再び「銀河鉄道の夜」を読んで・・・私の感想とご案内 

初めて、「銀河鉄道の夜」を読んだ時は、たしか高校生の頃だったと思います。
その時、「天気輪の柱」だとか「三角標」「ケール」等、よくわからない言葉が沢山出てくる上に、
読解力も乏しい私はついてゆけず、面白さは感じつつもよくわかりませんでした。
最後まで読んで、「ええっ!そういう話だったの!!」と衝撃を受けてしまいました。
いつか、もう一度読み直してみたい・・・そう思っていました。

それから10数年が経った数ヶ月前に、なんとなくもう一度「銀河鉄道の夜」を読み出しました。
出だしから、お話の中に吸込まれるような展開。もう一度読んでみると、どう考えてもあのラス
を思いおこさせられるものでした。カムパネルラも乗り込んでくる乗客たちも、これは「死にゆく」
方々が(鳥を捕る人や、主人公のジョバンニ等、異質な人もいますが)乗り込んでくるのです。
どうして、高校生の頃には気づかなかったんでしょうか・・・お恥ずかしい。

さて、この本で私がとても印象的だった所は三点あります。第一点は、「九、ジョバンニの切符」
という章の中にある、以下の部分です。

「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでも、それがただしいみちを
進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」
 灯台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんな、
おぼしめしです」 青年が祈るようにそう答えました。


青年とは、まるでタイタニック号を思わせる難破船に乗り合わせていた家庭教師です。
教え子の二人の子どもを、その子供たちの父親の待つ本国へ連れて行くときに、
二人を連れたまま遭難してしまうのです。青年がその経緯と、心の中の葛藤を語った後、
灯台守が慰める場面なのです。ここで、私自身もとても慰められるのです。
たつきが亡くなった悲しみもきっと、「ただいちばんのさいわいに至るため」の
「おぼしめし」なんだと。私が、そうなるように生きていかなくてはいけないんだと・・・。

この青年が語るなかに、
「どこからともなく〔約二字分空白〕番の声があがりました」とあります
が、この部分は、初期稿では賛美歌320番「主よ、みもとに 近づかん」の歌詞が書かれて
いますから、賢治は320番のつもりだったと思います。
そう、映画「タイタニック」でも320番が演奏されていました。あの曲なのです。
当時日本の新聞でも、このことが伝えられていたそうですから、賢治は知っていたのですね。

第二点目は、最終稿にはない部分なのですが(第三次稿にあります)、ジョバンニが
それまで一緒に電車に乗っていた友人のカムパネルラと別れた後の部分。
(「銀河鉄道の夜」は、初期形(第一次稿〜第三次稿)と最終稿があり、賢治が約10年にわた
り、推敲を重ねています。現在出版されているのはほとんどが最終稿のものだと思います。)

さっきまでカムパネルラの座っていた席に、黒い大きな帽子をかぶった
青白い顔のやせたおとなが、やさしくわらって大きな一冊の本をもっていました。
「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、
ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです。」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。
そしてみんながカムパネルラだ。 おまえがあうどんなひとでも、みんななんべんも
おまえといっしょにりんごをたべたり汽車に乗ったりしたのだ。
 だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、
みんなといっしょに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまえはほんとうに
カムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」


この中の「おまえがあうどんなひとでも、みんななんべんもいっしょに〜〜」の部分ですが、
どんなことを言っているのか、よくわからなくて何度も考えてしまいました。
後になって、鎌田東二著
「宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読」という本に、これは賢治が
「輪廻転生」あるいは、生まれ変わりの問題に直面しているのではないか、と書かれている
のを読み、なるほどそうかもしれないと思いました。賢治はとても熱心な仏教家ですし。
いつまでも、たつきと一緒に行きたいな・・・また会いたいな・・・って思ってしまう場面です。

また、その後のジョバンニの台詞から始まる以下の場面も大好きです。

「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のおっかさんのために、
カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ。」
 ジョバンニはくちびるをかんで、そのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。
そのいちばん幸福なそのひとのために!
「さあ、切符をしっかり持っておいで。おまえはもう夢の鉄道の中でなしに、
ほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いていかなければいけない。
天の川のなかでたった一つのほんとうのその切符を決っしておまえはなくしてはいけない。」

亡くなったたつきへの想いも一緒に、自分の人生をしっかり歩いていかなくっちゃ!
そんな決意を、私も改めて感じるのです。

第三点は、ラストシーンの現実に戻ってからの場面です。
ここでは、ジョバンニと同じように、私も胸がいっぱいになってしまいます。
また、カムパネルラのお父さんはあのような場面でよくぞ、
「あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」と言えたなあ・・・と思います。
母親だったら、取り乱している場面でしょう。父親というのは、このように人前では悲しみを
押し殺すものなのかもしれないな、と思いました。

私の好きな部分を三点ご紹介しましたが、他にも考えさせられる場面が満載です。
難しい解説書なども沢山あるようで、確かに難解な部分はあります。

賢治は、妹の「とし」との死別で大変苦しみ、「永訣の朝」等の詩を残しています。
この「銀河鉄道の夜」も、「とし」との死別の苦悩があって生み出されたものと考えられています。

私は、たつきがこんな列車に一人で乗ったら、きっとみんなが心配して、面倒を見てくれた
だろうな〜などと考えながら読みました。(厳密に言えば、この列車に乗れるのは
誰かの命を救おうとして自らの命を失った方・・・・・ということになるようですが)

最後に余談ではありますが、なぜ私が最終稿にない第三稿の場面を知っていたかというと、
私の手元にある新潮文庫の「銀河鉄道の夜」は、昭和36年発行で昭和54年・39刷
というもの。これは、なんと第三稿と最終稿がごっちゃになって編集されているのです。
私が最初に読んだこの構成のものはとっても良い気がするのですが・・・・・・
でも賢治の考えにそぐわないので、見直されたのでしょう。
現在の新潮文庫では「新編」となっていて最終稿のみがそのまま収録されています。
私の手元の本ががあまりにボロボロなので、もう一冊買いなおそうと思って本屋で見たら、
私が大好きな部分がカットされていて、ジョバンニはいきなり「もとの丘の草の中に、
つかれてねむって」いたので、私はとてもショックで・・・。いろいろと調べてみた次第です。

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