幸せになろう 2
「すみません遅くなって!」
部活を終えて鳳が部室から駆け出してきたのが、そろそろ6時半にもなろうかという頃。
ようやくのお出ましに、俺は小さく息をついた。
「で、どこ行くんだ?」
「あ、ちょっとかかりますけど、この時間からなら多分ちょうどいいはずなんで……。」
「ちょうどいい?時間?」
「あはは!行き先は着いてからのお楽しみっスよ。」
ね?と言って、鳳は俺の手を取って歩き始めた。
「ちょっ!こ、こら!鳳っっ?!」
「さ、早く行きましょ。」
相変わらずニコニコと笑みを浮かべて、鳳は俺の手を引いて少し前を歩いていく。
その嬉しそうな姿に、俺はそれ以上何も言えずに黙ったまま鳳の後を歩いた。
何だか今日はいつにも増して嬉しそうと言うか、機嫌がいいような気がする。
というより、何というか…興奮しているといった感じだ。
握られている掌の力が、少しだけ強い。
俺は鳳の手の感触を感じながら、部活のときに忍足に言われた事を思い出して、そっと目を伏せた。
普通だったら、こんな事されて黙っているような俺じゃないのに。
何故か鳳の望む事、鳳の言う事は聞いてしまっている自分が存在する。
俺は鳳の事を本当はどう思っているんだろう?
「先輩?着きましたよ?」
どのくらいの間そうしていたのだろう。
無意識に鳳に促されるまま歩いていた俺は、いつの間にか辺りが真っ暗になっている事に気付いて小さく息を飲んだ。
「鳳?」
「ここです。あ、もう少しこっちに来て下さい。」
そっと手を引かれて鳳の方へと一歩足を進める。
どこだか分らないけれど、僅かに水の流れる音がする所をみれば、どこか川の近くのようだった。
「見えます?ほら、あそこ……。」
暗闇の真っ暗な視界に、鳳の腕がぼんやりと浮かび上がる。
その指し示す方へと視線を向けて、俺は再び息を飲んだ。
「鳳?!これって?!」
暗闇に所々浮かび上がる小さな灯火。
「見えました?」
「これって蛍…だよな?」
「ええ。先輩、実物見た事無いって言ってたじゃないですか。俺も以前一回しか見た事無かったんですけど、どうしても今日先輩に見せたくて。」
「今日?」
「やだなぁ忘れちゃったんですか?今日は先輩の誕生日じゃないですか。」
そう言って鳳は小さく笑って、蛍の方へと手を伸ばした。
「本当は少ない蛍をこんな事しちゃいけないんだろうけど、今日だけなんで……。」
「え?何を……?」
「はい、手ぇ出して下さい。」
言われるままに手を差し出すと、小さな光の塊が俺の手の中で光った。
「誕生日おめでとうございます…先輩。」
「っっ?!」
初めて呼ばれた名前。
蛍を手にした俺の手をそっと包み込むようにして、鳳が俺の手に触れる。
その暖かな感触に、俺は蛍から目の前の鳳へと視線を向けた。
だいぶ暗闇にも目が慣れてきて、鳳の顔も識別出来るようになっていて、俺は自分よりも僅かに高い鳳の瞳をじっと見上げた。
「お……お…とり………。」
俺の目に映った鳳は、俺の知っている無邪気な大型犬などではなくて。
俺は吸い込まれるように、その大きな瞳を見詰め続けた。
「先輩?」
「何だよ?」
「一つ……いいですか?」
「ああ………。」
「今日、うちの部活の先輩達、あれこれ先輩の所に行きましたよね?」
「そうだな。」
「凄く嫌そうに見えたんですけど、何でそれでも残ってくれたんですか?」
少し不安げに鳳の眉が寄る。
そんな鳳の表情に小さく笑って、俺は静かに目を閉じた。
「約束しただろ?お前と。」
「それは約束したのが俺じゃなかったとしても、同じだったって事っスよね…?」
「……バカ。泣きそうな顔してんじゃねえよ。お前じゃなかったら…………約束自体させてねえよ。」
さっきまでの勢いはどこへやら、苦しげに表情を歪めた鳳に、俺はそう言って笑みを向けた。
そう、自覚すれば何の事は無い。
俺にとって、鳳だけが……特別だったんだ。
「…先輩?」
信じられないといったように目を見開いて、鳳が俺の手をきゅっと握り締める。
それに俺は微かに微笑んでみせた。
「…………………………あの……先輩?」
「ん?」
「俺、自惚れてもいいんスよね?」
「………だからこうしてお前と居るんだろ?」
