高村椿誘拐事件

(後編)


「大神はん、ウチに何の用や?」
 そう言いながら紅蘭がなにやら丸めた紙を持って事務局に入ってきた。
「…椿ちゃんが誘拐されたらしい、って話は知ってるな?」
「マリアはんから聞いたわ。それでウチに何か用がある、って言うから来たんやけど…。
あ、そうや」
 何かを思い出したかのように紅蘭が紙を渡す。
「大神はんがマリアはんに言ったいう宮城周辺の地図、ついでに持って来たで」
「悪いな」
 そう言うと大神は机の上に地図を広げた。
 紅蘭もそれを覗く。
 大賀もいはそれを暫くじっと眺めていたが、
「…紅蘭、さっき紅蘭もドンを聞いただろ?」
「それはウチも聞いたけど…、急にどうしたんや?」
「いや、あれって確か12時丁度に宮城で空砲を撃つんだよな」
「それがどうしたんや?」
「…ここが宮城だ」
 そう言うと大神は地図の中の「宮城」と書かれた部分を指差す。
「…そして、ここが帝劇だ」
 そう言うと大神は宮城から右斜め下に指を滑らせ、「大帝國劇塲」と書かれた地点を指差
した。
「…それがどうかしたんか?」
「…紅蘭だったら音は1秒間にどれくらいの速度で伝わるか、それくらいは知っているよ
な?」
「何を言い出すのか思うたら…、1秒間に340米(メートル)やないか」
「そうだな。となると12時丁度に宮城でドンを撃ったとしてもこの帝劇にその音が聞こ
えてくる、と言うのも少し時間がかかる、と言うことだな。この地図で見ると宮城と帝劇
は大体2粁(キロメートル)離れているから、大体6〜7秒遅れて聞こえてくるんだ」
「…どうも大神はんの話が見えてこんなあ…。そのドンと椿はんの誘拐が何か関係がある
んか?」
「…実は、椿ちゃんを誘拐したと思われる犯人から身代金を要求する電話がかかってきた
んだが、その時にこっちで聞こえたドンの音より少し送れて電話の向こうからもドンの音
が聞こえてきたんだ」
「それは確かなんか?」
「ああ。確かに聞こえた。となると、もしかたらこれで椿ちゃんの居場所がわかるかもし
れないな」
「…大神はん。確かに大神はんの目の付け所はええと思うで。でもまだそれだけじゃなん
とも言えへんで。音いうのは四方八方に広がっていくもんやからな」
「…それはわかっているよ。もう少し手がかりが欲しいところなんだけれど」

 その後、警察が帝劇にやってきてその対応に追われることとなり、結局その日は誘拐さ
れた椿は犯人と共に何処かにいるらしいこと、翌日昼頃にもう一度犯人から電話がかかっ
てくること、などを話して翌日の電話を待つことになった。
    *
 その翌日、10時を過ぎた頃だった。
 帝劇に来た刑事たちと今後の対応を反していた大神たちの下へ、
「…失礼します」
 と事務局に何人かの男が入ってきた。
「…どなたでしょうか?」
 あやめが聞くと。
「あ、警察の者です」
 よく見ると確かに男の中の一人が警察官の制服を着ていた。
「警察の? 何か新しい情報でも入ったのでしょうか?」
「…そういうことになるかもしれませんが…。こちらの方が皆さんにお会いしたいと…」
 と、一人の女性が事務局に入ってきた。
「…どのようなご用件でしょうか?」
「…いえ、この方のご主人が、もしかしたら今回の誘拐事件の犯人ではないか、と言うん
ですよ」
「何ですって?」
 するとその女性は、
「はい。警察の方にも話したんですけれど、どうも皆さんの話した特徴から言って主人で
はないか、と。しかもこちらの売り子さんの誘拐までするなんて…」
「…なにか思い当たる節でもあるんですか?」
「…ええ。主人は小さいながらも町工場を経営しているんですが、最近経営が行き詰って
あちらこちらからお金を借りていて、いつの間にかその額も1万円を超えてしまって…」
「1万円ですって?」
 当時の1万円と言ったら相当な金額である。
「…勿論お金を返す当てなんてありません。それで主人はどうにもならなくなって銀行を
襲ったのではないか、と…」
「そのとばっちりを受けたのが椿だった、と言うわけですね」
「はい。私も主人も帝劇のお芝居を何回も見たことがありますし、売り子さんのことも知
っていますから、それを知って主人は身代金の要求を考えたのではないか、と」
「…」
「私も最初に話を聞いたときには信じられませんでした。でも、特徴を聞くと確かに主人
とよく似ているんです。しかもこちらの肩にまで迷惑がかかるような事をするとは…。お
願いします。何とか主人をこれ以上罪を重ねさせないで欲しいんです」
 それを聞いたあやめは、
「…お話はよくわかりました。では奥さんは一旦家へ戻っていただけませんか?」
「しかし…」
「お気持ちはよくわかります。ですが、この先のことは私達や警察の仕事なんです。大丈
夫です、これ以上ご主人に罪を重ねさせるようなことはさせません」
「…皆さんがそこまでおっしゃるのなら…」
「かすみ、この人を送ってあげて」
「はい」
 あやめの言葉にかすみは頷くとその女性と共に帝劇を出て行った。
    *
 時計がそろそろ12時になろうとしているときだった。
 帝劇の事務室に置かれてある蒸気電話の呼び鈴が音を立てた。
 一人の掲示が手を伸ばそうとすると、
「…オレが出ます」
 そういうと大神は受話器を取った。
「…もしもし」
「…あんた、昨日の軍人さんか?」
「そうだが」
 そういうと大神はなぜか左手に嵌めてある腕時計を見る。
「…身代金は用意できたのか?」
「…確か5万円だったな。心配するな。ちゃんと用意はしてある」
 本当は用意も何もしていないんだが、こういったことにも駆け引きが必要と思ったのか、
大神はそう言った。
「…いいか、一度しか言わないからよく聞け。身代金の入った鞄を有楽町駅に持って行け。
そしてだな…」
 そのとき、丁度12時を回ったか、昨日と同じようにドンの号砲が聞こえてきた。
 大神は腕時計をじっと見ている。
 程なく電話の向こうからも同じようなドンの音が聞こえてきた。
「…それで、身代金をどうすればいいんだ?」
 何事もなかったかのように大神が電話で聞く。

