それが俺の口癖だった。
社長秘書
「な、何故こんな事を………?」
信じられないといったように驚愕に目を見開く瀬人を見返して、俺はただ困ったように笑うしか出来なかった。
俺自身何でこんな事になってしまったのか、分からなかったのだから。
「さあ?何でですかねぇ?俺も分からんのですよ……。」
「……っっ!」
「別にふざけてませんよ?本当に……俺自身よく分かってないんです……自分の行動がね……。何でこんな事したんですかねぇ?」
そう言って俺は自分の腹部に手を伸ばした。
何だか気持ち悪いくらいに暖かくてドロドロしたものが、次々腹部から溢れてくる。
そう、何の事はない……横っ腹に一発銃弾を喰らって、文字通り出血大サービスになってしまっているだけの事だ。
それも、社長である瀬人を狙った弾を、自らの身を盾にして守ってしまった…という、何とも俺らしくもない理由でだ。
まあ、海馬コーポレーション社長である海馬瀬人の秘書をしている以上、いつかは巻き添えを食らってこんな事にでもなるだろうとは思っていたけれど、まさか自分からこんな事態を招いてしまう日が来るとは思ってもいなかった。
それ位に海馬コーポレーションは……いや、海馬瀬人という男は敵が多かった。
そんな男の秘書を引き受けてしまったのが、運の尽きなんだろうけれど。
とにかく、俺は瀬人を狙っている銃口の存在に気付いた瞬間、何かを考える前に、その銃口の前に飛び出してしまっていたのだ。
本当に、何でそんな事したのか、自分でもわからないままに。
「何を……そんな間抜けな顔してるんです?」
口を開くのも億劫だったけれど、そう言って俺は微かに口の端を持ち上げてみせた。
だって、これ以上無いというくらいに混乱と驚愕と困惑とをゴチャ混ぜにした表情を、俺の上司であり、まだ高校2年の少年でしかない海馬瀬人が、浮かべていたから。
「……お前は……もっと打算的で、抜け目がなくて、俺さえも利用し、自分の利益にならない事はしない男ではなかったのか…?何故……俺を庇うような事を………。」
「俺もねぇ、そう思ってたんですがね。何でか分からないけど……あなたと銃口の間に割り込んでしまったんですよ……ホント不思議で仕方ないですよ……。」
そろそろ意識が遠のき始めているような気がする。
俺を抱きかかえている瀬人の表情が、少しぼやけてき始めた。
痛みは予想外に感じなかったのは、痛みを感じる事も出来ないくらいヤバイ状態だという事だろうか?
まあ、痛いよりは痛くない方がマシだと思う事にしよう。
今更あれこれ嘆いた所で、この状況は変えられるわけもないのだから。
「………。」
「もっと……堂々と…して…ほしいもんですね……俺の上司としては。強くあれと……いつも…そう…言っていたはずですよ?」
「っっ?!」
「……はじめてあなたと出会った……あの時からね………。」
そう言って笑うと、微かに瀬人の表情が緩んだ。
俺が瀬人と初めて顔をあわせたのは、瀬人が養父である海馬剛三郎と海馬コーポレーションの覇権をめぐって対立した、あの時だった。
ビッグ5を剛三郎から引き離し、9割方覇権を手にした瀬人だったが、それで全てを過信する瀬人ではなかった。
より万全な基盤を築く為だったのだろう。
瀬人はビッグ5のみならず、その下にいる俺達にまで根回しをする事を忘れなかった。
「…………で、俺にどうしろとおっしゃるんです?海馬副社長?迅速に、且つ単刀直入に話を進めてもらえませんか?さっさと帰りたいんで。」
呼びつけられた瀬人のオフィスのソファーに腰を降ろし、俺は小さく溜息をついた。
正直、会社の上層部がどうなろうが、俺の知った事じゃない。
社内の政権交代なんてどこの会社にでもある事だし、直接俺に被害が及ばなければ、誰が覇権を握ろうと俺は構わない。
だから、たいした地位もない俺に、直接瀬人から声が掛かったのは正直な所、意外以外の何ものでもなかった。
「ほう……変わり者とは聞いていたが、なかなか図太い神経を持っているようだな?」
「お褒めに預かりまして。」
「ふむ…………お前には、回りくどい事をあれこれするまでもないという事か。」
