも大気汚染がぜんぜんなくならない。ひどくなる一方なのです。これも人類の進歩から見たら問題です。50年間、日本がマイカー社会に入って環境は良くならない。悪くなる一方です。
それから三番目の三悪は、渋滞問題です。富山でも朝、夕渋滞が起きるという話ですけれども、これも何十年前からほとんど渋滞が緩和されていないのではないでしょうか。道路を作っても、バイパスなど道路作っても一時的に緩和されますが、走りやすくなったということで車がさらに増えていく、という「いたちごっこ」をやってきている。いくら投資して道路を作ったから解決するかがでてこないわけです。ですから、この自動車交通の弊害というのは人類の文明の進歩に反しギャップがあるわけです。
他にも資源の浪費問題があります。資源というのは石油資源です。皆さんは石油はいつまでも続くだろうと思っていると思いますが、使い方によってですが、今のような石油をがぶ飲みした使い方をすると、もう底が見えてきているわけです。車社会の行き詰まりという点で現実的な問題として、ガソリンが2010年ごろには枯渇するという予測は、以前は2030年頃だったのです。世界的にいろいろシンクタンクが、石油の採掘量を予測した場合には2030年頃には枯渇すると。ガソリンが一般の人たちが買えなくなってしまうくらい値上がりする。1リットル150円とかそれぐらいの値段では到底買えなくなると言われています。
ところが、最近の新しい発表によると2010年ごろということになっています。これは、日本経済新聞に4年前に掲載されたホンダ自動車の副社長がインタビューに答えています。ホンダ自動車では2010年にガソリン車はもうガソリンがないために走れなくなるという予測で経営戦略を立てていると。
ただ天然ガスのほうは2020年から2030年ごろまで持つという予測です。石油の埋蔵量自体一定なのに、なぜ2030年が急に20年間早まったかというと、非常にショッキングな出来事ですけれども、使われ方があまりにも多くなったということです。
 一つは中国が高度経済成長に入って、今は工業生産に石油を使っていますが、マイカーの方にどんどん使い出すだろうと。現在の使われ方がより大量に石油が使われるという形を予測しているわけです。
 現在日本では1億2000万人の人口があって、車に乗れる人、つまり免許を持っている人は7000万人ということで、車の数も7000万台あふれているわけです。日本の自動車化というのは1960年ぐらいから始まって、40年間ぐらいでここまで来たわけです。お隣の中国は、今人口が12億と言われています。その人々が高度経済成長で日本と同じように、到達点としてマイカーをもつとすれば、7億台、単純に計算していますが、日本は1億2000万人の人口で7000万台の車ですね、それも日本が40年かかったのと違って、数年間ぐらいで到達するのではないかと予測されています。関心のある方は私の参考文献に書いています、「ガソリン自動車が消える日」という本が宝島社新書で刊行されていますのでごらんいただきたいと思います。
 自動車メーカーは、今国際的にダイムラーとベンツが合併したり、日産がルノーに買収されたりといろいろ再編成をやっています。それの背景に燃料問題をめぐって、早く次世代のエンジンを開発しなければならない、環境にやさしいエンジンも開発しなければならないことがあります。単独でやりますとかなり開発費がかかりますから、早く技術を持っている会社を買収し、合併して開発を行なおうとしています。次世代のエンジン、燃料も含めて新しいエンジンをどうするかと自動車メーカーが水面下で経営戦略を展開しているわけです。自動車の次の交通手段につばをつけておこうと行なっているところもあります。
 ドイツのいろんな自動車メーカーが系列の会社や子会社として路面電車の会社を買収したりしています。ドイツやフランスのLRT(※)はかなり自動車メーカーの子会社で作っているというのが多いわけです。次の新しい交通手段として、LRTを彼らは考えている。そして、車両とか運行システムや信号とかいろんなコントロールのシステムなんかを売り込もうとしているようです。これが新しい動きです。
 そういう形で情勢は進んでいるわけですけれども、日本ではなお道路一辺倒の交通政策を行なっています。
※ LRT(Light Rail Transit):軌道上を走行する交通機関で、バスと地下鉄の中間程
 度の輸送力を持つ。軌道は路面に敷設される場合が多いが、高架や地下に敷設さ
 れる場合もある。
21世紀では人と環境に優しい公共交通が重要
21世紀の問題の一つは資源の問題、つまりいつまでも石油が続かない問題。それから環境問題、新らたに環境が破壊されて、大気汚染で人々がどんどん亡くなるとか、そういったことでは困りますから、持続可能な社会ということで悪質な排気ガスを出さない車とか、バリアーフリーの問題もあります。高齢者の方が非常に増えています。どこかに出かけようと思っても、段差があるとかいろいろ抵抗があって自由に出て行けない。とりわけ、マイカーに乗れなくなる高齢者が大きな問題です。これまでマイカーで行きたいところには自由にいけたわけですが、70、80歳になって運転が出来なくなって、家に閉じこもってしまったり、寝たきりになることもあります。21世紀の課題としては、人と環境にやさしい公共交通機関ということが重要になってくると考えるわけです。
 ですから、あまりにいびつな車社会を変えて、できるだけ公共交通に置き換えていく。全部100%車を無くす、そんなことは到底出来ないわけですが、車自体を人にやさしい車に変えていくとか、平行して公共交通を整理していくことが非常に重要になってくると思います。そういう点で、とりわけ、地方の鉄道が重要であると提起したい。
 もう一度いいますと、20世紀末の車社会のあまりにも過度の進化は、国民生活に貧困化をもたらしたといえると思います。貧困化というのは、経済的にいうのではなくて、国民生活の内容、健康破壊とか、そういう状況をもたらしたわけです。本来、文明の進歩というのはもっと人々の生活水準を上げ、生活の質を高めて行かなければいけないと思いますが、逆に20世紀のはじめの時点では国民生活自体を低下させたというわけです。ですから21世紀はそういう社会ではなくて、人類が文明の発達段階を追いながら、生活の質を高めていくことが必要ではないかということで、交通の面では鉄道・軌道の優位性という点から展開していきたい。
 なぜ、鉄道・軌道が優位性があるかといえば、先ほど自動車交通の三悪という話をしました。それは交通事故、渋滞、公害の問題の3点です。加えて資源浪費という4点目も挙げました。それらの点を考えていただきたいわけです。鉄道・軌道も事故を起こしますが年間1万人とかはならないわけです。また、渋滞といっても、朝の殺人的なラッシュアワーが首都圏ではあるようですけども、そんなに何時間も渋滞することは考えられません。公害の問題ですが、騒音振動は鉄道でも発生しますが、大気汚染は電車ではほとんど出ない問題です。 
 もう一つ忘れてはならない鉄道・軌道の優位性というのは、交通サービスの安全の問題、確実性の問題です。自動車の方は数の少ないときは自由に早く、時間通りにいけましたが、今の車社会ではほとんど時間通りにいけないのが現状です。ですから、交通サービスの核の一番に交通サービスとして望まれるもの、必要とされるものは、安いとか車内の快適性がいいとかそういったことも大事ですが、もっと高い質では安全の問題があるわけです。また、確実に時間通り着く定時性の問題、そういうことが望まれるわけです。バスではバス離れが広がっていますが、マイカーをはじめ自動車渋滞の中に入ってしまってニッチもサッチもいかない。乗ったら乗ったでいつ目的地に着くかわからない。また、いつくるかわからない、これでは歩いたり自転車に代えたりしてしまいます。ですから、鉄道・軌道が持っている安全性、確実性といったものが非常に重要なポイントではないかと考えています。