 そのときだった。
 電話の向こうから蒸気鉄道の機関車が汽笛を鳴らしながら走り去っていく音が聞こえて
きた。
「…?」
 大神の顔つきが変わった。
「お、おい、聞いてるのか?」
「…心配するな。ちゃんと聞いている。それで、身代金を有楽町駅に持って行ってどうす
るんだ?」
「…有楽町駅の改札のそばに置いて立ち去るんだ。もし約束を破ったらわかってるだろう
な?」
「…わかっている」
 そして電話は切れた。
 大神も受話器を置くと地図を目の前にしてまた考え始めた。

「…それにしても、大神はん、大丈夫やろか?」
 紅蘭がマリアに聞いた。
「大丈夫、って?」
「だって大神はん、電話で『身代金は用意した』なんて言うとるけど、本当は一銭も用意
しとらんのやで。一体大神はんどういうつもりなんや。下手したら椿はん、殺されてまう
で…」
「まあ、隊長にも隊長の考えがあるんでしょうけど…」
「せやけど大神はん、どうやって椿はんを助けよう思うてんのやろ…」
 そんな二人の会話も耳に入らないかのように、
「…大体2秒か…」
 大神が呟いた。
「…2秒、ってどういうことですか、隊長?」
 マリアが大神に聞いた。
「…昨日から気になっていたんだけど、犯人から電話がかかってきた時に丁度ドンの音が
聞こえたんだ。そしてそれからすぐに電話の向こうからもドンの音が聞こえてきたんだ」
「…それが何か?」
「つまり犯人はドンの音が聞こえる範囲内にいるんじゃないか、もしかしたら椿ちゃんも
そこにいるんじゃないか、と思ってね」
「どうしてそんなことが言えるんですか?」
「…ここでドンが鳴ってから電話の向こうでドンの音が聞こえるのに大体2秒かかってる
んだ。ドンをならす宮城からこの帝劇まで大体2粁ある。と言うことは音は1秒間に34
0米進むから宮城で音を鳴らしてからここにその音が到達するまで大体6〜7秒かかる、
と言うことだ」
「…それで?」
「今調べてみたんだが、ここでドンが鳴った2秒後に電話の向こうからドンの音が聞こえ
てきた。と言うことは椿ちゃんのいるところは宮城から2600〜700米はなれた場所にいる
んじゃないか、ってね。
「でも隊長、もし隊長の言うとおりだとしても、宮城からそんなに離れている地域となる
と範囲が広すぎて、逆にわからなくなるのでは?」
「うん…。オレもそう思ったんだが、どうやらもうひとつの手がかりになりそうなのがあ
るんだ」
「もうひとつの手がかり?」
「ああ。ドンが鳴った後に蒸気鉄道が通過する音が聞こえたんだ。と鳴ると犯人が電話を
かけてきたのは線路が近くにある何処か…。もしかしたらその近くに椿ちゃんがいるかも
しれないんだ」
「どうして、そう言い切れるんですか?」
「…マリア、もし君が誘拐犯で、ある場所に人質を監禁していて、外で脅迫電話をかける
としたら人質が逃げないように見張れる場所の電話を選ぶだろう? それと同じだよ」
「とは言え、隊長の言う条件に合致する場所と言うのも結構あるはずですよ」
「そうなんだよな…。とにかく今は椿ちゃんがどこにいるかを見極めないと…」
 そして大神は再び地図の上に目を落とす。
「…待てよ」
 不意に大神はあることに気が付いた。
「…となると…」
 大神の頭にひらめきが走った。
「…わかった!」
「何がわかったんですか?」
「椿ちゃんの居場所がわかったんだ!」
「本当ですか?」
「ああ、オレの考えだと椿ちゃんはあそこにいるんだ!」
「本当ですか?」
「ああ。今からオレはそこに行く!」
「…でも、もし椿がそこにいなかったら…」
「とにかく、今はオレの言うことを信じてくれ!」
 そう言うと大神は事務局を出ようとする。と、
「…隊長、私も行きます!」
 マリアが言う。
「よし、わかった。マリア、行くぞ!」
「はいっ!」
 と紅蘭が、
「ほな、ウチは何か連絡があるかもしれんからここにおるわ」
「頼むぞ、紅蘭!」
 そして二人は帝劇を出て行った。
    *
 新橋。
 大神とマリア、そして何人かの警察官がその場にいた。
「…本当に、ここにいるんですか?」
 マリアが大神に聞いた。
「ああ。オレの考えに間違いがなければ十中八九、椿ちゃんと犯人はここにいる」
 そして大神たちは辺りを見回す。…と、
「隊長!」
 マリアが大神を呼んだ。
「なんだ?」
「あれを見てください」
 とマリアは線路沿いに立っているあるアパートメントを指差した。
「…あの部屋、何かおかしくありませんか?」
 マリアが指差した部屋を見ると昼間だと言うのにカーテンがかかっていたのだった。
「…確かに昼間だと言うのに変だな…」
「…行ってみましょうか?」
 大神のそばにいた警官が言うと、大神はそれに頷いた。
 そして大神たちは慎重にその部屋に近づいた。