「腹の探りあいも時にはいいですが、今はしたい気分じゃないですからね。それに、あなたとそんな事していたら、もたれてしょうがありませんよ。」
そう答えると、どこか満足そうに瀬人が口の端を持ち上げた。
「いいだろう…俺も、くどくどと回りくどい事は好かん。単刀直入に言う。俺のものになれ。」
「………は?!何を言ってるんです?!!」
突拍子もない瀬人の言葉に、流石の俺も面食らって目を見開いた。
聞きようによっては、プロポーズにもなりかねないこの言葉の意図がどこにあるのか、さっぱり見当がつかない。
瀬人とは初対面だから、あきらかに色恋沙汰とかそんなのでは無いだろうというのは分かるが、その真実までは分かりようもない。
微かに眉を寄せた俺の顔を見て、瀬人は僅かに目を細める。
まるで視線で俺を縛りつけようとするかのように、まっすぐに俺の瞳を見詰めて、瀬人はゆっくりと口を開いた。
「………俺の秘書になれ。」
「海馬副社長…つまりそれは……。」
「お前も知っての通り、近いうちに俺は社長になる。その時、お前には俺の秘書として働いてもらう。お前の隠し持っている全ての力を、俺の為に使ってもらう。そういう事だ。」
「………………それで、俺のものになれ……ですか?」
ようやく理解できた事実に、俺はやれやれと首をすくめてみせた。
俺の存在そのものを手にする事で、俺の力、能力そのものを自分の力にしようというのか。
「………いやだ……と言ったら?」
「それは剛三郎につく…という事か?」
「さあ?それはどうでしょう?でも、わざわざ俺にそういう言い方をするという事は、俺に選択させる…という意味でしょう?だったら俺が断っても構わないわけですよねぇ?そして海馬剛三郎『現』社長側につく事もね。」
本当なら無理やりにでも俺を縛り付ける事だって出来るはずなのに、何故か瀬人はそうしようとはしなかった。
海馬剛三郎同様、瀬人もワンマンな所があるのに、今回に至っては全くそんな素振りすら見せようとはしない。
それが俺には不思議でならなかった。
けれど、だからこそ瀬人の望むように、秘書とやらになってもいいかもしれない――なんて考えも湧きあがってしまって。
これを狙っているのだとしたら、流石としか言いようがない。
まあ、実際の所は瀬人のみぞ知る…といった所だけれど。
「本気で言っているとは思えんな。」
「そうですか?俺にとっては、海馬現社長にこの事を報告して取り入った方が得かもしれんでしょう?」
「、あまり俺をなめるな。お前がそれほど愚か者なら、こうして引き抜いたりはせん。」
「やれやれ……過大評価してもらってるようですねぇ。」
困ったように笑って、俺は小さく頭を掻いた。
「悪い話ではないはずだが?お前には社長秘書として最大限の力が与えられる。もちろんそれ相応の働きを要求はするがな。」
「ギブ・アンド・テイク…ってヤツですか?」
「それが普通だろう?労働に対して、それ相応の報酬を払う。報酬を払う以上は、それなりの事を要求する……違うか?」
「まあ、そうですけどね。」
「お前も、今のままで居るつもりはなかろう?持て余しているお前の力を存分に振るうがいい。」
そう言って瀬人はニヤリと笑みを浮かべて見せる。
整った顔に浮かぶ、自信に満ち溢れた表情。
まっすぐに俺を見詰める瞳の強さに、俺は惹かれていく自分を確かに感じていた。
「……ふぅ………分かりましたよ。海馬『現』副社長、あなたに俺を…俺の力の全てを預けましょう。ただ、一つだけ条件があるんですけどね。」
「条件?」
訝しげに眉を寄せて、瀬人が首を傾げる。
その戸惑いがちな瞳を見返しながら、俺はニッと笑ってみせた。
「強くあれ――。」
「何?」
「強くおありなさい。ただそれだけですよ……俺が今のあなたに望むのは。」
そう言って俺は口元を緩める。
たとえ、どんな奴が瀬人の事を陥れようとしても、たとえどんな窮地に立たされたとしても、決して負ける事のない強い男であって欲しい。
初対面で、瀬人自身がどういった人物なのかもまだ良く分からなかったけれど、瀬人の側に居るのも悪くないと、何となく思った。
その自信に満ち溢れた、力強い光を持つ瞳に惹かれた。
だからこそ、瀬人には何ものにも負けない人間であって欲しいと思った。
