Last modified: Wed Sep 30 22:27:21 1998

1998年9月

9/30
崎山氏は,一部のセキュリティ屋さんが「猥褻物が青少年にとって有害」という主張をしていることについて,なぜ有害かという部分をないがしろにしていることを述べている(参照).彼らにとってはそんなことは「問うべきじゃない前提であって、とにかくそう 『きめてる』」ように見えて「いやな感じ」を受けているようだ.
 しかしながらどこの学問分野でも「問うべきじゃない前提」というものは確実に存在する.でその前提の妥当性はまたそことは別の分野がテーマにしていたりする.もちろんその別な分野というところにも当然「問うべきじゃない前提」というモノがあって,また別な分野がそれをテーマにしている.それをずっと遡っていくと,最終的に哲学という分野にたどり着く.そこではどこの分野もテーマにしたがらないような煮こごった前提をテーマにしている.まあこの「問うべきじゃない前提」はクーンの言うパラダイムorディシプリナリマトリックスと言えば通りがいいかもしれない.
 で,どの分野でもそういう「問うべきじゃない前提」について話すのが非常に好きな(少数の)人達と,あまり好まない,どちらかという嫌いな(大部分の)人達に分かれると思う.分野によってその比率はだいぶ変わってきそうだがわからない.
 でもって普通に学問している分(同じ分野の人達とおつきあいをしている分)にはそれでいいのだけれども,実際の問題解決のための営みにおいては事情は変わってくる.そのような場合は実際に眼前にある問題を解決しなければならないのだから,それに必要な問題を「問うべきじゃない前提」として扱って括弧に入れておくという姿勢がとれない.そのような普段「問うべきじゃない前提」を問う必要があるため,上述のような問題解決のための営みは必然的に学際的になってくるのだ.学際性という言い方は色々なところで口にされているが,その必要性の一つとしてこのようなことがあげられる.そのような観点から鑑みるに,学際的な姿勢というのはつまり自分の分野での「問うべきじゃない前提」は,他の分野でどのように扱われているかを知ることではないだろうか.そのためにはそれ以前の自分の分野での「問うべきじゃない前提」はどんなモノがあるか,そしてその正当性は内部でどのように主張されているか,といったことを把握していることが必要だろう.学際性というと視線の向きは外のような印象を受けるが,かなりの割合で内向きの視線も必要なのではないだろうか.
9/22
 いわゆる「有害情報」が子供に与える影響についての科学的検証燃せずに規制したがる人がいるわけだが,そのような子供に有害情報を与えるなという態度に関する考察をフーコーがしているらしい(ここ参照).それによると「子供は成人の葛藤に直面しないですむ代わりに、幼児期の生と現実の生の間の矛盾という重大な葛藤に直面するようになる」んだそうな.「幼児期の生と現実の生の間の矛盾」というのは具体的になんなのだろうとか考えてみると,あれだ,思春期の「大人は汚い」「大人はわかってくれない」とか言うやつなのだろう.大人が今まで自分達に教えてきたpoetic justice(おとぎ話のような単純な因果応報的な正義感)が通用しないことに絶望してしまうあれだ.
 そうすると子供のうちから有害情報に触れさせているとそういう「反抗的な青春」がなくなってしまうのか? それはそれで寂しいような気がする(笑).規制派の人達はそういうノスタルジーのために有害情報を子供に見せるのを規制しようとしているのだろうか(笑)(「子供に見せるのを規制」するのではなく大人にも見せるのを規制しようとしている点も問題なんだけどね).あるいはそれではロッケンローラー(笑)の存在意義がなくなってしまうので,彼らの救済のためか.ずさんな経営をした銀行に公的資金を投入するくらいならばそれくらいのこともありか.あるいは暴走族という伝統芸能がなくなってしまうことを防ぐためか.
9/21
 先日の近況に猪木のことを書いたが,それについて「“猪木”と来て“思いをせる”と来るのはこりゃ愉快」(なんか「のんきな父さん」みたいな台詞回しだが)という感想が届く.そういえば馳も国会議員になったんだよな.でもプロレスラーが国会議員になれる国と主席に忠誠を誓う国では前者の方がまだましか.