ヨーロッパでは鉄道・軌道が主役
 それで、ヨーロッパでは現実に鉄道の復権が進んでいます。中心は高速鉄道ですが、EU、ヨーロッパ連合の中に高速の鉄道ネットワークを張り巡らせています。スペインから乗り換えなしにフランスなどに高速で移動できますし、都市では従来の路面電車に変わって新しい車両、LRTといっていますが床が非常に低くて乗りやすい低床式の新型の路面電車がドイツ、フランスでどんどん広がっています。
 このようにヨーロッパで、なぜ日本と違って鉄道の復権とかLRTの新設が、できるのかがポイントなわけです。ヨーロッパでもかつては鉄道の復権とかLRTはほとんど普及しませんでした。10年ほど前まではヨーロッパでも道路一辺倒でしたが、EUの方針で大きく変わりました。これには財源の裏づけがあるわけです。それは「上下分離方式」といいっています。鉄道の上下というのは、上は車両とか運行の部分で、下は鉄道の土地とかレールとか駅舎のような基礎的なインフラストラクチャーです。日本の鉄道と同じように上は鉄道事業者が当然行ないます。車両を購入したり、運転士を雇ったり。それから下の部分は新しく土地を購入しレールを引くとか、駅舎を建てるとか、それらは自前で一体のものとしてそれまではやっていたわけです。ですから非常にお金がかかる。土地を買って、レールを引いてと。だからヨーロッパでも鉄道が普及しなかったし、LRTも敷かれなかったわけです。
 これを「上下分離方式」では、基礎部分は道路と一緒で一般財源で国と地方自治体で建設するということです。それを事業者が借りて使用料を払う。これによって普及のインパクトになったわけです。道路と同じように国と自治体がどんどん新しく路線を作ってくれる。鉄道事業者は上の部分だけで経営をしていける。LRTが増えたのも同じです。
 ヨーロッパで増えた背景には、中心市街地が非常に寂れていまして、郊外の方にスーパーマーケットが出来たもので、都心の中の商店街や百貨店が閑古鳥が鳴くようになってしまって、それから治安がどんどん悪くなっていく。しかしそこには老人が多く住んで生活しています。ということがあって、車社会と逆行するかもしれませんが、その中心市街地に車を入れず、LRTだけを走らせるやり方をしたわけです。当初は商店街の反対もあったわけですが、今はそうしたヨーロッパの都市では、人々が都市にどんどん帰ってきています。それで、平日でも日本の土曜日、日曜日のように人がドッと街に出てショッピングをしたり、ぶらぶらするようになっています。ですから、中心市街地に車を入れないで、人と環境に優しいLRTを走らせています。それも非常に安い運賃で走らせています。こういったのがヨーロッパの新しい動きです。
 日本でもぜひやっていかなければならないわけですが、財源の問題があって新しい路線にはほとんど投資されていません。路面電車もどんどん廃止される一方です。維持し発展させる財源がなかったわけです。ヨーロッパで上下分離方式の財源をどこから持ってきているかといえば、ガソリン税をどんどん使っています。オランダという国は海面下の土地が3分の1ある国ですから、環境に真剣な国で、高速道路のネットワークが一定程度できたということもありますが、ガソリン税を使って自転車専用道路ネットワークを作っています。それからLRTに自転車を乗せて移動もできるようになっています。
 日本ではあまりにも道路一辺倒に財源がつぎ込まれ、鉄道の方にはほとんどつぎ込まれなかったという問題があります。そういう意味で、今後21世紀の環境問題とか人への優しさとか、資源の問題を考えた場合、鉄道のネットワークを早く構築していくことが必要です。そうでないと2010年には人々がほとんど移動が出来なくなるような社会がやってくるわけです。
鉄道とコミュニテイバスとのネットワークを
 鉄道は線的な移動ですから、地域を全部カバーできません。ですから鉄道の駅を拠点にして、コミュニテイバスのネットワークを作っていくことも重要です。それぞれの町で条件の違いがありますから、自分たちの町ではこういったコミュニテイバスを作りたい。たとえば図書館に寄って行くとか、病院を通るとか、100円にするとか、今ものすごく流行ですね。富山でも市内をバスが走っています。「まいどはや」というコミュニテイバスが走っていますが、ほとんど知られていない状況ですね。コミュニテイバスがブームのようになっていますが、まだ片手落ちといいますか、失敗しているところも多くあります。地域住民が運行に参画していきながら、どういうところに通してほしいとかの意見を出し合いながらやっていくことが大事ではないかと思います。
 レジメの終わりの方に図がありますが、生活交通が中心ということ、社会的公正の重視、環境とエネルギーの調和した交通体系の実現が重要です。
 つぎに、どんな運動をすればいいのか提起したい。それは、交通基本法を作るべきだということです。交通基本法は山火さんからもお話があると思います。公共交通を守るのは国の責務である、それをまず国が高らかに謳って、そして総合的な交通政策を地方にも作るのを任せる、そしてお金も充分に支援をすることだと思います。
 
司会:奥村
どうもありがとうございました。
 引き続きまして、山火武津夫さんにお話をしていただきます。お手元の資料を参考にしていただければ結構かと思います。
 新幹線が建設されるのに伴って、在来線がJRの経営から分離される、第三セクター化される、といったことに伴って、いろんな問題が各地で出ているわけです。富山でも例外ではないわけです。つい先日、富山の新聞(北日本新聞2月28日付の記事)で、東北新幹線が来年開業予定になっているけれども、東北本線、とくに盛岡と八戸の間で、沿線の有力な企業が第三セクターへの出資に難色を示しているという記事を見ました。各地でいろんな問題が出てきているわけです。そういったことを今後、われわれが考えていくうえで参考になるのではないかと思います。
 それでは山火さん、お願いします。
 
山火武津夫(東北本線を守る会事務局長)
提案型の運動を−町民の草の根の運動が知事を動かす
 東北本線を守る会の事務局をやっています。国土交通省のお役人さんたちと対等に討論する機会がありますので、ただ運動をやっていればいいということではなくて、理論武装をしていかなければならない。そういうことで、土居先生が事務局長をしています交通権学会に入って勉強をしています。
 私は小学校の教員出身ですが、東北の訛りがなかなか抜けなくて困っています。標準語に近い東北弁でお話をしますが、聞き苦しいところはご勘弁を願います。
 はじめに、私の資料の年表についてです。アンダーラインを引いてあるところ、そこに重点的に触れたいと思います。これから北陸本線を守る上で参考になるだろうと思うことを、重点的にお話していきたいと思います。
 まず、年表のはじめのあたりですが、私たちが東北本線を守る会を結成したのは、1990年、平成2年10月です。新聞を見てビックリしました。一戸町の東北本線の4つの駅がなくなるかも知れない。私たちの町の下を新幹線のトンネルが走って、在来線が廃止されれば4つの駅がなくなる。新聞を見て5〜6人集まりました。町民の怒りが爆発して、3ヶ月のうちに会員が3000人に膨れ上がりました。私のところで出したものではない申込書が、あちこちで作られ、私製の申込書が作られて、短期間に3000人になりました。これは怒りが爆発したからですね。
