プロローグ
コンコンと控えめにドアをノックする音に気付いて、青学男子テニス部顧問、竜崎スミレは机に向かっていた顔を上げた。
「どうぞ、空いてるよ。」
「失礼します。」
竜崎の声に答えるようにドアが開き、一人の青年が部屋の中に入ってくる。
「お久しぶりです、竜崎先生。」
ぺこりと頭を下げて挨拶をするその姿は、まだどことなくあどけなさを残しているが、ワイシャツに黒のスラックスという姿から青学の生徒ではない事が分かる。
「ああ、本当だねえ。直接会うのは2年ぶり位かい?」
「そうですね。オレが高等部を卒業して以来ですから。先生もお変わりなくて。」
「あんたはやっぱり変わったねえ。当然か、まだ若いんだし。」
「そうですか?自分では気付きませんが…。」
竜崎の言葉に青年は照れたように苦笑する。
「久しぶりな所、急に呼び立ててすまなかったね。実は一つあんたに頼みたい事があって来てもらったのさ。」
青年に椅子を勧めて、自身も青年と向かい合わせの位置に置かれているソファに腰を降ろす。
「頼みたい事…ですか?」
「ああ、あんたさえ良かったら、ウチの男子テニス部のサブコーチをしてみる気は無いかい?」
「は?オレが男子テニス部のサブコーチですか?!」
突然の竜崎の申し入れに青年は素っ頓狂な声を上げた。
「そりゃまた突然どうしてですか?」
青年は訳が分からないという様に首を傾げる。
どう考えても大会上位常連の今の青学に新たにコーチを置く必要など考えられないし、それが自分であるなど考えもつかなかった。
「あんたも知っての通り、ウチの男子テニス部は一応全国区のチームだ。設備も規模も練習も他に劣らないものがあると言っていい。だがな、今の青学テニス部に欠けているものがあるとしたら…どうだい?」
「足りないもの?そんなのあるんですか?」
「確かに技術はそれなりのものがある連中が多い。だが、いくら外装を固めても中身が弱ければ直ぐに壊れる脆いものにしかならんだろう?」
「……メンタル…ですか?」
やっと納得いったというように大きく頷く。
しかしそう思う半面で、何故自分に白羽の矢が立ったのかが分からず青年は僅かに眉を寄せた。
「フィジカルな面だけではなく、メンタルな面からも選手を支え、導いてやる存在がウチのテニス部には必要なのさ。それに、あたしが鍛えてるのは男子だからね、特に思春期真っ盛りときてる。同性のあんたになら、あたしに言えないような悩みでも相談し易いだろう?」
それに年もあまり変わらない方がいいだろうしね?と竜崎は笑ってみせる。
確かにどんなに有能な選手であっても、精神的プレッシャーに押し潰されてしまえば、ただの一人の選手にしか過ぎない。
そうなれば技術力の有無以前の問題になる。
そして、それ以前に選手達は一人の中学生でしかなく、この事がテニス部にサブコーチを置く事の一番の理由だと竜崎は語った。
「分かりました。確かに今の青学には必要な事かもしれませんね。でも、どうしてオレなんですか?他にも適任者は居たでしょう?」
「ああ、それかい。あんた今大学で教職課程取ってるんだって?」
「ええ、一応は。でも何でそれを?」
「今年の教育実習の申請をしただろう?あんたならウチの卒業生だし、教職を目指してるんなら好都合だからね。それにあんたのテニスの実力は折り紙つきだ。これほど都合良い事はないからね。」
そう言って竜崎は青年の肩を軽く叩いた。
「…過大評価して頂いて申し訳ないんですが、オレにはコーチなんて無理ですよ。」
「どうしてだい?」
「第一オレにそんな実力無いですから。それにオレ一人暮らしなんで、バイトしないといけないんですよ。子供達を見てやれるような金銭的余裕も時間的余裕も無いんです。すみませんが。」
申し訳無さそうに頭を下げる。
本当は二つ返事でこの話を受けたいと思っていた。
大好きなテニスに携わっていられたら、それも自分の目指している教師という立場に近い場所で関われるのならこんな幸せな事は無い。
正直夢のような話だった。
しかし自分には竜崎の期待や、子供達の信頼に応えられるだけの力があるとは到底思えないのも又事実で。
そして現実問題として生活していくためには働かなくてはならず、その結果竜崎からの申し出を受ける事はどうしても不可能だった。
「その点は大丈夫だ。まず実力云々の話だけどね、あんた先刻のセリフ他の奴らの前で言わない方がいいよ?下手なヤツの前で言ったら半殺しにされかねないからね。全く…全国大会優勝者のセリフじゃないよ。それに何よりテニス…やりたいだろう?」
「それは…でも…。」
困ったように言い淀む。
「それに、サブコーチの話は正式なものだから報酬も出る。下手なバイトよりは割りは良いはずだ。どうだい?やってもらえないかね?」
「でも…時間が…。」
「時間の方は都合の良い時で構わんさ。支障のない時に来てもらえればいい。」
そこまで言って竜崎は言葉を区切った。
目の前の青年が考え込んでしまったのを見て、小さく息をつくと無言で返事を待つ。
「……本当にオレで良いんですか?」
僅かな間の後小さく呟くような声で青年は答える。
「あんたに…頼みたいんだよ、。」
不意に名前を呼ばれて、と呼ばれた青年は驚いたように伏せていた顔を上げた。
「力を貸してくれるかい?」
「先生…。」
じっと見詰めてくる竜崎の瞳が、嘘偽りの無い事を充分に物語っていて、はそっと目を閉じた。
もう断るための理由など一つも思い浮かばなかった。
テニスに関われる。
それも自分からではなくて相手に望まれて。
それだけでもう充分だった。
「…わかりました。オレで出来る事でしたら、お手伝いさせてもらいます。」
覚悟を決めては深々と頭を下げる。その顔にはもう少しの曇りも無かった。
その姿に満足したように笑みを浮かべると、竜崎はゆっくりと右手を差し出す。
「すまないね、よろしく頼むよ。」
「はい!、精一杯やらせて頂きます!」
差し出された手をしっかりと握って、は今日初めて笑顔を見せた。