高村椿誘拐事件

(前編)


 太正12年10月のある日の9時を回ったころ。大帝國劇場・帝劇の事務局。
「じゃ、かすみさん、由里さん。行ってきまーす」
 普段は売店の売り子をしていて、売店の仕事がない時は藤井かすみや榊原由里の事務局
の手伝いをしている高村椿が顔を出した。
「じゃあ、気をつけて」
 そう、椿はかすみと由里に頼まれて買い物に出かけるところだった。
「…ところで、他に何か買ってきて欲しいもの、あります?」
「…特にないわね」
「わかりました、それじゃ」
「気をつけてね」
 そして椿が帝劇を出て行った。

 そして帝都銀行銀座支店の前を通りがかったときだった。
 何者かが帝都銀行から脱兎のごとく飛び出してきて、椿とぶつかってしまった。
「きゃっ!」
 椿が叫び声をあげて転んだ。
 相手のほうも派手に転んだようだ。
「…大丈夫ですか?」
 椿が男に近づこうとしたそのときだった。
「あ…」
 そう、その人物の持っていた鞄の中から札束のようなものが見えたのだった。
 そして、よく見るとその人物は黒眼鏡(サングラス)をしていて、口を手ぬぐいで覆っ
ていた。
「あ…」
 椿はその人物の正体が何者か気づいたようだ。
 その人物は鞄を拾うといきなり椿の腕を掴んだ。
「…い、痛っ!」
「…来い!」
 そして男は椿の腕を引っ張ると何処かへと走り去っていってしまった。
     *
「…あれ? 椿ちゃん、まだ帰ってきてないのかい?」
 大神一郎が事務局の二人に聞いた。
「あれ? 大神さん、どうしたんですか?」
 由里が大神に聞く。
「いや、椿ちゃんに頼みたいことがあったんだけど…。まだ帰ってきてないのかい?」
「ええ。もう11時だって言うのに…」
「…本当にどこ行ったのかしら?」
「…まだ帰ってきていないの?」
 そう言いながら藤枝あやめが事務局に入ってきた。
「あ、あやめさん」
「確かに変ね。私には『10時前には帰ってくる』って言って出て行ったのに…。ところ
で、その椿が行ったお店ってわかるかしら?」
「ええ。その店に『9時半頃に行くから店を開けておいてくれ』ってお願いしてますから」
「…とにかく、椿がその店に行っているかどうか確かめてみましょう」

「…はい、はい。そうですか。ありがとうございました」
 そう言うとかすみは電話を切った。
「どうだった?」
「…それが、椿が店に来ていない、って言うんです」
「なんですって?」
「ええ。なかなか来ないから電話をして確かめようかと思った矢先に電話が来た、と言う
んで…」
「…じゃあ、椿はどこへ行ったのかしら?」
「とにかく探しに行って来ます!」
「頼むわ」
 そしてかすみと由里が事務局を出て行った。
    *
「…それにしても、椿、どこ行ったのかしら?」
「そうよね。あの子、道草なんか食うような子じゃないのに…」
「それに買い物と言ってもそんなに荷物も多くないはずだし…」
 由里とかすみがそんな会話をしながら道を歩いていると帝都銀行の近くでなにやら人だ
かりがしていた。
「…なにかしら?」
「行ってみましょう!」

「…済みません、一体どうしたんですか?」
 かすみが近くにいた野次馬に聞いた。
 と、その野次馬もかすみの顔を見て、
「あ、あんた帝劇の事務局の…」
「…ええ、そうですけど、一体何があったんですか?」
「あ、なんでも今朝、開店してすぐに帝都銀行に強盗が入ったらしいんだよ」
「強盗が、ですか?」
 すると別の野次馬が、
「それでさ、目撃者の話だと、逃げようとした際に女の子とぶつかって、そいつがその子
連れて、逃げて行ったらしいんだ。それがさ…」
「どうかしたんですか?」
「その目撃者の話だと、その子が売店の椿ちゃんによく似ていた、って言うんだ」
「…なんですって?」
 それを聞いた由里が思わず素っ頓狂な声を上げた。
    *
「…椿が?」
 かすみたちから話を聞いたあやめは思わず声を上げてしまった。
「本当に椿ちゃんが誘拐されたのか?」
 大神も驚いて聞き返した。
「まだ断定は出来ないんですが、証言を聞いてみるとなにやら鞄を持った男に椿が連れ去
られた、って…。いま、目撃者が警察で話をしているらしいんですが…」

 そのとき、不意に帝劇事務局の蒸気電話が呼び出し音を立てた。
「…私が出るわ」
 そう言うとあやめが電話を取る。
「…大帝国劇場です。…はい、はい。…ええ、仰るとおりです。はい。わかりました。ま
た連絡をください」
 そう言うとあやめは電話を切った。
「…誰からだったんですか?」
 大神が聞く。
「…警察からだったわ。どうやら強盗に誘拐されたのは椿だったようね」
「本当ですか?」
「ええ。目撃者の証言から、どうやら誘拐されたのは椿じゃないか、って警察も思ったら
しくて、電話をかけてきたのよ」
「となると…」
「…とにかく警察に連絡しましょう」
    *
 話は少し前にさかのぼる。