3000人のデッカイ組織になったら、岩手県知事が東北「本線を守る会と会いたい」と言ってきました。私たちは、10人、20人の住民組織じゃ問題にされないだろう、デッカイ組織を作ろうということで頑張ったわけです。もう、思想・信条を超えて町ぐるみの運動になりました。1軒の家に町内会のルートから署名用紙がくる。婦人会からくる。老人会からもくる、あちこちから署名用紙がくる。この署名は自分の家だけ書くのではなく、全国の親戚、知人がいるはずだから、送ってやって集めよう。町の人口が子供を含めて18,000人ですが、その約3倍近くの署名が集まりました。
こういう形で運動が始まりました。
全政党を視野にした運動で政治的決着を求める
運動が始まりましたけれども、運動の入り口も出口も解らないが、私たちだけでなく、行政の方もどうしたらいいか解らない。だから、まず私たちは署名ということを提起して、この署名を全国に広めようと提起しました。一戸町は、岩手県選出の国会議員に陳情にと提起しましたが、この問題は、今までのようなやり方では解決しない。全部の政党を相手に要請行動をやろう、岩手県選出の国会議員でなくても、全部の政党の本部から引っ張り出して要請行動をやろう。普通は陳情に行くと、陳情にいった人たちが回って歩きますが、そうじゃなくて、こういう形でやったのは初めてではないかと思います。議員会館の大きな一室を借りまして、一戸町から100人くらい押しかけていきましたが、そこへ各政党の代表が次々に来て、皆さんのために頑張りますと決意表明をしました。
一戸町の東北本線を守る会の会員は、普通の町民ですから、署名をあまりやったことがありません。街頭に立ったこともない。そういう人たちの集まりですから大変でした。
いずれ知事が12月に私たちを呼んで、鉄道を残すことをはじめて宣言したわけです。県議会に先駆けて私たちに説明したのが初めてです。それまで、廃止が選択肢の一つに入っていたわけです。けれども、知事の意志説明で廃止の選択肢はなくなった。したがってバスによる代替輸送の選択肢もなくなった。
そういうことで、町民の草の根の運動は初期の段階で一歩前進したわけです。大きな成果をあげることが出来ました。
ところが、平成2年、念書が問題になりました。一戸町を除いて周りが平成3年12月の時点で経営分離を受け入れました。一戸町だけががんばって受け入れない。どうしてかといいますと、県の基本的な文書の中に、知事が約束した「鉄道を残す」という文言が入っていなかったわけです。県が沿線市町村の首長を集めて、これからどうしていくかという協議会を作りたかったようですがなかなか作れなかった。私たちは、住民が直接入れるような協議組織を作ってほしい、首長の集まりだけではない組織を要求したのです。こういうことがありまして、一戸町長はすぐ入るとはいわなかった。
最後に左側に書いてありますが、大きな見出しで、一戸町長が協議会に入ると表明した。これが平成3年6月1日。この時点で私たちが問題にしたことは、「念書」を取り交わすことが必要だと要求しました。今より不便にしないということを知事が約束したのだから、文書化してほしいと要求しました。などなど、こういう事情がありまして、経営分離受け入れが遅れました。
経営分離問題はいずれ、大阪まで並行在来線は切られるわけです。盛岡以北は札幌まで切られるわけです。今、北海道の人たちは、まだ俺たちのことではないとのんびりしているところがありますけれど、札幌まで切られるわけです。東京から札幌まで3時間57分ですか、4時間以内にいけるそういう新幹線を走らせる。このような構想です。東京から札幌まで一日圏になる。
ただ、並行在来線を切る理由は、もうすでに失われているのではないか。私たちはそのことを主張していく必要があると思っています。といいますのは、新幹線を走らせると並行在来線に乗らなくなる。そういうことでJRが経営して採算が合わないから切った方がいいという理屈であります。当時、運輸省がなんと言ったか。このJRを第二の国鉄にしたくない。国鉄がある事情があって莫大な借金を抱えたわけですけれども、JRを国鉄のような会社にしたくないという理由だったわけです。あとは何もいわない。ところが、JRが発足した間もなくだったので、そういう理由が成り立ったわけです。今はそうじゃないでしょう。JR北海道、四国、九州を除いては本州3社黒字経営ですから、第二の国鉄になる心配はないわけです。だから運輸省が言ったことはもう理由にはならない。正当性が失われている。だから。このことを私たちが大いに言う必要があるんではないかと思います。
利便性に関する10項目の提案・・・利便性は列車本数だけではない
つぎに、知事と一戸町と念書を交わしました。今より不便にしないと約束したので、1991年、平成3年、利便性に関する8項目の提案をしました。
8項目の提案があとで、10項目の提案になりましたので訂正願います。線を引いてある部分は、鉄道ジャーナルで紹介されたのですけれど、東北では反対運動だけじゃないよ、こういう提案をしながら運動をやっているんだよといういうことを紹介したわけです。「@電車を守る」とありますが、あとで私たちは訂正をしました。複線電化というふうに直しました。それから本数を増やす。運賃を高くしない。所要時間が長くならないように。安全の確保。地元負担がないように、等々ありますが、これにあとで2つ加えました。9番目に職員がいる駅、車掌が乗っている電車、10番目に電車が動いている間は駅の窓口を閉めないということも入れました。
 この9番目ですが、一戸町の奥中山というところは、福祉の里と言われているところです。社会福祉のキリスト法人が経営しているナンの里(障害者の施設、子供の施設)、県立の大人の施設があるんです。そこで400人が自立の訓練をおこなっている。高等部には盛岡から電車で通っている子供がいる。その電車に乗って学校に来る、帰るということが勉強なのです。大人になってもちゃんと自立し、一人立ちしてやっていける訓練なのです。ところが、電車運賃が高くなったり、間引き運転されたり、車掌が乗っていなかったり、特に障害児は機械に苦手なのです。話し掛けても返事してくれない。だから駅員がいる駅でなければならないし、車掌が乗っている電車でなければなりません。こういう10項目の提案をしました。
年月を経ても風化しない運動を
 この鉄道を守る運動は、すごく長時間にわたる運動です。北陸本線もこれから10数年かかるという問題でしょ。私が東北本線を守る運動の事務局長をやってから、私は交代できない。ところが相手は、県知事が3人交代しているわけです。交通政策課長が運輸省から出向してきて3人目。こういう形で、相手はどんどん変わります。こっちは、一人でがんばっている。もちろん会員がたくさんいてがんばっていますが、そういう性質の運動ですので、とにかく息の長い運動を、しかも、草の根の運動をやっていかなければならない。今日はたくさん集まって北陸本線の問題を考える集会になりました。運動の出発点になったわけで、これなら、運動がかなり進むという印象を受けました。こういう集会を、毎年開催することはきついでしょうけれど、2〜3年に一回開催する。風化させないためにも必要です。また新しい問題が起きてきますから、それを見込んでやっていく必要がある。
 世論に訴えないとこの運動はどうにもなりません。今日もマスコミの方がたくさん取材に来ているようですが、世論に訴えて運動していく。鉄道を守るというのは正義の運動です。それを世論に訴えるというようにして運動をしていかなきゃならないと思います。
根本的な矛盾を解決する方法も提起しながら
つぎに、交通権の思想が、発想を豊かにしたことについて。私たちが運動をはじめたのが平成2年からです。平成3年には600人、1000人を集める集会を1年に2回やりましたけれども、1回目の全国の集いのときに、交通基本権を制定することが必要だということを提起しました。私たちは自分たちの駅を守るということから運動をはじめたわけですが、そんなことじゃ解決しないわけです。全国の線路がずうっとつながっているわけですから。
