Last modified: Tue Aug 18 18:31:54 1998
それで納得したのだが,いわゆる社会科学を自称するような分野にいる友人に論争を挑むと,明らかに論争に不慣れであるのが見て取れるのだ.それらの分野ではまず「論争」というモノは行わないらしい.「論争」という場面に明らかに困惑するか,あるいは(意見に対するものとは受け止めずに)自分自身に対する攻撃と受け止めたりすることが多い.多分そういう分野ではいわゆるゼミの時間も教官が学生の発表内容の問題点を批判したりはしないのだろうな.
まあその分野内で仲よくやっている分にはそれでいいのかもしれないが,昨今流行りの「学際交流の場」とやらにでてくると困るのではないかと思うのだが.例えば科学とは反証可能性であり,反証可能性とは自分の研究への反論はきちんと受けて,再反論したり研究を修正したりすることと思っているやつらが社会科学の科学性を真に受けて,反論をし論争場面になることもあるだろうに.まあこのような反論やら論争が反証可能性に関係あろうとなかろうと,反論・論争はデカルトの懐疑主義やらプラトンの助産法につながる重要な技術である.そういう場面への訓練を行わない分野は自分の分野の殻から踏み出すのに苦労するのではないだろうか.
ちなみにこのVALDESのページの「理論について」には「クーンのいうように、よりよい仮説が採られて発展するなどというきれいな話ではない」という発言があるが,クーンはそんなこと言ったのか? クーンと「発展する」という言い方はそぐわないし,彼は「仮説」については述べていない(多分「パラダイム」のことを言いたかったと推察する)し,古いパラダイムより新しいパラダイムのほうが「よりよい」というような価値判断もしていない.
fjやら一部のweb page上の掲示板などによく見られるのだが,「批判をするのは非建設的だ」とか「建設的な意見・批判を」とか言う言いぐさだ.これらはその批判に反論できないやつの言い訳にしか受けとられないが,一寸の真実は含まれている.つまり批判しただけではまったく建設的ではない.その批判を受けた側が,その批判をうけて自分の意見・理論を修正するなり反論を組み立てて自分の意見を強化しようとしない限り,建設的にはなりえないのだ.つまり批判が建設的になるかどうかは受け取る側の態度次第である.
したがって批判を受けた側が上記のような言い方をするということは「自分は自分の意見・理論を修正なんかしません」「反論して自分の意見を強化したりしません」という態度の表明なのである.それならばなぜ自分の意見を表明するのだろうか? それは人の批判を基に自分の意見を修正・強化するためではないだろうか.もちろん他に例えば「自分の意見を広く知ってもらい社会に影響を与えたい」とか言う理由もあるだろうが,そうだとしても影響を与えるためには説得力のある意見でなければ無理で,そのためにも意見の修正・強化は必然なわけだ.それ以外の理由としては単なる自己満足のためというのもある.それはそれで否定しないが,それなら人が議論しているところに書くべきではない.そんな自己満足のためならば便所の落書きでも書いていればいいのだ.
少なくとも学問の世界では「理論発表→批判→理論の修正・強化」というサイクルが受け入れられている.そこで批判されたときに「建設的でない」という反論はタブーである.上記のように建設的であるかないかは受け取る側の問題であるからだ.それを言った瞬間その人は学問の世界からははずれていく.「学問の世界」とは何かというと色々意見はあるかもしれないが,少なくとも自分の意見・理論を研鑚していくという部分は欠かせない.上記の発言によって修正しないという態度を示した者が,その世界からはずれるのは当然であろう.
疑似科学者はそこら辺を分かっておらず,批判されると「あいつは反対派(その他CSICOPとか市民運動かとか色々)だから反論するのだ」(この言はトートロジーだ.反対意見を言うから反対派なんだけどね.でもそんなことは彼らには関係ない)とか「何かやましい動機があるから批判するのだ」(ここから陰謀論に走るんだよね)とか言う言い方をしたりする.ここら辺は疑似科学批判本として有名(大豆生田氏の「疑似科学と関連領域の文献リスト」にも紹介されている)なマーティン・ガードナーの『奇妙な論理』に詳しい.
話はそれるが,学問をしていきたいと思うならば疑似科学ウォッチングは必須であると私は考えている.大学なりでは学問世界で許される論法というのは教えてくれるが(くれないところも多いようだけど,理想として),許されない論法を必ずしも十分に教えてくれない(これは私の感覚).その許されない論法の宝庫として疑似科学というモノは観察すべきであると考える.その許される論法と許されない論法のコントラストからでないと許される論法を会得できないだろう.戦争とのコントラストがないと平和のありがたさがわからないように.
