でも、逃げたくないという思いと、テニスを好きだと思う気持ちは抑えることが出来なかった。
だから…俺は足を踏み入れたんだ。
名門青学男子テニス部へ――。
PARTNER 1
俺、は名門と言われる青春学園中等部、男子テニス部に所属している。
そんな俺が、幸いにも誰もが憧れるレギュラージャージを着る事を許されたのは、地区大会を間近に控えたある日の事だった。
最初は地区大会の選手に選ばれて、結果を出す事だけを考えていたから、パートナーである乾先輩自身の事を考える…という事は、正直言って無かった。
俺には出来ないだろう頭脳的なプレーをする、凄い先輩……位の印象しか無かったかもしれない。
ただ、乾先輩のテニスに取り組む姿勢、その真剣さはとても印象的だったから、いつの間にか先輩の事をもっと知りたいと思うようになっていた。
常に今に満足せずに上を目指す。
青学に居れば当たり前の事かもしれないけれど、人一倍その意識が強い先輩だからこそ、ついて行きたい…いや、この人と共に上を目指したいと思ったのかもしれない。
「お前は予想以上に…あ、この言い方は変か。なんと言うか…期待した以上に俺の予想通りに動いてた。興味深い。」
不動峰の橘・伊武ペアを破った地区大会決勝、試合の後乾先輩はそう言葉を漏らした。
「乾先輩…。」
乾先輩の言葉に、俺は驚きで目を見張る。
乾先輩が…俺を認めてくれた。評価してくれた。
そして、俺という存在に興味を持ってくれた。
それだけで嬉しくてたまらなかった。
「確実に実力をつけたな。この分だとレギュラー定着も可能だな。」
あまり表情の変化が分かりにくい乾先輩の口元が僅かに綻ぶ。
「新しいメニュー用意するから都大会も頑張るんだ。」
「はいっ!頑張ります!」
想像以上に俺を評価してくれる乾先輩の言葉に、俺は嬉しさで踊り出したい位だった。
認めてくれただけでも嬉しくてたまらないのに、その上俺用の新しいメニューも考えてくれる。
そう考えただけで、今以上の辛い練習にだって耐えられる気がした。
「ああ、言い忘れていた…。」
「何ですか?乾先輩?」
帰り支度の為にテニスバックを手にした乾先輩が、ふと思い出したように顔をあげる。
俺は慌てて乾先輩の隣に走り寄って、俺より遥かに大きな先輩の顔を見上げた。
「よくやったな、。」
大きな手がフワリと俺の頭を撫でる。
相変わらず眼鏡に隠れて乾先輩の表情を伺う事は出来なかったが、ほんの微かに表情が和らいだような気がした。
俺はこの時初めて思ったんだ。
この人の、本当に喜ぶ顔が見たいと。
それはきっと、何より試合に勝つ事が一番だろうという事も分かっているつもりだ。
だから決めたんだ。
俺はこの人と大会を勝ち抜いて、自分の手でこの人の本当の笑顔を見てやろう。
この人と共に遥か高みを目指して、いつか笑顔を見せてくれるような存在になるんだって。
「乾先輩………ありがとうございました!!」
俺が頭を下げると、乾先輩は口元をほころばせて小さく頷く。
頭を撫でてくれる乾先輩の手は大きくて、優しくて、そして…暖かかった。
地区大会でそれなりに結果を出す事が出来た俺は、乾先輩の作ってくれた新しいメニューの効果か、その後の校内ランキング戦でも勝ち残る事が出来、都大会でも俺は乾先輩のパートナーとして、試合に出る事になった。
正直言って、都大会でも乾先輩とダブルスを組めるとは思っていなかったから、俺は驚くのと同時に、この巡り合わせに感謝した。
試合のオーダーを決めるのは竜崎先生と手塚部長だし、俺と乾先輩は地区大会での一回しか公式戦での実績は無い。
そんな俺と乾先輩が再びペアを組めるなんて、かなり低い確率の筈だからだ。
それでも、こうして俺は乾先輩のパートナーとして再びこのコートに立つ事を許されている。
「……行くぞ。」
乾先輩の声に俺は無言のまま小さく頷いた。
そう、先輩と同じコートに立つ以上、無様な試合には出来ない。
俺は手にしていたラケットをギュッと握り締めた。
「がっ…頑張ります!」
少しだけ手が震えているような気がする。
それでも俺は負ける訳にはいかなかった。
試合にも、不安にも、そして…自分自身にも。
「お前は強くなってる…大丈夫だ。」
俺の不安を見越したのか、乾先輩がポンッと一回だけ俺の肩を叩いた。
視線は先にあるコートに向けられていたけれど、肩に置かれた手にキュッと力が入る。
「乾先輩……。」
「さあ、行くぞ、!」
「はいっ!!」
乾先輩の触れている所から、不安だけがどんどん吸い取られていくような気がする。
先輩の暖かさが、俺を奮い立たせてくれる。
余計な力の抜けた俺は、そのおかげで俺は試合でも何とか力を出し切る事が出来た。
結果は俺達の勝利。
「勝ちましたね、乾先輩!」
俺は嬉しさのあまり、勢い込んで乾先輩に駆け寄った。
「ああ、だが相手も相当綿密にデータを収集したようだな。俺は完全に読まれていた。」
「そうでしたか?俺には良くわからなかったけど……。」
乾先輩の言葉に俺は首をかしげる。