 昨日の『スーパージョッキー』に「サウスポー」なる女の子三人組が出ていたが,そのうちの一人は先日話に出た川村ひかるである.そのデヴューシングルは「ドキドキプリティリーグ 熱血乙女青春記」なるゲームの主題歌らしい.その歌詞とゲームの内容をみて,いかにも馬鹿なおたく狙いの見え見えさに悶絶する.まあただああいう馬鹿なおたくさん達はそういう見え見え性をふまえた上でわざわざそれにのって買ってしまうことに美学を感じているようで,さらにそれを指摘すると,自分はそういう点に惹かれて買ったわけではないとそれ以外のポイントを色々挙げて妙に自分の行為を正当化したりするのもまた私にとっては悶絶モノなのである.好きなら好きって言えよ,すかしてんじゃねえよ.
 いや,そういう話じゃなくて川村ひかるだ.彼女も深夜番組にでずっぱりでさらにそういうおたくねらい企画モノに参加しちゃったりして,すっかりマイナーアイドル道を驀進中である.このまま頑張ってマイナーアイドルのままでいてほしいものだ.

 そんなことより学会準備,という現実は伏せておく.

9/17
 ヴィデオ『金賢姫 私と北朝鮮』『金賢姫 北朝鮮を語る』の鑑賞コメントの続き.モンティっぽいという話のところで書き忘れたのだが,そのヴィデオの中では子供たちが「急げ愛の冷凍車」という歌を歌っているのである.こういう題名をつけるセンスはすばらしい.歌詞の内容は,「海岸で捕れた魚を主席のために運んでくる冷凍車は愛が詰まってる」とかそんな感じ.しかもその曲は五拍子だったりする.琴を弾いている娘が器用に余る一拍のタイミングを取っている様に感動(笑).
 また1995年平壌国際体育文化祝典大会の模様も収録されていたのだが,貴賓席にあの猪木が.猪木が国会議員になれてしまう日本の民主主義という制度に思いを馳せる.

 最近この近況はさっぱり近況でないという意見をもらったので近況を.朝起きて朝御飯食べて大学に来てメイル読んでニュース読んでメイル書いて色んなウェブページ見て論文読んで論文書いて晩御飯食べてメイル読んでニュース読んでメイル書いて色んなウェブページ見て家に帰ってテレビ見て夜食食べて寝る,という規則正しい生活を送ってます.毎週金曜日は近所の大学で非常勤講師を.「情報処理」と称してWordとExcelを教える.自分でも使っていないソフトなのになぜか教えている.授業の内容は講師に一任されているので,別にMuleとYaTeXでLaTeX,さらにperl,とかでもいいようなのだけど,面倒.それに「情報処理」という講義に学生が何を求めているのかを考えるとねえ.情報処理の知識ではなくアプリケーションの使い方なのよ.
 いかん,また近況でなくなってきた(笑).

9/16
 崎山氏によると,ワイセツ物の「未成年者への有害性はNCSAの調査で立証されて」いるらしい.ううむ,様々な学者や調査委員会が何年かかっても明確な答えが出せていないのに,そういう人間の態度変容についてはあまり詳しくなさそうなICSA(旧NCSA)があっと言う間に立証できてしまったのは驚く限り.
 このワイセツ情報の未成年者への影響についてのこれまでの調査研究についてはあとでちょっとまとめておきたい.ICSAの調査はaltavista"obscene and www.icsa.net"という条件式で探してみたところ,こんなのしか見つからなかった.この文章自体は社会心理学的に匿名性の影響を述べているようだ.つまり人間の自然な性質として,匿名性が保たれる状況ではこれこれのようなことが生じるよ,という話である.参加者たちの自浄作用とかを強調する立場よりも好感が持てる.この自浄作用を強調する立場というのは,人の自然な性質が理性によって克服できるという僭越な立場であるからだ.

 ちなみにこの崎山氏はインターネットへの規制に反対する人の筆頭に数えられる人である.私自身は彼の主張に一から十まで賛成するわけではなく,ある種の規制が必要ならば導入もやむかたなしと思っている.ただし今の状態だと,現状がどうなっていて,それは何が原因で,そして規制を導入することによってそれらが解消されるのかといったことについて,ある程度学術的な検証に耐えられる検討なしに規制が導入されてしまいそうである.それは単なる規制したいという欲望の発露に過ぎないし,そもそも効果が上がるという確証なしの導入で税金の無駄遣いだし,とにかく理性的な近代国家のやることだとは思えないので,私は反対の立場である.なんか政策立案に携わる人は社会調査についての基本的な知識を持っていないように見えてしまうのである.そういう観点を提示する人を「インターネット左翼」とか「市民運動家」とかよんでしまうような人がいるようじゃねえ.

