演劇ワークショップ
![]() 基本動作は、年数かけて,繰り返し稽古することが重要です。結果をすぐに求めると、 ながつづきしません。継続することが大事です。日々精進、亀の歩みで、です。合宿な どで、ハードな稽古の後、休まずに継続すると,突然一皮剥けたように、コツをつかま えて上達することがあります。たとえば、5年かけて体得した技は、期間中の総時間を短 期間に集中して稽古すれば得られるものでは無くて、年数は誰にでもかかるものです。 「想像力」 人間は、想像力を働かすことによって生き延びてきました。前に立ち塞がる岩の向こう に、目に見えない何かがある。その想像力と期待で人間は生き延びてきた。 「我あり、故に我思う」 動作をするときには、頭で判断しない。頭は無心で,自分を客観的に見ること。概念や 予断から入るのではなく、具体的な客観的なそのものを判断することから始まるように する。予めの概念は、本質を見逃すことがおうおうにしてあって、弊害になることもあ る。「我思う故に我あり」から「我あり,故に我思う」が身体論だろう。 「身体の極限状態が表現の出発点」 頑張るところで止まらずに、更にその先の踏ん張るところまで身体をもってぃってそこ でもちこたえる。極限の状態が表現の出発点になる。楽すると体がだるくなる。極限ま でもっていくと体の中にエネルギーが溜まってくるものだ。 「周囲に包み込まれる」 相手の声を聞いて、受け止めて、理解する。周りを感じ取って、その中に包み込まれる ようにする感度を持つ。全体を感じて、自分もその場に合った声を出す。受身であって しかも能動的に。息は溜めて抜かない。溜めた状態で声を出す。相手と対峙して、エネ ルギーを交換する。 「ファリファリの基本」 Fメソッドの基本運動(ファリファリ=ふわりふわり、という言葉に象徴される脱力 からの基本運動)は身体全体にエネルギーを満たすように、周囲にエネルギーの磁場を 作るようにする。肩から肘にかけて力をいれて、手の先までエネルギーを流す。下腹にエ ネルギーを溜める。下半身にエネルギーを溜めて、エネルギーを体の中に満たす。丹田 に溜めがあって、腰が入っていると体が大きく見える。これを身体の拡張と言う。地べた からのエネルギーは、足をつたって丹田に溜める。丹田にたまったエネルギーは、手の 先へと伝わって、身体の拡張へと繋がる 「身体は絶えず変化している」 動作は一定のリズムでなく、緩急や緊張の張りと緩みのリズムで変化している。そんな 中で、いつの時代も丹田は身体の重心を保ちつづける。 「身体の愉快」 身体論の目的は、心底からの自由と愉快でありそれを達成するのに魂の果たす役割は大 きい。芸術はそれを達成させてくれる。方法や手段に振り回される事無く本来の動きを 主体的に行うようにする。 「身体感覚は21世紀のテーマ」 従来の頭で考えた観念論や様式論から、具体的なものをどう表現するかが今後問われて くる。ヨーロッパの観念論から日本の歌舞伎や能の身体表現が注目されている。世界に 先駆けて、日本では古代から身体表現が文化として定着していた。観念や予断は、本質 を見逃すことが往々にしてあって観念は弊害になることもある。 「スポーツではない」 演劇の表現形式としての身体活動は、スポーツではない。 演技は形而上的に捉えて表 現された、深い精神性が感じられるものでなければならない。演技者はそのために豊か な想像力が必要になる。 「負荷をかける事で自由になる」 身体は、自然に任せると楽な方へ楽な方へと動くようにな る。楽な方へ行かないよう に負荷をかけてエネルギーを蓄える。負荷のかかった姿勢で、それを超えた時に自由に なる。精神的にも、敢えて負荷や枠組みをはめて、大きい負荷を抱えたままで表現す る。溜めをつくって普通の動きをする。それを克服できた時に自由を自覚できる。 「内面の自分を探りながら、対話しながら、外に向かって表現す る」 内面の自分を探りながら対話しながら、外に向かって表現する表現している時は、内 面の自分を見つけながら、相手を感じながら外に向かって表現する。内面がスカスカに ならない事が大切。それによって本人の個性が表現出来る。 「両義性、往ったり復たりの交流、皮と肉との紙一重の感覚を磨 く」 両義性往ったり復たりの交流、皮と肉との紙一重の感覚を磨く二者択一の、どちらか一 方をとって表現するのではなく、反対概念が両方とも意味を持ってくることがある。 両 方が螺旋状に関わりあって渦巻きのように前に進んでいく。「前に進んだり、後退 したりしながら前に進む」、「右に行ったり左に行ったりしながら前に進む」、「良い は、悪いで。悪いは良い」と言うような紙一重の微妙な感覚を磨く。 「言葉を意識的につかまえる」
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