「入れ!」
 男が乱暴に椿をある部屋の中に押し込んだ。
 椿は部屋に入った勢いで転んでしまった。
 男は鞄の中をごそごそと漁ると、縄を取り出した。
「騒がれると悪いんでな。悪く思うなよ!」
 そして男は椿の手を後ろ手に縛り上げると、持っていた手ぬぐいで猿轡をする。
 椿は一体何がなんだかよくわからなかった。
(…まさか、この人は…)
 男とぶつかった時に、鞄の中からのぞいた札束、そして自分が置かれている状況…。
(ま、まさかあたし…)
 そう、椿が考えていることはひとつだけだった。
(…この人は泥棒で、あたし誘拐されて人質に取られちゃったんだ…。このままじゃあた
し、口封じで殺されちゃうよお…)
 何とか逃げ出したいが、ここではそれも無理であろう。
 すると、男が椿の顔をじっと見た。
「…? お姉ちゃん、もしかして…、帝劇の椿ちゃんか?」
(…え? この人あたしの事知っているの?)
「やっぱりそうだろ、帝劇の椿ちゃんだ。何回か芝居見に行ったことがあるんだよ」
「…う、うぐ」
 猿轡をされたままの姿で椿が頷く。
 すると、男は椿の猿轡を外した。
「悪かったな、椿ちゃん。面倒なことに巻き込んだりして。でも、こうしなきゃ行けなか
ったんだ」
「…こうしなきゃ、って…。だからって強盗までしていい、ってことにならないでしょう?」
「それはわかってるさ! でも、こっちだってどうしても金が必要だったんだ」
「…」
「…いいか、椿ちゃん。言うことさえ聞いてくれれば何もしないからな」
「…一体あたしをどうする気なの?」
「…ここまで来たんだ…。こうなったら帝劇の米田支配人にでも身代金を要求するさ」
    *
「椿が誘拐されたらしい」と言う話をあやめから聞いた大帝国劇場支配人・米田一基は警
察に連絡を入れ、にわかに帝劇内部は慌しくなった。

「…それにしても椿が誘拐されるなんて…」
 大神から話を聞き、やはり同じ屋根の下で働いている、という事で不安になったのだろ
う、マリア・タチバナが心配そうに言う。
「でも、椿ちゃんが誘拐されたのはたまたまだったのからね」
「たまたま、って…」
「おそらく犯人にとっても椿ちゃんと出くわしたのは予想外の出来事だったんだよ。それ
で犯人は目撃証言をされたら叶わないと思ったんだよ。そして犯人は咄嗟に椿ちゃんを連
れて行ってしまった…。ここから先はあくまでも想像だけど、今頃犯人は椿ちゃんをどう
扱っていいか困っているはずだよ」
「…でも隊長。犯人は椿を殺す事だってありえるでしょう?」
「さあ、そうれはどうかな?」
「どうかな、って…」
「銀行強盗をしたところで奪った額は高が知れている。おそらく犯人は椿ちゃんを使って
米田支配人に身代金を要求するつもりだよ。…勿論、オレだって犯人の言いなりになる気
はないし、必ず椿ちゃんは助け出すつもりだよ」
「…当てにしてますよ、隊長」
「わかってる、って」
    *
 そして時計の針が12時近くになろうとしているときだった。
 不意に事務局の蒸気電話の呼び鈴が鳴った。
「…オレが出る」
 そう言うと大神は受話器を取った。
「…もしもし」
「…大帝国劇場か?」
「…そうだけど」
「…そちらに大神と言う男はいるか?」
「…大神は自分ですが」
「…そうか。それじゃ話は早いな」
 それを聞いた大神はその場にあった鉛筆と紙を手元に引き寄せると「椿ちゃんの誘拐犯」
と書いて回りに見せる。
「…それで、自分に何の用ですか?」
「一度しか言わないからよく聞けよ。帝劇の椿ちゃんを預かっているんだ。返して欲しか
ったらだな…」

 そのときだった。
 なにやら大砲が弾を撃ったときのような音が当たりに鳴り響いた。
 それから1、2秒立ってだろうが、電話の向こうからも同じ音が鳴り響いた。
 思わず当たりを見回す大神。
 電話の向こうの相手も一瞬呆然としたようだったが、すぐに、
「…お、おい、聞いてるのか!」
 電話の向こうの声が怒ったように言う。
「あ、ああ」
「とにかく椿ちゃんを預かっているんだ。返して欲しかったら5万円を用意しろ」
「…5万円だと?」
「用意できなかったら、椿ちゃんがどうなっても知らないからな」
「ちょっと待て。5万円なんて金、すぐには用意できないぞ」
「とにかく用意するんだ!」
「だからすぐには用意できない、って言っているだろ? とにかく、1日だけ待ってくれ
ないか?」
「…1日だと?」
「明日までには何とか用意する。だから頼む。1日だけ待ってくれないか?」
「…本当に明日までに用意できるんだろうな?」
「オレは海軍の軍人だ。言ったことは必ず守る!」
 一瞬の後、
「わ、わかった。明日の今頃、もう一度電話する」
「…本当だな」
「本当だ。大丈夫だ。それまで椿ちゃんには何もしない」
 そして電話は切れた。

「…どうしたんですか、隊長?」
 マリアが大神に聞いた。
「…さっき鳴った大砲の音、あれはドンだったよな…」
 マリアは事務局にかかっている時計を見る。
「え? ええ。丁度お昼を回ってますから」
 この当時はまだ時報代わりに宮城(今の皇居)から12時になると空砲を打ち上げる「午
砲(ドン)」と呼ばれる習慣が残っていたのだった。
 そして大神は暫く何か考え事をしていたようだった。
「…どうしたんですか、隊長?」
「…マリア、宮城周辺の地図を持ってきてくれ」
「宮城周辺の…? わかりました」
「それから、紅蘭を呼んできてくれ」


後編に続く>>


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