9/14
 友人からヴィデオ『金賢姫 私と北朝鮮』『金賢姫 北朝鮮を語る』を借りて鑑賞する.北朝鮮で放映されたテレビ番組のダイジェストを見てそれについて金賢姫がコメントするというものだ.
 NHKで放映されたモンティパイソンを見てから見たのだが,モンティの続きを見ているような気分になった.例えば「全英プルースト要約選手権」「全国人民学校生徒の暗算競技 40年前の曜日計算ほか」「学校の授賞式」「戦士たちの訓練も見てくださる」「明るい農村スペシャル・チャイコフスキーの一生」「ドラマ これが我が家だ」「これが樹木だ!!」とか題名を並べて,どれが北朝鮮のテレビ番組でどれがモンティパイソンのスケッチなのかわかるだろうか?
 それから,妙香山と言う山の景色がすばらしいので,故金日成が「妙香山は天下一の山.開発などせずそのまま残しておこう」と言ったので,その発言を山の岩肌に刻み込んだという話が紹介されている.景色を保存しようという発言をその岩肌に刻み込んで景観を損なってしまう(まあ本人たちはそう思ってないようだけど)というのも冗談みたいな話で,これもモンティパイソンあたりがやりそうな話.ジョン・クリーズが「すばらしい景色だ.そのまま残しておくべきだ」とか言うとエリック・アイドルが「それではそのように岩肌に刻み込んでおきましょう」とか答えてしまいそう.でもって「そうしておけばいつまでも消えなくて便利だ」とか言っちゃいそう.
 ちなみに例の『お笑い北朝鮮』にも,木を削ってそこにペンキで「木を大切にしよう」と書いている話が紹介されている.なんつうか,この自己言及のゲーデル的なパラドックスへ対する鈍さというのは社会主義的だなあと思う.なんせ自分の理論で自分の理論の正しさを証明してしまうところだからね.
9/13
 警察白書の「サイバーポリス」というネーミングに失笑.

 私の実家のある町と同じ郡のお隣の町である亘理町で,「暴走族根絶運動推進条例」が制定されたそうだ.要するに族なやつらに改造ハンドルやらガソリンを売らないというモノらしい.まあそれはそれでいいけど,あれはもはや伝統芸能なのだから,いっそ町内会での若者参加の行事にするとかの方向に進んでほしい.

 朝日新聞に堺屋太一氏が連載していた小説『平成30年』というのがすごく「と」だったらしい(参照1参照2).平成30年の日本を予測した小説らしいが,少なくともその中での技術的なことに関する記述がめちゃくちゃらしい.なんでも"CG"(Computer Graphics)と"CD"(Compact Disk)の区別がついていないらしいんだから.
 いわゆるSF小説なんかは同じようなことをしているわけだが,大概もっとリアリティがある.堺屋太一氏の文章を読むような人たちのほとんどはSFなんてモノを馬鹿にするんじゃないかと思うのだが(偏見),そういう自分が読んでいる予測小説とやらはSFそのものじゃないだろうか.『トンデモ本』のどれかに「SFを読んだことがない人がSFを書くとしょうもないモノができる」というような下りがあったが,それを彷彿とさせる.

 とあるwebページに,「XX大学院には,就職活動に落ちるような社会で通用しない人間ばかりいる.そういう大学院生は大学生を育てる人間を育成する大学院にいるべきではない」という熱い訴えがあった(大意.URLは失念).かいた本人はどれくらい真剣にそう思っているのか知らないが,はたでつっこむ分には面白い.
 まずそもそも,そういう大学院生が大学生を育てる立場になっている頃には,最低一つは就職試験に通っているはずなんだけどなあ.そうでないとそういう立場にいれない.それにこれは,とある大学院に問題があるという文脈なのだが,それなら他の大学院の院生は大部分就職試験に通って内定もらっているという事実がなければ「特定の大学院が駄目」という話の展開はできないんだけど.そして大部分の大学院で大部分の院生は内定もらったことがあるという話は聞かないので,結局「ほとんどの大学院は駄目」という結論しか導き出せない(この結論が実態と鑑みて適切なモノかどうかはまた別の話.ここでは論理展開についてのみ述べている.というか,わたしは「実際に鑑みてもっともらしいが実際理屈はいいかげん」という事象に興味があるのだ).ついでに,バブル期の猫も杓子も内定内定な就職活動を知っている私にとっては,「就職試験に通る=社会に通用する(って何?)」という前提も非常に疑わしい.実際この時期にとられた人のほとんどはリストラのリストに真っ先に挙がるらしいし.
 それにこの言い方だと大学が就職予備校ととらえられている現状を肯定しているよう聞こえる.大学生を教える立場の人は就職試験に受かっていなければならないと主張するのはそういうことなのだろう.しかし大学の理想とする存在意義はそうではないはず.少なくとも,このような一聴理屈が通っているように見えて実は論理もくそもないただの思い込み,というような言論をしないような人間を育て,そういった言論を見分けてだまされないような人間を育てるのが大学の役目の一つであることは間違いない.
 この著者も特定の大学院批判をしているということはその大学院に居たことがあるのだろう.それにしてはお粗末な論理展開で,こういう人材ばかりを輩出しているのならば就職予備校扱いしかされないのは当然だろうなあ.
 ちなみに私は,こういう熱く語るあまりに理屈もくそもなくなってしまっている主張を取り上げるのは,嫌いだからではない.人間が生来持つ非論理性の実例として,愛(と言うか自分を含むmere mortalの性についての哀しみ)を持って見ているだけなので誤解しないように.私だって場合によってはこれくらい筋道のない話をしかねないのだから.