乾先輩が言うならそうなんだろうけれど、俺にはどうだったのかサッパリわからない。
それどころか俺にとっては、こんなにもやりやすい試合だと思ったのは初めての経験だった。
俺がミスをしても、先輩は見越したようにカバーしてくれるし、俺が攻撃に転じようとする時などは、何故だか絶好の位置に乾先輩が居て、いつも以上に力が出せたように思う。
普通なら、多少はペアの選手の位置が気になってしまうものだし、下手をしたらパートナーが居る為に集中力が欠けたり、リズムが合わなかったりするものなのに、乾先輩にはそんな所が全く無かった。
それもこれも、全ては乾先輩が俺の事や相手の事を、調べ尽くして理解しているからだとしか思えない。
そんな乾先輩のデータテニスが完全に読まれていたとは、俺はどうしても思えなかった。
「それが勝因だ。試合前に言った通りお前の成長は著しい…。」
乾先輩が俺の肩に手を乗せる。
その表情はどこか優しげに綻んでいた。
「敵の想像をはるかに越えていたというわけだ。この調子で頑張れ。」
「はいっ」
乾先輩の言葉に、俺は笑顔で頷いた。
少しずつだけど、最近乾先輩が笑ってくれる事が多くなったと思う。
入学したばかりの頃は日曜日に一緒に練習しようとしても、良い返事をもらえるのも少なかったけれど、最近はどちらかが予定のある時以外は毎週のように一緒に練習するようになった。
そのおかげか、前より乾先輩の感情の変化も読み取れるようになった。
だから、何となくだけど分かる。
乾先輩も凄く喜んでくれている。
それが俺も嬉しかった。
「、関東大会もこのまま行こう。そして全国だ!」
「そうですね!その為には今以上に頑張らないと!」
「そうだな、まだまだは伸びる。少し練習メニューを変えた方が良いかもしれないな。」
俺の言葉に乾先輩は少し考え込んでそう答えた。
「じゃあ先輩、来週の日曜日…もし良かったら希望が丘テニスクラブで一緒に練習しませんか?」
「来週の日曜日か……ああ、予定は空けてある。行こうか!」
突然の俺の誘いにもかかわらず、乾先輩は快く了承してくれる。
でも、答えるまでに暫く間があいたという事は、もしかして何か予定でもあるんだろうか?
気付かない人は多いけれど、乾先輩は凄く優しいし、きちんと人の事を見てくれる先輩だ。
だから、もしかしたら俺の誘いを優先しようとしてくれているのかもしれない。
別の予定よりも俺を取ってくれたかもしれないと思うと、飛び上がりたい程嬉しい反面、俺の為に予定を変えさせるのは申し訳ないような気がする。
「先輩?何か予定があるんじゃないですか?」
恐る恐る声を掛けると、先輩の大きな手が俺の髪をクシャリと撫でた。
「いや、データ整理用の新しいディスクを買いに行こうかと思っていただけだから大丈夫だ。そんな顔しなくていい。」
不安そうに上目遣いで乾先輩を見ていた俺に、乾先輩は小さく苦笑してみせる。
その言葉に俺はホッと胸を撫で下ろした。
それなら思う存分先輩と練習出来る。
そう考えると、やっぱり自分の予定より俺を取ってくれた事は確かな訳だし、俺はその事実に湧き上がる喜びをを噛み締めていた。
「じゃあ…日曜日いいですか?」
「ああ、との練習は有意義だし、何より……。」
「何より?」
「あ、いや…いいんだ。それじゃ来週は予定を空けておくよ。」
何か言いかけて乾先輩は言葉を濁した。
俺は何を言い掛けたのか気になったが、結局それ以上尋ねることも出来なかった。
その後、恒例になっている河村先輩の家での祝勝会でも、乾先輩とは隣になれて色々と話が出来たけれど、肝心の部分は聞く事は出来なかった。
乾先輩との約束の日、俺は少しだけ重い気持ちのまま、先輩との待ち合わせ場所であるテニスクラブに向かっていた。
「どうした、?何か心配事でも?」
ストレッチを終えて練習に入ろうとしていた乾先輩が、ぼんやりとしていた俺の顔を覗き込んでくる。
「えっ?あ、別に何も……。」
「何でもないって顔じゃないな。上の空で練習しても怪我をするだけだ。そんな状態ならやらないほうが良い。」
少しだけ厳しい表情になって、乾先輩は俺の中途半端な姿勢をたしなめてくれる。
厳しいかもしれないが、それは明らかに俺の為だ。
それが分かるから、俺は何も言えずに黙り込んでしまった。
「どうした?具合が悪いなら今日は…。」
「いえ!大丈夫です!!ただ………。」
「ただ?」
俺の言葉に乾先輩は訝しげに首を傾げた。
そんな乾先輩を見上げて俺は一つ小さく溜息をついた。
俺がボンヤリとしていたのには訳がある。
それはここ最近ずっと思い続けていた事。
じっと俺を見詰めてくる乾先輩に、暫く逡巡してから俺は口を開いた。
「あのっ………!」
「ん?」
意を決して俺は乾先輩の顔を見上げた。
「乾先輩!お願いがあります!」
握り締めた拳が僅かに汗ばんでいる。
漠然とした不安を感じながらも、俺は思い切ってくすぶっていた思いをぶつけてみる事にした。
「俺に先輩の必殺技を教えてください!」
俺の言葉に、ほんの一瞬だけ乾先輩は驚いたように目を見開いた。