演劇ワークショップ
![]() 気づく。脱力出来ていると思っている感覚が全く違っていたり、気が流れているような 気がしているのが錯覚だったり、つかんだと思っていたものが翌週には勘違いとわかっ たり。どこまでいっても答えの見つからない迷路に入り込んだような気さえする。今ま でどちらかというと、頭(脳)の世界で生きてきた自分は、実体のない空想の世界で遊ん でいたに過ぎない。身体こそが実体のある自分自身であり、実は脳もその一部でしかな い。脳を絶対視し、脳から全てが発信されると勘違いをしていたのだ。つまり、(考え てみると当たり前のことだが)脳からの一方的な発信ではなく、身体から脳への発信も 含め、相互に密接に交信しながら自分が変化しているということだ。そう考えてみる と、ファリファリの持つ意味が少し見えてくるように思う。 (2003.10.1 2) 自分の中に実体として宿ってきているものがあるのだろうか。普段は実体としてつかん でいないし、自分だと認識している日常の自分は、ほんの一部の自分でしかなく、本当 の自分は自分にすらわからない。子どものころから少しずつ周りとの関係を見始めてか ら(社会性を持ち始めてから)自分はその中で折り合いをつけるために幾つもの仮面をか ぶってきた。時折元の自分の顔を確かめていることもあったが、そのことさえいつの間 にか忘れてしまった。いつしか仮面が自分の素顔として認識され始める。いや、そうで はない。今も仮面をいくつもかぶっていてその時々で替えるのだ。顔は生きている証、 自分が自分だと認識するものとして顔は絶対化される為に、仮面はいつでも素顔として 認識されるだけだ。昔読んだ、安部公房の「他人の顔」を思い出す。仮面をつけている こと自体を批判するのではない。仮面に隠されいるもっと奥深いところの顔を私は見た いのだ。私がかつて無防備に周りの目を感じず、ただ心の叫びを漂わせていた目の動き や頬の筋肉の動き、口の動きをみたいのだ。(2003.11.18) ただ言葉から離れて感じ取る能力を高めた時、言葉ではわからなかった世界の事が、体 験として理解されていく。体験により、自分を支えている本当の自分自身をはっきりと 自覚する。自分の細胞の一つ一つに意識をめぐらす。 「言葉と再び出会う」…林さんは何度となくそう語りかける。言葉が経験の中で曖昧に 理解されていることに気付かなかったことに気付く。いったん離れてみて、単なる音と して出会い、既成概念から開放されたとき、改めて自分の肉体を通って発せられる音と 内面が一致してその言葉の持っている力を感じられる時があるのだ。(2003.1 2.12) 生きていること、自分が生きていることの意味はなんだ?有史以来人間は、何故生きる のかを自らに問うてきた。哲学が学問として頭の世界で問うてきたように、演劇は、身 体でその意味を問うてきた。自らの身体の中に自らが生きてきた、そして今も生きてい る真実がある。しかし、そのことに気づいた瞬間から、自分が生きていること自体が非 常に個人的なものとして勝手に思い込まれてしまう。いつの間にか自分が自分の力で生 きていて、自分の命は自分の中で力強く息づいていると… 我々は生かされている。命は個人の中で昇華されるかもしれないが、巨大な宇宙の中の 点にも満たない、エネルギーの分子でしかない。生きていることはそのエネルギーと交 信し、交流しあっていることではないだろうか。ファリファリをしているときそんなこ とを感じることがある。自分の中の命のエネルギーは周りの人と周りの木や林や山と、 周りの海と周りの空と交信し合い、交流し合い、高まっていく。ファリファリはきっと 宇宙を自分の中に入れる作業なのだ。大げさだし、妄想かもしれない。でもきっとそう 言う事だと今思っている。(2003.12.18) 新しくシアターファクトリーに入ってきた若いメンバーと一緒に練習をする。初めての 人とファリファリをすると新鮮な気持ちで、ぞくぞくする。と同時に忘れていたものも 思い出される。彼らはとても真剣に取り組んでいて、ここで何かをつかみたいと必死で ある。その必死さが身体の力を硬くさせることもある。力が入りすぎて気がうまく流れ ていかない。私も自分としては集中もしているのになかなか変わらないと思うことがあ った。それは、集中することを脳に向けていたことに気付いたのはずいぶん経ってから だった。脳に意識が向かうとかえって身体は硬くなり、動きがぎこちなく、声も出しに くい。意識は身体に、丹田に向かい、余計な上半身の力が抜けると気がうまく流れてい く。未だに私はそれができてはいないが、改めてその大切さを思い出した。(200 4.4.21) 「あがる」・・・。私は人の前に立つとよくあがる。そういう自分が恥ずかしく、嫌い で、できるだけそういう状況に自分が置かれないように上手に逃げてきたこともある。 逆にそう思われないために自分から積極的に行動することで、「あがる」人ではないと 周りに思わせるようなこともあった。だが、どう繕っていても変わらない自分がいる。 「あがる」ことの恐怖はいつまでたっても消えない。演劇を始めたことの心の奥底の理 由はそんな自分からの決別であったのかもしれない。 「壁」(*シアターファクトリー独自の稽古の一つ)を始める時、いつもそんな自分と 対面する。「あがってしまっている」自分を「落ち着け」「落ち着け」と言い聞かす。 そのとき自分が取ってしまう行動に二つのパターンがあることに気付く。一つは、腹を 括って思い切り自分を放り投げてしまうこと、もう一つはただただ「あがる」自分と対 峙しながら必死で集中していること。やっている時の感覚は前者は比較的に気持ちがい いが、後者は逃げ出そうとする自分をつかみながら耐えている感じだ。 「あがる」・・・。自分と決別するには前者の方法を取るのがいいと私は自分勝手に思 っていた。そうした方が自分にも充実感があった。ところが、「壁」が終わるとそんな 自分の勝手な思い込みとは正反対の言葉を林さんから聞かされる。前者の状態で終わっ た時、林さんは必ず「上田さん、浅いよ。表現が表面だけで浅い。もっと内面の深いと ころを見なければダメだ。」と言う。なかなかその意味を理解できずに「投げ出さす」 ことと「さらけ出す」ことの違いが未だわからずにいる。ただ、「あがる」自分を嫌悪 することはないと思えるようになった。この「あがる」自分の中に自分の何かが存在す る。そこから逃げずにしっかりと見つめることこそがこれからの突破口になるに違いな い。(2004.5.17)
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