瀬人が負ける時はきっと……この強い意志と光とを持つ魂が、その輝きを消す時に他ならないだろうから――。
「あなたが俺の上に立つに相応しいのだと……そう示し続ける限り、俺はあなたに尽くしましょう。あなたにこの身を捧げ、この身の全てをもって、あなたの期待に応えましょう。誰よりも強く、誰よりも高みにある限り――。」
その為に、俺は誰よりも有能で忠実な右腕であり続けよう。
それくらいはしても構わないと思うくらいには、俺は海馬瀬人という男を気に入ってしまったようだから。
それが何故なのかは……まだ良く分からないけれど。
「……。」
「ああ、ですが念の為言っておきますけど、俺は社長だからといって甘やかしたりはしませんよ?必要以上のわがままや勝手な振る舞いは許しませんし、怠惰に染まったあなたにつく価値無しと見れば、容赦なく切り捨てます。それでも良いんでしたら俺の力をあなたの為に使いましょう。全力であなたの覇業を手伝わせて頂きますよ。」
「ふん……いいだろう。俺自身、誰にも負ける気もないし、落ちぶれる気も無いからな。お前の望む以上の社長像とやらを見せてやろう。」
「頼もしい事で。」
俺は少しもひるむ事の無い瀬人の姿に、小さく肩をすくめる。
まあ、そうでもなければ俺も瀬人に着いて行こうとは思わなかったかもしれないが。
「よし。ならこれで文句は無いな?今からお前は俺のものだ。」
「ええ、構いませんよ。よろしくお願いします海馬副社長。」
「…………その呼び方はすぐに変わるぞ。」
「ああ、そうですね。じゃあ海馬社長?」
「わざと言っているのか?それでは剛三郎に、こちらの意図をバラしているようなものだろうが。」
不満そうな表情の瀬人を上目遣いに見やって、ニヤリと口の端を持ち上げれば、瀬人の眉間に僅かなシワが寄った。
「分かってますよ『瀬人様』。」
「……きさま………。」
「すいませんねぇ。分かってると思ってたんですがね、俺がこういう人間だと。やっぱり俺を秘書にするのは止めときますか?でも、俺程度の人間を御しえないんでは、この先思いやられますがねぇ……。」
ふふん――と鼻先で笑ってみせれば、案の定瀬人の眉間に更にシワが増える。
どうやら挑発には弱いらしい。
「俺に二言は無い。」
「そうですか。では、ただいまをもって瀬人様にお仕えしましょう。あなたの命運が尽きるまで。」
「よし。では着いて来い。」
「御意のままに。瀬人様。」
わざと仰々しく頭を下げてみせると、立ち上がった瀬人が視線だけを向けてから口元を緩める。
颯爽と歩く瀬人の後ろについて歩きながら、俺はまだ若い上司の姿に微かに目を細めた。
こうして俺は、海馬コーポレーション社長となるべく動き出した瀬人の秘書として、新しい環境にその身を投じる事となった。
ぼんやりと昔の事を思い返していた俺は、段々と遠のきかけている意識を何とか繋ぎ止めながら、静かに目を閉じた。
もう、本格的に身体を動かすどころか、目を開けているのも億劫で仕方ない。
けれど、このまま完全に意識を手放してしまったら二度と、瀬人のいっそ憎たらしいくらいに整った顔を見る事が出来なくなるような気がして、珍しくも俺は身体の求める欲求に逆らおうとしていた。
「瀬人様………?」
「何だ?」
「………スーツ、汚れますよ?」
「そんな事は分かっている。スーツの一着くらい何だと言うんだ?」
「そうですねぇ。まあ、俺にはありがたいんですけどね……一人じゃ…起き上がれそうもないんで。気にしないんなら……まあ、ご厚意に甘えますか………。」
目を閉じたままだったので、瀬人がどんな表情をしているのか分からなかったけれど、少なくとも自ら俺を支えてくれていると言う事は、嫌々という訳ではではないようだ。
俺は完全に開き直って力を抜くと、瀬人の見かけよりも逞しいその腕に、己の身を委ねた。
「……え?」
どれくらいの時間そうしていただろうか?
おそらく、そうたいした時間ではなかっただろう。
不意に頬に落ちてきた暖かな雫に、俺はぼんやりと重たいまぶたを開く。
「瀬人………様?」
意識朦朧としていて、とうとう幻覚まで見えるようになってきたのだろうか?
