黒猫荘殺人事件

(前編)


 わたくしが駅に着いた頃には小降りだった雨が、いよいよ本降りとなり、蒸気タクシイ
の窓を激しく叩いています。
 …本当に雨というものは気分を憂欝にさせるものですわね。

 帝國歌劇團・花組のトップスタアであるわたくし・神崎すみれのもとに一通の手紙が届
いたのは今から一週間ほど前、そろそろ梅雨も明けようかという太正十二年、七月半ばの
ことでした。
 差出人の名前を見てわたくしは懐かしいものを感じました。何故ならばわたくしが通っ
ていた女学校の友達からだったのですから。
 わたくしは女学校を中退して花組に入ったのですが、その友達もわたくしとほぼ同じ時
期に中退した生徒だったのです。
 住所は千葉の住所が書かれており、わたくしはあやめさんに休暇を頂いて友達の指定さ
れた邸宅に向かっているのです。

「…ねえあなた」
 わたくしは蒸気タクシイの運転手に話し掛けました。
「何でしょうか?」
「今村さんのお屋敷にはあとどの位で着きますの?」
「そうですねえ、あと十分くらいですか。…それにしても珍しいですねえ。黒猫荘にお客
さんなんて」
「黒猫荘?」
「地元の人はみんなそう呼んでるんですよ。何でも夜に見ると、お屋敷がまるで黒猫が横
たわっているように見えるとかで…」
「変わったお名前ですわね」
「ええ。あんなところにお屋敷立てるなんてよっぽどの物好きだ、なんていわれてるんで
すがね…」
「今村さんはそういう方ですもの。別に珍しくもなんともありませんわ」
    *
「そろそろですよ」
 運転手がそういうと、わたくしの眼前にその黒猫荘が見えて参りました。
 雨が降っているため、あたりが薄暗くなっているせいもあるのでしょうが、確かに黒い
猫が横たわっているかのような外見をしておりました。

 蒸気タクシイが玄関に到着いたしました。
 わたくしは運転手に五円札を渡し、
「ご苦労様。あ、お釣りは結構ですわ。とっといて下さいませ」
 そして蒸気タクシイを帰すと、わたくしは玄関をノックいたしました。

「あら、すみれさん。いらっしゃい」
 わたくしが黒猫荘に入るとひとりの女性が出向かえてくれました。
 わたくしの女学校時代の友人、今村幸子さんでした。
「……幸子さん、どうしましたの? いったい」
 わたくしは幸子さんのお姿に驚いてしまいました。
 何故なら彼女は車椅子に乗っていらしたのですから。
「ああ、これね。三ヵ月ほど前に大きな怪我をしちゃったんです。…でも心配はいりませ
んわ。あと一、二ヵ月もすれば歩けるようになる、ってお医者様が言ってましたわ」
「…そうですの、それはよかったですわね」
 そしてわたくしはお屋敷の中に入りました。
「…幸子さん、お父様はどうなされてます?」
 わたくしは幸子さんのお父様である今村荘助氏についてお聞きしました。
「あ、相変わらずですわ」
「…そうですの」
 わたくしと幸子さんが同じ女学校に通っていたこともあってか神崎家と今村家の間でも
それなりの付き合いはあったのですが、わたくしのお爺様、すなわち神崎忠義に言わせる
と「今村君は少し気難しいところがあって少々扱いづらいところがある」ということのよ
うですが…。
   *
 そしてわたくしは夕食に同席しました。
「…?」
 わたくしは夕食の場がなにやらおかしな雰囲気に包まれているのを感じました。
(…どういうことですの?)
 程なくそれも判明しました。誰一人として話をしていなかったのです。
 これが大帝國劇場の場合――わたくし達はあやめさんの指示で、余程のことがない限り
夕食は全員で食堂でとることに決まっているのですが――例えばさくらさんとマリアさん、
カンナさんと紅蘭といったように気のあった仲間同士で楽しく話をしているのですが…。
 帝劇の場合そんなことがあるのであっという間に時間が過ぎてしまう感じがするのです
が、このような重苦しい場だとなかなか時間が経たない気がするし、何よりせっかくのお
料理も美味しくいただけません。
(…なぜ、誰も話をしようとしないのかしら?)
   *
「そういえば、すみれさん、ご相談したいことがありますの」
 食事が終わって間もなくの頃、幸子さんがわたくしに話し掛けてきました。
「なんですの?」
「一寸私の部屋に来ていただけませんか?」
「よろしいですわよ」
 そして私は幸子さんの車椅子を押して二人で部屋に入りました。
「これを読んで下さいませんか?」
 とわたくしに二つに折った紙を差し出しました。
 それは新聞の活字を並べて貼った紙であり、たった一言

