タタラ神 ケガレ神
後編








 人の気配が消えた町に、二人分の足音が響く。一つ目の辻が見えたところで、再び頼久は振り向いた。

「ここまででいい。今日は助かった。礼を言う」

「オレは…。結局、何にもしてねぇじゃん」
 俯いたイノリに、頼久は正面に向き直った。
「お前がそんな顔をすることはない」

「…俺は、何ともねぇ。けど」

 さっきから鉛のような硬く重い感覚が胃の辺りを支配して、イノリを余計に苛つかせた。まるで毒でも呑み込んだようだ。

「お前は…。きっと、いい刀工になる」
「何を言い」


「その身に神の御霊を降ろして、すべての穢れを打ち払うような、神剣を創り出す者になるだろう」


「あったり前じゃん! そんなの分かってるさ」
 イノリは噛み付くように答えた。そうしないと、どうにかなってしまいそうだった。
「お前が八葉に選ばれたのは、至極、最もなことかも知れない」
「ナンだよ! 八葉なのは、頼久も同じだろ!」
「私は…。何故、私が選ばれたのか…」

 ふっと、どこか遠くへ視線をやった頼久の横顔が月光に晒された。

「この身には、この太刀のように消えない染みが、片手ではきかないほどにあるというのに」

 深いその表情は、微かな微笑の形によく似ていた。
「いつか私の負う穢れが、神子殿に災いするかも知れない」

「…んなの分かんないだろ。第一天の青龍は、お前しかいないんだぞ」

 ますます重さと暗さを増した悪寒は、吐き気にも似て、イノリに圧し掛かってきている。底なしの沼地でもがくような、息苦しさの中から言葉を吐き出した。
 けれどイノリは、それは相対する頼久もまた、同じような顔をしていることに気がついた。

「より、ひさ…?」










「本当に、私だけだと、思うか…? この首…」

「この首、掻っ切れば。宝珠はすぐさま、次の天の青龍を神子殿に引き合わせはしないだろうか」



「なっ…!」



「命を賭けて神子殿を御守りする。しかしそうすれば、するほどこの身は…」


















――――― 歪んでいる。


















――――― 酷く、歪んで、捩れている。

 目を開いていることさえ困難な酷い悪寒の中で、イノリはそう思った。
 それをずっとどこかで感じていたから、頼久が言葉を発するたびに、苦しかったのだと気がついた。


 頼久は、自身が穢れに満ちてあかねを害すると言う。
 時がくれば、その命であがなう覚悟だと言う。


 なら。龍神は、神子を守る八葉に、神子を害する可能性のある者を選んだと?
――――― では。購う時とは、いつなんだ?

 永劫、その穢れは消えない?
――――― じゃあ、身を清める潔斎は何のためだ?

 刀を用いる限り、穢れは増していくばかり?
――――― けれど『鬼神の剣を会得』すれば、そんなことにもならないのか?

 死ねばすぐに、次の天の青龍が選ばれる?
――――― 己の穢れがあかねに及ぶのが怖いなら、どうしてすぐ、そうしない。
        自分で言っただろう。首を掻っ切れば、すぐ、だと。





 歪んでいる。捩れている。壊れている―――――。



 自分で気がついていないのか。

 言葉は全て、自分の始末に執着し。
 けれど行動は、全て、あかねの傍に仕えることを望んでいる。


 その醜悪さに眩暈を感じて、イノリは目を瞑った。


 歪んだものは、禍々しい。
 捩れたものは、忌まわしい。

 清らかなものは全て、打ち出す刀の背の様に、真っ直ぐで。
 正しいものは、御神水にくぐらせた太刀のように、曇りないハズだ。


 なのに。けれど。どうして。













――――― どうして、こんなに、やり切れないんだ。














「手間をかけた。・・・・・・では、な」
 黙り込んだイノリに、それだけ言って頼久は背を向けた。





 それは何に対しての言葉だったろう。

――――― 師匠に会わせた事? それとも。懺悔にも似た台詞を聞かせた事?