俺のうすボンヤリとした視界に映ったのは、目尻にうっすらと透明な雫をたたえている瀬人の姿だった。
「泣かんで…下さいよ。俺が……あなたを苛めてるみたいじゃ…ないですか。」
「泣いてなどおらんわ!」
「ああ、じゃあ俺の目がおかしくなったんですねぇ……。」
僅かに口元を引き上げると、瀬人がゆっくりと俺の身体を抱き寄せた。
「大馬鹿者が!」
「そうですねぇ……。」
重たい腕をやっとの事で持ち上げて、俺の肩口に顔をうずめる瀬人の頭にそっと手を乗せる。
サラサラとした触り心地の良い髪に指を絡めながら、俺は何度も瀬人の髪を撫で続けた。
ボンヤリと視線を向けた空に、海馬コーポレーションのマークの入ったヘリコプターの姿が見て取れる。
おそらく救援のヘリだろう。
「瀬人様………さあ、社長の顔に……戻って下さい……。」
「??」
未だヘリの存在には気付かない瀬人が、不思議そうに眉を寄せる。
それに小さく笑って、俺は瀬人の目尻に残る涙の雫をそっと弾いた。
そして、それを最後に俺は薄れ行く意識を、闇の中へと手放した。
「………ん……んんっ………。」
眩しい光を感じて、うっすらと瞳を開ける。
自分が寝ている事に気付いた俺は、身体を起こす為に寝返りをうとうとした。
「あ、いててて……っ!」
身体中のあちこちがギシギシと悲鳴をあげている。
あれから何日ぶりかに意識を取り戻した俺は、全身をさいなむ痛みに身動き一つ出来ない状態だった。
もちろん腹部の激痛は言わずもがなだ。
「目が覚めたか??」
「………瀬人……様??」
「のんきなものだな、三日間も眠りっぱなしとは。おかげで、あれこれ滞ったままだ。」
「ここは……?」
見覚えのある、しかし自分の部屋ではない天井に、俺は首を傾げる。
どう見てもここは瀬人の私室だ。
痛む身体をだましだまし、首を巡らせて声の方へ視線を向ければ、柔らかな陽射しの中、手元の本に視線を落としている瀬人の姿が目にとまった。
「何を呆けている?」
「いやぁ……何で俺が瀬人様の部屋に寝転がってるのかと思いまして。」
瀬人の私室のベッドは天蓋付きのキングサイズだ。
俺だったらゆうに3人は寝られる広さはある。
そのベッドに横たわっているのは、何とも奇妙な気がしてならなかった。
「お前の部屋では治るものも治らんからな。」
「そりゃどういう意味です?」
「何を勘違いしている?お前の部屋には医療機材は置けんし、誰も居ないのでは容態が急変しても対応出来んと言っているんだ。」
「あ、ああ…そういう事ですか。」
そう、納得しかけたが、俺はハタ――とある事に気付いた。
医療機材と言っても、今俺の側にあるのは点滴だけだ。
どうやら想像以上に傷は深くなかったらしい。
こんなに長い間眠りこけていたのは、精神的・肉体的な負担が大きかった分を取り戻すために、身体が睡眠を求めていただけのようだった。
まあ、それは良い事なのだが、しかし、それなら点滴くらい俺の部屋にだって置くことは可能なわけで。
別に瀬人の部屋でなければならない理由は無い。
それに、誰か人をつけておく必要があるなら、使用人の一人を専属でつけておけば瀬人の部屋でなくても構わないわけで――。
訝しげに眉を寄せる俺に、瀬人は一瞥だけくれると、ふっと視線を明後日の方へそらす。
そんな瀬人の姿に、俺は大きく溜息をついた。
想像するに、瀬人の厚意でここに居る――という所だろう。
何だか今までに無い待遇に、少々くすぐったい想いを感じて、俺は眉尻を下げた。
「そういえば……俺が瀬人様のベッドに寝ているって事は、瀬人様は一体どこで寝ているんです?」
周りに別のベッドが無い事に気付き、俺は瀬人にそう問い掛ける。
瀬人が簡易ベッドなんかで寝るとも思えないし、別の部屋で寝ているわけでもないようだ。
となると、あと考えられるのは一つ。
「まさかとは思いますが、俺と………。」
「何を愚問を……そのまさかに決まっているだろうが。」
平然と――実際の所はどうなのか分からなかったが、少なくとも俺にはそう見えた――そう答えて、瀬人は俺の方へと足を向ける。
ゆっくりとベッドの端に腰を降ろすと、瀬人はじっと仰向けに横たわっている俺の顔を覗き込んだ。
「はは………瀬人様に添い寝してもらってたわけですか、俺は?」
何だかめまいがしそうだ。
色んな意味で。
「俺が今までの人生の中で、同じ布団に入れたのはモクバ以外ではお前が初めてだぞ?」
「………光栄ですよ………。」
いい歳をして添い寝だとか、あの海馬瀬人と…とか色々思う所はあったが、何だか、もう今更どうでも良くなって、俺は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
あれこれ考えた所で、しょせんこの状況が変わるわけではないのだ。
「俺を銃弾から守るのに、自分の身体を犠牲にした大馬鹿者には、これくらいの報酬はあっても良かろう?」
そう言って瀬人の整った顔がゆっくりと降りてくる。
静かに額に触れてくる瀬人の唇に、まあこれもいいか――なんて思いながら、俺はそっと口元を綻ばせる。
結局俺自身、この状況を心地良いなんて思ってしまっているのだから。
「瀬人様?」
「どうした?」
「一緒に寝ませんか?」
そう言って笑うと、今まで目にした事も無いくらい優しげに瀬人が笑う。
そして、午後の柔らかな光の中、俺は隣に暖かな温もりを感じながら、再びまどろみの世界へと落ちていった。