 私たちが運動をはじめたときに、相手は象に見えました。県庁や運輸省が象に見えました。私たちがアリではないかと思いました。そんな感じでやっていました。正しいこと、大義を貫けば、要求が少しずつ実現していく。要求実現のためには根本的な矛盾を解決するために、交通権ということを問題にしていかなければならない。このことに気づいてからは、いろんな提案ができるようになりました。
 私たちは、国に交通政策を示せと要求しました。それは、人と自然に優しい交通という観点から、交通政策を示せといったわけです。この問題で運輸省にいきました。政務次官が私たちに気軽に握手なんかしてくるんですよ。「よし、わかった。人と環境に優しい交通という観点から、国の交通政策を作ることを指示する」と約束しました。あまりにも簡単に約束しました。
現在、提案している政策は、先ほど土居先生が言いましたけれど、「人に優しい、自然に優しい交通を街づくりの柱にしよう」と問題提起するように考えが発展したわけです。国に交通政策を示せの相手は運輸省です。これだと、町づくり、人と自然に優しい交通は、運輸省はもちろんですが、県や市町村も相手です。こういう方向で考え方が発展したわけです。それで、今やっているのは47都道府県知事にアンケートを出しています。6月30日が回答の期限ですが、今来ているのは3つの県からだけです。
具体的な取り組み
私が一番先に言いました。県選出の国会議員、与党の国会議員の先生方などではなくて、全政党を相手にした方がいい。これは富山の皆さんもおおいに参考にしていただきたい。
「JRのウオッチング」をやる。どんな問題があるか調査をして歩く。それから駅頭で高校生とか通勤者にアンケートを配るとか、自分たちが調査した問題の箇所を写真にして、改善を求めてJRに1年に一回は申し入れる・要請することをやったほうがいいと思います。あるいは全政党にぶつけていく。それもいきなり本部ではなくて、県連と本部の両方に出し、私たちは東京に行って本部に要請しますと言うと、県連は本部に挙げざるを得ないわけです。それから、県連からの回答をマスコミに公表しますといえば、どの政党もよこします。こういうことで、全政党の県連や本部に要求をぶっつけていく、こういうことが必要ではないかと思います。今までは、労働組合の方針を支持してくれたのはあの政党だから、そこに割りと行きやすい。行きやすいところに行っているだけでは、この問題は解決しません。全部の政党を相手にやってほしいと思います。
 
 私の資料の中に、こういう資料があります。JR東日本のところを見てください。岩泉線を見てください。輸送密度93人です。輸送密度というのは一日の利用者数をキロ数で割った、1キロあたりの人数です。それからJRの富山に関係のある富山港線を見てください。輸送密度3200人ぐらいと書いてあります。この数員は鉄道事業法を改悪するときに国会の審議のときに出されたものです。だから、いずれ国鉄を分割・民営化したときに輸送密度4000人以下の所は切っていきたいということだったわけです。だとすると、岩手県の鉄道が全部該当する。みんな4000人に満たないわけです。全部の路線が切られていく。岩泉線が切られれば全部の路線がやられる。そういう危機感が、岩手県の住民みんなで、岩泉線をささえた。
 JR盛岡支社が2年間、岩泉町と勉強会をしてきました。2年がとっくに過ぎて5年ぐらいたっています。それでもまだ切れないでいるのは、みんなが支えているからです。それから、JR東日本の一年間の黒字、1000億円の中に岩泉線が入っている。入っていても黒字ですから、輸送密度が低くても切っていく必要がないわけです。ちっぽけな路線ですけれどもまだ健在です。以上です。
 
司会:奥村
 ありがとうございました。
 それでは、引き続きまして、富山県における鉄道の歴史と今後の問題点について草さんにお願いします。
 
草卓人〈富山近代史研究会会員〉
 皆さん、初めまして。富山近代史研究会の草と申します。よろしくお願いいたします。
土居先生、山火先生の今までのお話で交通の根本的問題それから、実際に並行在来線の分離阻止に尽力されている方々のお話を伺いましたが、私はとりあえず、地元に戻して、今回のシンポジウムのテーマでありますJR在来線・ローカル線の存続と公共交通のあり方について、考えていただくたたき台ということで、私たちの住む富山県の鉄道がどういう形で形成されてきたかについて述べさせていただきます。
それから時間がございましたら、私が個人的に公共交通に関して疑問を感じていることについて申し述べさせていただければと思っています。
まず富山県の鉄道の歩みを、6つの時期に分けてお話をさせていただきます。
富山県に鉄道を作ると言う計画が持ち上がりましたのが、1881年(明治14年)これは、山火さんの地元である東北本線、当時「日本鉄道」と言ったんですが、これと同じころに計画された東北鉄道、この「東北鉄道」というのは京都の都の方から見て東北と言うことから名づけられた鉄道で、当時の北陸を治めていた昔の士族とか華族が中心になって金を出し合って、将来的には新潟まで鉄道を敷くという計画でした。
この計画は途中まで進展したのですが、敦賀から福井に至る間の路線に費用がかかると言うことで、この区間を後回しにして建設しようと言う意見も出た結果、発起人の中から脱退者も出て計画は中止になっております。
その後、1888年(明治21年)に、富山県の砺波郡在住の島田孝之と言う人を中心に、地方有力者の人たちが中心になって「北陸鉄道」という鉄道計画がおこなわれました。敦賀から富山までの鉄道計画だったのですが、また再び発起人の利害の関係から計画は途中からお流れになっています。この過程でこの地方では、民営で鉄道を作ると言うよりは、巨額の資本投資というリスクを避けて国に建設してもらおうと言う機運が出てきたようで、事実北陸鉄道が解散するときは北陸線を国に建設してもらおうと言うことを最後に決議して解散しています。
こうした民営鉄道の挫折によって、日本海側、北陸地方での鉄道の建設は非常に遅れ、加えて、当時国は東海道幹線、それから東北を通って北海道に向かう、蝦夷地開拓のための鉄道建設に重点を置いていたためにこちらの方は度外視され、その結果幹線鉄道が建設されなかった地方、特に日本海側は太平洋側に比べて経済の発展に遅れをとり、この地方は「裏日本」化したのでないかと思っています。
1897年(明治30年)に入ると県内最初の、中越鉄道が開業しました。これは富山市出身の吉田茂勝と言う人たちが砺波地方の資本家を合して建設した鉄道で、今の城端、氷見線の前身です。これは県内では最初、日本海側でも最初の民営鉄道であったわけですが、実際に建設してみたら巨額の建設費がかかった結果、高利借入金や利子負担金が増大して大正頃までその経営が圧迫しています(1920年国有化)。
それからようやく官営鉄道の北陸線の建設が進み、明治31年に高岡まで、次いで同32年に富山まで、同41年には魚津、明治43年には泊まで開通して、最終的には大正2年にようやく直江津まで全通しています。
つぎに1910年代、その少し前の1906年(明治39年)に鉄道国有法という法律が公布されて、幹線は国の鉄道に、枝線は民営という方針が確立しまして、民営の鉄道の計画は非常に少なくなるわけです。こうした状況を打開して、地方の鉄道を振興させるために、政府は1910年(明治43年)に軽便鉄道法、翌年には軽便鉄道補助法を制定しました。これは地方に民営鉄道を敷かせる奨励のために法律の規制緩和、それから補助金、これは最近まで行われていた欠損補助と違って、建設費(投資した額)の何%までの利益を保証して、鉄道を敷く資本家たちに投資をさせようと言う意図も含まれていました。
