我々戦後民主主義的科学的教育キッズ(笑)は,小学生のころに大体知能テストは受けているわけです.何かパズル的なのを延々と解かされるというやつですな.でまあそれを受けて「これで頭の良さがはかれるのかあ.確かにそんな感じだなあ」くらいのことを思ったんじゃないかと思います.
でもって多分受けさせる方(先生,さらには文部省?)はどう思っているかというと,「知能検査で知能は科学的客観的にはかれる」とまあそんな感じでしょう.
しかしながら,実際の知能検査を子細にみていくと,とてもじゃないですが知能を「科学的客観的にはか」っているとは言えないのです.確かに,知能テストの問題を作ってその成績を評価する手続き自体は客観的で,おそらく科学的と呼んで差し支えないものであります.しかし,そのそもそもの「この知能テストの問題で知能がはかれるのか?」という点については,小学生の感想と同じ程度の根拠しか持たないのです.つまり,知能検査の問題を作る基準は「こんな感じの問題ならば知能がはかれそうだなあ」と言う感覚以上のものではないのです.
まあ心理学の世界では,このような「こんな感じ」という「感覚」を元に話を進めざるを得ないという状況は多々あるのですが,これを元に「人をはかる」となると,何かと問題が出てきます.
というのは,大体においてこういう「感覚」というものには差別や偏見,つまり実証的な証拠に基づかない決めつけが入っているものなのです.「なくて七癖」と言いますが,我々の「感覚」の中には,事実と異なる素朴な思い込みが存在するのです.
でもってそれを元に人間をはかるとなると,そういった差別・偏見を元に人間をはかっているというのと同義ということになります.これは差別・偏見を助長する以外の何物でもないわけです.
例えば,19世紀には「骨相学」と言う学問が流行りました.人間の頭蓋骨の形からその人の能力などを判断しようという目的の学問です.まあ頭蓋骨からその人の能力はわかるわけがないという所はおいておいて,この学問では上記のようなことがまさに行われていたのです.つまり,その当時は「ヒトで一番優秀なのは白人男性である」というのが当然の「感覚」であったわけです.したがって「頭蓋骨からはかられる数字のうち,白人男性が一番大きい数字がヒトの優秀さを決定する数字である」と言うことになったのです.そして社会では骨相学を元に色々はかってみて,「やはり白人男性が一番優秀である」という結論を導き出すという...一般的にはこれは循環論法と呼ばれ,論理的に正しくないとされているのは言うまでもないですね.
このような「ヒトの能力をはかる」という試みは,純粋に心理学の中で一つの試みとして,可能性を追求するという意味で行われるならば意味はあるとは思います.しかしながら現在のように社会的な現場で用いられていて,あまつさえ人の差別につながりかねないような現在の状況では問題があると言わざるを得ません.
しかしながら教育現場では指導の指針の一つとして,おおざっぱでもいいから児童の知的能力をはかりたい,と言う要望があるのも事実です.ここら辺が知能検査の難しいところですが,今のところ私は「やはり良く知って使わないとね」くらいのありきたりなことしか言えません(暇があったらもうちょっと考えてみたいのですが).ちなみにこの本の著者はこういう見方を生み出す「知能観」にまで言及して,それに代わる新しい「知能観」を提出していますが,これについては読んでみてください.おそらくこの本の一番のポイントでしょうから.
でもって,「良く知る」ためにはこの本は非常にお勧めです.そういった本はこれまではグールドの『人間の測りまちがい』と言う本くらいしかなかったのですが,これはどうも今版元品切れらしいんで(何を考えているんだ河出書房)(注),それに代わる本としてお勧めです.
(注)その後1999年に増補改訂版が出ました.その読書メモも書きました.