夢をとめないでいて

(第1話)



 2008年7月のある日の早朝、米花町の中にある米花公園。
 その周りのアスファルトの道を何人もの人々が走っていた。
 健康維持のためだろうか、五十代、六十代と思しき人もいれば、この間学校が夏休みに
入ったからだろうか、小中学生が走っている姿も多いようである。
 そんな中、一人のトレーニングウェア姿の少女がその道を走っていた。
 この近くにある帝丹高校に通う毛利蘭である。
 蘭は帝丹高校に入学し、空手部に所属してから今日まで、こうして学校が休みの時には
米花公園の周りでランニングをするのが日課となっていた。米花公園の周りの道と言うの
は距離も程よい長さで、ランニングをするのは絶好のコースだったのだ。

 蘭の傍らを向こうから走ってきた人物が通り過ぎた。
「おはよう」
「おはようございます」
 彼女と同じ考えを持っているのだろうか、結構この道を走っている人も多く、蘭自身毎
朝のように顔を合わせる顔見知りの人物も多いのだ。

 米花公園1周のランニングを終えると、蘭はうっすらと汗をかいていた。
「はあ…はあ…はあ…」
 そして蘭が息を整え、首にかけていたタオルで汗をふき取っていた時だった。
 彼女の傍らを1台の車椅子が通り過ぎた。
「あれ…?」
 蘭は自分の傍らを通り過ぎた車椅子を見てつぶやいた。
 そう、その車椅子はいわゆる普通の車椅子ではなく、前輪が1輪、後輪が2輪でその後
輪が「ハ」の字型をしていた、いわば三輪自転車のハンドルとサドルを取ったような形を
していたのだ。
「今の車椅子、あれレース用の車椅子よね…」
 蘭自身、レース用の車椅子と言うのはテレビなどで見たことがあるが、実物を見るのは
初めてだった。
「…あの人もトレーニングか何かしているのかな?」
 そういえば、その車椅子に載った人物はヘルメットをかぶっていたようだった。
    *
 そして、その車椅子は、次の日も、そのまた次の日も蘭が米花公園の周りを走っていた
ときに蘭の傍らを通り過ぎた。
 そうしているうちに何か蘭もその車椅子に乗った人物に興味を覚えるようになっていっ
た。

 そんなことが4〜5日過ぎた日のことだった。
 蘭はランニングを終えると、その7〜8メートル先に例のレース用車椅子が止まってい
た。
 と、その車椅子に乗っていた人物がかぶっていたヘルメットを脱ぎ、かけていたサング
ラスをはずした。
「あ、女の人だったんだ…」
 蘭がつぶやいた。そう、車椅子と言うこともあって、あっという間に蘭の傍らを通り過
ぎていってしまうことと、その人物がヘルメットをかぶっていたこともあってじっくりと
見たことがなかったのだが、その車椅子に乗っていたのは女性だったのだ。
 蘭は思い切ってその車椅子の女性の側に近づいていった。
「…最近よくお見かけしますね」
 蘭が話しかけた。と、その女性も、
「あら、あなたは…」
 どうやら相手の女性も蘭に気がついたようだ。
「はい。私もこの辺を走っているんです」
「そうよね。この辺はランニングするのに適当なコースだからね」