何だか少し照れ臭くなって、俺は再び手の中の蛍へと視線を戻した。
こんなにも特別な誕生日プレゼントをくれるような奴、こんなにも俺の事を慕い、想ってくれる奴を好きにならないなんてありえないだろう。
「先輩、一緒に幸せになりましょう?」
「ああ…そいつはいい提案だな………。」
そう、鳳が俺を幸せにするのではなくて、俺も鳳の笑顔が見たいから。
俺も鳳に幸福感を与えたいから。
だから『二人で幸せになる』というのは気に入った。
「鳳?」
「はい?」
「…………ありがとな。」
そう言って静かに目を細めると、俺を癒してくれる、あのいつもの満面の笑顔が浮かんだ。
鳳は誕生日プレゼントに対しての礼だと思っただろうけれど、決してそれだけじゃない。
俺を慕ってくれて、俺を癒してくれて、俺を見詰めてくれて、俺を想ってくれて……ありがとう。
俺の心に入り込んだ大型犬は、いつの間にか俺の一番の特別になっていた。
「忘れない……。」
手の中の蛍を胸元に抱き締めて、鳳の胸元に額を預ける。
後には側を流れる水の音だけが、静かに辺りに響いていた。
<おまけ>
「そういえば、忍足が最後のチャンスがどうとか言ってたが、何だったんだ?」
帰りがけ、ゆっくりと元来た道を歩きながら俺はずっと疑問だった事を鳳にぶつけてみた。
忍足は後で解ると言っていたけれど、結局分らずじまいだったので、俺の中で疑問がくすぶり続けていたのだ。
その俺の質問に、一瞬だけ困ったように表情を変えて、鳳は小さく頬を掻いた。
「あー………えっとですねー……。」
「鳳?」
「俺、今日先輩に告白するって、先輩達に宣言したんスよ。」
「は?!何だって?!」
「そしたらちょっと妨害が………。」
「…………あいつら、俺に付き合えって言ってきたぞ?」
「そうっスよね。先輩気付かなかったかもしれないですけど、うちの先輩達以前から皆、先輩の事狙ってたんですよ。」
「らしいな。忍足に聞いた。」
昼間の事を思い出し、俺は溜息をつく。
「で、俺言ったんです。先輩が俺の事を少しでも他の人より特別だと思ってくれたら、先輩達の誘いより俺との約束を優先してくれるはずだって。」
「それであそこに居ろなんて言ったのか?」
「すみません………。」
しゅんとした様子でうなだれる鳳の頭を、小さく笑って軽くポカリと叩く。
横目で俺を見下ろす鳳の姿は、先程と一変して、いつもと変わらない、大型犬が叱られてしょぼくれているのと同じような印象を与える。
「でも、本当は半ばムキになって言ったんスよ。先輩はどんな事があったって、俺との約束を守ってくれるんだって。本当は…凄く不安だったんですよ。で、結局…先輩があそこを離れる事があったら、俺は先輩の事諦めるって…そう先輩達と………。」
「なるほど。それであいつら必死で俺にちょっかいかけてきたのか。」
忍足の言葉の意味がようやく理解できて、俺は苦笑する。
俺の知らない所で、あれこれと色々あったらしい。
この俺よりも大きな後輩も、多々悩んだのだろう。
知らぬは俺ばかりなり……と言う事だったわけだ。
「先輩………怒ってます?」
「ああ、怒ってるぜ?俺の知らない所で勝手に商品みたいにされてたんだからな。」
そう言ってみせると、慌てたように鳳の顔色が変わった。
「す、すいません!俺………っ!どうしたら許してもらえますか?!」
「…………プッ………くくくくく………っ!」
慌てふためくさまがおかしくて、俺は思わず吹き出してしまう。
本当にこいつは素直で…そう可愛い奴だと思う。
俺は改めて仰々しく溜息をついてから、ニヤッと笑ってみせた。
「え?先輩?」
「しょうがねえな。じゃあ、今度俺にお前のピアノ聞かせろよ。1日俺の為に曲を聞かせてくれたら……許してやる。お前の1日を俺の為に空けてくれればな。」
「そ、それって……自宅デートっスか?!」
「どうする?」
「します!やります!先輩~~!!」
「あ、こら!こんな所で抱きつくな!」
後ろから抱き込むようにして俺の首元に飛びついてきた鳳の頭を、ペシンと叩きながらも、俺はまんざらでもない想いを感じていた。
そんな俺達を見守っているのは、月と手の中の蛍だけだった……。