そういえば数日前にもCanopusのZXR128P GTSを買ってしまった.2D機能はこれまで使っていたS3Vision868と比べてさほど変わりはない.多少速いような気もするが気のせいのうちかもしれない.が3Dは速い.まあ3Dアクセラレーションをハードウェアで持っていない868と比べても仕方ないが,PentiumPro200+VooDooRush+Win95とさほど変わらない体感速度である.
しかしRIVAもすぐに新チップがでてくるしな.
上で「主張する会」の主張ということを書いたが,そもそも彼らの主張で参加者すべて同意しているものは少ない.せいぜい「ハッカーをクラッカーと呼ぶな」という点のみであり,なぜそのような主張をするかと言った話や「ハッカー」の語源と言った細かい話については意見が食い違うようだ.例えばその例としてはここで挙げられているような論争が内部で行われていたりする.この会について言及する場合はこういった会の内部での意見の相違についても注意を払う必要があるだろう.
もう一つ彼ら全員で一致していると思われる主張は,「不勉強なマスコミ」であろう.例えば新聞記事で「ハッカー」という単語を誤用している.あるいはまったくハッキングとは呼べないものをハックと呼んでアングラヒーローとして奉っている,と言ったもの.
前者はこの文章などに強く表れているし,現在はなくなっているようだが「ハッカー報道を採点する」というページもあった.これについては「新聞記者は専門家ではないのだから知らなくて当然」という意見(ここからたどれる「ハッカー・クラッカー峻別論について」を参照)という意見もあったりするが,確かに新聞記者は技術の専門家ではないが事件・事象を正しく伝える専門家であり,「知らなくて当然」という言い方は明らかに「正しく伝える専門家」としての責任を無視していると言わざるを得ない.誤った報道は訂正されなくてはならない.それを「糾弾」と呼ぶのは現実から逸脱している.不正確な言葉使いを用いた記事よりも正確な言葉使いをした記事の方が信頼性を感じられるのは当然である.
後者は橋本典明に代表されるようなもの.明らかに「正解」のある題材(UNIX関係の知識など)を間違える間違える(間違いの指摘).これはもはや立場の相違などで語れるレベルではない.
前にこれらの記事を擁護するようにも取れる文章を書いたが,これはそのような「立場」「観点」についてのモノで,これらの記事のクオリティの低さ,つまり事実に基づいていない(=調査が足りない)とか論理展開がいいかげんだとか,を擁護しているわけではない.これらの記事の駄目さは歴然としているし新聞に代表されるようなマスコミの誤報はなくならなそうだ(最近の毒入りカレー事件を見よ).「ハッカー」「クラッカー」の区別が水掛け論だとしても,そのような切り口からのマスコミ不勉強の指摘という観点からは価値のある運動であったろう.
でもって法学(特に法解釈学)についてだが,実際のところ法学は社会科学はおろか学問にすらなりえないと言う見方が法学内にはある.結局は制定された法律を解釈するのが主な仕事なわけだから,その法律自体が変わればこれまでの蓄積は(全てではないが)無駄になってしまう.つまり普遍性がないのである.また法解釈は要は紛争があったときにどちらが正しいかを決めるための技術だが,その時基準となるのは「法律学以前の生の形の価値判断」である.その法解釈学はその判断の後でてくる.その価値判断を正当化するため様々な条文・判例を用いて理屈を組み立てるのである.
一般的な印象としては条文・判例を用いて理屈を組み立てて最終結論に至るような気がするが,まったく逆なのである.そもそも条文の読解法として,条文内にでてくる概念の解釈の仕方は以下の5通りあるのだ.
だからと言って法解釈学はレベルの低い行いだとは思わない.確かに上記のような「結論先行」は学問としては許されない形(アイディアを形にするまでの「方法」としては問題はない.ただ「論法」の形としては許されない)であるが,そもそも法解釈が学問である必要はない,ましてや社会科学である必要はないのだ.それなのに不要に「学問」やら「科学」になりたがっているのは何かのコンプレックスなのだろうなあ.それが何であれ社会を運営する際に欠かせないものであれば十分に価値があると思うのだが.
参考文献:『法律学の正体』1995年,副島隆彦・山口宏著,洋泉社