 判別つかずにイノリは返答しかね、沈黙のまま、頼久の後姿を見送った。
 弱々しい月光は、かろうじて人の形の輪郭を闇から切り出し。
 その中を頼久は歩いていた。来た時と同じように前を見据え、振り向く素振りなど微塵もなく。

 その背中は。その。






 歪んでいる男のその姿は ――――― 真っ直ぐで、曇りなかった。





「頼久っ!」 イノリは叫んでいた。






「天の青龍…。お前だけなんだぞ! あかねには…、あかねは!」





 叫んだ先の人物に、それは届いたのかどうか。
 頼久の形の影は、振り向かなかった。

 けれど届いたところで、何も変わりはしないだろう。それでも言わずにはいられなかった。イノリには分っている。

 あの男を変えられるのは、たった一人。あかねだけだ。





――――― 気がつかないハズが無い。





 恐らくあかねのその心に気付いている者は、まだ居ない。
 けれど、イノリは気付いた。当たり前だ。

 あかねの目は、イノリの良く知る女性のそれと、同じだったから。

 人目を避け暗闇に来て暗闇に去っていく、あの男を見送る、彼女の目。
 己の身を使い捨て、戦闘に挑んでいく背中を見つめる、彼女の目。


 それらもまた、迷い、躊躇い、隠そうとされ。
 それでもやはり、真っ直ぐだった。





「幸せに、なって欲しい、だけなんだ…。」





 鬼を倒せば、姉は幸せになれるのか?
 穢れを払えば、あかねは満たされるのか?
 刀を打てば、頼久は救われるのか?