また一方では富山県も「軽便鉄道及軌道県補助規定」というものを作って、独自に補助金の交付も行っています。こうした条件の整備によって、富山県内での地方鉄道の建設が進みました。
開業路線では、1912年(大正元年)に全通した中越鉄道の延長線(伏木―氷見間)続いて1913年(大正2年)には立山軽便鉄道、これは今、大部分かたちが変わっていますが、滑川から上市を通って五百石まで、後には今の岩峅寺まで延長されているわけですが、この鉄道です。それから富山市電の前身である富山電気軌道、翌1913年(大正3年)には富山軽便鉄道、これは富山から大沢野町を通って笹津までの鉄道です。その後、砺波軽便鉄道(後の加越能鉄道)、今の城端線の福野から青島(後の庄川町)間で開業し、後に石動まで延長されていますが、これらのいずれも純粋に地方だけで建設ができたわけでなく、たとえば、立山軽便鉄道の建設時は大阪の資本家である才賀電気商会などの県外の資本家が一部出資する形で工事を請け負い、また、建設工事や車両等の購入の元請となって儲けようと、資本介入して建設が行われております。
それから、1920年代、大正時代後期に入りますと、富山県の豊富な水力と電力と労働力を求めて富山県は工業化の段階に入ります。これのための輸送を目的とした鉄道が建設されています。電源開発、資材輸送と産業開発を目的とした鉄道建設というわけです。電源開発を主体とした鉄道としては、富山県営鉄道(現在の富山地鉄上滝・立山線の一部)、今は、南富山から上滝を通って岩峅寺までの運転になっていますけれど、これは当時、岩峅寺から立山方面に向かって建設されたわけです。それから黒部鉄道、今はありませんが、JRの黒部の駅から電鉄黒部を通って宇奈月まで行く路線、それから、港湾の連絡、産業開発という立場で作られたのが富岩鉄道、これは現在の富山港線で、当時、荷物が渋滞していた伏木港を緩和するために、伏木の補助港として東岩瀬港が建設されたわけですが、これに結び付けようとして建設された鉄道で、結果的には沿線に工業地帯が発達して富山北部工業地帯の形成に貢献しています。
一方、越中電気軌道、これは当初富山から新湊経由で伏木港の右岸側を結んで富山市と伏木港を結ぶ予定でした。開業時には神通川左岸の富山北口という駅から四方までしか建設することができず、業績低迷を続けて最終的には昭和初期の再建を経て新湊まで延長ができるまで業績が低迷しています。
その後、1930年(昭和5年)以降になりますが、この頃になりますと今度は、交通体系が変化するなか、従来は県内のそれぞれの地方経済圏ごと完結する形で鉄道は建設されていたわけですが、これに対して、今でいう一極集中化、富山県では富山、高岡中心に交通体系が変化してきたことによって、鉄道の形態と旅客のニーズにずれが生じ、加えて乗合バスの登場等によって、乗客が少なくなってきました。
こうした状況を打開したのが今の地方鉄道を作った故佐伯宗義氏です。佐伯氏はそれまで滑川から南側にぶら下がって軌道の狭いおもちゃのような汽車が走っていた立山鉄道を、富山から直接、上市を通って滑川や、それ以遠の県東部に直通する高速鉄道へと再生させました。佐伯氏の理念と並行したわけではないかもしれませんが、この頃から軍国的計画経済によって陸上交通事業調整法、これは1938年(昭和13年)に公布されたわけですが、これが追い風になって富山が東京、大阪、愛媛、福岡などとともに交通調整、すなわちばらばらになっていた交通網を調整しようという対象に含まれたわけです。最終的には、昭和17年、太平洋戦争に入ってからいよいよ、県内でも本格的に交通統合を推進しなければならないということで、昭和18年に「富山地方鉄道」として統合されています。
その一方で富岩鉄道、今の富山港線は太平洋戦争中の太平洋岸航路への危機増大に対処するため北海道から船で荷物を運んで太平洋側に鉄道輸送をするための中継路線として国有化されています。
それから戦後、昭和20年以降になりますが、戦時経済と佐伯宗義氏の活躍によってそれまでばらばらだった鉄道が、富山地方鉄道への再編と言う「構造改革」に成功して、県東部の鉄道だけでなく、先ほど言いました旧越中鉄道線を海岸線にそって高岡市内まで結び(射水線)、それから、昭和8年に一旦廃止になった笹津線を復活(昭和50年再び廃止)して、富山県を一つの市街圏にする構想=「富山県一市街化」を着実に推進し、復興輸送と戦後経済発展の輸送機関として躍進を始めています。
一方、この時期より北陸地方の富山、石川、福井3県を北陸広域経済圏と捉えまして、この間に高速鉄道(加越能鉄道)を引こうということで計画が行なわれています。この名残りは現在、富山から小杉町の黒河付近までがサイクリング道路として残っています。
その後の、高度経済成長によって農村など郡部からの通勤、通学客によって1960年代には鉄道は最盛期を迎えるわけです。富山地鉄だけでも7000万、それから旧国鉄が昭和41年ですが5000万人近くの乗客を運んでいます。
1965年頃までが鉄道の最盛期だったわけですが、モータリゼション、最近は少子化等もありますが、モータリゼションの発達によって、乗客が減少傾向に向かい、それから北陸線の複線電化によって加越能高速鉄道も意味がなくなったということで計画が中止になっています。その後昭和41年に射水線が越ノ潟で分断されたわけですが、これ以降、相次ぐ路線の廃止が始まりました。富山地鉄では昭和44年に黒部線(黒部駅から電鉄黒部までの路線)、昭和47、48年には市内軌道の一部、笹津線が昭和50年、射水線が昭和55年、富山市内軌道の山室線が昭和59年に廃止されました。
また加越能鉄道は高岡軌道の米島口〜伏木港間の伏木港線が昭和46年、それから加越線が昭和47年に廃止され現在に至っています。
それから、私なりに鉄道に対する疑問点についていくつか述べて終わりにしたいと思います
まず民営鉄道は、戦前は配当保証への補助金、戦後は欠損補助と言う形で補助制度が続いていましたが、こうした補助金に慣れきってしまって民間並の経営、単にワンマンにすればいいとか、ばかり考えてリストラ、自立する方向で模索されているかと言うことが第一です。それから、旧の国鉄がJR化によって国民の足から単に営利手段になっているのではないかと言うことです。
私ごとになりますが平成7年に大糸線が不通になった翌年の、平成8年に信濃大町まで仕事で行くことになったのですが、新聞を見たら代行バスが運転されていると言うことで出かけたわけです。国鉄時代ですと時刻表のピンク色のページでいろいろ鉄道の営業案内が出ているわけですが、バスで代行できることになったときは鉄道の運賃でバスに乗れると言う規定を見た記憶があったものですから、そのつもりで出かけたのですが、富山駅で切符を買おうとしたら信濃大町までは売れないというので、不通になっているところまで行って乗り越しでもしようと考えて、そこでバスに乗ったわけです。バスに乗ったときに車掌さんから「このバスをどこで知ったか知らないけれど、これはあまり他の人に言わないでください」と脅されてしまいました。これが果たして交通運輸にたずさわる人の言うことかなと思いました。