9/10
 今読み返すと9/8のネットニュースの話はちょっと拙速だったな.まあせっかくだから消さないでおくけど.ちなみにコントロールコードにPGPを使って認証するというシステムはすでに実際に使われているのは,これを書いた段階では知っていた.しかし最近は第三者による記事のキャンセルなどが問題になっているので,キャンセルコードにも使えるようになってほしい.記事の全てにPGPでサインを,ということになるだろうな.とりあえずネットニュースは無法地帯かどうかはともかく,自浄作用を望めるほど参加者に責任を感じさせるシステムにはなっていない.
9/8
 『警察がインターネットを制圧する日』の感想の続き.山崎氏の「エロ画像あふれる『ニュースグループ』の奥深い世界」では,ネットニュースの世界の自浄作用を期待しているが,私の感覚ではもう自浄作用を期待できないところまで来ているように思う(*.binaries.pictures.erotica.*の画像投稿に限らない話で).そりゃ昔は研究者が使っていたのである程度の暗黙のマナー(研究者仁義と言った方がいいか)が期待できただろう.つまりネットニュースの技術的な仕組みとか議論のやり方とか.しかし今となってはそういうバックグラウンドを持っていない人が増えている.理屈すらろくに立てられないやつばかりの状態でまともな議論ができようか.
 とりあえずネットニュースのシステム,つまり誰でもコントロールコードが流せて記事をキャンセルできたりとか,認証システムが全くないとか,そういうシステムでは十分安全とは言えない.言ってみればMS-DOSみたいなもので権限によるファイル保護やら認証システムがないのである.そういう認証・保護システムを持ったマルチユーザーシステム(例えばUNIX)と比べてMS-DOSは技術的によくないという話はよく聞くが,同様の理由でネットニュースのシステムももうちょっと技術的にどうにかならないか.分散システムということの難しさはあると思うが.
 しかし分散システムである程度以上のセキュリティ強度を達成するというのは,例えばSquidに代表されるような分散型http cache serverシステムにも応用可能だし必要になってくるのではないだろうか.
9/7
 先日の近況で「ワイセツ規制を語るには社会防衛という観点が必要」というようなことを述べたが,そう述べたのはその考え方が適切だからではなく,ワイセツ規制のおぞましさを明確にしてくれるからだ.
 「社会防衛」とは,要は大多数の人に不快感を与える少数を圧殺することに他ならない.これはいわゆる民主主義とは正反対のベクトルに向いてしまう可能性のある行為である.まず「大多数」をどうやってはかるかとかどこまでの「不快感」を不快感とするかと言ったところが問題だ,具体的には例えば「中山秀征の芸のなさは不快なのでテレビに出ないでほしい」(例えば,よ)という程度の不快感を許すかどうか,とかそう思っている人がどれくらい居るかだ.「そんな中山なんか些末な問題」と思うかもしれないが,その時点で些末に思う大多数の人間が些末に思っていない少数の人間を抑圧していることになってしまう.またどの程度の人数かというのはアンケートなり選挙なりではかるのがベストなわけだが,必ずしも全ての問題についてそういう解決策をとるわけにはいかないというところが問題.目分量で「おそらく大多数」という態度を取らざるを得ない場合があるがそれが正しい保証はない.
 ここら辺の曖昧さによって,例えば民主的な政治を求める人々をツンドラの肥やしにしていた北の大国みたいなことが起こるのである.例えばワイセツ規制を求めるPTAな人達はそれを「明るい社会」(ってなんだ)を実現する行為だと思ってやっているようだが,こういう背景を知っていてそういう風に思っているのだったらブラックユーモアだ.
 よく言われるワイセツの定義に「普通人の正常な」云々という語句が見えるあたりにワイセツ規制は社会防衛に他ならないということが見て取れる.「普通」も「正常」も結局大多数の人がそう思うから「普通」「正常」なのである.