――――― 分かってたさ。



――――― 人だろうが鬼だろうが、本当は、構いはしないんだ。



――――― 歪んでようが、穢れてようが。





「ただ、幸せに…。」





 俯き、地面だけを映した視界が瞬く間に滲み始めた。
 真っ直ぐだった筈の自分の瞳が映す像は、――――― 酷く歪んでいた。






+ + + + +






 カタリ。出たときと同じく、後ろ手に戸を閉めた。

「イノリ。遅かったな」

 奥の間、背中を向けた師匠がいた。酒の匂いがした。

 戻った、と言おうとして、喉が張り付いたまま言葉を拒否した。

「ん? どうした。…お前、泣いとるのか?」
「・・んなんじゃ、ねぇ!」

 ちらっと振り向きかけた姿に、イノリは顔をグシグシと擦りながら吐き捨てた。再び背を向けて、杯を仰ぐのが横目で見える。


「噂どおりの御仁だったな」


 ポツリとしわがれた声が呟いた。



「――――― 師匠。俺は。俺…」



 自分でも初めて聞く、躊躇いを乗せた掠れた声。
 しかしその続きを、彼の師は許さなかった。


「言うな」


 イノリに向けられた背中が、小さな灯りに影を揺らした。

「人間は己の手の小ささを知って、漸く一人前になれる。そんな厄介なモノだ・・・・・・お前はやっと、一人で立ち上がれたんだな」

 尊敬する数少ない人の、吶吶とした語り口をイノリは聞いた。
 聞きながら俯むけば、骨ばった・・・・・それでいてまだどこか脆い印象を持つ、火傷だらけの手が見えた。





 こんなに自分の手は小さかったのか。

 何でも出来ると信じていた。いつまでも、信じていたかった。
 姉を、仲間を、あかねを、京を。幸せにしてやるのだと。

 この手に対してあまりある、そのなんという重さ、大きさ。





「けれどな…。これから何かをしよう、って人間はその上で尚『出来ん事はない』と、言い放つ気概がなきゃならん」





 それを知った上でそれでも。やり遂げようという、強い意志。
 果たして、自分にそれはあるのだろうか。





――――― 迷う瞳を逃がした先は、仕事場。



 閉め忘れた蔀戸から差し込む月光が、一見乱雑に置かれたままかのような道具たちを照らしている。

 竃、水甕、鎚、…鑪。

 昼間は荒々しい息吹で身をぶつけ合う物たちも、今はひっそりと眠りについている。まるでこの眠りが永遠、終わらないものであるかのようだ。

 けれどイノリは知っている。
 夜が明ければ、これらはまた己に宿る魂をこそ用いて、灼熱の石から真白な刃を叩き出していくのだ。

 それらを束ねて、使役するのは鍛治師。

 古来タタラと呼ばれ、神とも妖かしとも言われた一族の末裔。その一族は血縁ではなく、力を持って一族と認めた。


 タタラの神を、その身に降ろす力を持つ者のみを。



――――― そして自分こそは。





 ゆっくりと仰いだ戸の向こうには、欠けはじめた月。





 その形はもう眠りについただろう、年上の少女の大きな瞳を思わせ。
 そして未だ恋しい男を待っているだろう、大事な人を思わせた。

 やがて幾日かすれば。

 僅かに頬を緩ませて、主人と仰ぐ人影をそっと見守る、あの男の瞳の形になっていくだろう。



 力なく下げられていた掌が、音もなく拳をかたち作った。
 それが答えだった。



――――― 幸せに…。それは決して嘘じゃないだろ。






「シャンと立って、見得切ってみせい! ワシの弟子だろうが!」






 長年、火にあぶられた厚い手が突如、ドンッ、と杯を床に打ちつけた。横っ面を叩かれた時と同じ、鮮烈さが脳天から四肢に走った。

 その衝撃と共に。
 強く、強く。
 イノリは自分のものである、その手を握り締めた。

 これがどんなに小さく、ひ弱でも、諦める訳にはいかないものがあるなら。だとしたら、結局はまた、自分を信じるしか道はない。




――――― 信じてやれるさ。信じていると、言ってくれた仲間がいる。




「うっせいや! 分かってんだよ、初めから! やってやろうじゃん!」

 飲み込んでいた鉛の毒塊を一気に吐き出しながらイノリは怒鳴った。

「このイノリ様に、考えてる閑なんかねぇや!」

 言い捨ててから、鼻の頭を袖口で無造作に拭った。
 そうして意思を込めて睨みつけると、浅黒く皺の深い顔はスッと目を細める。

 それはいつもの、嬉しさを押し殺そうとしているときの顔だ。

「…フン、師匠相手に見得を切るなんざ、50年早いわ」
 薄っすら笑って、師匠は手にした杯をあおる。
「自分の歳も忘れちまったのか? 耄碌ジジイ!」

「何を。ピーピーすぐ泣くひよっ子が!」





「馬鹿言うな! 俺様は、八百万の神が愛でる、輝く御神刀を打ち出す男だ。 今に見せてやるから、精々長生きしてろよな!」





 応えてみせるから。

 礼の代わりに、そう言った。言ったそばから顔が赤くなって、イノリはそっぽを向いた。 そして正確にそれを受け取った男もまた、目を細めて「フン」と言ったきり、再び酒瓶に向き直った。
 その大きく強く暖かい背中を見ながら、イノリは再び己の拳を確かめた。




――――― 本当に、全て、叶えてみせるさ。




 そしていつか。一振りの太刀を打とう。

 それを手にする者へ降りかかる、穢れさえ切り払ってしまうような。
 命を奪うことなく、命を守れるような。

 そんな優しい、『鬼神の剣』を。


 限りある無力な、けれど無限な、この自分の手で。






+ + + + +






 長じて彼は、神気に満ちた太刀を打った。

 それはひとたび鞘から放たれれば、刀身に霧を生み、やがて清らな水滴を纏いて全ての穢れを浄化した。

 しかしそれを振るうべき者は、既に、おらず。

 結局それは誰の手に渡ることもなく、晴明亡き後の阿倍家筆頭の陰陽師によって、神泉苑の水底に封印され。



 そうして静かに、時空の狭間で朽ちていったという。






 何もかもを脱ぎ捨てて遙かな時空を超えた、顔も知らない主の幸せを、ただ静かに想いながら。










2003/3/19   蓮舞    
(03/8/1 加筆・訂正 04/9/8 加筆)
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