「…ここだな」
 マリアが指差した部屋の前に立つ大神たち。
 と、マリアが懐からエンフィールドを取り出した。それを見た大神は、
「…マリア、犯人を刺激したりしたら…」
「…これはあくまでも最後の手段です。私も出来る限り使いたくありませんが…」
 と、傍にいた刑事が、
「…行きますよ!」
 刑事の声に頷く大神たち。
 そして刑事が思い切りドアを開け、警官達がなだれ込む。
「…大神さん!」
 大神が考えたいたとおり、そこには一人の男が椿と共にいた。
 見ると椿が後ろ手に縛られた格好でいた。
 いきなり飛び込んできた警官達に男が驚いた表情を見せる。
 程なく男が取り押さえる。その傍らで、
「椿ちゃん!」
「椿!」
 大神とマリアが椿の傍らに近づき、マリアは椿を縛っていた縄を解き始めた。
「椿ちゃん、怪我はないかい?」
「え、ええ」
 そしてようやく手が自由となった椿が手首をさする。
 見ると男は既に手錠をかけられ、その場にいた。

「でも、大神さん。どうしてここがわかったんですか?」
「ん? それはね…」
 と大神はドンの音のズレから椿が監禁されている場所を推測した事を話した。
「…でも、線路沿いなんていくらでもあるんじゃないですか?」
「なあに、あの男は帝都銀行銀座支店に強盗に入ったんだろ? 普通強盗をするといった
らいつまでも逃げ回っている訳にも行かないから近くに隠れ家を用意するものさ。そう考
えれば、銀座に一番近い線路沿いの場所といったら新橋じゃないかと思ってさ。このあた
りを捜してみたら、ここが見つかった、と言うわけさ」
「…そうだったんですか…」

 そうこうしているうちに男が連れて行かれようとしていた。
「…あの人も随分とかわいそうなんですよね」
 椿が呟いた。
「…らしいな。話は聞いたよ。あの人の奥さんがわざわざ帝劇に来て話してくれたんだ」
「本当ですか?」
「でも、だからと言って銀行に強盗に入ったり、椿を誘拐していい、と言うことにはなら
ないわ」
「…それはマリアさんの言うとおりですけど…」
 と、椿は連れて行かれそうにある男に。
「あの、ちょっといいですか?」
「…なんだい?」
 男が椿に聞き返した。
「…その、あたし、あなたの事恨んでませんから」
「え?」
「…だって、仕方がなかったんですよね。こんなことしなければどうしようもなかったん
ですよね」
「…」
「でも、その、どういっていいかわからないけれど、きっとあなたならこれだけのことが
出来たならもう怖いものがないと思うんですよ。ですから、その、ちゃんと罪を償ってお
芝居を見に来てくださいね。あたし、あなただったらいつでも歓迎しますから」
「…ありがとうな、椿ちゃん」
 そして男は警察の車に乗って連れて行かれた。

「…あの人、大丈夫なんでしょうか?」
 椿が聞く。と、マリアが、
「さあ。ここから先は警察の仕事だからね。…でも場合によっては情状酌量の余地がある
かもしれないわよ」
「…そうですね。今はそれを信じるしかないですね」
 と、大神が、
「まあ、とにかく、今はなんでもないところをみんなに知らせなきゃな」
「はい!」

(終わり)


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