「今村荘助、地獄に堕ちろ」

 とだけ書かれてありました。
「…これは…」
「ええ。今朝、父を起こしに部屋に行った際、父の部屋の状差しの一番上に差してあった
のを見付けましたの」
「…これは脅迫状じゃありませんか。幸子さん、このことを荘助様には…」
「いえ、父には余計な心配をさせたくなくて…」
「そうですの…。もちろん他の方にもこのことは…」
「話しておりませんわ」
「…わかりましたわ。幸子さん、このことはわたくしと幸子さんだけの秘密ですわよ。勿
論何もないことに越したことはありませんが、それとなく荘助様のことに注意してくださ
いませんか?」
「わかりましたわ」
   *
 それからどのくらい経ったでしょう、わたくしが客室で本を読んでいたときでした。
 何気なく時計を見ると夜の9時になろうとしていたときでした。
(…まだ、眠るのには早いですわね…)
 そんなことを考えていたときでした。
「きゃあああああ!」
 不意に廊下に悲鳴が響き渡りました。
「なんですの?」
 わたくしは廊下に出ました。
 見ると車椅子に乗った幸子さんがある部屋の前で部屋の中を覗いておりました。
「幸子さん、どうなさいまして?」
「ち…、父が…。父が…」
「荘助様が?」
 わたくしは荘助氏の書斎の中を覗きました。
「…」
 わたくしも思わず絶句してしまいました。
 部屋の中の金庫が開けられ、中が空になっていました。
 そしてその傍らで椅子に座った荘助氏の胸に包丁が刺さっていたからです。
 すでに事切れていることは私が見ても十分にわかることでした。

 程なくこちらからの連絡で警察が到着いたしました。
 刑事さんはわたくし達ひとりひとりに事情聴取を始めました。
 そして、私の番になったときでした。
「あなた…、もしかして神崎すみれさんですか?」
 刑事さんがわたくしに聞きました。
「…そうですわ」
「いやあ、こんなところで会えるとは光栄ですなあ。私、貴女のお母様の大ファンだった
んですわ。今でも冴木ひな、という名前を聞くと胸がときめきますなあ」
「そうですの? それはまた、光栄ですわ」
 わたくしの母・冴木ひなこと神崎雛子はわたくしが物心付く以前から活動写真の大スタ
アとして活躍しており、今でもファンの方がかなり多い、とお聞きしています。あまりわ
たくしは母の名前を聞きたくはないのですが、時には母の名前がわたくしにとって強力な
武器になってしまうのは致し方ないのかもしれません。
 それから、刑事さんのわたくしに接する態度が他の皆さんとは全く違って丁重に扱うよ
うになってしまいましたのには思わず苦笑してしまいました。

「…刑事さん、一寸よろしいでしょうか?」
「…なんでしょうか、すみれさん」
「実は刑事さんに見ていただきたいものがあるのですが…」
 そういうとわたくしは幸子さんからお預かりしていた例の脅迫文を差し出しました。
「…すみれさん、それは…」
 幸子さんが何か言いかけたようですが、
「…仕方ありませんわ。事態が事態ですもの」
 そしてわたくしは幸子さんとのやり取りを詳しく刑事さんに話しました。
「…成程、そういうことだったんですか…。ところでお嬢さん」
「なんでしょうか?」
「この、脅迫状が見つかった場所と言うのは何処でしょうか?」
「あ、あの…。あれですけど」
 幸子さんは壁際にあった状差しを指差しました。
「あれがその状差しですわね……」
「どれ、一寸拝見」
 と刑事さんが近付きました。わたくしも刑事さんの後を付いて行きました。
「これの一番上にあったらしいんですのよ」
 わたくしは刑事さんにそういいました。
 その状差しの一番上、というのはかなり高いところに位置しており、わたくしが手を延
ばしてやっと届く位置でした。

「…お嬢さん、被害者はどういう人物だったんですか?」
 刑事さんが幸子さんに聞きました。
「どういう、と言われても…。父は確かに変わり者、と世間では言われてましたけど、だ
からといって敵を作るような人では…」
 私もそのような話をお爺様から聞いたことがありますが…。

「…主任」
 現場検証をしていたお巡りさんが刑事さんのところに近付きました。
「どうだ?」
「…はい、金庫が開けられ、中に入っていたものがそっくり無くなっているのは知ってる
と思いますが…」
「…その中に現金や株券が入ってましたから犯人がそれを持っていったんでしょう。…で
も、それがどうかしましたか?」
 幸子さんが聞きました。
「いえ、一寸不自然なところがあって…」
「不自然なところ?」
 わたくしが聞くと、
「はい。犯行が行なわれた時間と思われる時間前後にこの家の周辺で不審人物を見かけた
と言う人がいないんです。それに…」
「それに?」
「…犯人は荘助氏を殺害した後に金庫を開けて中の物を逃走した、と言うことですがそれ
にしては他に荒らされた形跡がないんですよ」
「どういうことですの?」
「…つまり犯人は金庫に金目のものがある、と最初から知っていた、と言うことになりま
す」
「…つまり、この家の事情に詳しい人物、と言うことになるのか?」
「そういうことになりますね」
「…ちょ、一寸お待ちになってください!」
 わたくしは思わず叫んでしまいました。
「…何か?」
「…この家の周辺で怪しい人を見かけなかった、という話でこの家の事情に詳しい人物、
と言うことはつまり犯人は内部のもの、と言うことになるんじゃありませんの?」
「…そういうことになりますね」
 わたくしは刑事さんのその言葉に愕然としてしまいました。


後編に続く>>


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