 それから最近、富山港線や氷見線でも点検等で日中運休になっております。私は先日まで知らなかったのですが、運休の際は鉄道運賃でバスを動かすのではないかと思っていたわけですが、これが代行バスを動かさないという話です。これは、奥田先生もおっしゃっていた鉄道、サービス企業のやることなのかなと思いました。それから、色々なところで言われている枝線の間引き、終列車の繰上げ、本数の削減はうがった見方をすれば皆さんが乗れないようにして、乗らないから廃止も仕方がないという気運に持って行こうとしているのではないかと感じています。それから今、万葉線が第三セクター化で話題になっていますが、私が疑問に思っているのは「市民参加の経営を」と謳っているにも関わらず、株式は公募せず、さらに市民の方から募金はいただきますけども、「意見は市役所に言ってください」、ということを新湊の方から伺ったのですが、これでは市民とかけ離れた、「市民不在の経営」になるのではないかと感じています。
最後に、今後の地域鉄道のあり方について私なりに考えていることですが、できれば鉄道事業も一般の民間企業並のリストラを考えてほしい、それから土居先生も言われましたが上下分離方式を、公共交通も道路と同じなのですから、下を自治体でまかなっていただきたい、また、将来的には「交通権」の平等確立のために、道路特定財源の導入も視野に入れていただければと思っています。上は、一部の外国では複数の会社の入札制によってコストダウンを図っており、日本でも鉄道OBの方で会社を作って入札方式にでも出来ればコストを減少することが出来るのではないかと思っています。これで終わります。ありがとうございました。 
 
司会:奥村
 どうもありがとうございました。
 それでは、続きまして岡本さんにお話をしていただきます。今年の4月に北陸新幹線の上越・富山間の新規着工が決まってから、富山県知事をはじめとして、関係者の話されることに、北陸新幹線は日本海国土軸を形成するうえで必要なものであるとか、あるいは環日本海時代を担っていく地域を発展させていくうえで必要なんだとか、必ずといっていいくらい言われています。そういう抽象的にスローガンのように言われていることがいったいどういうことを意味しているのか、具体的に現状を、特に富山県内の現状などをどういうふうに認識して、そして、どういうふうに変えていこうとしているのか、ということを私たちは具体的に検討して見る必要があるように思います。
 県内の交通網、あるいは公共交通機関のあり方としては、当然、地域社会の産業や経済の発展とか、地域社会としての活性化であるとか、地域住民の日常的な生活の利便性などを考えてみる必要があるわけですけれども、県内の交通機関のあり方、公共交通機関のあり方を考える場合、もう少し広い視野で検討して見るということも必要だろうと思います。
 そういう意味で、岡本さんには環日本海の公共交通体系のあり方というように、少し視野を広げた形で、現状なり問題点なりについてお話をしていただきたいと思います。
 それでは、よろしくお願いします。
 
岡本勝規(富山商船高等専門学校教官)
 はじめまして、富山商船高専の国際流通学科で教員をしています、岡本勝規と申します。よろしくお願いします。
 先ほど草先生に地元のお話をしていただきましたが、私が申し上げますのは、奥村先生がおっしゃったように、若干視野を広めた内容でございまして、「環日本海」といった視野です。ただ、「環日本海」といっても、たとえば国際的な韓国だとかロシアであるとかいったような視点ではありませんで、もう少し足元を見ようということです。
 つまり、われわれが住んでいます富山から見て隣の金沢へ行く、福井へ行く、新潟へ行く、さらには秋田へ行く、山陰の方に行くとかいった形で、「環日本海」の範囲内でいろいろ動き回っていくというときに、いろいろ問題点があるのではないかと、これで本当に「環日本海」といって胸を張っていられるのであろうかと言う疑問をもったものですから、疑問に基づいて報告をさせていただこうかと思います。
 環日本海時代というのに相まって、どのような投資が行われているのかと申しますと、とりわけ目立つのは、高速道路網の充実が挙げられると思います。北陸自動車道のみならず東海北陸自動車道であるとか、新潟より先にどんどん高速道路を作る予定でありますし、敦賀より西の方にも高速道路が延びていく要諦になっています。ところが、高速道路にはたくさんお金が投下されていますが、一方では公共交通の方ではかなりないがしろにされてきている、スカスカにされてきている印象を受けるわけです。土居先生のご報告にもありましたように、財政投資が道路に偏っていますから、それ以外はないがしろになっているのが如実に現れております。たとえば、皆様のお手元の資料の一枚目ですが、こちらは鉄道の便数といいますか利便性を富山を中心にして検討してみたものです。富山駅を発着する優等列車、つまり特急、急行列車などの発着数を表しているものでして、富山から乗り換えなしでどこまで行くことができるのかを示させていただきました。最近、この3月にダイヤ改正がありまして、また、少し変わりました。少し古い方の例としまして、1984年のものを出させていただいております。第三セクターの鉄道などが生まれてくる時期ですが、この1984年の時点では、たとえば富山から新潟方面へ向かう場合には、一日12本ぐらいありました。長岡までですと13本でございます。秋田なり青森方面に行く場合は4本あったわけです。ところが、2001年3月の状況を見てみますと、新潟方面はご存知のとおり北越急行、俗に「ほくほく線」と呼ばれている路線が開通した結果、直江津からそれて、越後湯沢に入ってしまう。優等列車の多くはそういう状態になってしまいましたので、新潟に行く便が12本あったのが7本になってしまったとか、あるいは、秋田や青森に行く列車は今や、夜行列車の2本しかないといった状態で、どんどん先細りになっています。「環日本海時代」と声高らかに言っているんですが、「環日本海」地域に移動するのがめんどくさくなっているような事情があります。
 一方、金沢方面とか福井方面に関してはそれほど変化はないのかといえば、本数自体はそれほど変化はありませんが、たとえば昼間の優等列車は富山駅どまりという状態になってしまいました。大阪や敦賀、福井からやってくる列車で新川方面まで足を延ばす列車は本当に数が少なくなりまして、昼行列車は一日1本のサンダーバードが魚津までやっと来てくれる、といったような状態です。北陸の中だけでも、福井から富山より東の方面に行くときは、富山などで乗り換えなければならないようになっています。
 したがって、利便性としては「環日本海」と言いながら残念ながら低下しつつあるという側面があります。ましてや、敦賀から西の山陰方面となりますとほとんどあってなしが如しと申しますか、非常に大きな空白地帯が広がっておりまして、まったく関連性がないような状態になっています。このような状態になっているところへ、今、話題の北陸新幹線が長野から延びてきますと、上越と長岡の間がかなりないがしろにされてしまう状態が予想されます。
 要するに、高速鉄道網というのは基本的に東京志向で固まってしまって、日本海側同士で横に移動しようと思っても非常に面倒な時代がやってくることが懸念されます。
 鉄道に関してはこれくらいにしまして、次のページをご覧ください。公共交通としましても鉄道以外にもいくつかあります。たとえば飛行機とか高速バスとかがありますが、その中でも飛行機の方について着目してみました。これも1984年と2001年3月時点の比較をして見たのですが、路線の数だけ見ますと、北陸を基点とする路線が増えています。1984年の路線網と比べると一見非常に充実してきた様に見えるわけですが、行き先が大都市圏、東京、大阪、名古屋、福岡、札幌、せいぜい仙台ぐらいになっています。1984年の時点でも日本海側を結ぶ路線は新潟と佐渡を結ぶ路線―あまり日本海側を結ぶ路線とはいいがたいのですが−これしかありません。2001年3月の時点でも1本増えているだけです。小松と出雲を結ぶ路線がございます、ではなく、ございましたと言うべきですか、残念ながら3月末に路線がなくなりました。したがって、鉄道で移動しずらくなり、更に飛行機はそれを補完する能力がない、と言うのがまさに今の現状でございます。例えば「環日本海」と言うのであるならば、せめて、日本海側同士の相互に結ぶ路線があってもよさそうなものですが、まったくそういった気配が見られないのが現状です。