 先日CanopusのRIVA128ZXを使ったカードを購入したのだが,その時はPCIを使う2D/3Dチップはこれで最後,新チップのRIVA128TNTはAGPのみでしかも高価,という話だったので買ったのだ.しかしこの新しいTNTチップでもかなり安価らしい(参照)しPCI版も出るらしい(参照).ちょっと失敗したか?

9/3
 警察がインターネットを制圧する日を読む.とりあえず谷岡康則の「『わいせつ』で何が悪い?」はいまいち.これを読むのだったら別冊宝島174の『威風堂々!ワイセツ大行進』に掲載されている,副島隆彦の「それでも揺るがぬ175条」の方が理念的な部分まで触れていて面白く有用である.少なくとも谷岡の文章には「社会防衛」という観点が欠けている.ただ肖像権の観点を持ち出した点は多少違うかな.
 全体的には,今回の風営法改正に伴う警察の権限拡大に対する危機感が感じられる.あとは法曹関係者のインターネットへの無知への危機感も.後者は法情報学と称する分野が頑張ってくれるとして,前者だ.今回の風営法ではプロヴァイダが自分ところにワイセツ情報を発信するページがあった場合はその発信を防止する義務がある.これについては,猥褻な情報を発信していることを発見した場合にしか義務は発生しないし,その義務の内容も曖昧だし,それを起こったた場合の罰則もないのでプロヴァイダはあまり気にすることはないと言う論調もある.がその曖昧さが逆に警察の恣意的な裁量によって不必要な権限を拡大させてしまう温床になり得ると指摘されている.今の時点での感想としてはプロヴァイダ側の義務と責任を明確にすれば7.8割の問題はとりあえずの解決を見そうな気がするので,その部分が曖昧ないない今の状態は問題だろう(とは言え今の時点では私は大学の回線を使っているので他人事だが).
 またこの風営法がかかるコストに見合うだけの効果を上げないだろうという指摘もある.ここでも指摘されているとおり,お役所は費用対効果といった観点はあまり重要視していないようだ.しかし昨今問題になっている行政のスリム化のためにこのような観点は重要であろう.
 まあこういう観点は,法を制定する立場の人は時としてあまり重要視していない部分に見える(少なくともこの法律を制定した人達は).まあ一般に法律を制定するような人達は経済学者でも警察の見張り番でもないのだからその姿勢は間違ってはない.法律を制定すればそれ以外の要素は勝手についてくるとか思っている単なる法律馬鹿と言われるかも知れないけど,それが専門家という者(笑).でもこういう観点を提出する人を「市民運動家」(って何?)とか「インターネット左翼」(って何?)とかラベル貼りするのは法律すらつかないただの「馬鹿」なのだろうな.

 川村ひかるがついに「BIKINI」に.同じく深夜番組内の『すっぴんDNA』から順調にステップアップ(笑).中京テレビからテレビ東京へ.

9/2
 昨日Sports-i ESPNで,コパ・イタりアの1回戦第2試合の,中田が所属するペルージャ対カステル・ディ・サングロの試合を見た.まあ報道されているとおり中田は移籍問題で出場してはいないが,どんなチームなのかということで見てみた.
 が,これはひどい.解説の杉山茂樹さんも思わず失笑してしまうような内容.J-leagueでもかなり下のレベルでないとこういう試合は見られないだろう.感じとしては広島対福岡みたいな.それより低いかもしれない.JFLの真ん中辺かな.これは中田でも十分レギュラーになれるわ.でも大変そうだ.試合結果は1-1の引き分け,しかしカステル・ディ・サングロは第1試合を勝っているのでペルージャの1回戦敗退が確定.トーナメントなのでこれでペルージャのコパ・イタリアはおしまい.もうちょっと頑張ってほしい.
9/1
 北朝鮮がミサイル実験.それを聞いたときの狼狽というのはいわゆる平和ボケなのだろうなあ.

 最近は毒物がやたらめったら食べ物に混入されたりするご時世だが,気になったのが東京の中学生にクレゾールが送られた事件.いっちゃあなんだがあれはどう見ても怪しさ100%.これはクレゾールが送られてきた(が飲まなかった)女子もそういっているので一般的な感想だろう.それをどうして飲んでしまうのだろうということが非常に気になった.こういう怪しげさを疑わずに飲み干してしまうあたりは,オウムの教義をそのまま信じてしまった人達に通ずるモノがあるというのはうがちすぎかなあ.


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