 そして二人は近くのベンチに移動した。
「あ、そうか…」
 蘭がその女性――藤田貴代と名乗った――が足が不自由だということに気づくと、ベン
チに移そうと手助けをしようとした。が、藤田貴代は、
「あ、大丈夫よ」
 そういうと彼女は両腕だけの力で器用に車椅子からベンチに移り、そこに腰掛けた。
「随分と器用ですね」
「もうこういうのには慣れてるからね」
 蘭はその動作に感心しながら、その隣に腰掛ける。
「…それで、いつもここを走っているんですか?」
 蘭は藤田貴代に聞いた。
「そう。私、この近くに住んでるから」
「へえ、この近くに住んでいるんですか」
「そう。それに北京も近いからね。最近は朝と夕方の2回走っているの」
「北京?」
「9月に北京でパラリンピックがあるのよ。私もその車椅子マラソンに日本代表として出
場するの」
「ああ、パラリンピックですか…」
 パラリンピックなら蘭も聞いたことがある。確かオリンピックが開催されるのと同じ年
に、オリンピックの開催地で行われる障害者スポーツの世界的な大会、いわば「障害者の
オリンピック」で、今年は北京でオリンピックが開催されるから、その後に開催されるは
ずである。
「そう。実はこれも大会のときに使う車椅子なの。マラソンと行ったら42キロも走るか
ら、車椅子もそれ用に作った特別製の車椅子なのよ」
 藤田貴代が自分の乗っていた車椅子を指しながら言う。
「…ふーん…」
「ところで、話は変わるけど、蘭さんは何かスポーツやってるの?」
「え? ええ。一応空手を」
「空手か…。私は昔から走ることが好きだったの」
「短距離ですか? 長距離ですか?」
「私は長距離、特にマラソンが好きだったわ。小学生のときには校内のマラソン大会はい
つも1位で、都の大会にも何度も出たことがあったのよ。それで、ちょうどその頃オリン
ピックの陸上で女子のマラソンが始まったから、将来の夢はオリンピックに出て、マラソ
ンで金メダルを取ることって卒業文集に書いたことがあるのよ」
「そうですか」
「それで中学でも陸上部に入ったんだけど、実は、一度はその夢をあきらめかけたのよ」
「あきらめかけた、って…」
「…中学2年のとき、私、交通事故に遭ったのよ」
「交通事故に?」
「そう。それで命は取り留めたんだけど、そのときに脊髄を損傷して、二度と歩けない体
になっちゃったのよ。私、そのときからずっと車椅子に乗ってるの」
「そうだったんですか…」
 藤田貴代の話を聞いた蘭は言葉を失ってしまった。
「…さすがに私も落ち込んだわ。走ることが大好きだったのに、ある日突然走るどころか、
歩くこともできなくなっちゃったんですもの。走れなきゃ意味がない、って思って一時は
自殺を考えたくらいだったんですもの。…でも、丁度その頃に知ったのよ、障害者スポー
ツやパラリンピックのことを。そういった話を聞いているうちに、だんだんと興味がわい
てきて、またやる気が出てきたの。オリンピックがだめなら、パラリンピックがある。パ
ラリンピックでも車椅子マラソンがあるなら、それで金メダルを取ればいい、って」
「…」
「でもそれからは大変だったわ。私が車椅子マラソンを始めたころは、日本じゃまだまだ
こういった障害者スポーツに対する関心が今ほど高くなかったから、周りの人に理解して
もらうのにも時間がかかったし、練習もなかなか思うようにできなかったし…。でも練習
をしちえるうちに回りも次第に理解してくれるようになったし、障害者スポーツを通じて
知り合ったある人がコーチ――今も私のコーチをしてもらっているんだけど――を紹介し
てくれて、その人の下で練習したおかげで、私もかなり自信を付けてきたのよ」
「そうなんですか…」
「…それでいろいろな障害者スポーツの大会に出場して、何回か経験を積んで4年前、初
めて日本代表に選ばれてアテネパラリンピックのマラソンに出場したの。感激したわ。小
さい頃からの夢だったオリンピック――実際にはパラリンピックだけどね――に出場でき
たんですもの」
「それで、どうだったんですか?」
「…残念ながらまだまだ実力不足で、メダルには手が届かなかったけどね。それで、4年
後の北京では今度こそメダルを取ろう、どうせ取るなら金メダルを取ろう、って新しい目
標ができたのよ。おかげで今度の北京にも代表に選ばれたんだけどね」
「それじゃあ、練習にも熱が入りますね」
「それはそうよ。コーチも『この4年の間にお前もかなり実力が上がった。これなら普段
のお前の力を出し切ればメダルは間違いない』って言ってくれてるし。だから今から大会
が始まるのを楽しみにしてるのよ。それに…」
「それに?」
「…実はね、ある子と約束しているのよ。北京では必ずメダルを取る、って」
「ある子、って…?」
「…2、3ヶ月くらい前だったかしら。たまたま私が病院に行ったときに知り合った7歳
の女の子がいるのよ」
「その女の子がどうかしたんですか?」
「…その子ね、ある病気にかかっていて、この春から入院しているんですって」
「病気に?」
「うん。私もその親御さんや担当医の先生にそれとなく聞いてみただけなのでよく分から
ないんだけれど、その子の病気、っていうのが現在でも完全な治療法が確立されていない
難病なんですって」
「そうなんですか…」
「それで担当医の先生は手術を勧めているらしいんだけど、なかなか親御さんもその子も
手術の決心がつかないらしいんですって」
「…ふーん」
「それでね、私、その子と知り合ってから、何とか元気付けてあげようと思って、時々お
見舞いに行っているんだけど、その子の笑顔を見ると、とても病気だとは思えない明るい
子でね。いつもその子を見て思うの。こんな小さい子が必死になって病気と戦っているん
だから、私もがんばらなきゃ、って」
「…」
「それで、この間、その子のお見舞いに行ったときに約束したの。北京パラリンピックで
必ずメダルを取るから、あなたも病気に負けないように頑張りなさい、って」
「そうだったんですか…」
 蘭は少女の身の上話を聞いて、その少女に同情を感じていた。
「7歳、って言ったらコナン君と同じくらいだよね。そんな子が難病にかかっているなん
て…」
 蘭は自分の家にいる少年――江戸川コナンの顔を思い浮かべながらつぶやいた。もしコ
ナンがその彼女の話に出てきた少女と同じようにもし難病にかかっていたとしたら、果た
して自分はどんな風に思うのだろうか? そして自分はコナンに対しどういうことがして
あげられるだろうか?
「…あ、ごめんなさいね。なんだか嫌な話をしちゃって」
「いえ、いいんです。世の中にはそうやって難病と戦っている子供たちがいる、と言うの
は私自身参考になったし、そういう励ましがあるからこそ、子供たちだって病気と戦う勇
気がわいてくると思いますよ」
「そうかもしれないわね」

 そして藤田貴代が左腕にしてある時計を見た。
「…あ、いけない。そろそろ会社行く準備しなきゃ」
 そう言うと彼女はまた器用に両腕だけを使って車椅子に乗り込む。
「それじゃ蘭さん。とても楽しかったわ」
 そして、車椅子で走り出そうとしたときだった。
「…あの、藤田さん」
 蘭が呼び止めた。
「何かしら?」
「…あの、私もその話に出てきた女の子に会ってみたいんですけど、いいでしょうか?」
「別にそれはかまわないわよ。…そうねえ。それじゃ今度の土曜日はどうかしら?」
「ええ、いいですよ」
「それじゃあ待ち合わせしないとね。…じゃあ、土曜日の9時半にこの公園の入り口でど
うかしら?」
「ええ、いいですよ」
「それじゃ、土曜日にね」
 そしてその車椅子は蘭の元を走り去っていった。


第2話に続く >>

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