 つづいて次のページをごらんください。こちらは高速バス、いわゆる高速道路を利用して旅客輸送を行なっているバスの2001年における路線網を示しています。一番上の図が北陸を発着する路線を全部示しています。中段の左側の方が、日本海側地域内を結んでいる、つまり、北陸を基点として日本海側を結んでいる路線を抜き出したものです。中段の右側が示しているのは隣接している県へ向かっている路線であり、下に示す図は太平洋側の大都市に向かっている路線を示したものであります。路線網全体としては一見充実している様に見えるのですが、こうして分類してみますと、日本海側だけを結んでいる、つまり、日本海側の地域同士を結んでいるのは、基本的には新潟発着で新潟県内で終わっているものばかりであります。例えば新潟と同じくらい人口を要している金沢を発着して石川県内を結ぶとか、それではあまりにも近いのであれば、富山と結ぶとか福井と結ぶとかと言うものがあってもよさそうなものですが、どういうわけがまったくありません。
 現在、日本海側を発着する路線として唯一路線として存在しているのは金沢と新潟を結んでいる路線だけです。隣県に向かう路線についてもあまり充実しているとはいいがたく、定期運行しているのは新潟発着の路線のみです。金沢から松本あるいは高山に行く路線がありますが、これは残念ながら冬季は運休の路線です。われわれの住んでいる地元の富山ですと、まったく日本海側同士を結ぶと言ったような路線は見当たりません。ではいったいどのような路線があるのかといいますと、主に首都圏に行く、あるいは名古屋に行く、京阪神に行く、仙台に行くというこの4種類がほとんどです。特に、首都圏行きは充実していまして、東京便が取れなければ横浜便、横浜便が取れなければ八王子便、というぐらい選択肢があります。公共交通という部分がないがしろにされていると言うものの、高速道路網に関しては相当な投資が行なわれ整っている、とりわけ、日本海側では富山を含む北陸地域では整っているんですが、整っている高速道路網が地域内の公共交通の部分では残念ながら生かされていない状態でありまして、首都圏に行くためだけにひたすら利用されている現状になっています。
 以上の話のとおり、ほとんど公共交通体系というものは、例えば鉄道におきましては「ほくほく線」によって如実に東京志向が生まれておりますし、また、敦賀から西に行く優等列車は名古屋とか大阪に行ってしまいますから、これも如実に大都市志向が表れておりまして、ますます加速する勢いです。それを高速バスや飛行機が補完してくれるのかと申しますと残念ながら今いった内容であるわけです。
 北陸新幹線が開通した場合は、きっと東京に行きやすくなる、これは明らかですが、例えば隣の県に行きにくくなって東京に行きやすくなるという不思議な現象がおきかねない状況であります。北陸新幹線についてある、なしについていえば、私個人的にはあったほうが良くて、ないよりはましだと思います。便利になりますから。しかしながら、それを作ると隣町に、隣の県に行きにくくなる、それは本末転倒であろうと思います。特に私が不思議に思いますのは、そういった新幹線を整備すると在来線の利便性は引き換えにされてしまうということでして、例えば、都会で東京に新幹線が乗り入れたからといって、東京の在来線は廃止にしましょうという話が出ません。どういうわけか解りませんが、地方だけが新幹線が開通すると二者択一を迫られる、片方を廃止しろ、あるいは片方を分離しろといわれる、非常にそれは理不尽であるという憤りを感じています。なぜ両方があっていけないんだとつくづく思っています。現実にこうして交通網体系がだんだんスカスカになってきている状況に加え、新幹線と引き換えに、更に理不尽な選択を迫られるというのは、声を大にして抗議すべきであると考えています。いずれにせよ新幹線が来ようが来まいが公共交通を整備する、あるいは重視する姿勢があるのであれば、とてもではないですが在来線を無視したり、二者択一を迫るようなことはおかしいのであろうと感じております。以上で私の発表を終わらせていただきます。ありがとうございました。
 
司会:奥村
 ありがとうございました。
 それでは、引き続きまして稲葉さんにお話をしていただきますが、長い間国鉄、JRの現場で仕事をされてきているわけで、今日は富山を中心にしてJRの現状と今後、富山での公共交通を守っていくうえでの取り組みとして、どういうことが求められているのかということについてお話をしていただきます。それではお願いいたします。
 
稲葉 敏(国鉄労働組合富山県支部執行委員長)
 国鉄労働組合の稲葉です。
 私はJR西日本の富山運転センターという職場で、高山線、氷見線、城端線で走っている気動車を検査・修繕をしています。今司会者から言われたように、JRの現状について、そしてこれからどんな運動をしていけばいいのかということなど報告し、皆さんとともに公共交通、鉄道はどうあるべきか検討したいと思っています。
 はじめに、鉄道とはなんぞやということについて考えてみたい。汽笛一声新橋をということで明治5年新橋・横浜間で陸蒸気が全国ではじめて走ってから115年、国鉄の歴史があります。新橋・横浜間が開通してから、その鉄道ブームに乗って鉄道が全国で生まれる、それを国が買収して国有鉄道になり、そして昭和62年、1987年の4月に国鉄が民営化され、JR6社と貨物会社に分割されるという状況になりました。それが115年の歴史です。
 115年の歴史の中ではっきりしていることは、鉄道というのは人々の生活の営みに欠くことのできない交通手段、移動手段であり、そして人々の交流などを通して文化の発展に大きな役割を果たしてきたし、日本経済の発展の為に大きな役割を果たしてきた、これは誰もが否定することのできない事実だと思います。しかし、国鉄が分割・民営化されJRになった現在、民間企業になったからといっても、鉄道の役割はいささかも変わっていないと思います。
 JRになって今年で14年経ちました。4月から15年目に入っていますが、その鉄道が危機的状況を迎えている、JRになった14年、その間に大きく様変わりをしたといえると思います。どのようになっているのか、14年のJRについて検証して見たいと思います。
 JRとして発足したときに、先ほど奥田先生が言われたように、JR西日本は経営理念を作りました。「地域に愛され、ともに繁栄する総合サービス企業をめざす」と謳っています。しかし、この14年を振り返ってみると、経営理念とは裏腹に、儲けを唯一の基準にして経営施策を行なってきている、それがJR西日本といっても過言ではありません。
 お手元の資料に載っていますが、JR西日本の経営成績、これは会社の資料を抜粋したものですが、この14年間、最初の年だけ80億円の経常利益ですが、それ以降13年間、不況の中でも400億円を越える経常利益を上げてきている優良企業です。その実態というのは儲けの為に徹底して投資をする。大阪、近畿圏をアーバンネットワークといっていますが、そこには他の私鉄との競争に打ち勝つためにということで新製車両をどんどん投入する、さらには山陽新幹線にレールスターという新製車両を投入しました。このレールスターの指定席は、「のぞみ」では指定席が5人掛けですが、この新製車両は4人掛けです。富山・大阪間を走っているサンダーバードのグリーン車と何ら変わらない座席を持った車両を投入し、お客をとるために一生懸命になっています。さらに皆さんもご存知のように、京都駅ビル、地元の反対の声を押し切って大きなものを立てました。儲かるところには惜しげもなく投資をするという姿勢です。
 しかし、儲からないところはどうかといえば、富山県内のローカル線、さらには駅を見れば明らかだろうと思います。列車本数を減らす、無人駅を増やす、駅舎のトイレをなくす、夜間の駅の営業窓口を閉めるなどなど。
 JR西日本は51,530名の社員で発足しました。しかし、2000年4月には40,790人、なんとこの14年間で10,740名の社員が減っています。さらに、今年1年間で1000名を越える社員の削減する「合理化」が計画されています。
 下の資料を参照してください。有人駅は30%、後は無人駅と委託駅、委託駅というのはJRを退職したOBの方を雇ったJR関連会社が業務を、切符販売などをするところですが、委託駅がどんどん増えているというのが現状です。
 富山県の状況を見ますと、3月3日にダイヤ改正が行なわれました、ここでJR西日本金沢支社はローカル線の改善施策を実施しました。「富山港線、氷見線、城端線、このローカル線の運行を引き続き確保するためには必要な施策」なんだというのが会社の言い分です。何が実施されたか、1つは列車本数削減する、富山港線は8本、氷見線は7本、城端線は8本、列車を間引きしました。2つ目は無人駅を拡大する。福光、福野、戸出、越中中川、蓮町の各駅を無人化する。3つ目は富山港線に気動車のワンマン運転を導入する。さらには、各線で終列車を一時間程度繰り上げる、富山港線は22時代の終列車を21時23分にと、ものすごく早くなりました。5つ目は、月一回日曜日、5時間程度全面的に列車を止めて線路や架線の保守をするということが実施されました。この結果、富山港線に8つの駅がありますが、どの駅にも駅員がいません。城端線は砺波駅、氷見線は氷見駅に駅員がいるだけです。この駅の無人化にはもう一つ重要な問題があります。福光、福野、戸出、越中中川駅を無人化されるということで地元が大反対しました.JR金沢支社にいろいろと陳情したけれど埒があかない、そこで、関係自治体は簡易委託駅にすることにしました。簡易委託駅では、町がJRに替わって業者を雇ったり、また、町の観光課などが切符の販売を替わって行なうとい事をせざるを得ませんでした。
この計画と現状を見ても明らかなように、今、ローカル線は危機的状況になっている、JRは乗りたいものは乗ればいい、JRは動かすから、しかし、不便なダイヤして、利用者が少なくなる、だから、また列車の間引きをする、いずれは会社に儲けを生み出さないような線路は廃線にしたいというのが見え見えです。
この3月3日のダイヤ改正の計画に対し、今までにない状況が生まれました。沿線すべての自治体がこれに反対だと。町の活性化のために、福光町では郊外に大型店がどんどん進出してくる中で町が空洞化している、その上、駅が無人駅になれば町の空洞化に油を注ぐようなものだ、だから絶対反対だ、という形で沿線自治体がすべて反対の立場をとりJR西日本金沢支社に要請に行っています。また、富山県高校校長会や県PTA連合会も要請に行く等、関係するところがJRに要請に行っています。特徴的なのは、富山県議会で全会派が一致してこの問題は大変なことになるということで、反対の立場をとり、当時の県議会議長を先頭に要請に行くということがありました。これを見ても明らかなように、公共交通としてのJRはどうあるべきか、そして、ローカル線の充実と存続を求める運動が取り組まれるようになってきているのではないでいしょうか。
富山港線では地元の町内会と学校関係者が協力して、蓮町駅の無人化に対して反対署名を取り組みました。5000筆(第一次分)を持ってJR金沢支社に要請に行き、一定の要求の前進を見ています。最終的には10,000筆近くの署名が集まったわけです。このように、鉄道は今後どうあるべきなのか関心も高まっていますし、存続を求める声も運動、取り組みも強まっています。
つぎに、新幹線問題について報告したいと思います。
12年後に北陸新幹線が富山まで開業することが決定しました。お手元に国鉄労働組合富山県支部が作成したチラシがありますが、これは、昨年の2月に作った古いものです。しかし、中身は今も生きているのではないかと思っています。参考にしていただきたいわけですが、今年5月27日、新幹線の起工式が富山駅で行なわれました。しかし、新幹線建設の影で平行在来線の北陸本線が第三セクターになる、さらに、枝線といわれる富山港線、氷見線、城端線、高山線もJR西日本が経営を放棄することになるわけです。また、財政的な問題もあります。新幹線建設に約2000億円を富山県が負担しなければならない、北陸線が第三セクターに移行する場合北陸線をJR西日本はただではくれない、長野新幹線建設に伴って開業した「しなの鉄道」はJR東日本から買い取っています。それで試算をしてみますと、北陸線を買い取るには約200億円といわれています。そういう点で、莫大の県民負担、県民一人一人の肩に重くのしかかってくる。さらに、長野新幹線の開業に伴い第三セクターにとして開業した「しなの鉄道」(軽井沢〜篠ノ井間)は、3年間で17億円の赤字を出しています。今後10%の運賃値上げをしなければならない状況になっています。また、隣の石川県の能登鉄道(穴水〜輪島間)が今年の4月から廃止され、バス代行に変わりました。1987年国鉄の分割・民営化と同時に第三セクターをして発足したわけですが、昨年まで約7億円、石川県と沿線自治体が財政負担をしてやっと経営をしてきた。しかし、限界だということで昨年2月石川県議会で廃線、バス代行にすることを決めました。今年4月廃線になっています。このように第三セクターの経営状況は大変な状況にあります。
最後に、鉄道というのは国民生活の安定とよりよき福祉のため、市場原理、採算原理を持ち込んではならない分野ではないでしょうか。公共性の強い鉄道会社として。
JRは民間会社となったといわれていますが、、今の西日本会社は勝手放題をやっています。儲け第一の経営姿勢のもと、儲からない線区、列車は削減する、駅の無人化をする、など勝手放題をやっています。イタイタイ病などいろいろの公害問題は、大企業の「勝手放題」が公害を引き起こした大きな原因です。JR西日本に今のような勝手放題をさせるわけには行きません。JRとして公共性を守らせるために、社会的規制を加えていくことが公共鉄道として存続させる道ではないかと思っています。
そんな立場で、私たち国鉄労働組合は今後も頑張っていきたい、そのことを表明してお話を終わります。ありがとうございました。
 
司会:奥村
 どうもありがとうございました。
 報告者5人の報告が一通り終わりました。それぞれ遠方からお越しいただいたということもありますし、また長い時間かけて報告の準備をしていただいたということもありますので、私の方からは途中で時間を切らずに報告をしていただきました。それで、若干の予定の時刻を過ぎましたけれども、ここで4時まで休憩にしたいと思います。その間に、皆さんのお手元にB5版の質問用紙が届いているかと思います。それに、質問する報告者を特定されても結構ですし、されなくても結構ですが、質問事項がありましたらできるだけ具体的に書いて、休憩時間中に受付の方に出して下さい。それを参考にしたうえで、可能な範囲で報告者から答えていただく、あるいは会場の皆さんからご意見を伺うというふうにしたいと思いますのでよろしくお願いします。それではしばらく休憩に入ります。
 
<文責:事務局>
 
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